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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201118 エレミヤ47 「他岸の火事とせずに」

エレミヤ47 「他岸の火事とせずに」

 46章から諸国の民についての主のことばが語られており、46章はエジプト、47章はペリシテについてです。
今日の箇所はわかりやすいようで、分かりづらい。そういう箇所であります。書かれている内容は極めて単純です。ペリシテに北からの水、すなわちバビロンが洪水となって溢れ出す。バビロンによるペリシテの滅びを預言している箇所です。
同盟国アッシリアを支援するため、カルケミシュでバビロンと対峙(b.c.605)したエジプトのファラオ・ネコですが、この戦いでアッシリア・エジプト連合軍は敗北し、エジプトはカナン地方での影響力を失い、アッシリアは滅亡(b.c.605)いたします。北のアッシリアが滅べば、その次はユダとペリシテです。翌年(b.c.604)にペリシテは5つの町を次々と攻略され、最後にガザとアシュケロンが落とされて滅亡を迎えます。ですから、エレミヤの預言はこのペリシテの滅亡についての預言がなされているのです。その滅びは徹底したもので、カナン地方だけのことではなく、彼らの元々の起源にあったるカフトル島(クレタ島)にまで言及しています。その時、ペリシテの民は「ああ、【主】の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」と嘆くことですが、預言者の返事は「どうして、休めるだろうか。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸、そこに剣を向けられたのだ。」という無慈悲なものだと言うのです。
 さて、内容的にはこれだけです。ペリシテのこれからを預言する内容。歴史を知る私たちは、この記録に何ら疑問を生じません。なるほど。そういう歴史を辿ったか。と理解するのみです。分かりづらいのは、ここから私たちが何を学び取るかということです。
 そして、それはイスラエル・ユダヤの隣国として、常に神の民の浮き沈みを見てきたペリシテが、北イスラエル王国の滅亡を他国のこととして見て見ぬ振りをしてきた結果としてあるこの預言だと言うことを見るべきでしょう。北イスラエル王国がアッシリアによって滅んだのはb.c.722年のことです。アッシリアの移住政策によって、イスラエル人の捕囚がなされますが、サルゴン2世の功績を記した碑文によるとその数は2万8千人に上ったと言います。国が滅び、民が連れ去られる。その恐ろしい出来事の原因が、主なる神に対する不信仰にありました。
 実はペリシテの滅びを預言したのはエレミヤだけではありません。イザヤもエゼキエルも同様です。特にイザヤはエレミヤ、エゼキエルの前の世代の預言者です。ペリシテの民もまた主からの警告を受けておりました。けれど、彼らはそれを他岸の火事として無視したのです。自分たちには関係ないと高を括ったのです。その結果、彼らは滅びに至ることとなりました。
 このことは私たちに極めて大事な指摘をしているのではないでしょうか。私たちは私たちに向けられたあらゆる主の声をあまりにも簡単に見過ごしてはいないでしょうか。他人の滅び、他人の失敗、他人への主の警告をあまりにも簡単に、他人事としていることではないでしょうか。同じことが自分にも当てはまると、同じ警告が自分にも向けられていると注意して受け取ることはできているでしょうか。アッシリアの民は、北イスラエル王国の滅亡を鼻で笑っていたのです。むしろ歓迎していたのです。うるさい国が滅んだ。ざまあ見ろ。という具合です。自分たちは同じ危険に会うはずがないと根拠のない自信があったのです。けれど、それは余りにも都合が良すぎる考え方です。主の裁きは平等です。だからこそ主の救いも平等なのです。私たちは他人の滅びを見て、自分じゃないから良かったと見過ごすことはできません。主の言葉を他人にだけ当て嵌めて自分を吟味しないのは間違いです。主はあらゆることを用いて私たちに語り掛けています。私たちは色々な場面で、本当に自分は大丈夫なのかと問いただすことが必要です。そしていつもその根拠を確かにしておくことが必要です。私たちは私たちの内にではなく、私たちのために犠牲となられた主イエスのゆえに大丈夫だと言うこと。それは私たちが誇って笑うことではなくて、私たちがひざまずいて感謝することです。

201115 ルカ5:17-26 「罪を赦すお方」

ルカ5:17-26 「罪を赦すお方」

 イエス様の前に吊り降ろされてきた男性は中風を患っていました。中風とは脳卒中や脳出血による麻痺のことを言います。彼はまだ若い10代の身だったと考えられます。若くして脳卒中を発祥し、その後遺症によって麻痺が残り、身動きが出来ずになっていたのです。どれだけ辛いことでしょう。それでも幸いなことは、この中風の青年には彼を気遣う友たちがいたことです。友人たちは何とかして友をイエス様に診てもらおうと、寝床を担ぎ、イエス様のところにやって来たのです。イエス様のもとに連れて行きさえすれば、きっと癒してもらえると信じていたからです。彼らは人だかりの様子を見ても決して諦めません。屋根に穴を開けて、その屋根から寝床ごと病人を吊り降ろして、遂に友人をイエス様の前へと連れ出すことに成功したのです。
 イエス様は友を救うために、屋根を破るほどの彼らのがむしゃらな様子を見て「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。それは友人たちの信仰を見られたのです。連れられてきた中風の青年の信仰ではありません。そこで、ずっと寝たきりのこの人を想像いたします。脳出血から体の自由を失った彼。始めこそ、命が取られなかったことを神に感謝しますが、闘病生活が長くなると、段々と不平を覚えるようになるものです。なぜ自分だけがこんな病気になったのか。なぜあの人は元気でいるのか。これは当然の感情ではないでしょうか。友が足繁く通って色々と身の回りの世話をしてくれます。汚れた体を拭いてもらい、時には下の世話までしてもらう。本当にありがたい。けれどどこかで、友の優しさに触れる度に我が身の惨めさを感じることではないでしょうか。友人たちが帰れば、もう寝返ることも、流れる涙を拭うことも出来ない。なぜ神は自分の命を取ってくださらないのかと嘆いたことではなかったか。このような考えを持つこと自体間違いだと知りつつも、どうしても口に出てしまう不平不満。彼は自分でもしたくないことをしてしまう自分に、罪悪感を覚えて仕方なかったのではないでしょうか。イエス様はだからこそ彼に必要な言葉をかけられた。「友よ、あなたの罪は赦された。」と宣言されたのです。
 さて、この一部始終を批判的に見ていた人がおりました。パリサイ人や律法の教師たちです。彼らは言います。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」(5:21)これは真理です。確かに神の他は誰も罪を赦すことはできません。もしもイエス様が神で無いのなら、イエス様は彼らの言うとおり神を汚す者です。しかし彼らにとって想定外なことは、イエス様は神だったということです。
 パリサイ人たちは、罪の赦しの宣言と病の癒し、どちらが易しいか。と心の中で考えています。けれど、どちらではない。どちらも、というのがイエス様の考えです。中風の青年が天井から引き下ろされて、否が応でも皆が彼とイエス様に注目したのです。イエス様が何をされるか、固唾を飲んで見ておりました。パリサイ人も律法学者もです。当然、誰もがこの場面、イエス様は癒やしをされると思っていたわけです。ところがイエス様は罪の赦しを宣言される。なんで今、罪の赦し?と、天井から覗いている友人たちも思ったと思うのです。なんでそんなことを言うんだ。何で今神を冒涜するんだ。パリサイ人たちも思ったのです。誰も彼の罪の問題など見ていなかったのです。目に見える病気は心配して、あるいは哀れむけれど、目に見えない罪に対しては気付かないのです。けれど確かに彼の内には解決すべき罪の問題があるのです。
 私たちは病気になればその回復を心から願います。けれど、同じ熱量で、果たして罪からの回復を願っているでしょうか。罪が蝕む心を嘆いているでしょうか。実は私たちには二つの問題が蓄積しているのに、永遠へと続く問題については忘れがちではないでしょうか。イエス様はこれに対して、どちらがではなくて、どちらも大事と言われたのです。
 それにしても、目の前で一人の罪人が救われ、一人の病人が癒やされたのです。なぜパリサイ人や律法学者はそれを共に喜べなかったのかということが問題です。彼らはイエス様のすぐ近くに陣取り、批判精神一杯にことの始終を見ておりました。けれどそのせいで病に苦しむ人がイエス様に近付くことができなくても、彼らは何ら胸の痛みを感じることも無かったのです。罪を赦す権威が神ただお一人のものであるならば、罪を裁く権威も神お一人のものであるはずです。けれど彼らはそのことに気付きません。当たり前の如く、神の権威を借りて、他人を見下して裁くのです。
 私たちは彼らの姿から、信仰とは、たとえイエス様のなさる一部始終を見ていようとも、また理屈としては正しい教理を幾ら頭の中にたたきこんでいても、決してそれだけでは生まれてくるものではないということを知らなくてはいけません。信仰とは自我が打ち砕かれることから始まります。そして信仰とは愛を養うものです。もしそうでないのなら、それは私たちの信仰をもう一度吟味し直す必要があるです。

201108 ルカ5:12-16 「手を伸ばして彼にさわり」

ルカ5:12-16 「手を伸ばして彼にさわり」

 今日の箇所の冒頭「イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。」とあります。つまり、このツァラアトの人が町の中にいたと言うことです。この何気ない出来事が、当時どれほどの大事件だったことでしょう。彼はこの病に冒されたという理由により、仕事も家族も友人も失い、人々から忌み嫌われ、町外れの洞窟に身を寄せて、心ある人の施しによって辛うじて生きるしかない、そのような境遇へと追いやられました。レビ記13:45-46にはツァラアトの人々は、宿営の外に離れて住み、「自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。」とあります。つまり彼は、見るからにわかるボロボロの衣服で、口ひげや髪の毛を伸ばして顔を隠し「わたしは汚れています」と周囲に注意を呼びかけながら、恐る恐る町中に入って来たのです。それは、人々から何をされるかわからない。水をかけられるか、石を投げられてもおかしくない。心無い誹謗中傷と差別の中に身を投じるということでもありました。それでも彼はイエス様に会いたい一心で町の中に足を踏み入れたのでした。
 もしこれでイエス様に会えなかったら、イエス様が噂どおりの人で無かったら、癒されることがなかったら、いったいどうでしょう。町の中に入るという決断は、彼にとって大きな賭けです。しかしそれ以上にこれは信頼です。イエス様に会いさえすれば、必ずこの身は癒される。そう信じて、彼は今イエス様のところへとやって来たのです。
 イエス様は全能なる神のひとり子です。イエス様はお言葉一つで、悪霊を追い出し、病を治すお方です。しかし、イエス様はここで彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様は、敢えてさわられたのです。リスクを負われたのです。ツァラアトの彼に必要なのは、病の癒やしと共に心の癒やしだからです。彼の傷ついた心には人の手の温もりが必要だったのです。ツァラアトは伝染病でした。そして汚れそのものでした。これに触れることは律法で固く禁じられておりました。ツァラアトに冒された人に触れれば、その者も汚れることを意味していました。それだけに、この病人は発病以来、決して人に触れられることなく生きてきたのです。それは仕方のないことでした。けれどイエス様はこの病人に触れられたのです。
 イエス様は手を伸ばして彼にさわられるとき「わたしの心だ」と言われました。イエス様は心からこの人を憐れまれたのです。彼のこれまでの深い絶望に心痛め、心から嘆かれたのです。これこそイエス様の心です。なぜならイエス様自身が十字架の使命を負っていたからです。人々に蔑まれ、唾を吐かれ、嘲笑の的にされる、そのお方だからです。だからこそイエス様は彼の孤独を捨て置くことができなかった。彼の身に触れずにはいられなかった。彼の痛み悲しみが誰よりもわかるイエス様だからです。
 この人をイエス様はきびしく戒めて立ち去らせました。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」なぜ話してはいけないのでしょうか。それは体の癒しだけでは彼は救われないからです。ツァラアトは病が癒されても、それで済む病気ではありません。ツァラアトによって汚れた者は、町の中に住むことができません。祭司によって「きよい」と宣言されて初めて、社会生活に復帰をすることができるのです。祭司に見せる前に、誰彼となく話せば、決まりを破ったその人は祭司の反感を買います。そうなれば、彼はたとえツァラアトが治ろうと、孤独と偏見の毎日からは抜け出すことができません。ずっと神殿から追い出されたままです。ですからイエス様は、だれにも話さず、祭司に見せなさいと命じられたのです。
 ルカ4:40に「イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」とありました。この一人ひとりにというのは、このツァラアトに冒された人に向き合われたように丁寧に向き合い、その人にとっての最善を施されるということです。そして、イエス様はそのように私たちにも向き合われると言うのです。私たちの置かれた状況に寄り添い、必要な御言葉を語られ、行くべき道を備えてくださる。私たちを見ていてくださる方なのです。ですから私たちは隣の兄弟姉妹を見て、主の取り扱いを比べる必要はありません。主はみんな同じには扱いません。それはある意味平等とは言えないかもしれません。けれど、主と私の関係の中でイエス様は私にとっての最善を用意してくださるのです。

201104 エレミヤ34 「侮るなかれ」

エレミヤ34 「侮るなかれ」

 エレミヤから告げられる主のお告げはユダの滅びとゼデキヤの捕囚でした。もしゼデキヤがそれに従うなら、安らかな死が約束されるとです。しかしゼデキヤはそれを良しとはいたしません。何とかこの自体を打開したいゼデキヤは、エジプトを頼りとしてバビロンに逆らい、その決断は完全に裏目となるのです。バビロン軍の進軍によってユダヤの地は刈り取られ、エルサレムの他に残るはわずかラキシュとアゼカの2つの都市のみとなりました。
 窮地に陥ったゼデキヤは神のご機嫌を取るためか、突然の奴隷解放を発布します。もともと同胞のヘブル人の奴隷を解放することは、7年置きに行われるように律法で定められていた掟です。ところがそれがないがしろにされてきました。ゼデキヤはここに注目します。主の掟を守り、尚且、解放奴隷の機嫌を取ることで兵士に組み入れる一石二鳥を考えたのでしょう。そして、それは確かに主の目に叶ったことでありました。
 ところが、救援のエジプト軍が近づいたことにより、一時バビロンによる包囲が解かれたのです。バビロンは総出でエジプト軍に対峙する必要があったからです。緊張と緩和。それに加えて、自分の判断が成功したことによる油断。ゼデキヤはこの一時的な解放に浮かれて、直ちに奴隷解放の勅令を撤廃するのです。もちろん貴族たちからの突き上げもあったのでしょう。もともと本気でなかったのかもしれません。しかし、エジプト軍はバビロンによって破れ、援軍がユダヤに到着することは遂に無かったのです。
 バビロンを主の器とすることは、予てより宣言されておりました。ゼデキヤ本人にもエレミヤを通じて語られたことでした。それに従うなら安らかな死が約束されておりました。にも関わらず、主の御声に逆らいあれこれと画策するゼデキヤ。付け焼き刃で表面的な判断は愚かとしか言いようがありません。挙げ句、機嫌を取るべく行った奴隷解放を、熱さが喉元を過ぎれば立ちどころに撤回するのですから、浅はか以上の何者でもありません。結果、主は剣とききんの解放を宣言されます。二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。とは、もともと契約を結ぶときに、そのような儀式を持ったのです。この契約を破るなら、この子牛のようにされても構わない。尊い命を犠牲として結ばれた契約は、やはり命を持って全うしなければならないのです。主は今この契約を行使します。彼の浅はかな行為は結局、ユダヤの滅びを確定させたに過ぎなかったのです。
 状況が切迫しているとき、主の前に遜ることはあるいは難しくないかも知れません。あらゆる手段が尽きて、他に頼るものが無くなって、私たちはようやく主に祈ることができます。けれど、問題は状況が好転すれば、すぐにその祈りを止めてしまうことです。神は私たちをご自身に立ち返らせるために試練を与えられるのです。神は私たちの信仰の応答を求めておられます。決してポーズだけを求めているのではありません。むしろ、問われているのは、試練の先。私たちの日常の中にあるのではないでしょうか。神を侮ってはいけません。自らの決断を裏切ってはいけません。罪が赦されていることに日々感謝し、恵みの応答に生きましょう。

201101 ルカ5:1-11 「おことばですので」

ルカ5:1-11 「おことばですので」

 ガリラヤ湖で漁を終えて網を片付けていたペテロに、イエス様は舟を出すように依頼し、そして湖の上から群衆に教えられます。そして、その湖上の集会が終わると、イエス様は「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」とペテロに命じるのです。イエス様に舟を出すように声をかけられたとき、ペテロは網を洗って、片付をしておりました。実は彼らは夜通し漁をしていたのです。しかも、その夜は魚が獲れなかったのです。つまり、彼は何の達成感もなく、疲れ切っていたのです。ですから、そもそもイエス様に舟を出して欲しいと声をかけられたとき、ペテロとしては喜んで出すという気持ちではなかったと思うのです。ほんとは一刻も早く帰って布団につきたい。水浴びをしたい。嫌なことは忘れてしまいたい。そういう気持ちでいたことでしょう。けれど、イエス様に頼まれては仕方ない。疲れた身体に鞭打って、舟を漕ぎだしたのだと思うのです。
 ペテロはイエス様を慕っておりました。心から尊敬しておりました。これに先立って、イエス様はペテロの姑をことば一つで癒してくださいました。日が暮れてからは、大勢の病人たちがイエス様のもとに駆けつけましたが、その一人ひとりに手を置いて、嫌な顔一つせず癒し続けられました。ペテロはその一部始終を間近に見ていました。そして感動したことでした。ですから、ペテロは本当にもう疲れ切っていたんですけれども、他ならぬイエス様の頼みなら断るわけにはいかないと、舟を漕ぎだしたのです。決して積極的だったわけではありません。ですから、イエス様のお話が終わった時、どこか解放される思いと言いましょうか、やっと終わった。これで家に帰れる。という気持ちだったと思うです。
 ところが、話を終えたイエス様はペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられるのです。ちょっと待ってください。それはないです。という場面ではないでしょうか。ペテロはイエス様の素晴らしさは知っております。素晴らしいお話もいろいろな癒しも経験しました。けれど、こと魚をとることに関してペテロは専門家なのです。その専門家のペテロがすでに夜通し漁をして一匹も獲れなかったのです。なぜ夜通しなのかと言うと、普通昼の間、魚は湖の底にいて獲れないからです。だからわざわざ日が明ける前から漁に出るのです。イエス様は素人だからわからないでしょうが、こんな日中に網を下ろすなんて意味ないですよ!と、思わず言いたくなるような場面なのです。もうヘトヘトなのです。疲れているのです。けれどペテロは今、イエス様のことばを聞いて答えます。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
 これは凄いことだなぁと思うのです。言いたいことはいっぱいあるのです。決して喜んでとか、積極的というわけではありません。こんなの意味ないのに。仕事が増えるだけなのに。けれど、それでも尚、「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と応じることはなかなかできることではありません。これは決して信仰のゆえということではないでしょう。義理人情の話でしょう。けれど、彼はイエス様のことばに応えて、網を下ろした。行動した。ここに意味があるのです。結果、驚くべきものとなりました。ペテロがその通りにしますと、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになります。仲間の船に助けを呼びますが、二艘とも沈みそうなくらいに大漁となったのです。
 この大漁は、ペテロの信仰のゆえではありません。祈りの結果だとか、経験がなせる業でもありません。もしペテロが漁の経験のない素人であったとしても、この場面で網を下ろせば大漁となったのです。なぜならそこに大量の魚がいたからです。イエス様が教えてくださったがゆえです。つまりイエス様がおっしゃることばは、根拠のない思い付きのことばではなくて、そこには確かな実態がある。力がある。イエス様のことばこそが事実なのです。
 このような経緯があって、イエス様はペテロに言います。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」ペテロは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従ったのです。なぜなら彼はイエス様のことばの力を知ったからです。イエス様がそのようになると言えば、そうなるのです。そこには私たちの知恵や経験や感情が左右する要素は一つも無いのです。人間を捕るようになるなんて、畏れ多いことです。目の前にいる人を救ってやろうなんて、とてもじゃないけれども言えることではありません。けれど、それでもイエス様が「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と言われるなら、そうなのです。こんな弱くて、いい加減で、卑屈な者であっても、主は用いられるのです。そこに魚はいるとおっしゃられるのです。