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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230920 Ⅱコリント10 「誇るものは主を」

Ⅱコリント10 「誇るものは主を」

 穏やかな口調である前半と違って、この10章からは大変厳しい口調となります。それはここからパウロが想定している読者が変わるからです。9章までは、悔い改め、もう一度教会を支えている人々。しかし10章からは、パウロの教えと説教に決して耳を傾けず反発と扇動を繰り返す人々に向けて語られます。ですから口調が厳しく変わるのです。
 さて、パウロはまず自分自身に向けられた扇動者の批判を記します。彼らはユダヤ人キリスト者であり、11:13でパウロは彼らのことを偽使徒、サタンの手下とまで言っています。1節の「『あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる』私パウロ自身が、」という部分は、彼らの批判の言葉を皮肉って引用しているのです。その他にも、3節から「肉に従って」歩んでいる。つまり打算的だと批難してるんですね。具体的には5節以下にあるように、パウロは議論と神の知識を濫用して打算的に自分たちのことを罰しようとしていると批難しているわけです。パウロは極めて肉的、打算的だというわけです。そして10節では「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」という外面に触れる噂まで広めてパウロの評判を貶めようとしていたことがわかります。
 これに対してパウロは、彼らは自分自身で、または自分たち仲間内の間で推薦しているだけのことであり、それを誇って比較したり批難したりしているが、それは愚かなことで(12)、自分は主から権威をいただいており、その権威は教会を建てるために与えられたものだ(8)。と弁明しています。パウロは言います。「私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。」(13)パウロは「神が私たちに割り当ててくださった限度」と言います。彼の働きは彼の意志ではなくて、神の意志によるものです。神が与えてくださった賜物。神によって遣わされた宣教の地。彼の働きの全ての動機は神の内にあるのです。ですから、その結果も神のものです。自分の評判のために務めるものは、人からの評判が気になります。そして、妬みます。けれど主にあって誇るものはその妬みから開放されるのです。
 彼らがパウロを妬むのは、それが自分自身の評判のために務めているからです。評判のために頑張ろうではなくて、評判のために誰かを引きずり降ろそうとするのが私たち人間の罪なのです。本来なら教会のために協力するべきなのです。なぜなら本当の戦いは教会の外にあるからです。妬んでいる場合ではないのです。神が割り当ててくださったのです。パウロをコリントへと遣わし、彼らをコリントに留めたのは主です。私が勝ち取ってあるのではありません。だからこそ「誇る者は主を誇れ。」という言葉に立ち返るのです。それは謙遜に恵みに立ち返れということです。

230917 ルカ20:45-47 「天よりの評価を」

ルカ20:45-47 「天よりの評価を」

 「彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで」とあります。いったいこれの何が悪いんでしょう?私たちからすると何を来て歩き回ろうと構わないように思います。けれど彼らの着る長い衣というのは正装のことで、彼らの制服のようなものです。つまり彼らはそれを見せびらかすように着て、人々の目に留まるように歩き回るのです。彼らが正装で歩けばそりゃ「先生こんにちは」と皆が挨拶をするでしょう。それ自体は悪いことではありません。むしろ、人々から尊敬される人物であるというのは大変素晴らしいことです。しかし、これを自分から仕向けるのでは値打ちも無くなるというものです。言わずに尊敬されるというのが本物でありまして、わざわざ自分は律法学者ですよ。先生様がここにいますよ、と人の目に映るようにアピールするというのは何とも情けないわけです。けれど、彼らは、これ見よがしに長衣を着て、人々が集まる広場へと出て行くのです。
 また「会堂の上席、宴会の上座を好みます。」とあります。会堂というのは公的な場。宴会というのは私的な場。つまり生活のあらゆる場面で上席上座を好むと言うことです。それは単に座る場所のことだけを言っているのではなくて、その待遇を好むということです。例えば、宴会の席に上座下座があるとします。宴会を催す主人は当然、上座の客から挨拶に来るわけです。料理だって上座の近くには上等なおかずが並びます。下座、末端の席に付きますと、主人と声を交わすことすらままならないわけです。律法学者たちはそういう待遇は耐えられないのです。彼らの中には当然のヒエラルキーがあって、律法学者である自分は上座が当たり前と考えていたわけです。言い換えますと、他の者達は自分より劣っている。下座に控えるべきだと考えていたということです。
 「やもめの家を食い尽くし、」ともあります。弱った人、困っている人を助けるのではなくて、食い扶持にしていたのです。また、「見栄を張って長く祈ります。」ともあります。なぜなら、その方が信仰熱心に見えるからです。彼らの祈りはちっとも神様に向けられてないのです。彼らの意識は常に人の目に、そして自分自身に向けられています。
 そして、このような律法学者たちを指しまして、イエス様は「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」とおっしゃられるのです。
 律法学者たちの生活態度。それは一言で言うならば「偽善」ということができるでしょう。表面だけを飾り立てて中身の伴わない信仰。イエス様は律法学者たちの見せ掛けの信仰を警告しておられるのです。けれどです。だから、彼らの言葉に惑わされないように。彼らに近づかないように。と言うことでしょうか。もちろん、そういう意味もあるでしょう。けれど、これを単に律法学者の問題として遠ざけるだけでは、本当の意味で、イエス様の意図されるところでは無いように思います。それなら、律法学者に直接言えば良いのです。これまでも散々議論をしてきたのです。でもイエス様は今、弟子たちに、そして周りにいる人々に向かって語っています。それはつまり、あなたたちもそのようになってはいけません。という警告でもある。もちろん私たちにもです。
 なぜ、他人に見栄を張るのでしょうか。もちろんそれは相手に少しでも良く見られたいからです。良い評価を得たいからです。そのように繕っておかないと、他人にどう思われているのか自信が無いからです。他人の評価が気になる。それはつまり、私たちが相対的な評価にどっぷり浸かっていることを意味しています。人と比べることでしか自分の価値を見いだせないでいるのです。だから他人の評価に振り回されるのです。
 私たちは、ことの本質を見ておられる神様を忘れてはいけません。見えるところだけを繕っても駄目なのです。どれだけ評価を集めようと、もっと優れた人が来ればその評価は覆るのです。神様を見上げることです。神様は私たちの見えるところではなく、見えないところを見てくださるのです。見返りは天から来るのです。それは天に宝を積んでいる行為なのです。天の神様は見ておられる。たとえ人の評価が無くとも、誰に知られずとも、そこには意味があるのです。ですから、私たちはイエス様の言葉を自分自身への訓戒とするとともに、善を行うことの後押しとしたいと思います。見えないところでこそ正しく振る舞う者となる秘訣は、見えないところを見ておられる方に思いを向けることです。私たちは天の神を見上げる時、見えない罪に思いとどまることができるのです。

230910 ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」

ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」

 ダビデ自身が「私の主」と告白するのですから、救い主がダビデの子のはずがない。これはそのままであります。「ダビデの子」を文字通り取れば、それはソロモンのことになります。けれど律法学者たちもまさかソロモンが救い主だとは思っていません。「ダビデの子」を大きくとらえれば、それはダビデの子孫たち。つまりダビデの家系という意味です。律法学者たちが「キリストをダビデの子」と言うのは、救い主がダビデの家系から出るという意味なのです。
 イエス様はこれを否定しているわけではありません。それは聖書でもしばしば預言されてきたことですし、事実イエス様はダビデの家系なのです。ですからイエス様が否定するのは、ダビデの子孫から救い主が出るということではなくて、人々が「ダビデの子」と呼ぶときに含まれる救い主のイメージ。これを否定するのです。つまり彼らが救い主を「ダビデの子」と呼ぶ時、そこにはダビデ王の再来のイメージ。イスラエルの最も輝かしい時代を築いたダビデの王国の復興を願う気持ちが込められていたのです。民衆たちにこのような救世主観を教えていたのは他ならぬ律法学者です。特にパリサイ派の律法学者たち。彼らは神の民であるイスラエルが異教国家ローマに支配されているというこの現実を耐え難い思いで耐えておりました。彼らの願うところは、ダビデ王国のような、神を中心とした信仰ある王による国の統治。それこそが彼らの願いだったわけです。イエス様はここで、このような律法学者たちの教えを否定しているのです。
 ダビデ自身が「私の主」と告白しているのに、主がダビデの子孫のはずはないではないか。単純ですが、それだけに反論の仕様のない指摘でした。ここでイエス様は、では具体的に救い主がどのようなお方なのか、どのような王国を確立されるのかについては語っておられません。一つだけ語られるのは、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるということでした。つまり人々の最も尊敬するダビデ。そのダビデを遥かに凌駕する救い主が来られるということを語っているのです。ダビデの王国は確かに素晴らしいものでした。しかし、救い主はダビデの王国を復興するために来るのではありません。新しい神の国を確立するために来られるのです。それは、地上的な、政治的な方法で人々を解放するということではなくて、人々を永遠の問題から解放するということ。人類の敵である死を打ち滅ぼし、サタンをも平伏させるお方が来られるということです。そしてその方こそがイエス・キリストに他なりません。
 では、私たちが本日の話から、学び、気をつけなければならないことはなんでしょう。一つは、イエス様が仰るとおり。主の前には誰も並ぶ者はいないということです。ダビデは確かに偉大な指導者です。ダビデ王国は最も輝かしい歴史です。しかし、ダビデ自身が告白しています。主はそれとは比べようのない偉大な方であり、新しい王国は地上のそれとは比較にならないくらい素晴らしいものなのです。罪の始まりが、人が神に取って代わることだったからもわかるように、私たちはすぐに自分を神と並べてしまう者です。けれど、主に並ぶべき者は誰もいないのです。
 そして、もう一つ。それは神の御声を聞くことの大事です。律法学者が旧約の預言をダビデ王国の復興としか読めなかったのはなぜでしょうか。それは、そこに彼らの願望があったからです。神の御心ではなくて、自分たちの願いを御言葉に読み取った。だから謝った救い主信仰が生まれたのです。私たちは時に、御言葉を都合良く受け取ろうとすることがあるのです。私の願望を正当化してくれる御言葉を探します。けれど、そういった思いを全て置いて、フラットに御言葉に聞くことが大事です。
 ですから、私たちは独りよがりにならないように、教会の交わりの中でこれに聞かなければなりません。聖書さえ読んでいれば、祈りさえしていれば、交わりはいらないというのは危険です。私たちはこの交わりの中で、互いに教え教わりながら御言葉に聞くのです。相談しながら、教えながら、時に助け、時に助けられ、共に喜び悩みながら、主に仕えていく。そのような試行錯誤の中で、私たちは愛することを学び、そして愛されることを学ぶのです。自分を捨てて主を選び取るとき、この方が、ご自身の命を投げ出して私たちを選ばれたこと、私たちに徹底的に仕えられたことを知るのです。

230906 ルツ記3 「誠実を積み重ね」

ルツ記3 「誠実を積み重ね」

 未亡人となった嫁のルツを伴って、ナオミは故郷であるユダの国に帰ってきます。頼るところといえば、夫の親戚でエリメレクの一族に属する有力者のボアズ。ルツはナオミの許可をもらって落ち穂拾いに出かけます。ボアズはわざと穂を抜き落として、彼女に目をかけてやります。ナオミとルツはそのようにして新しい地で食いつなぐことができたのです。
 この一連の行為を聞いて、ナオミはボアズが買い戻しの権利のある親類であることを明かします。そして、身支度をしてボアズの寝所に潜り込むようにと伝えるのです。けれど、ナオミが単に生活のために、ルツをボアズと結びつけようとしているのではありません。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」ナオミはあくまでもルツの幸せを願って、落ち着く先を探していたのです。
 本当はナオミは息子が死んだ時点で、ルツを実家に帰らせようとしたのです。ルツはユダヤ人ではありません。モアブの者です。そして彼女はまだまだ若く、これからの人生があります。やり直しが利きます。息子が死んだ今、ユダヤ人ではない彼女をこれ以上付き合わすわけにはいかない。嫁を思うがゆえにナオミは別れを切り出したのです。事実、弟嫁のオルパは実家に帰っていきました。けれど、ルツはナオミから離れません。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」と言って、ナオミとともにユダの地にまで伴ってきたのです。ルツにとってナオミは血の繋がった息子以上に家族でした。だからルツの幸せは彼女の心からの願いであり責任なのです。そして、ナオミはボアズをこれ以上無い人物であると認め、ルツをボアズのもとに送るのです。
 寝所でルツに気付いたボアズはルツを気遣い、買い戻しの権利のことを伝えます。権利の順序を規定通りに踏まえて、正式にルツを迎えるように手配するのです。その時ボアズは付け加えます。これは土地だけの話ではなくて、エリメレクの名を残すためにエリメレクの息子の妻、モアブ人のルツをも買い戻し、その長男にエリメレク、マフロンの家を継がせなければならないとです。つまり自分の家は次男に継がせることになるのです。そのため順位が先だった者が断ったのは、ある意味当然のことなのです。次男が生まれなかったらどうなるのでしょう。長男は買い戻した家を継ぐことになるのです。これは律法によって定められているのです。すると、次男が生まれなければ自らの家が閉ざされることにも成りかねないのです。これは博打のようなものです。ですから、むしろこれを引き受けたボアズのほうが驚きなのです。
 なぜボアズはこの権利を行使して、ルツを買い戻すのでしょうか。それほどルツが美しかったということでしょうか。ボアズは言います。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
 ルツのこれまでの誠実な日々がボアズの耳に届いていたのです。ボアズはそれゆえにルツに親切にしたのです。誰に見せるでもない日々の行いの誠実さが実を結んだのです。
 誰も見ていない中でも誠実に生きる。これは意外と難しいことです。誰かが見ている中で誠実に振る舞うことは幾らでもできるのです。けれど誠実さとは、誰もが見ていないという中でこそ問われるのです。ルツはボアズのことを全く知りません。これまで出会ってもいません。ですから、ルツのナオミに対する思いは打算なしの思いです。だからこそボアズはルツの心に打たれたのです。ルツが計算高い女性なら、ボアズは手を差し伸べなかったでしょう。けれどルツが見返りを求めずにナオミに献身的であったから、ボアズは彼女を買い取る決意をしたのです。
 この出来事は、私たちにもボアズがいるということを教えています。天の父なる神のことです。私たちの日々の中で、誰にも知られないことが多いかと思います。こんなことをやって何の意味があるのか。こんなことをやって誰が得をするのか。けれど、それを見ていてくださっている方がいる。知っていてくださるお方がいるのです。ですから落ち込む必要はありません。あなたの誠実さを神は見ておられます。そして確かに報いてくださるのです。

230903 ルカ20:27-40 「生きている者の神」

ルカ20:27-40 「生きている者の神」

 前回のパリサイ人やヘロデ党の者に続き、今度はサドカイ派の人々がイエス様を陥れようとやって来ます。イエス様を訴える口実を設けるために、様々な立場の者達がこの過ぎ越しの機会を狙っていたのです。と言うのも、この機会を逃すと、イエスはガリラヤに帰って大勢を率いて反乱を犯すかも知れない。もしくは雲隠れするかもしれない。今ならローマ総督のピラトもエルサレムに滞在しています。イエスを捕らえて裁くにはこの過ぎ越しの祭りが絶好の機会なのです。
 サドカイ人の多くは政治の中枢にいる人々によって構成されておりました。彼らにとっての興味は政治であり、現実社会です。そのため彼らの信仰は極めて合理的でした。最低限のモーセの律法(モーセ五書)は信じていましたが、それ以外の預言書や歴史書はもちろん、ラビたちの教えや伝承にいたるまで一切を否定しておりました。ですから、彼らは復活の教理を信じていません。復活を明確に教えるのはイザヤ書やダニエル書などの預言書ですが、彼らにとってはそれは正典ではありません。それは聖書の教えではない。それが彼らの言い分でした。目に見えるものを信じる現実主義者の彼らには、人は死んだら終わりだったのです。
 さて、サドカイ人は申命記25:5-10にある死んだ兄の妻に子がいない場合の再婚の規定を持ち出してイエス様に質問いたします。これ自体は家系を絶やさないための規定で、ユダヤではレビレート法と呼ばれていた決まりです。家の断絶を防ぎ、財産を近親者に残し、そして妻の不幸を緩和するという目的であり、家系を重んじるユダヤ人にとって、とても重要な法律だったわけです。しかし、この律法を復活の教理と重ねて考えると、少々やっかいなことになりました。つまり、復活がもし本当に起こるのなら復活後の夫婦関係はどうなるのか、という問題が浮かんでくるのです。復活後の妻はどの夫の妻かという問題です。
 イエス様は復活の後は死ぬことが無いので、めとることも嫁ぐこともないと答えられます。つまり復活後の議論にレビレート婚を持ち出すのは意味をなさないと言っているのです。当時結婚の最大の目的は子を設けることだったわけで、レビレート婚はそのための救助法です。けれど、復活の世界は死も苦しみもない世界。それはつまり跡取りや世継ぎを心配する必要のない世界ということです。跡継ぎが無いために妻が家から放り出されたり、財産を不当に失うことなど起こり得ない世界です。そこに生前の律法を持ち出して来ても、それは全く意味を成さない議論なのです。
 サドカイ人たちの間違いは、復活の世界を、今のままの世界の延長と思い込んでいることです。けれど、復活の世界は罪の影響を持った今とは全く違います。復活して私たちは、新しい命へ、朽ちない者へと生まれ変わるのです。復活のとき、私たちは御使いのように神の栄光を帯びた者へと変えられているのです。
 またイエス様はモーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことを挙げて、「神にとっては、すべての者が生きている」と言われます。モーセがそのように呼ぶのは神がそのようにご自身を紹介したことに由来しますが、これはつまり、神は今まさに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でもあるということです。それは神様が確かに死んで葬られた彼らを、今生きている者として見ているということです。死で終わりというようには、他ならぬ神様が見ておられない。神様は死んで、その者を甦らせ、その豊かな交わりのうちに置いてくださる。ここに希望があるのです。
 それにしてもサドカイ人たちはなぜそこまでも頑なに復活を否定したのでしょう。復活を否定してそこに何の希望もないということは明らかなのにです。それは彼らに御言葉から聞く姿勢がなかったからです。マルコの福音書では「神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。」と手厳しく彼らの御言葉に対する姿勢を批難しています。彼らは自分たちの都合の良い御言葉のみをめくり、御言葉に聞く姿勢を持っていなかったのです。これは私たちにとっても教訓です。御言葉に真摯に聞くことがなければ、復活という私たちの根本と言うべき希望すら見えなくなってしまうのです。