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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200329 ヨハネ14:1 ローマ8:35~39 「心を騒がせてはいけません」

ヨハネ14:1 ローマ8:35~39 「心を騒がせてはいけません」

 教会が公の礼拝を自粛するという選択は、普通のことではありません。礼拝はキリスト者に与えられた特権であり、最大の奉仕です。そして慰めでもあります。聖書は事ある毎に困難にあって主に従うことの幸いを語り、共に集うことの希望を語っております。そして教会はずっとそのように説教をしてまいりました。ですから本来なら、どんな状況になっても礼拝を守りましょう。たとえ死を覚悟しても、私たちは主の日の礼拝を優先しましょう。そう励まし続けるのが筋なのかもしれません。けれどこの現実の状況の中で、私たちは教会に集わないということを選びました。礼拝出席のために鉄道やバスに乗ることにもリスクを伴います。また、高齢者や持病をお持ちの方は新型コロナウィルス感染時の重篤化が懸念されています。感染爆発の兆候はあちらこちらに現れています。私たちは新型コロナウィルスの世界的流行(パンデミック)の現実を受け止め、教会員の安全を優先し、東京近郊の一教会として感染拡大を防ぐ社会的責任を負っており、自らが感染する危険性だけでなく、自分が感染を広める危険性、そして教会員が感染を広めてしまう可能性までも考慮すべき状況に来ていると判断してのことであります。現段階で感染者が出れば、教会での礼拝は閉鎖せざるを得ません。ではその一人が出るのを待つのか。教会としてはその一人が出ないために動かざるを得ません。
 確かに皆が共に会堂に介して礼拝することは幸いです。けれどそれは、会堂でなければ礼拝が持てないということではありません。会堂の外で礼拝を持たなくてもいいということには繋がりません。当たり前のことですが礼拝は主日の朝、一同に会することだけが礼拝ではありません。一人ひとりが主の前に静まり、礼拝を献げることは可能です。公に集まることはできずとも、私たちの礼拝が失われることはありません。
 最初に武漢で新型ウィルスが発生したとの報道を聞いたとき、ここまでの現状を予測できた人が果たして何人いたでしょうか。まさか礼拝をどのように継続すれば良いかと思い悩む日が来ると誰が想像したでしょう。つくづく思いますのは、私たちが当たり前のように思っていた教会の交わりとは、いつ何時奪い取られるかわからない神の国の恵みであるということです。
 ナチス政権下にあって福音の自由のために戦ったボンヘッファーは次のように言っています。「孤独の中に生きる人にとっては言い難い神の恵みであることでも、それが日々与えられている人にとっては、とかく軽んじられ、なおざりにされがちである。〈キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがては深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものである〉ということがとかく忘れられがちである。だから、その時までほかのキリスト者と、キリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は、心の底から神の恵みをほめたたえ、ひざまづいて神に感謝し、〈われわれが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵み以外の何者でもない〉ことを知りなさい。」
 神殿を破壊されバビロンに捕囚されたユダの民は、遠く異教の地で家庭礼拝を行い、またシナゴーグによる会堂礼拝を開始いたします。苦難の状況にあって彼らが向き合ったのは自らの信仰そのものでした。彼らはこれまでの信仰生活を顧み、主の前に悔いることから始めたのです。神々しい神殿があっても、神の民として律法を有しても彼らは信仰に立ち返りません。失って初めて立ち返ったのです。私たちはこれまでどのような思いで礼拝を献げて来たことかと探られるのです。信仰者としてのプライドでしょうか。奉仕の責任からでしょうか。孤独の解消でしょうか。長年続けられた習慣でしょうか。しかしそれらは、私たちの思いや決断を超えて、ある日突然に奪い取られることがあるのです。私たちはあまりにも当然のことと考えてきました。しかし公同の礼拝、そして主にある交わりは恵みに他なりません。私たちは今、自らの信仰を深く顧み、独り主の前に静まって礼拝を献げましょう。そのための騒動などとは口が裂けても言えませんが、しかし、このような機会がなければ立ち止まって顧みることのない私たちです。あらゆることの中に主の御心を聞く者でありましょう。悔い改めと感謝を持って公同礼拝の再開を祈り備えることといたしましょう。

200325 ユダ1:17-25 「神を畏れて」

ユダ1:1-25 「神を畏れて」

 ユダの手紙の著者はヤコブの兄弟のユダと言われています。ヤコブは小ヤコブと呼ばれ、ペテロに代わってエルサレム教会のリーダーとなったあのヤコブです。彼は主の兄弟ヤコブとも呼ばれており、イエス様の弟に当たります。そのヤコブの兄弟と言うことですから、このユダはイエス様の弟であるユダだとわかります。
 ユダは自分のことを使徒とは呼ばず「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟」と呼んでいます。謙遜なユダの性格が見て取れます。その彼が今厳しいこの手紙を記します。それは彼が関心を払っていた諸教会に間違った教えが忍び込んでいたからでした。3節に、信仰のために戦うよう、手紙を書く必要が生じたとあります。つまり、信仰のために戦わないように仕向ける存在があったということです。4節に、ある人々がひさかに忍び込んできたとあります。それは不敬虔な者、恵みを放縦に変え、イエス・キリストを否定する人だともあります。また8節には、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっているともあります。つまり、信仰者として当然あるべき従順を否定し、全てを神の赦しを言い訳にして軽んじる人たちだったということです。そういう罪を軽視する間違った教えが教会に入り込もうとしていたのです。
 ユダは神が裁きの神であることを語ります。もちろん、それは神の一面に過ぎません。けれど、それは決して否定されてはいけない義なる神のご性質です。信仰義認の教理は、私たちの救いが行いではなくて信仰に拠ることを教えます。それは間違いのない事実です。けれど、その救いは無条件に与えられたのでは決してありません。そこにはイエス・キリストの尊い犠牲があったのです。それは神の義を全うするために、御子キリストが自ら生贄となられたのです。ですから、恵みによって救いに与った私たちが、この恵みを盾にして傍若無人に振る舞うとしたら、それは主の命の犠牲を軽んじることに繋がるのです。
 さらにユダは「主が・・・信じない人々を滅ぼされた」と言います。「主は・・・自分のおるべきところを捨てた御使いたちを・・・暗やみの下に閉じ込められました」とも言います。イエス様が裁き主であり、逆らう者を滅ぼされる方であるという事実は、私たちにとって受け入れ難いことかもしれません。けれどこれが事実です。私たちは主を正しく畏れることが必要なのです。私たちは滅ぼすのはサタンだと思っておられないでしょうか?違います。サタンは誘惑する者です。サタンは私たちを罪へと誘惑します。しかし罪ある者を滅ぼされるのは神の義です。サタンは罪を喜ぶのです。
 ここを誤解すると、私たちはまことの神への正しい畏れを失ってしまいます。聖化の歩みを蔑ろにすることとなります。イエス様の贖いを盾にして、何をしても構わないという自分勝手な救いの理解を持ってしまいます。そうではないのです。私たちはイエス様の命を身代わりとして生かされたのです。ならば、私たちは身代わりとなったその命に相応しく生きなければなりません。私たちのために最も大切な御子のいのちを犠牲とした父の愛に応える者でなければなりません。恵みによって救われたからこそ、私たちはこのお方のみこころに従うことを願います。このお方のみこころに適う私でありたいと願うのです。

200322 ハイデルベルク信仰問答 問124

マタイ26:36-42 「みこころをなさせたまえ」

 「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」皆さんはどのように理解してこの祈りを捧げていることでしょうか。納得が行かないこの世界の現状に対して、天にあるみこころの地上での成就を願う。つまり「この罪深い世界は神様のみこころの通りになっていません。ですから、この地上を神様のみこころに叶う素晴らしい世界としてください。」という神の正義を求める祈りと理解されているでしょうか。実は私自身、長くそのように理解して祈っておりました。けれどよくよく考えて見ますと、私たちが何を祈ろうと祈るまいと神のみこころがなるのは動かしようのない事実です。あらゆることは神の御手にあり、神は私たちによって影響されるお方ではありません。そして天におられる神様は、地においても神であり、天地によって神のみこころに違いがあるわけではありません。神のみこころは天においても地においても等しく成るのです。ですからこの祈りには神の正義とはまた別の目的があるように思います。
 ハイデルベルク信仰問答は、この祈りが、私たちが神のみこころに従えるように。私たちが自分の務めと召命を喜んで忠実に果たせるように。という祈りだと教えています。実はこの祈りは地上の誰かとか、地上の現状をともかくいうよりも、「私を自分の思いのままにではなくて、神のみこころのままに生きさせてください」という信仰者としての生き方を求める祈りだと言うのです。
 私たちの祈りは、なんと自分優先の願いとはなっていないでしょうか。テストの点が取れますように。病気が治りますように。あの人と結婚できますように。もちろん、どう祈っても良いのです。けれど、みこころがなるのです。ですから、私たちの祈りがみこころに適うことを願い、更には私たちの祈りをみこころに委ねることが大事です。そうでなければ、私たちは祈りの結果だけに固執し、結果如何によって躓くことになりかねません。祈りの結果に一喜一憂するのは、祈りをおみくじにしているからではないでしょうか。そうではありません。祈りは神のみこころが成ることが大事であり、結果を事前に神に委ねることが大事なのです。
 祈りの結果を神に委ねるためには、神のみこころこそが最善であるという確信がなければなりません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝3:11)とあります。神がこの世界に最善のご計画を持っておられることへの信頼なくして、神に祈ることはできません。どんなに逆立ちをしても被造物である私たちには、神のみこころを知り尽くすことはできないのですから、これはみこころを知った上で祈るものではありません。神のみこころがどのようかはわからないけれども、神は無駄なことをなさるはずはない。最善をなして下さる。だからこの信頼に基づいて、私を神のみこころのままに生かさせてくださいと願うのです。なぜなら、神のみこころがなることは疑いようのない事実ですが、私が神のみこころに生きられるかどうかは、私の意思や私の努力ではなくて、内なる聖霊によるからです。
 主の祈りはこの後、具体的な日毎の祈りへと移っていくわけですが、その前に、神様のみこころがなるようにと願う。それは、神のみこころを私たちの祈りの結果として下さい、という祈りです。言い換えればこれは明け渡しの祈りと言えます。「私の祈りも願いも、状況も生涯も、いっさいを、主よ、あなたに明け渡します。」という祈りです。イエス様がゲッセマネで祈られた祈りを思い出します。イエス様はご自身の思いを願いつつ、しかし父なる神のみこころがなるようにと祈りました。だからこそ、祈りの結果を神の最善と受け止めることができたのです。目の前にある出来事に、どのような解決や結果が用意されているかは私たちにはわかりません。しかし、私たちは神がみこころをなされるお方だと知っています。そして神のみこころは私たちの思いを超えて最善であると信じています。ですから、この祈りの結果に、神のみこころがなりますようにと祈るのです。そのとき、私たちは祈りの結果に左右されません。それが私にとって好ましいか好ましくないかではなくて、神が用意された祈りの答えとしての結果に、感謝することができるのです。私たちが握りしめているこうあるべきという結果を委ねることで、私たちは神のみこころを知ることとなるのです。

200318 ゼパニヤ2 「困難を不幸とはせず」

ゼパニヤ2 「困難を不幸とはせず」

 ゼパニヤはヒゼキヤ王の4代目の孫に当たる人物で、ヨシヤ王の時代に活躍した預言者です。ゼパニヤ書の冒頭で偶像礼拝に対するさばきの宣言が記されていることから、ヨシヤ王の宗教改革以前に記されたと考えられています。
 2章の1-3節で、ゼパニヤはユダの民に悔い改めを求めています。この背景に、主の怒りを買ってさばきを宣言されている民の悲惨な現状があるのです。詳しくは1章で記されておりますが、そこには偶像礼拝と神の宮を踏みにじる暴虐と欺きの民の様子が記されます。1章14-18節に記されるさばきの日の様子は実に容赦なく、主の怒りの大きさと、同時に主の徹底した聖さを見ることが出来ます。そしてそれゆえゼパニヤは叫ぶのです。「ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。御定めが行われて、その日が籾殻のように過ぎ去らないうちに。【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。【主】の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。」
 続けてゼパニヤは諸国への主のさばきについて記します。4節から2章の終わりまでみっちりと。2:10-11には「これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の【主】の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。【主】への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。」とあります。国々は滅びます。廃れます。その驕り高ぶりのゆえにです。「驕る平家は久しからず」であります。しかしそれは主の憐れみでもありました。徹底的なさばきの末でなければ、人々は己の欲を捨てて主を恐れることができないからです。人々は廃れ果てた夢の跡でようやく目を覚まし、真の王の前にひれ伏すことを知るのです。
 困難な状況の中で、その不幸を嘆くことは誰にでもできます。誰かの所為にし、状況の所為にし、時代の所為にするということは簡単です。けれど、それでは何も生み出しません。困難を単なる不幸としてしまうだけです。そして不幸は諦めるしかありません。困難の中でどれだけ自分を見つめ直し、神との関係を見つめ直すかが大事です。全てが失われて尚も残るものに心を向けることが大事です。神は無意味に困難を振りかざすことはなさいません。その困難の中に込められた神のみこころに聞くことが大事です。
 3章に入り神のさばきは全世界に及ぶことが語られます。しかし9節からは一変、希望と繁栄のメッセージが語られるのです。神の民の回復。礼拝の回復。ヨシヤ王はヒゼキヤの言葉に真摯に応えたのです。困難を単なる不幸とはしなかった。神に立ち返るその時としたのです。私たちはどうでしょうか。ぼやいていても何も生まれません。迫る困難の中で、私たちは何を選び取るのでしょうか。この困難は私たちのターニングポイントです。困難の中だからこそ、本物が輝くのです。手放した後だからこそ、手にすることができるものがあるのです。私たちは今、霊の目で自らを顧みることが求められているのです。

200315 ハイデルベルク信仰問答 問123

Ⅱペテロ3:9-10 「御国を来たらせたまえ」

 前回の「御名をあがめさせたまえ」に続く2番目の祈り。それがこの「御国を来たらせたまえ」です。この祈りの前提にはもちろん、やがて御国、すなわち神の国が完成するという神様のご計画があり、しかしながら、今はまだその時が至っていないのだという理解があります。つまり、私たちはこの神の国の完成を前にした終末のときを生きているということです。この理解の下に「どうぞ神の国を完成させて下さい。地上の世界を、神の国として相応しいものへと作り変えて下さい。」という祈りを私たちはささげるのです。
 私たちはときに思います。なぜ世界はこんなにも悲惨で満ちているのだろうと。世界の各地では、今も尚、紛争が続き、大勢の命が奪われています。新種の病気や、地震などの災害。また盗みや殺人、個別の犯罪は至るところで起こっています。神様がおられるのなら、このような世界であるのはおかしいじゃないか。と、思わなくもありません。なぜなら、この世界は神の国に対するイメージとのあまりにも大きなギャップがあるからです。私たちは神の国はこんなものではないと知っているのです。神の国について、ヨハネの黙示録はもはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。と言っています(黙示録21:3ー4)。そのような世界を心から願います。しかし、どうでしょうか。私たちの住むこの世界は、とてもそのような世界ではありません。
 けれど、これは当然のことかもしれません。なぜなら、私たちが今いるのは完成した神の国ではないからです。確かにイエス様によって救いの扉は開かれました。神の国は到来した。しかし、未だ完成していない途上にあるというのがこの世界なのです。ですから信仰者はこの地上で生きることに、色々な葛藤を覚えるのです。信仰が理解されず、価値観が受け入れられず、神に祈ることですら窮屈で不自由な思いをするのです。けれど、そのような葛藤は、いつまでも続かない。神の国はイエス様が再びやって来られるとき完成いたします。ですから私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。完成する神の国にはこれ以上ない希望が確かにあるからです。地上を支配するサタンは討ち滅ぼされて、そこには一切の罪の解決があり、永遠の神と共に過ごす穏やかな日々が約束されているのです。この祈りは私たちの心を地上の一切のしがらみから解き放ち、天上の祝福へと向かわせる道しるべとなる祈りなのです。
 この祈りは私たちの切なる願いです。イエス様が今日にでも来てくだされば、私たちの葛藤は無くなるのです。誘惑に迷うたびに、罪に後ろめたさを覚えるたびに、そして、この世の悪が蔓延るたびに私たちは思います。イエス様さえ来てくだされば・・・。しかしです。主は来てくださらないのです。これは2000年間、キリスト者が願いに願ってそれでも聞かれない祈りなのです。では御国は来ていないのか?そうではありません。御国は一人ひとりのキリスト者によって広げられるのです。
 神の国とは何か。「声なき者の友」の輪の神田英輔師は、それは神の主権の及ぶところだとおっしゃっいました。それはつまり世にあってキリスト者が影響するところと言い換えることが出来るでしょう。私たちが世に影響する。愛を持って関わる。そこに神の主権が及んでいくのです。イエス様が来られればそれは一瞬にして完成します。けれど、主は敢えてそうはされていないのです。第Ⅱペテロ3:9-10を見ると、それは主が猶予されているからだと言います。忍耐されておられるのだと。なぜなら主の再臨による神の国の完成とは、言い換えると、救いと滅びが確定するときでもあるからです。「御国がきますように」とは主の最終的なさばきの到来を願うことでもあるのです。けれど、主は私たち人間が悔い改めて、永遠のいのちを得ることを望んでおられます。主は待っておられる。だから主がこの祈りを実現されないとすれば、それは憐れみに他ならないのです。
 果たして私たちは「御国が来ますように」と躊躇なく祈ることができるでしょうか。神の国の完成は私たちの願うところです。けれど、救いと滅びが確定するというならば、「神様、ちょっと待ってください」とはならないでしょうか。明日主が再臨されるとしたら、私たちに思い残しはないでしょうか。私たちは主の福音を宣べ伝えなければなりません。それは私たちが愛するその人の滅びに後悔しないためにです。主は人々の悔い改めを待っておられます。そのために私たちが動くことを待っておられるのです。