FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

200802 ルカ2:41-52 「わからずとも心に留めて」

200802 ルカ2:41-52 「わからずとも心に留めて」

 過ぎ越しの祭りからの帰り道というのは、エリコに至る道中のように、途中強盗や追いはぎが出るような治安の悪い難所もありますので、同じ町の者と一緒になって集団で帰ることになっていました。加えて、ヨセフとマリアは、イエスの他にも弟や妹たちも大勢連れておりましたから、幼い子どもたちを集団の中で引き連れて行くだけで、てんやわんやだったことでしょう。一番上の子のイエスには気をゆるしていたと言いますか、あの子は大丈夫という信頼があったのでしょう。ところがその日の道程を終えて、今日はもう休もうとあらためて見渡してみると、一緒のはずの息子がいないのです。きっと血の気が引いたことでしょう。もしかしてはぐれたのか!それとも強盗にさらわれたのか!翌朝になって彼らはすれ違う大勢の人々に声をかけながら、気になるところを一つ一つ探りながら、来た道を引き返します。そしてエルサレムについてからも必死に探し回り、そしてようやく宮でイエスを見つけ出した時には、もう三日も経っておりました。
 心配して探し続けたマリアは息子を見つけて叱ります。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」親として当然の言葉です。叱らずにはいられない。それは親である二人の愛ゆえにです。
 ところが、これに対して、少年イエスは「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と返事するのです。いやいや、ここは普通「お母さ~ん」と泣いて抱き着く場面ではないでしょうか。なのに少年イエスは淡々と、どうして捜したのかと尋ねられる。そして、父の家、つまり神の宮にいるのは当然でしょ。と、こう言われる。イエス様はなんて冷めた息子なのかと、戸惑ってしまいますが。ここにはつまりイエス様とマリアたちの父に対する認識の違いがあるのです。
 マリアたちはイエス様のことを我が子と理解します。けれどイエス様の方では、父とは、ヨセフではなく、天の父のことを指しているのです。イエス様は親子としての自分ではなくて、神の子としてその使命に生きる自分を意識している。つまり、それはイエス様特有の成人の備えだったと言えるでしょう。
 ユダヤでは男の子は13歳から成人とされ律法を守る必要がありました。つまり、13歳になると自分の生贄を捧げる義務が生じるのです。そのため12歳になりますと、親が子へ神殿での作法を教えることになっていました。イエス様の今回の祭りへの参加にはそういう意味もあったのです。過越の祭りにおいて、人々は生贄を献げる為の作業を学びます。けれど、神の御子であるイエス様にとってはそれだけでは不十分でした。なぜなら、その生贄とは、主イエスご自身に他なりません。神からの使命は、ご自身が生贄となる十字架の死と復活に他なりません。つまり少年イエスとしてはヨセフから過ぎ越しの作法を学び、神の御子イエス様は神の宮で御言葉からご自身の使命を学ばれるのです。
 さて、イエス様の言葉の真意をわからないマリアとヨセフ。けれどそれは仕方がないかもしれません。子の成長は久しぶりに会った人のほうが気付いたりします。一緒にいると余りにも当たり前なので、その変化に気付けません。マリアとヨセフにとって、イエス様は神の御子ではなくて、やはり我が子でしかないのです。ですから、彼らにイエス様の真意はわかりません。
 ですから、私たちがマリアから学ぶのは、彼女がわからないままに、心に留めたということです。彼女の身に起きたことはどれも常識では考えられないことです。自分の知識では理解できないことです。けれど、彼女にはこのことが神の手によるということだけはわかっていた。そして神は自分の人生に無意味なことはなさらないとも。だから彼女はことを委ねて従うのです。目の前の出来事を無理にわかろうとするのではなく、そのままを心に留めるのです。そうすることで、彼女は神の導きに対する平安を得ることができたのです。
 わからないことは意味のないことでも、恥ずべきことでもありません。わからないということを認められないことが問題なのです。わからないから、忘れてしまえではありません。イエス様の十字架と復活を経験し、マリアの目が開かれたように、私たちにもわかるときがやって来る。ですから、私たちはそれを心に留めておく必要があるのです。ですから、私たちは、主に信頼して、疑わず、目の前のこと、今日の出来事に心を留めたいと思います。この出来事の幸いを数えるその時まで、心に納めて、思い巡らせていきたいと思うのです。

200729 ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

200729 ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

 主人の突然の帰宅に備えるように。という、たとえ話が語られています
 当時のユダヤでの婚礼は1週間も2週間も続いて、入れ替わり立ち替わり客が訪問し、客は好きな時に帰宅したそうです。そのため主人が婚礼からいつ帰ってくるかはしもべたちにはわかりませんでした。真夜中に帰ることがあれば、夜明けに帰ってくることもある。それはもう主人の気持ち一つなのです。その上で、たとえ話では、主人が帰ってくるときに目を覚ましているところを見られるしもべたちは幸いだと言ます。なぜなら、そのしもべたちは主人の振る舞う食卓に着かせてもらえるからです。だから主人の帰りに対しては、どろぼうに備えるのと同じかそれ以上に用心して備えなさいと言うのです。
 しかしです。では実際に、主人が真夜中に帰ってくるとき、主人はしもべたちに起きていることを強要するでしょうか。主人自身は真夜中に帰ることの非常識を理解してはいないのでしょうか。幾ら主人が帰ってくる可能性があるとしても、真夜中に寝ているのは非難されるべきことでは無いようにも思います。真夜中に寝ているのは当然なのです。それでも起きて主人を迎えるしもべは確かに褒められ食卓に預かるのでしょう。だからといって、真夜中に起きれず明け方に主人の帰りに気付いたとして、それを主人が咎めるでしょうか。実はこの例えは眠らないようにと勧めている例えではありません。再臨に備えるキリスト者のあり方を教える例えです。人の子は思いがけない時に来る。これがたとえ話の中心テーマです。
 41節から、よくわかっていない様子の弟子たちに、イエス様はもう一つ忠実な管理人のたとえ話を語られます。主人の帰宅に用意をせず働きもしなかったしもべは厳しく罰せられる。ここで非難されているのは、「主人の帰りがまだだ」と心のなかで思い、好き放題にする慢心です。
 いつ帰ってくるかは主人の心次第です。婚礼であるなら1~2週間で終わります。その間に主人は帰ってくることは決まっています。ならば寝ずに待つこともできるかもしれない。完璧な応対で主人の帰りに備えることもできるかもしれない。けれど問題は主の再臨は、2000年起きていないということです。その人の生涯に起こるかどうかすらわからないのですから、「主人の帰りがまだだ」と思わなくもない。このような主人を待つしもべのあり方はどういうものでしょう。夜も寝ずに備えるなんてことはできるはずもないし、主が望まれていることでもありません。そうではない。いつ帰って来られても、非難されることのないように、毎日に緊張感を持って過ごす。主人を意識して過ごすということに尽きます。
 いつ帰ってくるかわからないということは、今晩帰るかも知れないということです。もしも今晩帰ってくるとしたら、その日の過ごし方は必ず変わってくるわけです。主人の帰宅に精一杯備えておく必要があるのです。食材さえあれば、急な来訪にも食事を提供できます。普段から掃除していれば、いつでも家に客を招けます。ろうそくがストックされてさえあれば、主人の帰りに慌てて借りに行く必要もないのです。備えのある人とない人の違いは、ちょっとの意識をそこに持てるか持てないかにかかってくるかだと思います。主は再びやって来られる。これは動かすことのできない事実です。しかし、いつかは聞かされていない。なぜ聞かされていないのかということに、主のみこころを見て取らなければなりません。
 家庭訪問と同じです。いつ先生が来るとわかっていれば、その日に備えて掃除をし、お茶菓子を用意し、万全の体制で待つことができます。けれど日程がわからなければ、計画して特別の準備をすることは適いません。つまりイエス様は私たちが特別のその日を計画し備えるのではなく、特別を日常に変えて、代わり映えのない今日を主のみこころに沿えるようにしなさい。と命じておられるのです。来客予定で仕方なく掃除をする。やってる時はとても面倒なんですけれども、やっぱり綺麗になった部屋は自分にとって心地良かったりします。再臨に備えて日常を備えること、主に従って生きる人生は、あるいは面倒に思えるかも知れません。不自由に感じるかも知れない。けれど実際は御言葉に聞き、祈りと共に過ごすその毎日は、私たちにとって間違いなく心地の良い日常をもたらします。困難の中でも揺らぐことのない喜びと感謝をもたらすのです。

200726 ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

200726 ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

 38節の冒頭「ちょうどそのとき」とあります。何のときか。それはシメオンが幼子を抱えて、両親を祝福した「ちょうどそのとき」であります。多くの人は宮の片隅で起きたその祝福劇に何の興味も理解も示しません。けれど彼女にはその祝福の意味がわかったのです。ではなぜ彼女にはそれがわかったのでしょうか。彼女が女預言者だったからでしょうか。それは半分正解で、半分間違いです。確かに彼女が女預言者だったから気付けたのです。けれど、それは肩書が、職務が、彼女の心を敏感にさせたのではありません。預言者とは神の言葉を預かって民に届ける者です。彼女はいつも真摯に祈り、いつも御言葉に触れていた。熱心に宮に通い、そこで語られる御言葉に聞き入っていた。だから気付くことができたのです。
 目の前で抱きかかえられる幼子が、たとえばイザヤ9:6-7の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」という御言葉の成就であることがわかった。だから彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」のです。84歳であれば、アンナはもう目も見え辛くなっていたかもしれません。足腰も弱っていたことでしょう。色んな不自由を抱え、色んな限界を感じていた。けれど彼女の心に蓄えられた御言葉は色褪せることなく留まっていたのです。
 アンナはこの喜ばしい知らせを、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に語ります。幼子の誕生を語るのです。人々が待ち望んでいるエルサレムの贖いとはエルサレムの解放に他なりません。けれどそんな人々に、アンナは幼子の誕生を語るのです。日本という国に置き換えてみましょう。日本の贖いを待ち望んでいる人々。この国を憂い、この国が少しでも良い国に、素晴らしい国になるようにと願っている人々に、私たちは何を語るのでしょう。こうすればもっと幸せになりますよ。こうであればもっとこの国は過ごしやすい国になりますよ。ここを改善すれば外国にだって負けない強い国になれますよ。そういう声は巷に溢れています。けれど、それは問題の本質を捕らえていません。この国はまず神の前に贖われなければならないのです。ローマに支配されている状況を改善することが、エルサレムの贖いではありません。日本の経済を立て直すことが、病気を根絶することが、災害に負けない街づくりをすることが、この国の贖いではありません。イエス・キリストが罪を背負って身代わりの死を遂げられる。これこそが唯一の贖いであり、私たちはこの事実に心を痛め、へりくだり、感謝するしかないのです。だから、私たちはこの幼子の誕生を目の前の一人に語り告げなければならないのです。
 84歳になったアンナの語りがどれほど人々に届いたことでしょうか。もう大きな声も出せないでしょう。難しい話もできないでしょう。同じ話をごにょごにょと繰り返す、アンナの語りに、人々はどれほど真剣に耳を傾けたことでしょう。けれどそんなことは関係ありません。84歳にしてアンナは神の使命を受け取り、それに応答するのです。人生の晩年になって、ずっと願い求めてきた約束の成就を経験するのです。主に従う者の人生は老いてなお輝くのです。
 老いていく自分を、必要のない者と思ったりはしてないでしょうか。役立ずになっていくと諦めてはいないでしょうか。確かに姥捨て山だとか、そういう考えがこの国には根強くあります。けれど、それは事実ではありません。神は年老いて白髪頭になったとしても、決して捨て去ることはありません。考えてもみてください。当時アンナの話をまともに聞いた人がどれくらいいたかはわかりません。けれど、彼女の存在は救い主誕生の確かな証言として、現代に至る全てのキリスト者が知るところとされたのです。イグナティウスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンも、キング牧師も、皆、このアンナの存在に、救い主誕生の成就を確信したのです。もちろん、私たちの存在も後の世代に用いられるのです。主に従う者の人生は老いてなお輝きます。主は私たちの人生を最後まで意味あるものとしてくださいます。御言葉を蓄え、祈りの日々を過ごす。私たちのその日々の繰り返しが、主の到来に気付かせ、主の使命に立ち上がらせるのです。

200719 ルカ2:21-35 「非力な赤ん坊の中に」

200719 ルカ2:21-35 「非力な赤ん坊の中に」

 25節に「そのとき」とあります。どのときかと言いますと、21節で割礼を施されたイエス様が22節。きよめの期間が満ちて、ヨセフとマリアが神殿に生贄を捧げに来た「そのとき」です。そこに一人の老人が近寄って参りまして、興奮しながら、赤ん坊のイエス様を抱きかかえたのでした。この老人をシメオンと言いました。「聖霊が彼の上におられた。」とあります。聖霊の導きにより、シメオンは赤ん坊のイエス様と出会うのです。シメオンはイエス様を抱かせてもらい、いよいよ神を褒め讃えます。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
 シメオンは正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。それは言い換えると彼が「イスラエルは今悲しみのうちにあって、慰められなければならない」んだと考えていたということです。だから救い主を待ち望んでいたのです。では、イスラエルのどのような現状を嘆いていたと言うのでしょう。
 多くのユダヤ人は、国家としてのユダヤの現状に嘆いておりました。というのも、当時のユダヤは度重なる列強からの支配を受け続けていたからです。一時、ユダ・マカバイ率いるユダヤ人の軍勢がセレウコス朝シリアからの独立を果たしたことがありました。人々は彼こそが預言された救世主と称え、ユダヤにハスモン朝を開きます。けれど彼の死後、権力闘争は絶えず、ローマによる干渉も受けてハスモン朝は衰退。ローマの後押しを受けたイドマヤ人ヘロデがユダヤの王位を簒奪するのです。ヘロデはローマの傀儡政権でした。彼が王になることで、ユダヤの独立国家は実質上、再び崩壊しました。ですから、民衆は再び救い主を求めるのです。ユダ・マカバイに変わる新しい救い主の到来。ダビデに約束された永遠の王国を樹立する英雄。次に来る本命の救い主にユダヤの永遠の独立を願い求めたのです。
 けれどシメオンは違っていました。シメオンが見た救いはユダヤの独立ではありません。シメオンは両親を祝福し母マリアに言います。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」救い主であるイエス様を通して、イスラエルの人々はまず倒れそして立ち上がる。このことは反対にあうしるしとして、永遠から定められていると、こう言います。しかもシメオンはこれを祝福して言います。「おめでとう。あなたたちに祝福があるように」と言うのと同時に「ほら、この子は人々を躓かせるために来たんですよ。反対を引き起こすために生まれて来たんですよ」そして、「この子の存在は、あなたの心さえも痛め、苦しめることになるでしょうよ」とこんな風に言うのです。これでは祝福というよりも、むしろ呪いのようです。けれど、もちろんこれは呪いではありません。彼は大まじめにつまずきの子が生まれて感謝と言っています。
 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書53章5節の御言葉は当時、光が当たらなかった預言です。当然です。彼らにとって救い主とは、力強く、正義に溢れ、誰からも後ろ指さされない、そういう人物のことだからです。けれどシメオンは全く違う救い主を見ています。彼は赤ん坊のイエス様に犠牲となられる贖いの御業を見ているのです。自分たちのそむきの罪のために刺し通され、自分たちの咎のために砕かれる救い主の姿を見ているのです。
 第1コリント1:18には「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあります。私が思い描く救いではありません。もしも私が思い描く救いを求めるのなら、か弱い赤ん坊に救いを見出すことはできません。神の救いを遮るのはいつも私たちの一方的な願望です。そうではなくて、私たちはイエス様が語られるところに聞き、神が導かれるままを受け取る者でありたいと思います。混沌の世の中で、絶望せず、パニックにならず、神の救いを見い出す者でありたいと思います。

200715 Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

200715 Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

 イスラエルの王ペカの最後はアッシリヤとの戦いに敗れ、民はアッシリヤへと移住させられ、ペカ自身はエラの子ホセアの謀反によって殺されたことが15:29以下に記されています。アッシリヤ捕囚です。ですから、16章の記述はこのペカが死ぬ前に遡っての出来事です。
 16章はユダ王国の話です。ヨタムの子アハズがユダの王となりました。前回見ましたように、祭司エホヤダによって匿われて、7歳で王となったヨアシュ王以降、ユダの歴代の王は完全ではないにせよ主の目に適う政を行なっておりました。けれど、アハズは違います。彼は主の目に適わず、国内に幼児の人身御供を祭儀としたモレク信仰を持ち込み、国中に祭壇を設けました。この背景には、この時期、ユダ王国は外敵に脅かされていたことがありました。北イスラエルとアラム連合軍によってエルサレムが包囲され、国は疲弊し、もはやいつ落とされてもおかしくない状況でした。アハズはこの状況を打破するため、北の大国アッシリヤに従属を申し出ます。貢物を贈って、助けを求めたのです。アッシリヤの王はこの申し出を受け入れ、ダマスコに攻め上り、アラムの王レツィンを討ち取ります。アハズの思惑は当り、エルサレムの包囲は解かれます。最大の危機を脱します。
 戦後アハズは、アッシリヤ王に貢物を献上するため、ダマスコに向かいます。そこで、アッシリヤがダマスコに持ち込んだ祭壇を見ます。そして、これがアッシリヤの成功の秘訣と確信するのです。彼は、これを真似て自国内の至る所に祭壇を築き、この祭壇を用いて祭儀を行うよう命じるのです。Ⅱ歴代誌28:23「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に、私もいけにえを献げよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」
 これまでイスラエル、そしてユダの民は、不信仰のゆえに度々試練を迎えます。しかし、その都度自らの不信仰を悔い改め、神に赦しを乞うたのです。そして、神はその度に民を赦してきました。なぜなら神は民を滅ぼすためではなくて、目を覚まさせるために、試練を与えられておられたからです。ところが、アハズはそれを神の不在と考えた。そして、他の神々の力だと考えた。つまり、現実の困難は神々の戦いの結果だと考えたわけです。困難な状況は自分たちの神の弱さゆえだと考えた。結果、更に罪を重ねることなるのです。
 愚かなアハズ。しかし実はこのような人は多いのです。困難な状況、思い通りに行かない現実を、自らの研鑽のきっかけとするのではなくて、現状をぼやき、他者を羨むことにばかり思いを向ける人です。その困難な状況を神の不在と決めつける人々です。神は目を覚まさせようとしているのです。神はご自身に立ち返らせようとしておられます。神は自らの信仰を顧みよと言っておられる。けれど、私たちは目に見える成功に飛びつきたくなるのです。立ち止まらなければなりません。アハズが見るべきだったのは、アッシリヤの成功ではなくて、自らの不信仰です。私たちは困難な状況の中にこそ、静まって、神の御声に聞くことといたしましょう。