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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230201 マルコ6:1-13 「粘り強く関わるなら」

マルコ6:1-13 「粘り強く関わるなら」

 イエス様が故郷ナザレに帰られたときの様子が記されています。ここに驚くべき証言があります。人々はイエス様につまずいたとあるのです。先日の日曜に、私たちはつまずきを与えるものはわざわいだと学んだばかりでした。ですから、ここに書かれているのはとても異常です。
 イエス様はナザレに帰られて会堂で話されます。すると、人々はその教えに驚いたのです。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた智恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」つまり彼らはイエス様の知恵や力あるわざに驚いたわけです。ですから、さぞや、多くの人がこのイエス様の権威ある教えに感動し、涙を流しながら、その足元に平伏したことではないでしょうか。
 ところがです。実際にはそうはなりませんでした。確かに、彼らはその教えに感動しました。否定し難いイエス様の権威をその教えの中に見ました。にも関わらず、彼らはイエス様の教えに心を揺り動かされることはありませんでした。彼らは、イエス様にたいする偏見を捨てることができなかったからです。
 ナザレはイエス様が幼い頃からの時を過ごし、成長した所です。数百人程度の人々が暮らす城壁のない町でイエス様は弟、妹の世話をしながら、父ヨセフの助けとして大工仕事をしていたのです。父ヨセフが死んでからは、今度は一家の大黒柱として母を助け、弟たちの親代わりをしてきました。人々はそんなイエス様の姿を幼い頃から飽きるほどにずっと見てきました。ですから、彼らにとって、イエス様が何を言おうと、何をしようとも、大工の息子であり、マリヤの子で、ヤコブたちの兄弟であったのです。彼らはすでに持っていた固定概念に捕らわれて、真新しい気持ちでイエス様の教えに聞くことができなかったのです。だから、彼らはイエス様の教えに驚きはするけれども、その言葉によって変えられることはなかったのです。イエス様の教えは人々に届きませんでした。イエス様といえども郷里伝道、家族伝道は難しいのだとしたら、ましてや、私たちは尚更のことです。ですから、難しい伝道は諦めて、さっさと別のところに行くべきでしょうか。
 けれど、私たちが見るべきところは、その効率や結果ではありません。実はこの箇所の前に、イエス様の伝道に対しての家族や郷里の人々の様子が記されています。郷里では「イエス様の気が狂った」という噂が流れ、イエス様の偉大な力はサタンによるものだと噂されていました。そこで、家族が心配してイエス様を連れ戻しに来るという話です。つまり、郷里に帰られるイエス様は、すでに家族や郷里の間でどのような噂が立っているか、人々の不信仰な様子をすでに知っていたということになります。イエス様が郷里に帰られる。家族の下に帰られる。それは、気が狂ったと噂する人々の中に帰ること。それは、受け入れられないと分かっている中を敢えて帰るということでした。実はこの箇所には郷里を愛し、家族に心を留められるイエス様の憐れみと忍耐に満ちた姿が記されているのです。
 ご承知の通り、イエス様の家族はこの後、救われて、教会の基礎となっていきます。ヤコブは教会のリーダーとなります。ユダは新約聖書の執筆者の一人となります。この時には、イエス様をまるで理解できなかった家族がです。これは私たちにとって希望です。昔の自分を知っているということは、言い換えれば、私の内に起きた変化を一番良く知っているということです。また、普段から身近にいるということは、語るべきチャンスを逃さないということでもあります。偏見を超えて相手を認めるには、大変時間がかかります。特別なきっかけが必要なときもあるかもしれません。郷里伝道、家族伝道は難しいのです。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とも言われています。諦めずに粘り強く関わり続けていくとき、主は友人も家族も、関わる身近な人を救って下さるという希望がそこにはあるのです。

230125 マルコ3:20-35 「聖霊と悪霊」

マルコ3:20-35 「聖霊と悪霊」

 イエス様のガリラヤ伝道に危機感を抱いた人たちがいました。律法学者やパリサイ人、ヘロデ党と言った、これまでの既存の勢力の人々です。彼らは、まともに論じ合ってはとても敵わないと見ると、今度はイエス様を亡き者にしようと試みました。どのように亡き者にしようとしたのか。それはイエス様を魔術師と称することでした。当時、悪霊の力を操る人を魔術師と呼びました。そして魔術師であることは、死罪とする正当な理由となったのです。律法学者たちは、イエス様がサタンに取りつかれていると噂し、そして、サタンの力で悪霊を追い出していると非難し、それゆえ、イエスは気が狂っていると方々に広めたのです。
 彼らの誹謗中傷に対して、イエス様はそれは筋の通らない話だと切り捨てます。どんな国であっても、町や家であっても、その共同体が内部抗争にうつつを抜かしているなら決して立ち行きません。これは例えサタンであろうとも同じです。そして、もしサタンがそれほど愚かな存在であるのなら、それはもう私たちにとって何の脅威でも有り得無いのです。
 さて、このところで注意すべきは、奇跡は聖霊の働きによるものなのか、悪霊の働きによるものなのかは、私たちには見分けが付け難いという事実です。律法学者達が噂し、それを世の人々、家族までもが信じたというのにはそれなりの理由があります。それは事実この世には聖霊だけではなく、悪霊の働きがあるということです。
 世の中には現代の常識では説明の付けようのない出来事が時として起こります。そして私たちはこれを奇跡と呼びます。神の奇跡が無いという人は、神が今もって生きて働かれるお方であることを忘れているか、信じていない人です。私たちは違います。私たちは復活を信じています。主の奇跡を信じます。そして、これらのことを主が望まれるなら、それは例えば今、同じことが起こり得るのだということを信じています。私たちの神は死んだ神ではありません。生きておられる神です。私たちの主は死んだ主ではありません。蘇り、今も生きて神の右の座で、私たちを執り成しておられる主です。そして聖霊は今も私たちと共にいて下さいます。
 しかし、です。やはり私たちは注意しなければなりません。聖霊が働かれるのと同じように、悪霊もまた働いているからです。ナルニア国物語の著者のCSルイスが「悪魔の手紙」という小説を書いています。ワームウッドという名の見習い悪魔に向けて、伯父であり大悪魔のスクルーテイブが、如何にして人間を惑わすのかということをレクチャーするために出した手紙。如何にして人間を惑わすか。これが悪魔の本質です。ですから、彼らは「ほら悪魔ですよ」とは現れない。人間たちを安易に苦しめない。むしろ、おだてて、おだてて、沢山の美味しい物や、贅沢な生活、目に好ましいものを用意して、人間たちの目を神に向けさせないようにするのです。だとすると、ことの良し悪しが、単純に聖霊、悪霊を見分ける基準とはならないということです。目に見える麗しい出来事も、実はサタンが私たちを惑わそうとする罠かもしれない。いや、素直に神さまの恵みかもしれない。
 ですから、私たちはその信じがたい出来事ではなくて、その結果もたらされたものに注意を払う必要があります。判断の基準は、悪霊は人を惑わす存在、神から引き離そうとする存在であること。そしてその逆に聖霊は主イエスを啓示する存在であるということです。ことの結末が自分にとってハッピーエンドに終わるかではなくて、その出来事が主イエスを啓示し、信仰に結び付いているかどうかによって見極めるのです。
 キリスト教会の歴史の中でも、この目に見えるしるしを重要視し過ぎる人々が度々出て来ました。奇跡信仰とか、結果信仰と名付けても良いかもしれません。聖霊の働き=人々の癒しや信じがたい奇跡という考えです。しかし、これは大変危険です。なぜならそれは、癒されなければそこには神がおられない。聖霊が働いておられないという考えに発展するからです。そして癒された人は信仰深い。癒されなければ信仰が足りないとなる。祈りが聞かれたかどうか。目に見えるしるしがが、その人の信仰深さのバロメーターになってしまうのです。神の奇跡とも言うべき素晴らしいことが教会に起きた。しかし、そのことを強調するあまり、教会の中に、目に見える奇跡を体験した人と、しない人。信仰深い人と不信仰な人に明確な線が引かれる。そしてそれは兄弟姉妹間の信頼に亀裂を生み、やがては教会を分裂させてしまう。それを喜んでいるのは他でもない悪霊です。
 私たちは聖霊の働きが必ず、主イエスを啓示するものであることを覚えておかなければなりません。私たちにとって、都合の良い結果をもたらすかどうか、私たちにとって説明のつかない奇跡が起きたかどうかではありません。その出来事をもって、主イエスが明らかとされたかどうかです。

230118 マルコ1:12-20 ガリラヤ宣教のはじめ

マルコ1:12-20 ガリラヤ宣教のはじめ

 イエス様の道備えとなったヨハネが捕えられて後、イエス様はガリラヤにおいて福音を宣べ始められました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様もヨハネと同じく、人々に悔い改めを宣べ伝えられます。しかし、ヨハネにはないメッセージが語られます。「時が満ちた」ということです。旧約の時代から待ち続けた約束の救い主がいよいよ来られたという意味です。道備えの時はもう終わり、本番の幕が開けたのでした。
 では、そのイエス様の宣教の開始とはいかなる物だったのでしょうか。それは弟子の召命。弟子作りから始まったとマルコは言うのです。もちろん、他の福音書を見れば、この弟子の召命より前にもイエス様の宣教の様子が記されておりますので、全くの宣教の始まりとは言えないわけですが、しかし、3年間の公生涯の中で見ましたら、極めてその初期に弟子を招いておられる。ですから、マルコが言うように、イエス様の宣教はこの弟子の召命から始まったと言っても良いと思います。
 では、このことはいったい何を意味するのでしょうか。それはイエス様が宣教をチームのものとして、引き継いでいくものと捕らえておられたということです。そもそもイエス様の宣教とは、イエス様がご自身の真の姿、真の御力を明らかにすることでありました。とにかくイエス様を見ること。イエス様に聞くこと。イエス様と出会うこと。これが救いへと繋がる一本の道でした。イエス様の宣教は、イエス様ご自身によって全てが成り立っているのです。ですから、本来ここに弟子たちの助けは必要は無いのです。別に弟子がいようといまいと、イエス様の宣教には何の支障もありません。けれど、それでもイエス様は弟子たちを召されました。それはつまり、宣教において、最も重要なことは弟子作りであることを意味しているのです。宣教と言えば普通、その人に福音を宣べ伝え、救いに導くことだと思われるかもしれません。しかし、実はそれでは宣教の目的の半分もありません。宣教の目的は、その人を悔い改めに導き、救い、そして神の弟子とすること。神の使命を引き継ぐ者へと成長させることです。大宣教命令は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とあります。「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と命じているのです。
 目的を理解し、意志を受け継ぎ、その働きを共に担う者を育てる。これはその働きが一代で終わってしまわないために、とても重要なことです。弟子がいなければ、どれだけ素晴らしい教えでもそれは一代限りのものです。しかし、順調に引き継がれて行くならば、その教えは永遠のものとなるのです。だからといって、イエス様は何か特別な訓練を弟子たちに強いたわけではありません。敢えて言えば、イエス様は弟子弟子たちを傍に置きました。ご自身の振る舞いを、言動を、いつもお見せになりました。師の言動を見せること。それこそがイエス様の弟子訓練なのです。
 ところで、この召命において最も重要なことは、これが主の呼びかけによってなされるということです。当時、ユダヤ教のラビに弟子入りすることは、弟子の方から申込み、また、弟子の好き勝手で、これ以上従っていくかどうかも決めておりました。弟子となるのも、弟子を辞めるのも弟子の側の自由と言うわけです。しかし、神の弟子となる事はそれとは違います。あくまでもイニシアチブが神にあるのです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)とあります。私たちが選んだのではなく、神が選ばれ、神が呼んでくださった。だから、この道の責任は神が取ってくださるのです。

221106 マルコ10:13-16 「子どもたちを主の前に」

マルコ10:13-16 「子どもたちを主の前に」

 私たちの教会の特徴の一つに、子どもと一緒の礼拝をあげることができるかと思います。実はこれは当たり前のことではありません。教会によっては、大人と子どもの礼拝を完全に分けていたりします。そもそもの理解力が違いますし、集中力も違うからです。大人はその騒々しさに気が散りますし、子どもたちはその堅苦しさに退屈します。ですから、案外分けたほうが上手くいったりもするのです。けれど、それでも私たちが一緒の礼拝を大事にし、こだわりとしてきたのは、子どもたちの信仰は礼拝の中でこそ養われると信じているからです。
 イエス様はこの子どもを抱いて祝福されましたから、連れられてきた子は、幼児や乳児といった幼子であったことでしょう。そんな幼子に説教を聞いて理解せよと言うのは無理な話です。礼拝の間静かにしてなさいと言っても無駄です。彼らは思いのままにしゃべり、歩き回り、そして泣き出すのです。けれど、それでも共に礼拝を持つことには意味があります。そこに本気で礼拝する大人の姿があれば、彼らは自然とその大切さを肌で感じ取っていくからです。
 日本の教会の多くは高齢化し、すでに多くの教会から子どもたちがいなくなっています。今のままでは20年、30年後には、どれだけ多くの教会が閉鎖されているか想像もつきません。幸いなことに、私たちの教会には多くの子どもたちが与えられています。これは本当に感謝なことなのです。彼らこそが教会の未来を担っていく者たちです。しかしそのためには、私たちが彼らに福音の確かさを継いでいくことが条件です。そのためには信仰の先輩として、人生の先輩として、私たちは子どもたちの見本とならなければなりません。彼らはよく見ています。私たちの信仰が本物かどうか。私たちの礼拝が真実であるか。私たちの信仰に嘘はないか。もし私たちの内に物言わぬ証しがあるならば、彼らは自ずから信仰を継いでいくのです。私たちは子どもと一緒の礼拝を大事にしてきた教会だと言いました。しかしそれは言い換えると、私たちが彼らの見本としてふさわしい礼拝をささげるという決意表明でもあるのです。
 さてこの箇所で、イエス様は弟子たちに「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」とおっしゃっています。神の国はこのような者たちのものだと。。。どういう者でしょう。それは「子どものように神の国を受け入れる者」です。つまり、私たちが彼らの見本であると同時に、彼らが私たちの見本でもあるのです。神の国を受け入れるにあって、私たちは子どものようであれと言われているのです。
 クリスチャン家庭の子たちを見ていると、彼らが意識すらせず、当たり前のように神の国を受け入れていることに驚かされます。これは私にとっては発見ですが、彼らはお絵描きしていても、おしゃべりしていても、たとえ喧嘩をしていても、神の国を受け入れているのです。クリスチャン1世である私なんかは違います。無宗教の家庭に生まれ育った私は、高校生になるまで神は疑わしい存在でしかありませんでした。高校生になって友人の誘いで、教会に導かれ、聖書に出会い、イエス様を信じることになるわけですが、私にとってはそれは本当に大きな決断だったわけです。もうこれまでの生き方をばっさりと捨てる覚悟でありました。もちろん、それは聖霊の働きによるものであり、私のどうこうではありませんが、それでも、どこかで自分が選んだという意識があります。それは信仰に生きる覚悟でありますが、一方で、自分の思いに左右されやすい信仰。正直に告白しますと、私は意識をしていないと神の国が二の次、三の次になってしまう。何か受け入れがたいことがあれば、すぐに疑ってしまうような者であります。けれど彼らはどうやらそうじゃないのです。神の国は意識していようと、していまいと、それは下地となってあるのです。神の国を疑わない。この一点において、彼らは私たちの見本です。
 当時は人の数にいれられなかったような幼子ですら私たちの見本なのです。このことは、教会には一人として意味のない者はいないということをも意味しています。幼子であろうと、高齢者であろうと、関係はありません。私たちが一人の見本となり、一人が私たちの見本となる。そういう相互の尊敬が教会や家庭で築かれるなら、きっとこの福音は引き継がれていくことでしょう。幼子のように、真綿のような心を持って、互いを認め合う私たちでありましょう。

220612 マルコ12:41-44 「神に応答する恵み」

マルコ12:41-44 「神に応答する恵み」

 イエス様は宮にある献金箱に向かって座り、人々が献金をささげるその様子をご覧になられておられます。そして大勢いる人々の中から、対象的な人物たちの献金をささげる様子に注目されるのです。多くの裕福な金持ちたちと、貧しい一人のやもめであります。当時の献金箱と言いますのは、宮に備え付けられている金物の献金箱でありまして、特徴的なのは漏斗型をしているということでした。漏斗形になっておりますので、献金を多少乱暴に入れようと、またその量が多過ぎであろうと、綺麗に吸い込まれていきます。非常に理に適った形状の献金箱でした。しかも、この献金箱。献金をする度に音がするわけです。多ければ大きな音。少なければ小さな音。大きな音が鳴ると皆が一斉に振り向いて、羨望の眼差しを向けるのです。これが結構プライドを刺激するわけです。なかなか人間心理を突きました、賢い献金箱だなぁと思います。金持ちは人々の尊敬を集めたくてより沢山の献金をいたしますし、宮はその分潤ったのです。
 イエス様が見ていた先でも、大勢の金持ちたちが競うように大金を投げ入れておりました。居合わせた人たちも、その内、誰が一番多く納めたかと夢中になって見比べていたことでした。しかし、イエス様は違います。イエス様は一人のやもめに目を留めたのです。彼女はレプタ銅貨を二つだけ投げ入れました。すると、イエス様はわざわざ弟子を呼び集めまして、言います。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」レプタ銅貨というのは当時の一番小さいお金です。どう考えても誰よりも少ないのです。なのに、イエス様は「だれよりも多くを投げ入れました。」と言われる。なぜなら、「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と言われるのです。
 確かに金持ちたちは沢山の献金をしていました。けれど、彼らにとってそれは余りある中の一部です。けれど、彼女にとってその2レプタは全財産なのです。自分にとって最大限のものをささげる。この一点で、彼女は誰よりも多くをささげたのです。レプタ銅貨2枚。この2枚ささげたというのが凄いことですね。1枚残すこともできたのです。これが初めから1枚しかなければ、それをささげるかささげないかだけです。しかし2枚ありました。同じささげるにしても、1枚残しておけばいいじゃないですか。明日の保証などないのです。けれど、彼女は2枚ともささげた。ここに彼女の信仰があります。彼女は明日の保証は神の手にあると信じて、全てをささげるのです。更に言うと、彼女のことは誰も見ていません。意識すらしていません。つまり彼女は純粋に神への信仰でささげたのです。金持ちたちは全く違います。彼らは余りある中から、他人の評価を気にしながらささげます。その心は神への感謝ではなくて、人々の賞賛を浴びたいという虚栄心なのです。
 さて、だから皆さんもこの女性を見習って全財産をささげましょう・・・とは私は言いません。けれど、私たちが神様にささげているものを、もう一度よく吟味しましょうと、私は言いたいと思います。痛みを伴うかどうか。信仰によるかどうか。それらを測るカギは、そのささげ物が初穂となっているかということです。言い換えるなら、その献金は私たちの生活の余り物とはなっていないでしょうか、ということです。
 これは何も献金だけのことを言っているのではありません。時間もそうです。奉仕もそうです。そのささげものは余り物になってはいないでしょうか。主の前にささげるもの。それら全てに、私たちは痛みを覚えているか。それはつまり余り物をささげていないか。と問わなければならないのです。 まず収穫の初穂をささげなければ。そして残りを感謝していただく。これが私たちの信仰です。
 ルカ6:36に「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」とあります。第1ヨハネ4:19にも「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。時間も収穫も、賜物も、全て主が与えて下さったものです。この理解なくしては、私たちはささげることができません。もったいないと思ってしまう。しかし、そうではないのです。ささげることができるのは、まず与えて下さった神様がおられるからです。まずあわれんでくださり、まず愛してくださるお方がおられるのです。ですから私たちがささげるのは感謝の応答です。十分に与えて下さる神様に感謝してささげることといたしましょう。