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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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181028 マルコ1:35 「祈り」 松原湖バイブルキャンプ主事 鈴木聖仕師

マルコ1:35 「祈り」 松原湖バイブルキャンプ主事 鈴木聖仕師

 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所に出て行き、そこで祈っておられた。
1.日常の祈り
 イエス様の祈り。それは日常の祈りだったということです。そして、イエス様がどんなに忙しい中であっても祈りの時間を、神様との時間を聖別しておられたということ。時には朝早く暗いうちに起きて、時には、群衆に別れを告げ山で。
2. 誘惑に陥らないように祈る
 ルカ 22:40 これは、ゲツセマネの祈りです。イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈っていなさいとおっしゃられました。ここでは弟子たちはイエス様が祈っているときに眠ってしまうのです。誘惑に陥るとはサタンの策略にハマることです。そう考えると祈りはサタンの策略にハマらないためにあるといえます。逆に言えば祈らないとサタンの策略にはまってしまうかもしれない。ということす。教会の中などの祝福のあるところにサタンは巧妙に入ってきます。サタンは巧妙です。疲れているときに、隙のあるときに攻撃を仕掛けてきます。そんなときには特に祈ることが重要です。自分の思いや自分の力により頼まないために、サタンの付け入る隙を与えないために神様との会話が私たちにはどうしても必要です。神様との会話をしているだけで、サタンは攻撃をやめてしまいます。イエス様が近くにいるときにサタンは何もすることができないからです。
3. 他の人のために祈ること
 マタイ 5:44、エペソ 6:18 
 自分の敵を愛し、迫害するもののために祈るようにすすめています。いや命令しています。学校の、職場の、家族のあの人のために祈るように。どんな時も私たちは生きておられる主に祈りをささげる。祈りも自分の力でしない。御霊によって祈る。聖霊の力に頼って祈る。
 でも時に祈れないことがあります。そんな時は、誰かに祈ってもらうことです。自分で祈る祈りと誰かに祈ってもらう祈りこれは同じ神様が働いてくださる祈りです。他の人のために祈ること、祈れない時には祈ってもらうこと、これはとても大切です。祈りは私たちクリスチャンの呼吸です。呼吸が止まると私たちは生きてゆけません。祈らなくても呼吸はとまりません。でもクリスチャンとしての呼吸は止まっているんです。神様との関係はなるべくあったらいいとか、たまに必要とかではなく、いつも必要です。絶えず必要です。
 今年の松原湖バイブルキャンプでは「10%アップ」をキーワードにお支えください。
みなさまのキャンプのための祈りの時間を10%アップ。松原湖の夏キャンプへの参加者10%アップ、奉仕者10%アップ、献金額10%アップにご協力ください。

 この度キャンプサンデーにお招きいただいたこと、尊い捧げ物を心から感謝申し上げます。この小さきもののためにもお祈りいただければ幸いです。

171217 マルコ2:17「インマヌエル・罪人を招くために」

マルコ2:17「インマヌエル・罪人を招くために」

 場面としては、取税人レビの開く食卓で、取税人や罪人たちと一緒に食事を取られるイエス様を非難する律法学者に対して、語られた言葉です。けれど、この言葉の真意は、単に罪人を食卓に招くことを語っているのではありません。それは、救いに招くという意味です。そして、そのために、イエス様は罪人と同じ食卓に就かれる。罪人と同じ視点。罪人と同じことばを交わされるのです。
罪人を回心させるということは、律法学者、特にパリサイ人たちも声を大にして語って来たことでした。けれど、イエス様のそれはまったく違いました。イエス様は罪人の中に住み、彼らの弱さを受け止めながら、これからは罪を犯さないようにしなさい。と教えられるのです。
 罪ある者に義人の声は届きません。どれだけそれが正しくても、正しさだけでは人は耳を傾けません。なぜなら、その言葉は正しさのゆえに人々を切り裂くからです。その悲しみ、やるせなさ、彼らの言い分を知る者の声でなければなりません。イエス様はまさに罪人の弱さに寄り添うために、彼らに届く言葉を届けるために、人となられたのです。ヘブル4:15に「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とある通りです。
 クリスマスの場面、イエス様は絢爛豪華な王宮ではなく、ホテルのスイートルームでもなく、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。なぜ、そのような粗末な所を選ばれたのでしょうか。そこしか空いていなかったというのは、もちろんそうでしょうが、しかし、イエス様が望まれれば、どこで生まれることも可能なわけです。状況がそうさせたのではなくて、イエス様がその状況を許されたのです。なぜなのでしょう。それは、貧しい者が主イエスの誕生に駆けつけるためです。住民登録の数にすら数えられない貧しい羊飼いたち。もしも、イエス様が王宮でお生まれになれば、間違いなく羊飼いたちは主イエスを礼拝することができなかったでしょう。イエス様が、貧しくお生まれ下さったからこそ、救いに与ることができる者がいるのです。貧しさに生まれ、十字架に死ぬイエス様は、貧しさも痛みも知っておられます。罪になびく人の弱さを理解しておられます。彼らに届く言葉を持っています。だからこのお方は、全ての者にとって救いとなられるのです。
 私たちの言葉を、人々に届けるためにはどうすれば良いでしょうか。福音は聖書の正しさを語れば伝わるのでしょうか。いえ、それは人々に希望をもたらしません。私たちは我が身に起きた、主イエスの恵みを語らなければ。主イエスの憐みを解かなければ。私たちの信仰生活は、己の弱さ、愚かさ、罪深さをさらけ出すことから始まるのです。それはつまり、私たちが主イエスの赦しにあずかったその体験です。私たちが己に絶望し、悔いたとき、私たちは赦された。こんなに救いようのない愚かな者でも神の恵みにあずかることができた。これこそが福音です。これこそ人々に届く言葉です。

160821 マルコ5:1-20 「湖の向こう岸」

マルコ5:1-20 「湖の向こう岸」

 嵐の夜、命の危険にさらされながらガリラヤ湖を渡ったイエス様一行は、一人の男の出迎えを受けます。それは見るからに怪しい男でした。彼はところ構わず暴れだし、それは鎖や足かせを持ってしても押さえ付けることができないほどでした。また夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけておりました。
 それは全て悪霊の仕業でした。ここで悪霊はレギオンと名乗っています。レギオンとはラテン語で、4千人から6千人の兵士によって構成される一軍団を指す言葉です。何千という悪霊の大群が、この一人の男に捕り憑いて心身を隅から隅まで縛り付けていました。つまり、彼が犯罪を犯したとか、誰かを殺めたとか、そういった理由で鎖に付けられ、墓場に追いやられたのではなかったのです。悪霊が突然に彼に捕り憑き、それゆえこのような身になってしまった。自分自身を制御できない苦しみの中で、彼はどこにもぶつけ様のない理不尽な怒りと、誰にも理解されない孤独な悲しみに押しつぶされそうになりながら、必死にその日その日を暮らしていたのです。
 悪霊というのは、私たちに働きかけ、内なる思いを否定的に、また破壊的に向けさせるのです。また欲望に走らせ、罪の虜にします。私たちは悪霊の力を決して馬鹿にすることはできません。しかし私たちが覚えるべきは、悪霊の力ではありません。そのように強力な影響力を持つ悪霊どもも、イエス様の権威の前では、ただひれ伏すだけの存在に他ならないと言うことです。私たちは必要以上に悪霊の存在を恐れる事はないのです。
 イエス様は悪霊どもを追い出すときに、豚に乗り移ることを許されました。このことのゆえにおよそ2000頭の豚が湖になだれ落ちて溺れてしまいました。2000頭もの豚の資産がいったいどれほどになるのかは見当もつきません。ですからイエス様のこの行為は、大事件でした。イエス様はこの豚を飼う人々に大きな犠牲を負わせたのです。現に、この一件のおかげで、イエス様たちは人々の敵意を買い、これ以上この地にとどまることができなくなりました。イエス様にはこうなることがわからなかったのでしょうか。イエス様は経済観念の無い、常識外れな人だったのでしょうか。それともユダヤ社会では汚れた動物とされる豚なので、どうなろうとも構わないと思ったのでしょうか。
 そうではありません。このことは、イエス様が一人の人を救うために、どのような犠牲をも厭わない方であるということを意味しているのです。
 人々はこの一件で、イエス様を町に入れようとはしませんでした。厄介者だと思われた。「向こう岸に渡ろう」と言って、激しい突風の中を超えてきたイエス様一行が、ようやく着いたこのゲラサの地での働きは、実は町に入ることなく終わったのです。町はずれの墓場だけ。イエス様はまた対岸へと帰る羽目になりました。では、イエス様の伝道は失敗したのでしょうか。いえ、そうではありません。湖の向こう岸には一人の救いを必要とする男がおりました。イエス様はこの一人の男のために湖を渡って来られた。たとえ嵐に遭おうと、たとえ多くの犠牲を払おうと、たとえそのことで自分が責められようと、イエス様は一人の魂が救われることを望まれたのです。
 イエス様のこの地で為した救いはたった一人でした。あれだけ激しい嵐の中を漕ぎ出して、ようやく着いた町では、その中に入ることすらできず、帰らざるを得ませんでした。それは救い主の働きとしては、それは大変実り少ない、失敗のようでありました。しかし、そうではありません。イエス様は一人の救いを決して小さく見てはおられない。なぜなら、一人の救いの向こうには、大勢の魂がいるからです。主の福音は一人の救いを通して広まるからです。

2015/08/30 マルコ5:18-20 「生ける神を証しする」

マルコ5:18-20 「生ける神を証しする」

 伝道は、一人ひとりのキリスト者の使命です。私たちは熱心さをもって人々に語ります。それは強要されてでなく、見返りを求めてでもなく、内側から湧き出てくる衝動によってです。この隣人を放っては置けない。私たちはそういった使命感を持って、神とは。罪とは。救いとは何かと、熱心に語り続けるのであります。
 けれどです。今日ご一緒に考えたいことは、それは果たして、多くの人々が本当に聞きたいことなのかということです?どうでもいいとは言いません。むしろそれはとても大切です。神、罪、救い。聖書が教えるこれらことを順を追って理解する時、私たちは救いの確信を得ることが出来ます。ですから求道する人々には救いの根拠と救いに至る過程をきちんと教えなければなりません。しかしです。それはあくまでも信仰に興味を持ち、どうすれば救われるのかと問い続ける求道者に対してであって、それ以前の人々。多くの神を知らない人たちの関心とは違うように思うのです。と言いますのも、この日本では神々があまりにも溢れかえっていて、ゴルフの神様だとか、笑いの神様だとか、他人よりもちょっと優れた人を見ると、すぐに神様と言って称えるような社会におりますと、見えない神に救いを求めるだとか、信頼して生きるだとか、そういった信仰を持つこと自体が、とても不確かなことだからです。自分以外の何かに信頼して依存して生きるということは危ない。のめり込んではいけない。そういう思いがある。最初から興味と警戒心をもっている。これが大多数の人たちの本心だと思うのです。
 そもそもの神観が違うのです。多くの人にとって神は数多くいる、限界ある存在に過ぎません。困ったときにだけ頼る、頼っても気休め程度にしかならない。そのように割りきって付き合うべき存在です。ですから、そういう神観の人たちに対して、まず最初に伝えるべきは、救いの云々ではありません。まず伝えるべきは、聖書の神が生きて働かれる神であること。信頼に値する神であることを伝えなければならないのです。
 ではどうすれば、生きて働かれる神を伝えることが出来るのでしょう。今日の箇所でイエス様は言いました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」つまり、あなたの人生に働かれた神様の臨在を証しなさい。ということです。主が私にしてくださったことですから、私たちの救いの証しはもちろんですけれども、それだけではありません。日々の信仰生活が私たちの証しです。それは決して人に誇れるものではないかもしれません。沢山の失敗や過ちを繰り返して、そこには情けない自身の姿があるかもしれません。しかし、それで良いのです。多くの人は私たちの成功談を聞きたいのではありません。私たちが失敗し、試練に会い、苦しみ、悩む中を、どのように主に励まされて立ち上がったのか、乗り越えていったのか、そういう弱さの中に働かれる神を聞きたいのです。私たちの信じる神が、今も生きて、信仰者を導いておられることの証言を求めているのです。
 ですから、大事なことは、全てのことにおいて恵みを数えるということでしょう。私たちは余裕が無い時、その現状の中で恵みを数えることができなくなってしまうかもしれません。ボヤキばかりが口に出るかもしれません。しかし、私たちは生きて働かれる神が今日も共におられるという事実に目を留めるべきです。この現状を通して、語られ、導かれる神の声に耳を傾けるべきです。私という視点から、神様の視点に。この今という時を捉え直すとき、私たちはそこに確かな神様のご計画を見るのです。神は無駄なことはなさいません。意味のないことを与えられることはありません。その経験が、神を証しし、隣人に寄り添う糧となっていく。神の証とされていくということではないでしょうか。

2015/08/16 マルコ15:42-47 「あなたにもある主の備え」 文書伝道デー 岩本信一兄(いのちのことば社副会長)

マルコ15:42-47 「あなたにもある主の備え」

 この聖書箇所は、イエス様の十字架の場面です。イエスの弟子になっていましたが、そのことを隠していたアリマタヤのヨセフ。この時、彼はイエス様の十字架のそばにいました。そして、午後の3時頃、イエス様が息を引き取られたことを確認し、「今、自分が動くべき立場にある」と気付いたのです。そして、勇気を出して総督ピラトの所に行き、イエス様の亡骸の引取りを申し出ました。許可を得た彼は、亡骸を包むための亜麻布を買い求め、ゴルゴダの丘に戻ります。そして、十字架の上に釘付けのまま放置されていた、イエス様の亡骸を取り降ろしたのです。そして、イエス様の亡骸を、亜麻布で包み、日が暮れるまでのあわただしい時間の中で、新しい横穴式の墓にイエス様を葬りました。罪人として、十字架にかかられて、死なれたイエス様が、通常ありえない形で、その亡骸が引き取られ、きちんと葬られ、埋葬されたことには大きな意味がありました。このことのためにイエス様はアリマタヤのヨセフを弟子として選ばれていたと言ってよいと思います。彼はこの時“勇気”が与えられ、自分の“使命が明らかにされ”、“大胆な行動を起こした”のです。そして、主の御体を手厚く葬ると言う“役割を果たしきった”のです。
 アリマタヤのヨセフは金持ちでした。財力も主の備えです。彼は有力な議員でした。だからこそ、総督ピラトに謁見ができ、イエス様の亡骸の引き渡しの許可を得られたのです。社会的な立場も主の備えです。アリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたがそのことを隠していました。弟子であることを隠すことは疑問が残ります。しかし、恐れる心、勇気がわかないことも、この場合は主の御手の中で用いられて、事が最善に進められたと言えるでしょう。
 皆さんは何らかの財産や立場、経験、趣味を持っているのではないでしょうか? それは神様があなたに託していることかもしれません。アリマタヤのヨセフはその信仰を隠していましたが、あの十字架のぎりぎりの場面で、約3時間のなかで、勇気を出し、自分の立場を最大限利用し、自分の持っているものを差し出したのです。同じように、神様は1人の人の小さな信仰の行動を祝福し、福音の業を前進させてくださると思うのです。神様は、私たちが伝道する勇気もって、信仰をもって行動すること、挑戦することを待っていて、大きな計画、素晴らしい計画を用意しておられると思います。
 主を証しし、伝道する方法のひとつとして「文書伝道」があります。この「文書伝道」のコツは、あきらめずにお渡しすることです。時が良くても、悪くても、渡しておけば、備えておけば、後は聖霊の神様がその文書を用いてくださるのです。あきらめずに、勇気をもって皆様の周りのまだ主を知らない方へ福音文書を渡していただき、「文書伝道」に取り組んでいただきたいと思います。