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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201115 ルカ5:17-26 「罪を赦すお方」

ルカ5:17-26 「罪を赦すお方」

 イエス様の前に吊り降ろされてきた男性は中風を患っていました。中風とは脳卒中や脳出血による麻痺のことを言います。彼はまだ若い10代の身だったと考えられます。若くして脳卒中を発祥し、その後遺症によって麻痺が残り、身動きが出来ずになっていたのです。どれだけ辛いことでしょう。それでも幸いなことは、この中風の青年には彼を気遣う友たちがいたことです。友人たちは何とかして友をイエス様に診てもらおうと、寝床を担ぎ、イエス様のところにやって来たのです。イエス様のもとに連れて行きさえすれば、きっと癒してもらえると信じていたからです。彼らは人だかりの様子を見ても決して諦めません。屋根に穴を開けて、その屋根から寝床ごと病人を吊り降ろして、遂に友人をイエス様の前へと連れ出すことに成功したのです。
 イエス様は友を救うために、屋根を破るほどの彼らのがむしゃらな様子を見て「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。それは友人たちの信仰を見られたのです。連れられてきた中風の青年の信仰ではありません。そこで、ずっと寝たきりのこの人を想像いたします。脳出血から体の自由を失った彼。始めこそ、命が取られなかったことを神に感謝しますが、闘病生活が長くなると、段々と不平を覚えるようになるものです。なぜ自分だけがこんな病気になったのか。なぜあの人は元気でいるのか。これは当然の感情ではないでしょうか。友が足繁く通って色々と身の回りの世話をしてくれます。汚れた体を拭いてもらい、時には下の世話までしてもらう。本当にありがたい。けれどどこかで、友の優しさに触れる度に我が身の惨めさを感じることではないでしょうか。友人たちが帰れば、もう寝返ることも、流れる涙を拭うことも出来ない。なぜ神は自分の命を取ってくださらないのかと嘆いたことではなかったか。このような考えを持つこと自体間違いだと知りつつも、どうしても口に出てしまう不平不満。彼は自分でもしたくないことをしてしまう自分に、罪悪感を覚えて仕方なかったのではないでしょうか。イエス様はだからこそ彼に必要な言葉をかけられた。「友よ、あなたの罪は赦された。」と宣言されたのです。
 さて、この一部始終を批判的に見ていた人がおりました。パリサイ人や律法の教師たちです。彼らは言います。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」(5:21)これは真理です。確かに神の他は誰も罪を赦すことはできません。もしもイエス様が神で無いのなら、イエス様は彼らの言うとおり神を汚す者です。しかし彼らにとって想定外なことは、イエス様は神だったということです。
 パリサイ人たちは、罪の赦しの宣言と病の癒し、どちらが易しいか。と心の中で考えています。けれど、どちらではない。どちらも、というのがイエス様の考えです。中風の青年が天井から引き下ろされて、否が応でも皆が彼とイエス様に注目したのです。イエス様が何をされるか、固唾を飲んで見ておりました。パリサイ人も律法学者もです。当然、誰もがこの場面、イエス様は癒やしをされると思っていたわけです。ところがイエス様は罪の赦しを宣言される。なんで今、罪の赦し?と、天井から覗いている友人たちも思ったと思うのです。なんでそんなことを言うんだ。何で今神を冒涜するんだ。パリサイ人たちも思ったのです。誰も彼の罪の問題など見ていなかったのです。目に見える病気は心配して、あるいは哀れむけれど、目に見えない罪に対しては気付かないのです。けれど確かに彼の内には解決すべき罪の問題があるのです。
 私たちは病気になればその回復を心から願います。けれど、同じ熱量で、果たして罪からの回復を願っているでしょうか。罪が蝕む心を嘆いているでしょうか。実は私たちには二つの問題が蓄積しているのに、永遠へと続く問題については忘れがちではないでしょうか。イエス様はこれに対して、どちらがではなくて、どちらも大事と言われたのです。
 それにしても、目の前で一人の罪人が救われ、一人の病人が癒やされたのです。なぜパリサイ人や律法学者はそれを共に喜べなかったのかということが問題です。彼らはイエス様のすぐ近くに陣取り、批判精神一杯にことの始終を見ておりました。けれどそのせいで病に苦しむ人がイエス様に近付くことができなくても、彼らは何ら胸の痛みを感じることも無かったのです。罪を赦す権威が神ただお一人のものであるならば、罪を裁く権威も神お一人のものであるはずです。けれど彼らはそのことに気付きません。当たり前の如く、神の権威を借りて、他人を見下して裁くのです。
 私たちは彼らの姿から、信仰とは、たとえイエス様のなさる一部始終を見ていようとも、また理屈としては正しい教理を幾ら頭の中にたたきこんでいても、決してそれだけでは生まれてくるものではないということを知らなくてはいけません。信仰とは自我が打ち砕かれることから始まります。そして信仰とは愛を養うものです。もしそうでないのなら、それは私たちの信仰をもう一度吟味し直す必要があるです。

201108 ルカ5:12-16 「手を伸ばして彼にさわり」

ルカ5:12-16 「手を伸ばして彼にさわり」

 今日の箇所の冒頭「イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。」とあります。つまり、このツァラアトの人が町の中にいたと言うことです。この何気ない出来事が、当時どれほどの大事件だったことでしょう。彼はこの病に冒されたという理由により、仕事も家族も友人も失い、人々から忌み嫌われ、町外れの洞窟に身を寄せて、心ある人の施しによって辛うじて生きるしかない、そのような境遇へと追いやられました。レビ記13:45-46にはツァラアトの人々は、宿営の外に離れて住み、「自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。」とあります。つまり彼は、見るからにわかるボロボロの衣服で、口ひげや髪の毛を伸ばして顔を隠し「わたしは汚れています」と周囲に注意を呼びかけながら、恐る恐る町中に入って来たのです。それは、人々から何をされるかわからない。水をかけられるか、石を投げられてもおかしくない。心無い誹謗中傷と差別の中に身を投じるということでもありました。それでも彼はイエス様に会いたい一心で町の中に足を踏み入れたのでした。
 もしこれでイエス様に会えなかったら、イエス様が噂どおりの人で無かったら、癒されることがなかったら、いったいどうでしょう。町の中に入るという決断は、彼にとって大きな賭けです。しかしそれ以上にこれは信頼です。イエス様に会いさえすれば、必ずこの身は癒される。そう信じて、彼は今イエス様のところへとやって来たのです。
 イエス様は全能なる神のひとり子です。イエス様はお言葉一つで、悪霊を追い出し、病を治すお方です。しかし、イエス様はここで彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様は、敢えてさわられたのです。リスクを負われたのです。ツァラアトの彼に必要なのは、病の癒やしと共に心の癒やしだからです。彼の傷ついた心には人の手の温もりが必要だったのです。ツァラアトは伝染病でした。そして汚れそのものでした。これに触れることは律法で固く禁じられておりました。ツァラアトに冒された人に触れれば、その者も汚れることを意味していました。それだけに、この病人は発病以来、決して人に触れられることなく生きてきたのです。それは仕方のないことでした。けれどイエス様はこの病人に触れられたのです。
 イエス様は手を伸ばして彼にさわられるとき「わたしの心だ」と言われました。イエス様は心からこの人を憐れまれたのです。彼のこれまでの深い絶望に心痛め、心から嘆かれたのです。これこそイエス様の心です。なぜならイエス様自身が十字架の使命を負っていたからです。人々に蔑まれ、唾を吐かれ、嘲笑の的にされる、そのお方だからです。だからこそイエス様は彼の孤独を捨て置くことができなかった。彼の身に触れずにはいられなかった。彼の痛み悲しみが誰よりもわかるイエス様だからです。
 この人をイエス様はきびしく戒めて立ち去らせました。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」なぜ話してはいけないのでしょうか。それは体の癒しだけでは彼は救われないからです。ツァラアトは病が癒されても、それで済む病気ではありません。ツァラアトによって汚れた者は、町の中に住むことができません。祭司によって「きよい」と宣言されて初めて、社会生活に復帰をすることができるのです。祭司に見せる前に、誰彼となく話せば、決まりを破ったその人は祭司の反感を買います。そうなれば、彼はたとえツァラアトが治ろうと、孤独と偏見の毎日からは抜け出すことができません。ずっと神殿から追い出されたままです。ですからイエス様は、だれにも話さず、祭司に見せなさいと命じられたのです。
 ルカ4:40に「イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。」とありました。この一人ひとりにというのは、このツァラアトに冒された人に向き合われたように丁寧に向き合い、その人にとっての最善を施されるということです。そして、イエス様はそのように私たちにも向き合われると言うのです。私たちの置かれた状況に寄り添い、必要な御言葉を語られ、行くべき道を備えてくださる。私たちを見ていてくださる方なのです。ですから私たちは隣の兄弟姉妹を見て、主の取り扱いを比べる必要はありません。主はみんな同じには扱いません。それはある意味平等とは言えないかもしれません。けれど、主と私の関係の中でイエス様は私にとっての最善を用意してくださるのです。

201101 ルカ5:1-11 「おことばですので」

ルカ5:1-11 「おことばですので」

 ガリラヤ湖で漁を終えて網を片付けていたペテロに、イエス様は舟を出すように依頼し、そして湖の上から群衆に教えられます。そして、その湖上の集会が終わると、イエス様は「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」とペテロに命じるのです。イエス様に舟を出すように声をかけられたとき、ペテロは網を洗って、片付をしておりました。実は彼らは夜通し漁をしていたのです。しかも、その夜は魚が獲れなかったのです。つまり、彼は何の達成感もなく、疲れ切っていたのです。ですから、そもそもイエス様に舟を出して欲しいと声をかけられたとき、ペテロとしては喜んで出すという気持ちではなかったと思うのです。ほんとは一刻も早く帰って布団につきたい。水浴びをしたい。嫌なことは忘れてしまいたい。そういう気持ちでいたことでしょう。けれど、イエス様に頼まれては仕方ない。疲れた身体に鞭打って、舟を漕ぎだしたのだと思うのです。
 ペテロはイエス様を慕っておりました。心から尊敬しておりました。これに先立って、イエス様はペテロの姑をことば一つで癒してくださいました。日が暮れてからは、大勢の病人たちがイエス様のもとに駆けつけましたが、その一人ひとりに手を置いて、嫌な顔一つせず癒し続けられました。ペテロはその一部始終を間近に見ていました。そして感動したことでした。ですから、ペテロは本当にもう疲れ切っていたんですけれども、他ならぬイエス様の頼みなら断るわけにはいかないと、舟を漕ぎだしたのです。決して積極的だったわけではありません。ですから、イエス様のお話が終わった時、どこか解放される思いと言いましょうか、やっと終わった。これで家に帰れる。という気持ちだったと思うです。
 ところが、話を終えたイエス様はペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられるのです。ちょっと待ってください。それはないです。という場面ではないでしょうか。ペテロはイエス様の素晴らしさは知っております。素晴らしいお話もいろいろな癒しも経験しました。けれど、こと魚をとることに関してペテロは専門家なのです。その専門家のペテロがすでに夜通し漁をして一匹も獲れなかったのです。なぜ夜通しなのかと言うと、普通昼の間、魚は湖の底にいて獲れないからです。だからわざわざ日が明ける前から漁に出るのです。イエス様は素人だからわからないでしょうが、こんな日中に網を下ろすなんて意味ないですよ!と、思わず言いたくなるような場面なのです。もうヘトヘトなのです。疲れているのです。けれどペテロは今、イエス様のことばを聞いて答えます。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
 これは凄いことだなぁと思うのです。言いたいことはいっぱいあるのです。決して喜んでとか、積極的というわけではありません。こんなの意味ないのに。仕事が増えるだけなのに。けれど、それでも尚、「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と応じることはなかなかできることではありません。これは決して信仰のゆえということではないでしょう。義理人情の話でしょう。けれど、彼はイエス様のことばに応えて、網を下ろした。行動した。ここに意味があるのです。結果、驚くべきものとなりました。ペテロがその通りにしますと、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになります。仲間の船に助けを呼びますが、二艘とも沈みそうなくらいに大漁となったのです。
 この大漁は、ペテロの信仰のゆえではありません。祈りの結果だとか、経験がなせる業でもありません。もしペテロが漁の経験のない素人であったとしても、この場面で網を下ろせば大漁となったのです。なぜならそこに大量の魚がいたからです。イエス様が教えてくださったがゆえです。つまりイエス様がおっしゃることばは、根拠のない思い付きのことばではなくて、そこには確かな実態がある。力がある。イエス様のことばこそが事実なのです。
 このような経緯があって、イエス様はペテロに言います。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」ペテロは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従ったのです。なぜなら彼はイエス様のことばの力を知ったからです。イエス様がそのようになると言えば、そうなるのです。そこには私たちの知恵や経験や感情が左右する要素は一つも無いのです。人間を捕るようになるなんて、畏れ多いことです。目の前にいる人を救ってやろうなんて、とてもじゃないけれども言えることではありません。けれど、それでもイエス様が「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と言われるなら、そうなのです。こんな弱くて、いい加減で、卑屈な者であっても、主は用いられるのです。そこに魚はいるとおっしゃられるのです。

201025 ルカ4:42-44 「ほかの町々にも」

ルカ4:42-44 「ほかの町々にも」

 安息日にイエス様はカペナウムの会堂で話され、日が暮れてからは、駆けつけた大勢の病人に手を置いて癒されます。けれど夜が明けて朝になりますと話は一転します。イエス様は一人寂しいところに出て行かれるのです。この朝も人々は押し寄せたと思うのです。カペナウムの町は会堂での教えと病が癒された人々の噂で持ちきりでした。カペナウムの人々は興奮してこの夜を過ごしました。ですから安息日が明けるのを待って多くの人がイエス様のもとに駆けつけたように、夜が明けるのを待って皆がイエス様のもとに駆け付けることは誰もが予想できたことです。にも関わらず、イエス様は寂しいところに出て行かれたのです。イエス様はたとえご自身を必要とする人々から離れてでも、一人になる時間を大事になさるのです。
 クリスチャンである私たちは、祈りの時間が大事だと言うことはとてもよく知っています。けれど知ってはいるけれど、なかなかその時間が持てない。なかなかその余裕がない。だからこそです。大事なのは、その慌ただしい日常から離れること。敢えて寂しいところに出ていくということではないでしょうか。テスト勉強がしたいなら図書館に行くべきです。テレビがあって、おもちゃがあって、手を伸ばせば漫画の本がずらりと並んでいる部屋で、勉強をするというのは簡単なことではありません。ならばいっそのこと、そういう誘惑からは離れたほうが良いのです。信仰においても同じです。人々に関わることは大事です。奉仕も、仕事も、どれも大事。けれど、それら一切は神との交わりを抜きにしてはあり得ません。どれだけ大切に思えることも、必要なことも、それが神を後回しにさせるとすれば、私たちは思い切ってそれらから離れる必要があるのです。
 イエス様は人々を置いて、一人寂しいところに出て行かれました。人々に関わることはイエス様の使命です。地上に来られたイエス様の責任です。けれどだからこそです。イエス様はそこから離れる時間を大事にされました。イエス様は救い主である前に神の子だからです。私たちも同じです。日本人である前に、社会人である前に、親であり子であり、夫であり妻である前に、私たちは神に造られたひとりの人間であり、主イエスの贖いの恵みにあずかったひとりのキリスト者です。私たちはあらゆる肩書と責任と関係を置いて主の前にひとりひざまずくとき、初めて本当の自分を取り戻すことができるのです。そして信仰生活とはまさにここから始めるべきなのです。
 さて、イエス様がいないことを知った群衆は、イエス様を血眼になって探します。そしてイエス様を見つけると、「自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうと」いたしました。彼らはイエス様の教えに感動し、イエス様の奇跡に驚きました。彼らは確かにイエス様が只者ではないことを悟りました。だからこそ、イエス様にカペナウムに留まって欲しいと思いました。けれど、それはイエス様という方を何も理解していません。
 イエス様は言われます。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」注目すべきは、イエス様は人々を癒すために来たのでは無いということです。福音を宣べ伝えるために来たのです。人々はイエス様に奇跡という利益を求めます。けれど、奇跡はあくまでも神の国の福音を信じるための手段なのです。福音を信じることができるなら、目に見える奇跡はもう必要ないのです。今、カペナウムの町では驚くべき癒やしの奇跡がなされ、人々はイエス様が只ならぬお方であることを悟りました。そして、その御方が会堂で語られた教えが話題となって広まっていきました。人々が福音を受け入れる土壌が出来ています。ならば、イエス様はそこに留まる理由はありません。福音を語るべき地はまだまだあるのです。そもそもの話、イエス様が宣教の使命を置いて留まるお方なら、イエス様はカペナウムには来ていません。イエス様は留まらないからこそ、カペナウムに来られたのです。そのイエス様をカペナウムに留めようとすることは、本末転倒です。それはイエス様の御心をまるで理解していません。
 イエス様と離れたくない。彼らのその思いはある意味で当然です。けれど、そのためにイエス様を引き留めることは、イエス様の御心には適いません。もし私たちがイエス様と離れたくないと思うなら、イエス様を私のもとに引き留めるのではなくて、私たちもまた神の使命に生きればいいのです。私たちがその使命をイエス様と共有する時、私たちはイエス様と共にあるのです。

201018 ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

 カペナウムの会堂で悪霊を追い出されたイエス様は、その足でシモン・ペテロとアンデレの家に入られて、そこで二人のしゅうとめの熱病を癒されました。そして、日が暮れると、多くの人々が病人を連れてきましたので、そのひとりひとりに手を置いて癒され、また悪霊を追い出されたことでした。ここで「日が暮れると・・・病人を連れて来た」とありますのは、この日が安息日だったということが背景にあります。当時の日の数え方は、日が暮れるときに一日が終わると考えられていました。つまり安息日が終わったので人々は沢山の病人を連れて来た。ということです。みんな安息日が終わるのをまだかまだかと待っていたのです。早くイエス様のところに連れて行きたくて仕方なかったんです。けれど安息日なので会堂以外の外出を控えざるを得なかったわけです。さらに言えば、これは安息日の出来事ですから、安息日でない日はと言いますと、人々は一日中イエス様の前に列をなしたのです。そして、そのように自分を頼ってやって来る人々を、イエス様は一人ひとり手を置いて癒されるのです。
 39節にペテロのしゅうとめの熱を𠮟りつけて治されるイエス様が記されています。また41節にも悪霊どもを𠮟りつけて追い出されるイエス様の様子が記されています。イエス様はことば一つで癒しのわざをなされる権威あるお方です。けれど、そのイエス様は病気で弱っている者を前に、わざわざ一人ひとりに手を置いて癒されるのです。
 お医者さんの中には、触診もせず、症状もろくに聞かず、カルテとレントゲン写真だけを見て診察する方もいたりします。たくさんの患者を診てきているベテランのお医者さんなら、きっとそれでも間違いない診断ができるのだと思います。毎日何百人と患者を診ていれば、少しでも効率よくと考えるかも知れません。けれど患者の身から言わせると、やっぱりよく聞いて、よく見てくれるお医者さんでいて欲しいのです。病気だけじゃなくて、私を見てほしいとこう思うわけです。診断結果はどちらも同じかもしれません。けれど、それを受け止める側の気持ちは変わってきます。この先生が言うことなら間違いない。そう思えるのは、医者としてだけじゃなく、人として信頼できる先生だからです。
 癒しということだけを考えれば、イエス様はもっと効率よく癒すこともできたと思うのです。自分のもとにやって来た病人たちを、ことば一つで一斉に癒すこともできるのです。けれど、イエス様が望まれるのはその人の病の癒しではありません。その人との関係の回復です。神からの恵みに触れて、その人が心から神に感謝し、ひざまずくことです。イエス様はある時10人のツァラアトの病人を同時に癒されました。彼らが遠く離れたところから叫んで癒しを乞うたからです。けれど、この癒しに感謝してイエス様のもとに駆けつけたのはたったの一人だけでした。病の癒しは必ずしもイエス様への信仰とは結び付かないのです。けれど、イエス様が望まれるのはむしろそのところです。その者がまことの信仰を取り戻すために、もし癒しが必要なら主は癒しを施されるのです。ですから、イエス様は一人ひとりと向き合われます。わざわざ時間を取って、一人ひとりと向き合い、話を聞き、その手を置かれるのです。ここで言う手を置くというのは、つまり、一人ひとりに相応しく関わるということです。ペテロのしゅうとめには手を置かず言葉一つで癒されました。それはペテロのしゅうとめを粗略に扱ったということではありません。ある盲人には泥を塗って池の水で洗えと言われました。38年も寝たきりでいた病人には「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じました。いえ、パウロに至っては、私から去らせてくださいと三度願った肉体の棘は遂に取られず、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と語られるのみでした。けれど、それらは全て、一人ひとりに手を置かれたということだと思うのです。私たちは皆顔が違うように、信仰を妨げる要因も違います。ある人は病のゆえに神を呪い、ある人は病のゆえに神を賛美します。イエス様はそれらを一緒くたにして、扱うことはいたしません。それぞれの置かれた環境、状況、立場、全てをご存じでいて、尚も一人ひとりと向き合ってくださるお方です。私個人を見てくださるお方なのです。