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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200705 ルカ2:1-7 「図らずも主のご計画」

200705 ルカ2:1-7 「図らずも主のご計画」

 神の御子であるイエス様が人としてお生まれになる。さぞかし豪華で綺羅びやかな誕生かと期待して読み進めてまいりますと、聖書は予想外の展開を見せます。あろうことか、お生まれになったイエス様は飼葉桶に寝かされたというのです。なぜこんなことになっているのでしょうか。そんなにもヨセフとマリアは貧しかったのでしょうか。そうではありません。丁度その頃ユダヤでは、ローマ皇帝の勅令による人口調査がなされ、人々は登録のためにそれぞれの本籍地に戻らなければならなかったからです。
 ヨセフはダビデの町ベツレヘム出身でした。マリアの出身地も同じであったのかはわかりませんが、共に旅をするのですから、この時二人は正式に結婚していたのだろうと思われます。ヨセフは結婚を早めることでマリアを守っていたのです。それにしても、身重のマリアも一緒に旅をする必要があったのかと不思議に思います。登録は家長が代表してすれば済むからです。それでもマリアを連れて行くのは、身重で旅をする危険よりも、マリアを一人ナザレに置いて行くことに不安を感じたからです。一緒に旅をするという決意の裏には、そうせざるを得ない現実があったのです。
 さて旅の道中、立ち寄る町々で宿を取ることも難しい状況があったと思います。ベツレヘムに着いてからは尚のことでありました。町は人ごみで溢れかえり、宿屋は登録のために帰省した人々でいっぱいでありました。登録待ちの人々は延々と列を成し、それは一日や二日では到底収まる気配を見せません。仕方が無い。せめて雨露が防げるようにと、ヨセフとマリアは家畜小屋の隅に寝床を陣取り、本腰を入れて登録のための順番を待つこととなったわけです。けれど、待てども待てども順番が来ない。そうこうしている内に、マリアは月が満ち、その家畜小屋の中、男子の初子を産んだのです。
 つまりこの出産は図らずのものだったのです。本当だったら、住み慣れた我が家で、綺麗な産着を着せて、ふかふかのベッドに横たえたかったと思うのです。我が子の出産には、色んな夢があったと思うのです。けれど、そういう計画は皇帝のたった一言で全てご破算にされたのです。彼らの存在は吹けば飛ぶような小さなものです。けれど神は、そういう意図せぬ計画、不本意な決断すらも、最善へと導かれ、この日を迎えてくださるのです。イエス様はナザレではなくて、ベツレヘムで産まれる必要があったのです。家畜小屋で生まれる必要があった。飼い葉桶に寝かされる必要があった。そのためには、皇帝の住民登録の号令が必要だったのです。私たちの人生の計画を遮るような出来事がときとしてあります。けれど、それすらもが神のご計画の内に組み込まれているのです。
 私たちの毎日は慌てることばかりです。思い通りに行かないことに苛立ちと反省ばっかりです。今年の初め、誰がこのような状況になると想像ができたでしょう。こんな一年にしたい。と様々に建てた計画は、もう遠い遠いはるか昔の出来事です。わずか半年の間で、世界は一変してしまいました。けれど、だからと言って絶望する必要はありません。私たちの計画はならずとも、神のご計画はなるからです。そして私たちはそれこそが神の最善であることを知っているからです。権力者の一言で、生活が右往左往するのは今も昔も変わりません。けれど、それすらも神のご計画の範疇です。ですから私たちにできるのは、主の導きを疑わず、その日その日を精一杯生きるのみです。先の事はわかりませんし、何が正解かはわかりません。けれど私たちは今この瞬間を生かされています。私たちはただただ今日という日を主の目に恥じぬようにと過ごすのです。
 私たちがそこに意味を見出すのは後に振り返ってからで良いのです。イエス様の誕生でヨセフとマリアの思い通りになったことなど一つもありません。けれど、予期せぬ出来事は何一つ不必要なことは無く、神の最善へと落ち着くのです。わからなくてもいいのです。信頼すればいい。私たちの人生においても、神のご計画は確かになるのです。

200628 ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

200628 ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

 さて、ユダヤでは産まれて8日目に割礼を施すわけですが、その時、ザカリヤとエリサベツの子に名前は付いていませんでした。人々は「父の名にちなんでザカリヤと名付けよう」と騒ぎます。と言いますのも、当時のユダヤでは長男の名にはその家系に縁のある名前を付けるのが一般的だったようなのです。なぜなら長男の名付けには単なる呼び名とは別に、家系を引き継ぐという意味合いもあるからです。ですから身近な人たちは、この子が正真正銘ザカリヤの子であり、その財産も、祭司としての職務も、家長としての責任も、一切合切を引き継ぐべき一人息子だという期待と証明の意を込めて、今ザカリヤの名前を挙げたわけです。
 ところが、エリサベツは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と断ります。ヨハネという名はザカリヤの家系にはこれまで無かったようです。ですから周りの人々は何かの間違いかと驚きまして、今度は父であるザカリヤに尋ねます。すると、ザカリヤは板を持って来させて「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はやっぱり間違いではなかったのかと再び驚いたのです。
 ザカリヤとエリサベツが我が子に縁もゆかりもない名前を付けるというのは、この子の生涯に、自分たちの人生を押し付けない。そうではなくて、特別な使命にこの子を送り出そうとする親の決意のようなものが見て取れます。待ちに待って、ようやく与えられた子ですから、片時も自分の側に置いてこの子の成長を見守りたいはずです。一族の名を付けて、一族の誇りを持って、祭司としての職務を継がせて、手取り足取り教えてやりたい。けれど老夫婦はそうではなくて、この子に付けるようにと授けられた特別な名を付けます。それはこの子の人生が、神によって特別に選ばれたものであると承知しているからです。
 ガブリエルは言いました。「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」主に先立って歩む者。主のために整えられた民を用意する者。それがこの子の担う使命です。そしてこのことは、マリアとそのお腹にいる赤ん坊と出会ったあの時、確信へと変わったのです。その時エリサベツは体内で踊る我が子の特別な胎動を感じます。救い主の誕生を肌身に知ったのです。ですから、我が子に「ヨハネ」と名付ける。それはもはや祭司ザカリヤの家系に縛らない、このヨハネの名の下に担う神からの特別の使命。主のために、整えられた民を用意する者として、この子を世に送り出すという親としての並々ならぬ決意があるのです。
 更に言うなら、ここには自分たちはこの子の生涯を見届けられないという二人の覚悟があるように思います。自分たちは年老いて、もはやこの子の生涯を見守ってやれない。責任が取れない。我が子の可愛さを思うほどに、そういう現実が重くのしかかってきます。だからこそ、ザカリヤは生まれてくる我が子に進むべき指針を授けているのです。
 ザカリヤの預言は、救いの計画と成就に挟まれる形で、救いの道を備え、民を整える預言者の使命について語っています。つまり神の救いのご計画の中に位置づけられた我が子ヨハネの使命についてです。ザカリヤはここでヨハネの使命を数えることで、見届けることのできない我が子に進むべき指針を授けているのです。ヨハネの今後の人生に自分たちは寄り添ってやれない。抱きしめてやれない。自分たちが亡くなればヨハネは一人で生きていかなければならない。けれど、主の使命に励む時、そこにあなたの生きる意味がある。主の確かな守りがある。ザカリヤには確信があります。苦悩に満ちた自分たちの人生において、主の使命こそが拠り所だったからです。ですからザカリヤは生まれたばかりのわが子に、神の使命の内に生きよ。と言葉を残すのです。
 このザカリヤの親心はわかるような気がします。私たちもまた、子の生涯を見届けることは叶いません。親が子に先立つ。親の世代が子の世代よりも先立つ。これは自然です。けれど、だから何の心残りもなく先立てるかというと、それは別です。やっぱり残される者が心配です。子どもたちには迷いのない確信に満ちた人生を送ってほしいと願うのです。ですから親として、先に生きた者として、少しだけアドバイスをするならば、神の使命に生きよ。と言うことです。よく「自分の人生を生きる。」と言います。けれど、自分の人生ではありません。神の使命に生きるのです。その時、その人の人生は神にあって意味のある確かなものとされるのです。

200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

 24、25節を見ますと当時不妊というのが恥とされていたこと。そして、そういう偏見にエリサベツ自身が大変心痛めていたことがよくわかります。「五か月の間、安静にしていた。」とありますのは、第3版では「引きこもって」と訳されていた言葉です。年老いた身で子を授かったのですから、安定期に入るまでの間人一倍気を遣っていたということを言っているのでしょうが、それと同時に、年老いた身の妊娠を揶揄するような声を避けようとしたということでもあったのではないか。興味本位で無責任な噂が飛び交っていたと思うのです。老女の妊娠は人々の好奇心をあおる、格好のネタです。この妊娠を訝しがる人はいても、祝福してくれる人はおりません。エリサベツは5か月もの間引きこもらざるを得なかったのです。この後、彼女の引きこもりは解かれるわけですが、それは安定期が終わったからではなくて、彼女の親類のマリアの訪問によってでありました。
 一方、マリアです。御使いガブリエルによって妊娠を告知された彼女は、最初戸惑い、恐れるも、やがて、そのことを受け入れて告白します。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」しかし、じゃあ、彼女は一切のことに安心したかというと、そうはなりません。マリアは身に起こる変化に、神のご介入を確信します。主が共におられる。そこに疑いはありません。けれど、だからと言って、人々のあらぬ言動や、好奇の目に傷付かないかと言いますと、決してそんなことはありません。何と言っても、マリアはまだ12歳そこそこの少女なのです。このことは、いずれ隠しておけなくなります。お腹が大きくなっていくのを止める術は無いのです。きっとあらぬ噂が飛び交うでしょう。そしてその矛先は自分だけでなく、両親や婚約者のヨセフにまで及ぶでしょう。先を思うと不安しかありません。彼女は居ても経ってもおられずに、村を出ます。彼女は御使いガブリエルが告げたエリサベツのもとに向ったのです。急いで向かったのです。一刻もはやくエリサベツに会いたかった。なぜなら、エリサベツだけは、マリアの身に起こった全てを理解してくれるだろうからです。エリサベツもまた、神の不思議を体験しているその人だからです。
 マリアは自分の身に起きたことをどうやって話そうかと迷っていたと思います。けれどエリサベツはマリアがあれこれと説明するまでもなく、状況を把握したのです。そして、マリアを祝福します。マリアはマリアで、エリサベツの体の変化に神の取扱いの不思議と確かさを見ます。そして、何より誰にも言えず一人抱えるしか無い事を、初めて他人の口から祝福されて、わが身に起きた不思議を神の幸いとして改めて実感するのです。
 同じ立場に置かれた二人だからこそ、二人は互いの支えとなりました。その痛みも悲しみも戸惑いも喜びも自らと重ね合わせる二人だからです。マリアが一方的に慰められたのではありません。エリサベツもまたマリアの存在に、自らがこの歳になるまで不妊であったことの意味、自分の人生を用いて働かれる神のご計画を見ます。心の底からわかり会える二人。大きな使命を背負うために、二人にはまずこの交わりが必要だったのです。
 私たちにも必要です。マリアにとってエリサベツが、エリサベツにとってマリアが、喜びも不安も分け合う唯一無二の存在だったように、私たちにもありのままにさらけ出し、不安も怒りも喜びも丸ごとを認め合える仲間が必要です。私たちは一人で抱えきれるほど強くはありません。私たちは支え合うことでのみ生きて行けるのです。かと言って、誰も彼もと心を通わすこともまた難しい。この世の中は弱さに付け込む世界だからです。本当の意味で安心し共有し合える関係は、信仰の交わりにしかありません。なぜなら真の交わりは、私たちは赦された罪人に過ぎないという前提によって築かれるからです。ですからそれは、まず私がプライドを脱ぐところから始めなければなりません。私は罪人に過ぎないと告白することから始めなければなりません。互いが自らの弱さを認めている。この前提のもとにあって初めて、私たちは心の内側をさらけ出すことができるからです。

200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

 イエス様のもとに大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がやって来たので、イエス様はたとえを用いて話された。とあります。蒔いた種が落ちた地によって、4つの異なる結果となった。という話。
① 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
② 岩の上に落ちた種は、生長したが、水分が無くて枯れてしまった。
③ いばらの真中に落ちた種は、茨も一緒に生え出て、ふさいでしまった。
④ 良い地に落ちた種は、生長して100倍の実を結んだ。
 そして結論的に言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 話の内容から結論が突飛しているように聞こえますが、それはこれが例え話だからです。イエス様は種とは神の言葉だと明かされます。神の言葉の話だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。」となるのです。では、どういう意味でしょうか。
① 道端のように無造作に、興味も無く聞き流した神の言葉は、その人の内に根付くことなく、悪魔が来て取り去ってしまう。
② 岩のように頑な心では、その時は喜んで受け入れるけれど、根が無いので長続きすることはない。何か辛いことがあるとすぐに投げ出してしまう。
③ 茨が生い茂る心とは、二心のある心。時が経つにつれ、生活の思い煩いや、富や、快楽に関心が向き、御言葉の実を熟すことは無い。
④ 耕され、十分に備えられた心では、神の言葉がしっかりと根を付け、多くの実を結ぶこととなる。
 種には違いはありません。実際の種蒔きなら、種の状態にも違いがあります。けれど、神の言葉に変わりはありません。変わるのは、神の言葉が落ちる先。聞く者の心です。ですから、群衆に対してイエス様の語る例えの意味するところは、整えられた心で、素直に、神の言葉を聞き入れなさい。という奨励です。今、イエス様のもとに集まり、イエス様が語られる言葉に耳を傾ける群衆たち。けれど、その聞き様は様々です。踏み固められた道端のように心を頑なにし、まったく受け入れようとしない者もいたでしょう。うわさのイエス様を前に興奮して聞くけれど、一向に自分のこととして聞こうとしない、ノリや雰囲気で集っているだけの者もいたでしょう。懸命に、真面目に聞いて、それが大切だと知るけれども、他のものも捨てきれない。どっちつかずで、二心の者もいる。
 けれど、大事なのは、まず耕し、うねを設け、肥料を蒔き、土を作ること。御言葉に聞くその前に、心を頑なにせず、よくよく心を耕して、聞く備えをする、土を作ることが大事なんですよ。とこう言っているわけです。だから「聞く耳のある者は聞きなさい。」という結論に至るのです。
 けれど、このことは一方では、御言葉がその人の祝福となって実を結ぶかどうかは、これを聞くその人次第なんだということでもあります。弟子たちにだけ解き明かしがなされるのは、語る側にだけ向けた別のメッセージがあるわけです。実が結ばれるかどうかは、語る者の責任ではないんだ。と教えてもいるのです。どんなに素晴らしい教えであっても、どんなに熱心に語ろうと、それを聞く者の心によっては、枯れもすれば、実を結びもする。だから、あなたたちに求めているのは、ともかく蒔くことだとおっしゃるのです。どんなに正しくても、頑張っても、結果が出ないことはあるのです。それは聞く者が心を頑なにしている時です。いい加減に聞き流している時です。必要を感じていない時です。聞く耳のない者の結果まで負う必要はないですよ。と言われるのです。これは逆に言うと、実を結ぶのもあなたの手柄ではないよということでもあります。御言葉を聞くか聞かないかはその人が自ら選び決断すべきことです。私たちが救うのではありません。主の御言葉がその人の内に留まる時、その人は救われるのです。だから私たちが負うべき責任は種を蒔くことにこそあるのです。
 Ⅱテモテ4:2-5が大事です。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」

200614 ルカ1:46-56 「幸いな者と呼ぶでしょう」

200614 ルカ1:46-56 「幸いな者と呼ぶでしょう」

 マリアは言います。「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」そしてその理由を「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」と述べています。力ある方が私に大きなことをしてくださったから、人々は私を幸いな者と呼ぶでしょう、とです。大きなこと。つまり、救い主の母とされたとか、処女降誕を成し遂げるとか、神の尊い器とされるだとか、そういう大きな事をしてくださったっから、人々は私を幸いな者と呼ぶと言うのです。そして私が生むその方は、権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げる方であり、飢えた者と富む者を逆転させ、あわれみをいつまでも忘れること無く、そのしもべイスラエルを助けてくださる方である。そのお方のお名前はいつまでも尊く、そのお方のあわれみは代々主を恐れる者たちにまで及ぶ。だからこのお方の偉大さのゆえに、後の人々は私を幸せ者と呼ぶでしょう、と告白するのです。
 そして事実、後の世の人々は主イエスを知れば知るほどに、その母マリアの恵みを数えます。この偉大な奇跡の器として用いられたマリアを称えます。救い主の母となったマリアを、後の時代の人々は聖母マリアと呼びまして、神格化していくのです。1962~1965年に行われた第2バチカン会議の『教会憲章』では、「神の恵みにより、キリストの諸神秘に関わった聖なる母として全ての天使と人間の上に高められたマリアが、特別な崇敬をもって教会から讃えられる事は当然である。」と記されています。驚くべきことにマリアには、天使と人間の上の地位が宛がわれているのです。歴史上の誰もが彼女より幸せな者は他にはいないと言ったことでした。そしてそれはある意味で事実なのです。マリアが素晴らしいのではありません。素晴らしいのはマリアの宿した神の御子です。これは全く持ってその通りです。マリアが特別信仰深かったとか、美しかったとか、資産家だったとか、努力家だったとか、そういうことではありません。御子の誕生に用いられたという一点で、マリアは他の誰とも違う特別の評価を後世から受けることとなったのです。
 けれどです。それは人々の評価です。当の彼女が聖母と呼ばれることを期待したとはとても思えません。マリアは何を幸せと思ったか。それは「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。」と、この一点にあるのです。彼女は、自分の身に宿ったいのちが特別の神の御子だったから神に喜んだのではなくて、神が目を留めてくださった。卑しいはしために過ぎないこんな私に、神は関心を寄せてくださった。だから彼女は自らを幸せ者と告白しているのです。
 私たちも同じではないでしょうか。マリアが喜び、私たちが心から望むのは、肩書きを外した私を認めてもらうことではないでしょうか。世の中はいつも私たちの肩書きを求めます。私たちは多くの場面で、様々な仮面を被って生きることを強要されます。相手にとって価値のある私。そうでなければ、誰も私に見向きもしてくれない。だから必死に自分を装うのです。けれど、そこには本当の意味での信頼関係はありません。そこにあるのは条件付きの関係です。あなたが私の役に立つなら友達でいてあげますよ。あなたが私にとって得なら私はあなたを愛しますよ。けれど、そういった関係に私たちは決して満足することはできません。それは私でなくても構わない関係です。私が期待に応えられなくなれば立ちどころに消えてしまう関係です。それでも、そこにすがるのは、一人になると余計に惨めに感じるからです。ですから、私たちはその偽りの関係を失わないために、必死になって笑顔を作ります。まるで涙を隠して笑いおどけるピエロような人生を送り続けるのです。けれど、そのような毎日に疲れないはずはありません。装うほどに、自分自身が自分を許せなくなってきます。偽りの自分が嫌になります。私たちは素顔の自分を受け入れてほしいと願いつつも、仮面を付けずにはいられない自己矛盾の塊なのです。
 ナザレの片田舎で、マリアという少女に目を留めていた人がフィアンセのヨセフの他にいったい何人いたでしょう。どこにでもいるような少女のマリア。けれど主はそんな彼女に目を留められた。全世界の造り主なる方が目を留められる。この恵みは決してマリアだけのものではありません。それは私たちにも向けられています。主はご覧になっておられます。主はこんなはしために過ぎない私にも目を留めてくださるお方なのです。このお方と出会うなら、皆さまもまた幸せ者です。聖母マリアの得た祝福は私たちのものでもあるのです。