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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230917 ルカ20:45-47 「天よりの評価を」

ルカ20:45-47 「天よりの評価を」

 「彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで」とあります。いったいこれの何が悪いんでしょう?私たちからすると何を来て歩き回ろうと構わないように思います。けれど彼らの着る長い衣というのは正装のことで、彼らの制服のようなものです。つまり彼らはそれを見せびらかすように着て、人々の目に留まるように歩き回るのです。彼らが正装で歩けばそりゃ「先生こんにちは」と皆が挨拶をするでしょう。それ自体は悪いことではありません。むしろ、人々から尊敬される人物であるというのは大変素晴らしいことです。しかし、これを自分から仕向けるのでは値打ちも無くなるというものです。言わずに尊敬されるというのが本物でありまして、わざわざ自分は律法学者ですよ。先生様がここにいますよ、と人の目に映るようにアピールするというのは何とも情けないわけです。けれど、彼らは、これ見よがしに長衣を着て、人々が集まる広場へと出て行くのです。
 また「会堂の上席、宴会の上座を好みます。」とあります。会堂というのは公的な場。宴会というのは私的な場。つまり生活のあらゆる場面で上席上座を好むと言うことです。それは単に座る場所のことだけを言っているのではなくて、その待遇を好むということです。例えば、宴会の席に上座下座があるとします。宴会を催す主人は当然、上座の客から挨拶に来るわけです。料理だって上座の近くには上等なおかずが並びます。下座、末端の席に付きますと、主人と声を交わすことすらままならないわけです。律法学者たちはそういう待遇は耐えられないのです。彼らの中には当然のヒエラルキーがあって、律法学者である自分は上座が当たり前と考えていたわけです。言い換えますと、他の者達は自分より劣っている。下座に控えるべきだと考えていたということです。
 「やもめの家を食い尽くし、」ともあります。弱った人、困っている人を助けるのではなくて、食い扶持にしていたのです。また、「見栄を張って長く祈ります。」ともあります。なぜなら、その方が信仰熱心に見えるからです。彼らの祈りはちっとも神様に向けられてないのです。彼らの意識は常に人の目に、そして自分自身に向けられています。
 そして、このような律法学者たちを指しまして、イエス様は「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」とおっしゃられるのです。
 律法学者たちの生活態度。それは一言で言うならば「偽善」ということができるでしょう。表面だけを飾り立てて中身の伴わない信仰。イエス様は律法学者たちの見せ掛けの信仰を警告しておられるのです。けれどです。だから、彼らの言葉に惑わされないように。彼らに近づかないように。と言うことでしょうか。もちろん、そういう意味もあるでしょう。けれど、これを単に律法学者の問題として遠ざけるだけでは、本当の意味で、イエス様の意図されるところでは無いように思います。それなら、律法学者に直接言えば良いのです。これまでも散々議論をしてきたのです。でもイエス様は今、弟子たちに、そして周りにいる人々に向かって語っています。それはつまり、あなたたちもそのようになってはいけません。という警告でもある。もちろん私たちにもです。
 なぜ、他人に見栄を張るのでしょうか。もちろんそれは相手に少しでも良く見られたいからです。良い評価を得たいからです。そのように繕っておかないと、他人にどう思われているのか自信が無いからです。他人の評価が気になる。それはつまり、私たちが相対的な評価にどっぷり浸かっていることを意味しています。人と比べることでしか自分の価値を見いだせないでいるのです。だから他人の評価に振り回されるのです。
 私たちは、ことの本質を見ておられる神様を忘れてはいけません。見えるところだけを繕っても駄目なのです。どれだけ評価を集めようと、もっと優れた人が来ればその評価は覆るのです。神様を見上げることです。神様は私たちの見えるところではなく、見えないところを見てくださるのです。見返りは天から来るのです。それは天に宝を積んでいる行為なのです。天の神様は見ておられる。たとえ人の評価が無くとも、誰に知られずとも、そこには意味があるのです。ですから、私たちはイエス様の言葉を自分自身への訓戒とするとともに、善を行うことの後押しとしたいと思います。見えないところでこそ正しく振る舞う者となる秘訣は、見えないところを見ておられる方に思いを向けることです。私たちは天の神を見上げる時、見えない罪に思いとどまることができるのです。

230910 ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」

ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」

 ダビデ自身が「私の主」と告白するのですから、救い主がダビデの子のはずがない。これはそのままであります。「ダビデの子」を文字通り取れば、それはソロモンのことになります。けれど律法学者たちもまさかソロモンが救い主だとは思っていません。「ダビデの子」を大きくとらえれば、それはダビデの子孫たち。つまりダビデの家系という意味です。律法学者たちが「キリストをダビデの子」と言うのは、救い主がダビデの家系から出るという意味なのです。
 イエス様はこれを否定しているわけではありません。それは聖書でもしばしば預言されてきたことですし、事実イエス様はダビデの家系なのです。ですからイエス様が否定するのは、ダビデの子孫から救い主が出るということではなくて、人々が「ダビデの子」と呼ぶときに含まれる救い主のイメージ。これを否定するのです。つまり彼らが救い主を「ダビデの子」と呼ぶ時、そこにはダビデ王の再来のイメージ。イスラエルの最も輝かしい時代を築いたダビデの王国の復興を願う気持ちが込められていたのです。民衆たちにこのような救世主観を教えていたのは他ならぬ律法学者です。特にパリサイ派の律法学者たち。彼らは神の民であるイスラエルが異教国家ローマに支配されているというこの現実を耐え難い思いで耐えておりました。彼らの願うところは、ダビデ王国のような、神を中心とした信仰ある王による国の統治。それこそが彼らの願いだったわけです。イエス様はここで、このような律法学者たちの教えを否定しているのです。
 ダビデ自身が「私の主」と告白しているのに、主がダビデの子孫のはずはないではないか。単純ですが、それだけに反論の仕様のない指摘でした。ここでイエス様は、では具体的に救い主がどのようなお方なのか、どのような王国を確立されるのかについては語っておられません。一つだけ語られるのは、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるということでした。つまり人々の最も尊敬するダビデ。そのダビデを遥かに凌駕する救い主が来られるということを語っているのです。ダビデの王国は確かに素晴らしいものでした。しかし、救い主はダビデの王国を復興するために来るのではありません。新しい神の国を確立するために来られるのです。それは、地上的な、政治的な方法で人々を解放するということではなくて、人々を永遠の問題から解放するということ。人類の敵である死を打ち滅ぼし、サタンをも平伏させるお方が来られるということです。そしてその方こそがイエス・キリストに他なりません。
 では、私たちが本日の話から、学び、気をつけなければならないことはなんでしょう。一つは、イエス様が仰るとおり。主の前には誰も並ぶ者はいないということです。ダビデは確かに偉大な指導者です。ダビデ王国は最も輝かしい歴史です。しかし、ダビデ自身が告白しています。主はそれとは比べようのない偉大な方であり、新しい王国は地上のそれとは比較にならないくらい素晴らしいものなのです。罪の始まりが、人が神に取って代わることだったからもわかるように、私たちはすぐに自分を神と並べてしまう者です。けれど、主に並ぶべき者は誰もいないのです。
 そして、もう一つ。それは神の御声を聞くことの大事です。律法学者が旧約の預言をダビデ王国の復興としか読めなかったのはなぜでしょうか。それは、そこに彼らの願望があったからです。神の御心ではなくて、自分たちの願いを御言葉に読み取った。だから謝った救い主信仰が生まれたのです。私たちは時に、御言葉を都合良く受け取ろうとすることがあるのです。私の願望を正当化してくれる御言葉を探します。けれど、そういった思いを全て置いて、フラットに御言葉に聞くことが大事です。
 ですから、私たちは独りよがりにならないように、教会の交わりの中でこれに聞かなければなりません。聖書さえ読んでいれば、祈りさえしていれば、交わりはいらないというのは危険です。私たちはこの交わりの中で、互いに教え教わりながら御言葉に聞くのです。相談しながら、教えながら、時に助け、時に助けられ、共に喜び悩みながら、主に仕えていく。そのような試行錯誤の中で、私たちは愛することを学び、そして愛されることを学ぶのです。自分を捨てて主を選び取るとき、この方が、ご自身の命を投げ出して私たちを選ばれたこと、私たちに徹底的に仕えられたことを知るのです。

230903 ルカ20:27-40 「生きている者の神」

ルカ20:27-40 「生きている者の神」

 前回のパリサイ人やヘロデ党の者に続き、今度はサドカイ派の人々がイエス様を陥れようとやって来ます。イエス様を訴える口実を設けるために、様々な立場の者達がこの過ぎ越しの機会を狙っていたのです。と言うのも、この機会を逃すと、イエスはガリラヤに帰って大勢を率いて反乱を犯すかも知れない。もしくは雲隠れするかもしれない。今ならローマ総督のピラトもエルサレムに滞在しています。イエスを捕らえて裁くにはこの過ぎ越しの祭りが絶好の機会なのです。
 サドカイ人の多くは政治の中枢にいる人々によって構成されておりました。彼らにとっての興味は政治であり、現実社会です。そのため彼らの信仰は極めて合理的でした。最低限のモーセの律法(モーセ五書)は信じていましたが、それ以外の預言書や歴史書はもちろん、ラビたちの教えや伝承にいたるまで一切を否定しておりました。ですから、彼らは復活の教理を信じていません。復活を明確に教えるのはイザヤ書やダニエル書などの預言書ですが、彼らにとってはそれは正典ではありません。それは聖書の教えではない。それが彼らの言い分でした。目に見えるものを信じる現実主義者の彼らには、人は死んだら終わりだったのです。
 さて、サドカイ人は申命記25:5-10にある死んだ兄の妻に子がいない場合の再婚の規定を持ち出してイエス様に質問いたします。これ自体は家系を絶やさないための規定で、ユダヤではレビレート法と呼ばれていた決まりです。家の断絶を防ぎ、財産を近親者に残し、そして妻の不幸を緩和するという目的であり、家系を重んじるユダヤ人にとって、とても重要な法律だったわけです。しかし、この律法を復活の教理と重ねて考えると、少々やっかいなことになりました。つまり、復活がもし本当に起こるのなら復活後の夫婦関係はどうなるのか、という問題が浮かんでくるのです。復活後の妻はどの夫の妻かという問題です。
 イエス様は復活の後は死ぬことが無いので、めとることも嫁ぐこともないと答えられます。つまり復活後の議論にレビレート婚を持ち出すのは意味をなさないと言っているのです。当時結婚の最大の目的は子を設けることだったわけで、レビレート婚はそのための救助法です。けれど、復活の世界は死も苦しみもない世界。それはつまり跡取りや世継ぎを心配する必要のない世界ということです。跡継ぎが無いために妻が家から放り出されたり、財産を不当に失うことなど起こり得ない世界です。そこに生前の律法を持ち出して来ても、それは全く意味を成さない議論なのです。
 サドカイ人たちの間違いは、復活の世界を、今のままの世界の延長と思い込んでいることです。けれど、復活の世界は罪の影響を持った今とは全く違います。復活して私たちは、新しい命へ、朽ちない者へと生まれ変わるのです。復活のとき、私たちは御使いのように神の栄光を帯びた者へと変えられているのです。
 またイエス様はモーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことを挙げて、「神にとっては、すべての者が生きている」と言われます。モーセがそのように呼ぶのは神がそのようにご自身を紹介したことに由来しますが、これはつまり、神は今まさに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でもあるということです。それは神様が確かに死んで葬られた彼らを、今生きている者として見ているということです。死で終わりというようには、他ならぬ神様が見ておられない。神様は死んで、その者を甦らせ、その豊かな交わりのうちに置いてくださる。ここに希望があるのです。
 それにしてもサドカイ人たちはなぜそこまでも頑なに復活を否定したのでしょう。復活を否定してそこに何の希望もないということは明らかなのにです。それは彼らに御言葉から聞く姿勢がなかったからです。マルコの福音書では「神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。」と手厳しく彼らの御言葉に対する姿勢を批難しています。彼らは自分たちの都合の良い御言葉のみをめくり、御言葉に聞く姿勢を持っていなかったのです。これは私たちにとっても教訓です。御言葉に真摯に聞くことがなければ、復活という私たちの根本と言うべき希望すら見えなくなってしまうのです。

230827 ルカ20:20-26 「神のものは神に」

ルカ20:20-26 「神のものは神に」

 イエス様の譬え話に反発する祭司長たちはイエス様を捕えようと、義人を装った回し者を送り込みました。彼らは当時の税金問題をイエス様に質問いたします。「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
 この当時、ユダヤはローマの直轄地となってましたから、当然、税金はローマに納められていました。それは神の民であるユダヤ人には到底受け入れがたいことです。しかし、律法に照らせば、全ては神の支配の下にあり、全ての物は神から来るところです。富もまたそうです。ならば納めるなら神の宮にと言うべきです。けれど、それを公言すれば、それはローマからの処罰の対象となってしまいます。本音を言えば、不満がある。けれどそれは表立っては言うことのできない問題。それを彼らはわざわざ神殿の庭、民衆たちの面前で問い質すのです。
 彼らはイエス様がカエサルに歯向かうように誘導しているのです。民衆たちの期待は、イエス様が王となり神の国を取り戻すことにあります。エルサレム入城の大熱狂は、ローマへの不満の裏返しです。ですから、彼らの支持を得ようとするならば、カエサルを否定しなければならないのです。だからこそ、彼らは訴える機会を見出せます。ところが、イエス様は税金を治めること云々について直接には語らず、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と語られるのです。
 当時デナリ銀貨の表には「皇帝ティベリウス・神と崇められた皇帝アウグステゥスの子」と刻まれていました。その裏には皇帝の母親の顔が刻まれており、彼女は「平和の女神の化身」と言われていたそうです。ローマの国の税金はこのデナリ銀貨で納めることが決められておりました。一方で、神殿に献げるときにはこのデナリ銀貨は用いることはできません。それは偶像礼拝に当たるからです。それらは明確に分けられておりました。ですから注目すべきは、イエス様が「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」と言われた点です。コインの肖像を確認させるためですが、このニュアンスからは、彼らが今まさに持っている銀貨であることがわかります。けれどこれは不思議です。神殿に仕える者は基本的に神殿に献げられたものから頂いているのではなかったでしょうか。そして神殿に献げられるものにデナリ銀貨は含まれていないのではなかったでしょうか。では、なぜ彼らはデナリ銀貨を持っているのでしょう。つまりは彼らもまたローマに税金を納めていたわけです。彼らもローマの支配を当然のように受け入れ、折り合いを付けていたのです。もう彼らの中では、答えを持っているのです。にも拘わらず、イエス様にあなたは神と皇帝とどちらの支配に従うのか。と問うているのです。
 カエサルのものと神のもの。地のものと天のもの。その境界線はどこにあるのでしょう。究極的な話をすれば、神によって造られたこの世界のあらゆるものは神のものなのです。けれど、地上にあって、私たちはその所有が認められています。ですからそれは祭司長たちがそうであったように、一人ひとりが信仰によって線引するものなのです。
 けれど聖書の中には明確にそれが誰のものであるか記されているものがあります。それが私たち人間です。イザヤ43:1には「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」とあります。ここに関しては、あやふやな境界線はありません。はっきりと「あなたはわたしのもの」と告げられるのです。
 ですから問題は、神のものであるはずの私たち自身に別の名を刻んではいないかということなのです。カエサルの名が刻まれていると言う人は流石にいないでしょうが、日本と言う名、会社という名を刻んでいる人はいるかもしれません。私は私だと、自分の名を深々と刻んでいる人もいるでしょう。けれどそれら名は、神の名に上書きしても良いものでしょうか。神のものか、カエサルのものか。それは私にどんな名前が刻まれているかによって決まるのです。

230820 ルカ20:9-19 「捨てた石が要の石となる」

ルカ20:9-19 「捨てた石が要の石となる」

 イエス様は人々に譬え話を話し始められます。ぶどう園の主人とその土地を借りた農夫たちの話です。当時農夫たちが畑を借りるときは、その代金は収穫の中から支払われるのが普通でした。採れた分からの出来高支払いというわけです。特別珍しい話ではありません。主人は収穫の季節になって、代金を受け取るためにしもべを送ります。ところが農夫たちは主人からのしもべを袋叩きにして追い返してしまったのです。同じことが二度、三度と繰り返されます。しもべが送られては打ちたたいて、追い払います。そして、挙げ句、主人の息子がやって来たとき彼らは共謀してこの息子を殺してしまうのです。出来心とか、事故とかではない。彼らは明らかな殺意をもって殺したのです。彼らは息子が跡取りだと知った上で、自分たちの欲望と利益のために殺したのです。
 何とも恐ろしい話であります。けれど私は農夫たちの恐ろしさよりも、この主人の世間知らずと言いましょうか、甘すぎる考えに、より驚いたのです。もしも主人がもっと警戒しながら農夫たちと接していれば被害は最小限で押さえられただろうに・・・。明らかに反逆している者たちに、何度も何度もしもべをつかわし、それでも駄目だと、今度は息子まで。いやいや、それがどれだけ危険なことか、火を見るよりも明らかではないでしょうか。農夫たちの残虐さよりも、主人の甘い考えが信じられません。
 しかし私たちはここで、これが譬え話であるということを思い出さなければなりません。譬えですから、この登場人物はそれぞれ別の人物を指しているのです。主人とは神様のことであり、ぶどう園とはこの世界。農夫は人間であり、しもべは神からの預言者たち、そして息子とはイエス様です。つまり世間知らずの非常識。甘すぎる考えだと思ったその主人は、まさに父なる神のお姿なのです。神様は、私たち人間がいつかはご自身の信頼に答えてくれると信じて、忍耐強く預言者を送り続け、一人子を送って下さったということです。
 神様の忍耐と信頼を良いことに自分勝手に振舞う人の罪深さを思います。農夫たちは納めるべき収穫の一部を納めず契約違反を犯しました。また、何度しもべを送られても悔い改めず、かえって罪を増し加えました。そして、もっとも酷いのは、送られてきた息子を主人の跡取りだと知って、相談した上で殺したということ。出来心とか、事故とかではない。明らかな殺意をもって殺したということです。人と言うのはたとえイエス様が神の子だと知っていたとしても、自分の欲望を優先して殺せてしまうのです。罪に気付いても悔い改めに結び付かない。悪いことと知りつつもやってしまう。これが私たちの本質なのです。
 私たちは忘れてはいけません。確かにこの主人は寛容であり、忍耐強く、私たちを信頼し続けてくださるお方ですが、しかし、やがてその主人の信頼をも失ってしまう時、自分の行いに清算しなくてはならない時が来るということをです。「捨てた石それが要の石となった。」どうでもいいと思われていた石が、その最も大切な要の石となる。人々から捨てられた方が救いとなられる。これは十字架と復活のイエス様を指した言葉です。そしてイエス様は続けて言われます。「だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」要の石をさげすみ、あざけ笑った者たちへの報いです。主の厳格な裁きの宣言が語られるのです。
 今日の譬え話で語られるのは、言い逃れの出来ないその時が来るということです。徹底的な裁きの時が来る。私たちはそれを何と慈悲のない神かと嘆くのでしょうか。神は愛じゃないのかと批難するでしょうか。しかし、幾度となくしもべを送り、あまつさえ最愛の息子さえも送り出した主人の農夫たちへの信頼と忍耐を無視したのは私たちでは無かったでしょうか。私たちは何の弁解もできません。
 しかし後にペテロは言います。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:11-12a)ここに主の到来が、悪い農夫たちにとっては裁きのときであるとともに、主を信頼する者にとっては救いのときであることを見るのです。ですから、主の到来は私たちにとって滅びではなく、希望となるのです。
 私たちの目にその石はどのように映っていることでしょうか。みそぼらしいでしょうか。役立たずでしょうか。色々な見方があるでしょう。けれど、その石こそが要の石。私たちはこの石にこそ救いを見るのです。