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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210228 ルカ6:43-49 「心に満ちていることを」

ルカ6:43-49 「心に満ちていることを」

  「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」とイエス様はおっしゃいました。良い物を出す人も、悪い物を出す人も、どちらも心の倉から出しているということです。ここでイエス様が問題にしておられるのは、その口から良い物を出しているか、悪い物を出しているか、ということではありません。倉と言うのは物が蓄えられるところです。ですから、その口から悪い物が出ているなら、それは蓄えられているものが悪いのです。その倉に良い物が蓄えられていれば、必然と良い物が出るのです。ですから、イエス様がこのところで問うておられるのは、心の倉から何を取り出しているかではなくて、心の倉に何を蓄えているかということです。
 イエス様はここでもう一つのたとえ話をされています。家の土台の話です。土台を据えた家は、たとえ洪水が来ようとびくともいたしません。しかし、土台を無視して家を建てれば、洪水が来たときに家はすぐに倒れてしまいます。イエス様は土台を据えるということを、わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人だと言っています。一方土台なしの人のことを、聞いても行わない人と言っています。聞いて行う人と、聞いても行わない人。実はこの「聞く」と「行う」の間には、蓄えるということが大事です。どれだけ聞いていても、聞き流しているだけでは、行いには結びつかないのです。聞いたことを心に蓄えることが大事です。
 イエス様の言葉を聞き、イエス様の姿を凝視し、イエス様の言葉と生き方を蓄えている人と、イエス様の言葉をはいはいと言って聞き流し、イエス様の生き方を彼方の出来事として流し見る人。イエス様の言葉と生き方が蓄えられている人は、何があっても、蓄えられたイエス様の姿に倣うことができます。イエス様ならどうしただろう。イエス様は何と言っていただろう。生活のあらゆる場面で、イエス様の影を追うことができます。いつもイエス様を身近に覚え、励まされ、蓄えられた言葉に道を示されて生きることができます。けれど、イエス様の言葉を聞き流し、イエス様の姿を流し見しかしていない人はどうでしょう。そういう人は、あらゆる場面で、イエス様に頼ることができません。当然です。心の倉に、良い物が蓄えられていないからです。無い袖は振れないからです。
 スーパーのお菓子売り場で、よく小さい子どもが駄々をこねる場面を見かけたりします。幾つか原因はありますが、その一番は、語彙力の無さです。小さな子どもはまだ言葉があまり蓄えられていないので、自分の感情を伝える適切な言葉が思い浮かばないのです。だから伝えたいけど伝えられない。わかってもらえない。そのことが歯がゆくて、苛立って、泣き叫ぶのです。同じように、御言葉が蓄えられていなければ、私たちは主の御声に聞けないのです。私たちはどのように主の御声に聞くと思いますか。旧約の預言者たちのように、天からの雷鳴と共に神の御声を聞くのでしょうか。もちろん、それが無いとは言いません。ルターがまさにそうでした。私たちも、もしかしたらそういうことがあるかもしれない。けれど多くの場合はそうではありません。私たちは心に蓄えられた御言葉によって聞くのです。
 46節に「なぜ、あなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」とあります。行いたくとも、行えないのです。イエス様だったらどうされたか、その見本が無いのです。イエス様は何と語られたか、その語録が無いのです。だから「主よ、主よ」と呼ぶことはできても、御声の通りに行えません。洪水の中で土台を築こうとしてもそれでは遅すぎます。土台は洪水が来る前にこそ築かれていなければなりません。その違いは、晴れている内はあまり関係がないかもしれません。祈らなくても、御言葉を蓄えずとも、日々の生活を何と無しに過ごすことはできます。けれど、やがて洪水は押し寄せるのです。ですから大事なのは、今日と言う日常の中で御言葉に聞き蓄えることです。いつ目が見えなくなるかわかりません。いつ手が動かせなくなるかわかりません。けれど御言葉が心に蓄えられているならば、私たちはいつでも御言葉に聞くことができます。いつでもイエス様を思い出せます。私たちは主の御声を天から聞くのではありません。私たちの心の倉からこそ聞くのです。

210221 ルカ6:37-42 「人を量る秤で」

ルカ6:37-42 「人を量る秤で」

 「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ここにある秤とは、もともと麦や塩などを量るための枡のことです。たとえば麦を売る時に、両手いっぱいで幾らとはいたしません。同じ値段なのに手の大きさによって差が出るなら、それは不公平だからです。誰の目から見ても、納得が行く公正な取引をするために、設けられた基準。これが枡一杯という秤です。けれど悪い商売人ですと、この枡の大きさを微妙に変えて誤魔化すわけです。たとえば、同郷の人には普通の枡だけど、他所の土地の人には少し上げ底をした枡を使ったりする。奴隷相手であればもっと小さい枡を使ったりする。これはもう見た目ではわかりませんから、やろうと思えば簡単に騙せるわけです。そんな中、イエス様の言葉は、如何に新鮮で、公正で、納得のいくものだったことでしょう。しかし、それゆえにごまかしが利かない、言い逃れのできない教えでもあるのです。
 イエス様は、弟子たち自身の目に梁があるというのに、兄弟の目のちりを取ろうとやっきになっていることを指摘しています。それは盲人が盲人を案内しているようなものだとです。けれど期待もしています。十分に訓練を受ければ、自分の師のようになれるとです。ですから、兄弟のことをとやかく言っていないで、自分の梁を取り除きなさい。自分自身を吟味しなさいと言うのです。
 兄弟の目の塵を取らせてくださいというのは、親切なようでいて、内心ではその人を裁いているのです。不義に認めているのです。愚図で、間抜けで、役に立たない。そんな風に見下しているのです。今、この教えが、他でもない弟子たちに向けて語られているということに注意を払うべきです。それは信仰者こそ、この誘惑に陥りやすいからです。つまり他人を裁く誘惑です。そこには理想があり、正義があるからです。神の正義を知っている私たちは、教会に理想を抱き、信仰者に理想を抱き、そして理想に及ばない他人の粗が許し難いもののように思えるのです。教会を乱す悪人のように思えてきます。そして自分には神に代わって悪を正す使命があると考えます。あの人はクリスチャンとして相応しくない。あの人の態度は神様の前に正しくない。けれど、そのように裁く自分自身はいったい神の目にどのように映っていることでしょうか。私たちは私たちの正義の秤に耐え得るものでしょうか。私たちは私たちの正義の尺度に適う者でしょうか。自分にだけは小さい枡を用いているのではないでしょうか。私たちは自分自身の姿をもう少し客観的に見るならば、どれほど多くの衝突を避けることができるかと思わざるを得ません。
 同じ秤で量られる。しかし、よくよくこのところを読んでみますと、少しおかしな点があります。6:38にはこうあります。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」変だとは思いませんか。同じ秤で量り返してもらえるとありながら、実際は「詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐にいれてもらえます。」とあるのです。ずっと、同じ秤で量られると聞いてきました。他人の目の塵ばかり気にして自分を省みない私たちの現実を指摘されました。だからよくよく自己吟味しなさい。と語られました。当然です。だからこそ公平が保てるというものです。ですから私たちはこれを聞いて、兄弟と関わることに躊躇うところではないでしょうか。ああ、確かにおっしゃる通りだなぁ。自分のことを棚に上げて人のことを言ってる場合じゃないなぁ。同じ秤で量られるなら誰とも関わらずに過ごしたほうが良いんじゃないかなぁ。もう一層のこと、人知れず山にでも籠ろうかなぁ。
 けれど、イエス様は、ここで、気前よく量って懐にいれてもらえる。と言われるのです。つまり神様の祝福は単なる因果応報ではなくて、溢れんばかりの恵みなんだと語られる。もしも私たちが赦し、与える歩みをするのなら、神様は単に同じ秤で返すのではなくて、そこにぎゅっと詰め込んで、さらに揺すって隙間を埋めて、そのまた上に盛り上げて、何倍にもして返してくださると言われるのです。ですからイエス様は、量られることを恐れて隣人に関わらないようにしましょう、というのが私たちのゴールではなくて、赦す。与える。ということにおいて積極的に関わってまいりましょう。と、こうおっしゃっているのです。

210214 ルカ6:27-36 「汝の敵を愛せよ」

ルカ6:27-36 「汝の敵を愛せよ」

 今日の箇所は前回に続いて、イエス様が弟子たちに語っておられる場面です。その教えを一言で言いますと「汝の敵を愛せよ。」大変有名なイエス様の教えです。隣人を愛せ。という教えならば、これまでもありました。(レビ19:18)けれど、敵を愛せとは聞いたことがありません。敵とはどういう人のことでしょう。それは、勝敗と利害が直結している相手のことを敵と言います。ですから敵に情けをかけることなどできません。情けをかければやられてしまうのは自分だからです。マタイの福音書では、敵を愛せという勧めの前に、イエス様は「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」と当時の人々の常識を語っています。敵は憎むべき存在です。なぜなら敵を憎むというのは、隣人を守る行為でもあるからです。安易に敵に容赦をかければ、それは味方に迷惑がかかるのです。今以上に戦いというものを身近に知っていた当時の人々にとってこれは常識です。けれどイエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい。」と言われるのです。
 イエス様は「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。」とまで言われます。確かにその通りだと思います。確かに愛は見返りがないほど本物なのでしょう。けれどイエス様の教えは理想ですけれども、現実と言うものを知らない。これが他人事であれば、何の文句もでないのです。一般論としてであれば、汝の敵を愛せよ。とおっしゃるイエス様に、何と懐の広い教えだろうか。と感心する所です。けれど、本当に苦しみの中にいる者は、誰かを憎むことで必死に耐える力を得ているのです。家族を事故で失った方が、相手を憎むことで懸命に今の喪失感を耐えている。そんな胸中の者にとって、イエス様の教えは苦しみに寄り添っているようには到底思えません。
 けれど、だからこそです。イエス様は愛しなさいと言われるのです。愛とは意思を伴う決断です。好きになると言うこととは違います。もし、このところで、「あなたの敵を好きになりなさい。」と命じられているなら、これはもう絶対に無理な話です。私たちの感情は、それを受け入れることはできません。私たちは私たちに敵対する者を好きになることはできません。苦手です。嫌いです。けれど意思をもって、愛すると決断するのです。なぜなら、それこそが唯一、憎しみの連鎖を断ち切る手段だからです。
 「やられたらやり返す。」というフレーズが受けたのは、皆が我慢を強いられているからです。抑圧された中で、いつかはやり返したい。仕返ししたい。復讐を糧に、今を耐える。これは私たちのこの世を生きる知恵でありましょう。けれど、「やられたらやり返す」は「やり返したら、やられ返される。」ということでもあります。復讐というのは、新しい復讐を生みます。一度打たれたら、二度打ち返す。二度打てば、四度打ち返される。より激しさを増しながら、憎しみは膨れ上がります。人と人の対立は、やがて世代を超え、時代を超え、部族間、民族間、国家間の対立へとまで発展していくのです。
 憎しみの連鎖の中に身を置いていても、決して幸せにはなれません。たとえ復讐を果たしても満足することはありません。より一層憎しみから抜け出せなくなるだけです。辛くとも、苦しくとも、憎しみを断つことが大事です。もちろん、それが難しいことは承知です。けれどだからこそ聖書は「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」と語っているのです。敵を見ながら、愛すると決断することは到底できることではありません。自分に向けられた敵意を意識しながら、尚も手を差し出すことは本当に難しいことです。ですから私たちが見るのは、天の父です。天の父がいかに恩知らずの私にも憐れみ深い方であられるか。ここを見るのです。私たちに対するイエス様の立ち振舞いこそが、「あなたの敵を愛する」ことの実践であります。
 私たちが愛したから愛されたのではありません。敵対する者であった私たちのために、主がその身を献げられた。憎しみを一心に背負って断ち切られた。私たちはそれゆえ、いと高き方の子とされたのです。私たちに愛される資格があったわけではないのですから、私たちが愛するのに、相手に資格を求めるわけにはいきません。どうせ無理だと諦めず、失敗を繰り返しながら、愛することを学んで行きたいと思います。愛すべきその敵は、立場を違えど、愛することに悩み、葛藤するその人に他ならないからです。

210207 ルカ6:20-26 「幸いか、哀れか」

ルカ6:20-26 「幸いか、哀れか」

 今日の箇所はイエス様が弟子たちに向けて4つの幸いと4つの哀れを語られる場面です。4つの幸いと4つの哀れ。4つの幸いとは、貧しい人たち。今飢えている人たち。今泣いている人たち。そして人の子のゆえに排除され、ののしられ、けなされ、憎まれるあなたがた弟子たちのことだとイエス様は数え上げます。逆に富んでいる人。今満腹している人。今笑っている人。今人々の称賛を受けている人は哀れだと言っています。困難の内にいる人は幸いで、幸せそうにしている人が哀れとおっしゃられる。これはいったいどういうことでしょうか。
 普通に考えまして、貧しさが幸いとはとてもじゃないですが言えません。そんなことが言えるのは、本当の貧しさを知らない満たされた人です。貧しさが犯罪を生み、戦争を引き起こすのが現実なのです。飢えている人にやがて満ち足りると言ったところで、今日の飢えが満たされなければやがてはありません。もちろん、イエス様はそんなことはわかっています。ですからイエス様はご自身を頼りに集まった人々に救いの手を差し伸べられます。病を癒し、悪霊を追い出されます。けれど、そのことと幸いであるということはまた別の話なのです。
 今満たされているということは果たして幸いの条件でしょうか。この時の今とは、この世界でと言う意味です。私たちは今を願います。今、満たされること。今、癒されること。今、笑っていられること。けれど、それらは移り行くものです。もちろん、それらを追いかけることは悪いことではありません。今、困難な人が救いを求めるのは何らおかしなことではありません。病に苦しむ者が癒しを願うのは当たり前の話です。けれど、それが幸せの基準となってはいけないのです。今、イエス様のそばに群がる多くの人々は苦しみの中、今の救いを求めてやってきた人たちです。この病気が治るように。この汚れた霊から癒されるように。イエス様はその願いに応えられます。けれど、じゃあ、イエス様によって癒しを得た人々の全てが幸いと言えるのでしょうか。病気が治り、汚れた霊が追い出されます。けれど、その人はやがてまた病気になることでしょうし、再び汚れた霊に憑かれるかもしれない。癒されることと幸いであるということは必ずしも一致しないのです。
 そもそもの話、この話をイエス様は誰に向かって話しているのかと言えば、それは他でもない弟子たちにしているのです。そのことに気付いて読み返してみますと、イエス様が「貧しい人たち」「今飢えている人たち」「今泣いている人たち」と呼ばれるその「人たち」とは、文字通りを意味しているのではなく、「人の子のゆえに排除され、ののしられ、悪しざまにけなされる」人たち。つまり、イエス様を信じたことで、貧しくもなり、飢えもする人たちのことを指しているということがわかります。弟子たちはその職業を捨てて、これまでの生活を捨てて、イエス様に付き従います。それは先の見えない生活。安定しない生活。そして、これまでの価値観の中では決して理解されない生活です。イエス様につき従うとは十字架の道を従うということなのです。人は異質な者を排除しようとします。自分とは違う存在を否定したくなります。イエス様を知り、イエス様を信じて生きるということは、その他の人々から分けられて神の民として生きるということです。それだけで私たちは世から排除される対象となり得るのです。けれど、イエス様はその道を歩むことは幸いなんだと語られます。なぜなら、「神の国はあなたがたのものだから」とおっしゃられるのです。
 ある時、イエス様は12年間長血を患った女性を癒されました。いえ、女性が人知れずイエス様の衣に触って癒されたのです。彼女は人目に触れたくなかったのです。病のゆえにこれまで散々に辛い思いをしてきたのです。触られるだけでも病を癒すことのできるお方が、彼女の存在に気付かないはずがありません。けれど、イエス様は「わたしにさわったのは、だれですか」と尋ねられました。わざわざ人前に晒すようなことをされなくとも良いのにと思います。けれどそうではないのです。今、彼女とイエス様の関係は医者と患者のそれでしかありません。彼女は病気が治ったことに感謝しています。けれど、それで終われば、またいずれ別の病気に罹った時、絶望しなければなりません。今満足しようとも、やがて失われる時が来る。だからイエス様は声をかけられます。彼女が信仰をもって、それに応え、真の救いを得るためにです。
 今を求めることは大切ですが、今が満たされれば幸せになれるとは幻想です。今は移り変わるのです。私たちが求めるべきは永遠です。たとえ、今泣いていようとも、私たちは必ず笑う時が来ます。イエス様は十字架で死に勝利されました。「神の国はあなたがたのものだからです。」この幸いに立って、私について来なさい。とイエス様は語っておられるのです。

210131 ルカ6:12-19 「12弟子の選び」

ルカ6:12-19 「12弟子の選び」

 イエス様が山に登られるのにはそれなりの理由があります。それは祈られるためです。イエス様は重要な局面になると必ず山に登られて、そこで祈られました。今、イエス様が山に登られたのは、この12弟子の任命がとても重要な出来事だからです。これまでも弟子の失態はイエス様への批判の材料に利用されました。それが中心的な弟子であれば尚のことです。にもかかわらず中心的な12人の弟子を選ぶというのは、イエス様の伝道にとって必ずしも得であるばかりとは言えません。ですからこれはイエス様が自らの死というものを意識して、その死後を見据えているからに違いありません。
 さて、選ばれた12人を見てみると、ある者は漁師であったり、取税人であったり、いやそれどころか出自の定かではない名前だけの者までおります。イエス様が夜通し祈って選ばれたのは無学な者や嫌われ者でありました。なぜ彼らなのでしょう。もっと才能溢れる者たちはいなかったのでしょうか。たとえば、アリマタヤのヨセフは、ガリラヤ出身ではないのでたぶんこの時期はまだ弟子ではなかったでしょうが、彼のように12弟子と呼ばれる者たちに引けを取らない、いやむしろもっと立派な人物はいたと思うのです。普通、組織を作るときは、少しでも有能な人物に大切な働きを担わせるものです。けれど彼らはイエス様の弟子と言う以外には、特筆すべきことの何もない者たち。いったいなぜ彼らだったのかと疑問に思います。
 色々考えまして、一つだけ思い当たることは、彼らが特筆すべきことがないからこそ選ばれたのではないかということです。彼らには何ら、人の注目を得るような才能も容姿も人望も経験もありません。しかしだから、彼らは選ばれたのではないでしょうか。使徒の働きの1章には、使徒の補充の出来事が記されます。そこでの使徒候補の基準はイエス様の公生涯と復活を証しできる者でした。その人の才能や経験ではありません。イエス様を証しする者かどうか。この一点です。パウロも第一コリントの1:26-29で、神はだれも神の御前で誇ることがないようにするために、無に等しい者を選ばれた。と言っています。これが神が弟子を選ばれる際の基準なのです。神は私たちに、才能を求めているのではありません。私たちの好き勝手な主張を望んでいるのでもありません。そうではなくて、神は私たちに従順を求めておられます。正直を、そして覚悟を求めておられます。主の弟子には、神様と人の間に割ってはいる存在感や才能などは必要ではないのです。主の御業を嘘偽りなく、そのままに語れば良い。
 神様の働きを前にして、私たちは怖気づくことがあろうかと思います。私にはできません。私にはまだ無理です。私には才能も経験もありませんと。これは当然の恐れです。あのエレミヤですら、同じように恐れたのです。けれど、神様はそんなことはとっくに承知です。私たちに、人に誇れるようなものが無いことも、もちろん承知。それでも選んでくださるのが神様です。期待してくださるのが神様なのです。神様は私たちに才能を望んでいるのではありません。なぜならこれは私たちの働きではなくて神様の働きだからです。神様が責任を取られると言っておられるからです。私たちは神のために働く者なのではなく、神の働きへと用いられる者なのです。
 イエス様がおられる間は、言ってみれば、弟子たちなど必要ないのです。手が増えれば効率が良くなるというのは世の話で、イエス様はお一人で、お言葉一つで何でもお出来になる方ですから、誰にも思い煩うことなく、一人宣教に専念した方がよっぽど効率が良いのです。下手に弟子たちがおれば、足を引っ張り、宣教の邪魔になるというものです。けれど、それでもイエス様は12人を選ばれた。それは自らの生き方を見せるためにです。様々な場面で、イエス様ならこうなされた。そのお姿を後世に残すため。自分が完成する救いを正しく宣べ伝える人物を育てようとしておられるのです。自らの考えではなくて、神さまの御心を伝える器。そのためにイエス様は、今は無に等しいけれど、自らの才能に溺れることなく、主イエスの呼び掛けに信頼して、仕事も生活も何もかもを捨てて従った、そのような真っすぐな者たちをお選びになったのです。神様はそのような者を今も求めておられます。神様の福音のバトンは、そのような一人ひとりを通して、今私たちのところへと受け継がれているのです。