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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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171231 イザヤ7:14 「インマヌエル・主と共にある毎日」

イザヤ7:14 「インマヌエル・主と共にある毎日」

 御使いによってヨハネに語られた主の御告げは、実はイザヤ書7:14の引用でした。
 イザヤによる預言があった当時、北のイスラエルも南のユダも、また、その周辺諸国も、北の大国アッシリヤの軍隊に脅かされておりまして、いつ攻め込まれるかわからないという状況でした。そこで貢物を捧げることでかろうじて王国としての体を保っていたわけです。しかし、貢物は国や民にとって大きな負担でした。特に北のイスラエルでは重税のゆえに反乱が相次ぎ、王が立て続けに代わるということが起こりました。そこでイスラエルの王ペカは、同じくアッシリヤの支配に苦しんでいたアラムの王レツィンと手を結びまして、反アッシリヤ同盟を結び、そして、南のユダを取り込もうとします。ところが、当時のユダの王ヨタムは、この同盟の誘いを断ります。そのためイスラエルとアラムが攻めてまいりまして、その戦いの最中で、ヨタムは命を落としてしまうのです。
 ヨタムの後を継いだアハズに、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは改めて反アッシリヤ同盟に参加するように脅迫します。父を破った反アッシリヤに与するか、それとも今までどおり大国アッシリヤに従うか。アハズの心は、林の木々が風で揺らぐように動揺いたします。しかし、イザヤは2つの国の間で揺れ動くアハブに対して、第3の選択を迫ります。それは主により頼めということです。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら2つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」(イザヤ7:4-9)。
 しかし、アハブは主に委ねることができません。見える問題に心を奪われて、見えないものに頼ることができないのです。彼は、結局アッシリヤに庇護を求めます。アッシリヤはアハブの要請を受けて、アラムとイスラエルに攻め込み、アラムを滅ぼし、イスラエルもサマリヤ周辺にわずかな領地を残すのみとなりました。つまり、一時的には、アハブの政略は成功したのです。しかし、この結果、アッシリヤの支配はより強固なものとなってユダを縛り付けるようになり、やがてはこのアッシリヤによってイスラエルは滅び、ユダも町々を奪われて行くことになるのです。
 主はアハブを通じて、「インマヌエル」神がともにおられることを示そうとされました。しかし、彼はこの主により頼まなかった。自分の判断で、常識で、解決を図ろうとした。見えない約束を信頼できなかったのです。それゆえ、主は、アハブではなく、ダビデの家、すなわち後の人々に向かって預言します。それが、イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」です。
 さて、このイザヤの預言が、ヨセフに語られたわけです。それはアハブの時代には実現しなかった、インマヌエル「神がともにおられる」ことのしるしが与えられるという預言です。ヨセフは思いがけないマリヤの懐妊に動揺しておりました。そしてマリヤを訴えるか、内密に去らせるか、という選択に迫られておりました。そんなヨセフの下に主は語られます。「主がともにおられる。」つまり、第3の選択があるということです。この出来事もまた、主の御手の内にある。だから全てを委ねて、主を信頼して、受け入れなさい。主が良くして下さることを疑わずに信じなさい。というのです。
 私たちの毎日には、右か左かと迷うことがあります。人間的な思いや判断で、いったいどうすればこれを回避できるか。ここから脱出できるかとそのように考えます。しかし主は、いや実はその真中にも道があると語られるのです。試練の渦中を通る。受け止める。これは普通ならできません。けれど、主が共にいて下さいます。主が守ってくださるのです。避けることでは決してたどり着かない、主が共におられることの確かさを私たちは知るのです。

161225 イザヤ53:1-4 「輝きもなく、見栄えもなく」

イザヤ53:1-4 「輝きもなく、見栄えもなく」

 イエス様のお誕生を祝うクリスマス。なぜイエス様は普通の人としてお生まれになったのでしょうか。イエス様がこの世に来られたのは、神と人との和解の道を開くため。罪人を悔い改めさせて救うためです。であるならば、もっとわかりやすいお姿で来られたほうが良かったのではないか。たとえば、イエス様が、イザヤのもとに現れた天使のように、6つの翼を持って現れたとしたら、また、光り輝く栄光の姿を持って来て下さったとしたら、きっと誰もがイエス様にひれ伏したと思うのです。そうすれば、イエス様が神の子であることは疑いようのない事実として世界に広まり、誰もがこの歴史的事件を当り前のごとく受け止めていたことでしょう。
 けれどイエス様は、そうはされませんでした。人知れず、貧しい家畜小屋の中で、赤ん坊の姿をとってお生まれになった。おかげで、ほとんどの人々は救い主の誕生を知らずにいたのです。いえ、誕生だけの話ではありません。その後の成長の様子を見ても、また公生涯に入られたイエス様を見ても、多くの人々はこの方が預言された救い主であるとは気付きませんでした。
 成長して福音宣教を始められたイエス様は、特に故郷で受け入れられませんでした。故郷の人々はイエス様のことを、大工の息子と呼び、いったい何を言う者ぞと、相手にしませんでした。しかし、これは当然です。彼らはイエス様を、その赤ん坊の頃からずっと見て来たのです。ヨセフに抱かれ、マリヤにお乳をもらうその頃から、彼らはイエス様の成長を見てきた。イエス様はあまりにも人として、そこにおられたのです。ですから、彼らはイエス様が救い主だとは到底気付かなかった。もしもイエス様の背中に羽が生えていたとしたら、どれだけ鈍い彼らでも、この子は特別な子だと気付いたことでしょう。しかしイエス様はそのようには生まれません。イエス様は栄光ある御姿を捨てて、人としてお生まれになりました。これこそが神のご計画だったからです。
 「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」イザヤはイエス様が生まれるおよそ700年ほど前の預言者で、北イスラエルが不信のゆえに滅び、今またそれと同じ道を歩もうとする南ユダに対して、国の危機を訴えた人物です。国が滅ぶと言う預言を前に、人々は栄光ある神のしもべ、例えば、たった一人で国を守り導いた伝説の士師達のような姿を待ち望みます。しかしイザヤが言う神のしもべとは、人知れず不毛の地に生まれ、その姿は私たちの目にも留まらないみそぼらしいものだと言うのです。いえ、目に留まらないどころか、極めて不快に、嫌悪に、人々からさげすまれて、顔を背けられるものだと言うのです。
 このイザヤの言葉を聞いて、誰が救い主の姿だと想像できたでしょう。しかし私たちは、これが救い主のお姿であったことをクリスマスの出来事から知るのです。イエス様は、何も無い粗末な馬小屋で、人知れず生まれました。王としてのきらびやかさも、祭司としての威厳も持たず、十字架へと続くその道のりは、ただただ人々の敵意と侮蔑に彩られたものでした。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどにさげすまれ、私たちもまた、彼を尊ばなかった。」
 神はイエス様を、人々から尊敬させるためにこの世に送ったのではありません。人々が見惚れるためでも、感心するためでもない。そうではなくて、神はそのひとり子を、砕くため。痛めるため。罪のためのいけにえとするために送られたのでした。栄光あるままのイエス様が私たちの犠牲となることはできません。十字架の御業は完成しません。十字架の犠牲は、イエス様がその栄光をお捨てになったときから決まっていたことでした。確かにイエス様には、人々が見とれる姿もなく、慕うような見栄えもありませんでした。しかし、だからこそ、私たちはこの方が預言された救い主であることを見るのです。この方が栄光を捨てられたからこそ、私たちの犠牲となることができた。私たちの救いとなられたことを見るのです。救い主の誕生を心より感謝します。

2016/01/03 イザヤ32:18 「平和をきずく者」

イザヤ32:18 「平和をきずく者」

 信仰継承の難しさについては、様々な方が経験されていることかもしれません。親に連れられて教会学校に熱心に通っていた子どもたちが、いつの間にか教会から遠のいていく。それは例えば中学校に上がって部活動が忙しくなったとか、塾や習い事が増えたとか、今まで従ってきた親に対する反抗だとか、色々な理由があるでしょう。一昔前は、それでも強引に教会に連れて来るということが声高に勧められて来ました。親の威厳と言うものがまだ通じた時代だからです。けれど、今同じことは難しいです。一方的な押し付けは、それがたとえどれほど素晴らしいものだったとしても反発を生むからです。ただでさえ反抗期を迎える青年時代、親への反抗は、親の信仰への反抗と結びついていくのです。
 ですから信仰継承とは、もちろん親子関係を築くこと、子どもから尊敬されるような親となることが第一でありますけれども、一方で、私たちはこれを教会の問題として捉える必要があるのではないでしょうか。教会が彼らの居場所となれば、彼らは必然とそこに留まる。留まるどころか集まってくる。と、青年宣教を専門とするある先生は熱弁されていました。なぁんだ、と思われるでしょうか。そんなの当たり前じゃないかと。そうです。当たり前です。しかし、だからこそ、もし彼らが教会から離れる。それは部活動や塾や親子の確執や、色々な理由が仮にあったとしましても、彼らが離れるとしたら、そこに彼らの居場所がなかったからだと言えるのです。
 若者たちは、様々な緊張関係の中で過ごしています。クラスの中で自分の言動は浮いていないだろうか、相手にとって自分との付き合いは得となっているだろうか、誰の味方であるべきか、誰を庇うべきか。小さな人間関係の中で、彼らはいつも窮屈に、緊張しながら過ごしています。周りの目を気にして、いつも自分ではない誰かを演じて過ごすことを求められています。もしかしたら家の中ですらそうかもしれません。ですから、彼らに必要なのは、心から大切にされているという実感です。その存在が喜ばれるという体験です。その緊張を脇において、心から安心できる関係です。それこそが彼らの居場所であり、彼らの平和ではないでしょうか。
 しかし考えて見ますと、それは彼らだけに当てはまることではないわけです。私たちにとってもそのような居場所が必要です。互いの存在を喜び合える関係です。互いを心配し、互いに気遣い、弱さに寄り添える関係です。互いに頑張ることを喜び合える関係です。教会はまさにそのような場所であるべきなのです。イザヤ32:18のこの言葉です。アッシリヤの脅威にエジプトを頼ったユダの民に、神は再三に渡ってご自身に立ち返るようにと告げられますが、彼らは一向に聞きません。そこで神はユダに災いを語られます。しかし同時に、神はユダの救いをも語られるのです。15-20節までに語られるところは、神の民への祝福の約束。それは究極的には御国における平安でありますが、同時にこれは御国の先取りである神の教会にもあてはまるところです。私たちの住まいはそのような場所だと言うのです。
 では、いかがでしょうか。教会は皆さんにとって、平和な住まいとなっていますでしょうか。安全な家、安らかないこいの場でありましょうか。もし、そうでないとするならば、それは教会の中に、神の価値観とは違う何かが入り込んでいるのかもしれません。教会に平和を築くために、具体的にはどうすればいいのでしょうか。それは教会が希望を語るということであったり、私たちが互いの関係の中にキリストを仰ぎ見ることであったり、徹底的に主に服従することであったり。つまり、救われた者がその恵みの中に生きる。『キリスト者』として生きるということが大事です。世の中の価値観を教会の中に引きずっては、教会の平和や憩いは崩れ去り、人間関係に神経をすり減らす世の中と何ら変わりがなくなってしまいます。詳しくは、今年幾度かに分けて学んで行きたいと思いますが、私たちが今日ご一緒に確認するところは、教会の本来ある姿、目指すべき姿。それは、教会こそは「平和な住まいであり、安全な家であり、安らかないこいの場である」ということです。他にはありません。なぜなら、教会の中心には平和の君がおられる。私たちの真中に主イエスがおられるからです。
 この平和は私たち一人一人が主体的に築き上げていくものです。教会とは建物ではなくて、キリスト者の群れです。共に礼拝する私たちが教会です。ですから、私たちが積極的に平和を求めなくて、教会に平和があるはずがありません。教会に平和を見出せない時、実は自分自身が平和を掻き乱していないかと省みるべきです。平和を築く者にとって、教会はこれ以上ない平和な住まいとなるのです。