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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191222 クリスマス礼拝 イザヤ53:1-12 「輝きもなく、見栄えもない」

イザヤ53:1-12 「輝きもなく、見栄えもない」

 イザヤの預言には「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」とあります。イザヤはイエス様が生まれる700年以上前の預言者です。北イスラエルが不信仰のゆえに滅び、今またそれと同じ道を歩もうとする南ユダ王国に対して、国の危機を訴えた人物です。国が滅ぶと言う預言を前に、人々は力ある救世主の到来を願い求めました。しかしイザヤが言う救い主は、人知れず不毛の地に生まれ、その姿は私たちの目にも留まらないみそぼらしい者だと言うのです。いえ、目に留まらないどころか、極めて不快に、嫌悪に、人々から蔑まれて、顔を背けられる者だと言うのです。とてもひどい描き様です。このイザヤの言葉を聞きまして、いったい誰が救い主の姿だと想像できたことでしょう。しかし、私たちはこれがまさに救い主のお姿であったことを知るのです。
 先ほどのページェントでお分かりのように、その日、ヨセフとマリアは貧しい宿屋の一室すら借りられず、薄汚い粗末な家畜小屋でイエス様を産みました。そうするしかなかったのです。町は住民登録のためにごった返しておりました。宿屋はとっくにいっぱいです。金にものを言わせたなら、無理やり部屋を用意させることもできたかもしれません。けれどもヨセフとマリアにはそれは無理です。彼らは道端にある家畜小屋に潜り込むしかなかった。身重であるマリアが雨露を凌ぐためには、家畜と共にいるしか無かったのです。その様子はまさに、輝きもなく、見栄えもないものです。救い主には、とても似つかわしくない誕生でありました。
 けれども、それは偶然だとか、予想外とか、そういうことではありません。イエス様がそのような誕生を選ばれたのです。なぜならそうでなければ招かることのない人々がそこにはいたからです。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(53:3)とあります。だからこそ届く光があるのです。
 イエス様の誕生に真っ先に駆けつけたのは羊飼いでした。一年中、昼夜を問わず、羊たちと過ごす彼らは、安息日を守らない不信仰な者たちだと見られていました。人々は彼らを罪人と呼び、蔑んでおりました。彼らは人口調査の数にすら入れられない、失われた人たちでした。もしもイエス様が上等な宿屋や綺羅びやかな宮殿で生まれていたら、彼らがどれだけ願っても門前払いされて終わりでした。イエス様が道端にある、囲いも扉もない粗末な家畜小屋でお生まれになられたからこそ、彼らはそこに駆けつけることができたのです。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)とある通りです。
 これは何も羊飼いだけの話ではありません。私たちもまた同じです。聖く正しい者だけが招かれる宮殿に、いったい誰が駆け付けることができるでしょう。もしも私たちがその場に居合わせたならば、自分を恥じて遠慮するか、厚かましくも駆けつけて追い返されるのが関の山ではないでしょうか。けれど、イエス様は貧しさの中に生まれてくださったのです。それは、のけ者にされている人。数に数えられない、失われた人々と共にあることを選ばれたということです。確かにイエス様には、人々が見とれる姿も、輝きもなく、人々が慕うような見栄えもありませんでした。しかし、この方が栄光を捨てられたからこそ、私たちの犠牲となることができた。私たちの救いとなられたのです。だからこそ、このお方は全ての人を照らすまことの光、忘れられたその人にも届く救いであるのです。
 イエス様には輝きも、見栄えもなく、貧しさの内に生まれる必要が確かにあったのです。私たちがイエス様の聖さに駆け上ぼることは不可能だからです。神のひとり子なるイエス様が人となって低きにお生まれになられた。ここに私たちの救いがあるのです。

191208 アドベント第2主日 イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

 羊飼いたちのもとに現れた御使いたちは賛美します。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」イザヤが語った「平和の君と呼ばれる」という預言の成就としてイエス様が来られたということは、聖書が語るところです。けれど、ユダヤ人にとってイザヤの語った預言は、虐げられてきた争いの歴史を終わらせる平和の君主として待望されて来たのです。なのに現実には、イエス様はユダヤに政治的な平和をもたらされることは無かったのです。これは預言が成就しなかったということでしょうか。それとも平和の君は、また別に、これからやって来るのでしょうか。
 この矛盾は、そもそもの平和の理解が違っているのではないかと思うわけです。平和とはいったい何でしょうか。戦争のない世の中のことでしょうか。ヨーロッパがローマによって統一され、最も繁栄した時代をパックスロマーナ(ローマの平和)と言います。しかし、その平和はローマから見た平和。多くの血の上に築かれた平和です。ユダヤ人の血も流されました。そこには多くの憎しみや恨みも生れました。ですからそれは、一方からは平和のように見えても、もう片方から見れば、平和でも何でもないのです。日本の太平洋戦争の大義名分は、アジア諸国が西洋の支配を脱却し、大東亜共栄圏という一つの平和を築くためでありました。けれどそのように一方的に押し付けられた平和が、本当に平和だったかと言うと、それは全く見当違いな言い分だったわけです。片手に拳銃を持ちながら、片手で握手をすることが平和だとは到底思えません。けれど、それが賢い大人の選択だと説き伏せるのがこの世の中ではないでしょうか。最高ではなくても、最善を尽くすべきと言わんばかりの理屈です。それ以上は望むべきではないと言うのです。
 いえ、そんな大層な世界を見なくとも、私たちの日常を見れば、平和というものが如何に難しいかがわかります。たとえば私たちの家庭の中に平和はあるでしょうか。学校で、職場で、教会で平和はあるでしょうか。大人であれば、表面的には仲良く過ごすことはできるかもしれません。争いごとが表面的には起こらないということはあり得ます。けれど、必死に取り繕って、おべんちゃらを言って、別れたとたんにため息をつく。こう言う関係を本来平和とは言いません。
 聖書は何と言っているでしょうか。エペソ2:14-15には、「キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」とあります。つまり、平和とは汝の敵を赦すこと。そして己の正義を振りかざさないことだと言っています。そしてまさしくそのような平和をもたらされるためにイエス様は来られたのです。
 私たちは相手から不義理を受けたとき、どうすれば相手を赦すことができるでしょう。赦したつもりでも、後になって怒りがぶり返すとすれば、それは実際には赦せてはいません。相手がどれだけ謝罪しても、自分が如何に優位に立とうと、自分に対する否定的な言動を赦すということは、そう簡単にはできません。いえ、無理です。それは自分が被害者であり続ける限り、決して赦せないのです。そうではなくて、自分こそが赦されざる者である。自分こそが罪人であるということに、本心から気付き、絶望し、尚、そこに赦しを得るときに初めて、人は赦されたこの経験から、人を赦す者へと変えられるのです。
 だから、この平和は、御自分の肉において、つまりキリストの贖いによってのみもたらされるのです。赦すことは私たちの努力や決断によってできることではないのです。それは私たちの絶望の先にあるのです。私たちが自分に死ぬ、その時に、私を赦すためにご自身をも捨てたキリストの愛に触れられるのです。

191201 アドベント第1主日 イザヤ7:1-17 「神が私たちとともにおられる」

イザヤ7:1-17 「神が私たちとともにおられる」

 イザヤを通して語られた預言は、クリスマスのメッセージとして私たちも良く知るところです。これは、もともと預言者イザヤによって南ユダ王国のアハズ王に告げられた預言でした。その預言がおよそ750年経って、ナザレのヨセフを奮い立たせることとなります。まさに神さまの御手の大きさを実感させる場面です。神が私たちと共におられる。このメッセージは、時代を超えて、イスラエルの民を支え続けます。そして、同時に、現代を生きる私たちにも告げられる、信仰者への変わらない約束です。
 当時、アハズ王は、国の命運を賭ける大きな決断に迫られていました。北イスラエルとアラムによる反アッシリア同盟に加わるようにと要請が来ていたからです。この要請を断れば、それは近隣の二国と敵対することを意味します。しかも、アッシリアの拡大政策は対岸の火事ではありません。ユダヤとて、いつアッシリアに攻め込まれるかわからない状況です。ですから、同盟を結ぶことは唯一の手段のように見えます。なのに、アハズ王は即座に要請を断るのです。そのためイスラエルとアラムが攻めてまいりまして、12万の兵が殺され、略奪の限りが尽くされ、女性や子どもを中心とした20万人の捕虜が奪われるという大敗北を喫するのです。実はこの戦いに先立って語られていたのが、イザヤ書7章のこの預言でありました。今、ユダを脅かす二人の王レツィンとペカ。しかし、その脅威は取り除かれる。主が用意した器。それはアッシリアの王である。注意したいのは、この預言の語り手は主ご自身であるということです。アッシリアの王は、あくまでも、主が用いる器に過ぎません。ですから、主はこの預言を通して、アハズに、目の前の状況に恐れるな。私がともにいる。私に信頼せよと、こうおっしゃっておられるのです。ところがアハズは主の言葉に信頼できません。器に過ぎないアッシリアの王ティグレト・ピレセル3世に助けを求めます。目に見える力と己の知恵に頼ります。つまり信仰による決断を迫る主の預言に対して、政治的な判断をもって状況を回避しようとしたのです。アッシリアはアハブの要請を受けて、アラムとイスラエルに攻め込み、アラムを滅ぼし、イスラエルもサマリヤ周辺にわずかな領地を残すのみとなりました。つまり、一時的には、アハブの政略は成功したのです。しかし、この結果、アッシリアの支配はより強固なものとなってユダを縛り付けるようになります。ユダはアッシリアの属国として、多額の奉納金に苦しむこととなるのです。
 このイザヤを通してアハズに語られた預言の言葉が、今、御使いガブリエルを通してナザレのヨセフに語られるのです。それはアハブの時代には実現しなかった、インマヌエル「神がともにおられる」ことのしるしが与えられるという預言です。神があなたとともにおられる。だから、心配しないで、恐れないで、主を信じなさいと言われるのです。
 国の存亡と、結婚の決意。状況は違います。けれど、その決断に問われることは同じです。私たちの知恵や判断ではなくて、主に信頼して、主のみ声に従っていくと言うことです。
 イザヤ43:1-2には「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。つまり、神は私たちと共におられると。だから、恐れるなと。主は今も私たちに語りかけておられます。あなたの置かれているそのところで、その状況で、慌てずに、恐れずに、主を信頼して歩みなさいとです。
 神と共にある生活とは、私たちの毎日の選択です。右か左どちらが得かと吟味する生き方から、神が望まれる生き方、神が用意された道を選び取る生き方です。もちろん、これは私たちが何もしなくても良いということではありません。私たちがあれこれと心配し、悩み、決断するその時に、それが単なる自分の判断なのか、祈りの内に決断したことなのかを問いなさいと言うことです。主を前にして、確信した決断であるかを問いなさいと言うことです。「インマヌエル」の主。それは神が人となってくださった。という神の側からの関わりとともに、私たちがこの神に信頼して歩むという積極的な応答を意味しています。私たちは最善をなしてくださる主を信じ、祈りの内に、歩む者でありたいと思います。

191124 感謝礼拝 イザヤ51:3 「集まれ。感謝とともに」 東喜代雄兄 狭山ひかり幼稚園理事長

イザヤ51:3 「集まれ。感謝とともに」 東喜代雄兄

171231 イザヤ7:14 「インマヌエル・主と共にある毎日」

イザヤ7:14 「インマヌエル・主と共にある毎日」

 御使いによってヨハネに語られた主の御告げは、実はイザヤ書7:14の引用でした。
 イザヤによる預言があった当時、北のイスラエルも南のユダも、また、その周辺諸国も、北の大国アッシリヤの軍隊に脅かされておりまして、いつ攻め込まれるかわからないという状況でした。そこで貢物を捧げることでかろうじて王国としての体を保っていたわけです。しかし、貢物は国や民にとって大きな負担でした。特に北のイスラエルでは重税のゆえに反乱が相次ぎ、王が立て続けに代わるということが起こりました。そこでイスラエルの王ペカは、同じくアッシリヤの支配に苦しんでいたアラムの王レツィンと手を結びまして、反アッシリヤ同盟を結び、そして、南のユダを取り込もうとします。ところが、当時のユダの王ヨタムは、この同盟の誘いを断ります。そのためイスラエルとアラムが攻めてまいりまして、その戦いの最中で、ヨタムは命を落としてしまうのです。
 ヨタムの後を継いだアハズに、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは改めて反アッシリヤ同盟に参加するように脅迫します。父を破った反アッシリヤに与するか、それとも今までどおり大国アッシリヤに従うか。アハズの心は、林の木々が風で揺らぐように動揺いたします。しかし、イザヤは2つの国の間で揺れ動くアハブに対して、第3の選択を迫ります。それは主により頼めということです。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら2つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」(イザヤ7:4-9)。
 しかし、アハブは主に委ねることができません。見える問題に心を奪われて、見えないものに頼ることができないのです。彼は、結局アッシリヤに庇護を求めます。アッシリヤはアハブの要請を受けて、アラムとイスラエルに攻め込み、アラムを滅ぼし、イスラエルもサマリヤ周辺にわずかな領地を残すのみとなりました。つまり、一時的には、アハブの政略は成功したのです。しかし、この結果、アッシリヤの支配はより強固なものとなってユダを縛り付けるようになり、やがてはこのアッシリヤによってイスラエルは滅び、ユダも町々を奪われて行くことになるのです。
 主はアハブを通じて、「インマヌエル」神がともにおられることを示そうとされました。しかし、彼はこの主により頼まなかった。自分の判断で、常識で、解決を図ろうとした。見えない約束を信頼できなかったのです。それゆえ、主は、アハブではなく、ダビデの家、すなわち後の人々に向かって預言します。それが、イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」です。
 さて、このイザヤの預言が、ヨセフに語られたわけです。それはアハブの時代には実現しなかった、インマヌエル「神がともにおられる」ことのしるしが与えられるという預言です。ヨセフは思いがけないマリヤの懐妊に動揺しておりました。そしてマリヤを訴えるか、内密に去らせるか、という選択に迫られておりました。そんなヨセフの下に主は語られます。「主がともにおられる。」つまり、第3の選択があるということです。この出来事もまた、主の御手の内にある。だから全てを委ねて、主を信頼して、受け入れなさい。主が良くして下さることを疑わずに信じなさい。というのです。
 私たちの毎日には、右か左かと迷うことがあります。人間的な思いや判断で、いったいどうすればこれを回避できるか。ここから脱出できるかとそのように考えます。しかし主は、いや実はその真中にも道があると語られるのです。試練の渦中を通る。受け止める。これは普通ならできません。けれど、主が共にいて下さいます。主が守ってくださるのです。避けることでは決してたどり着かない、主が共におられることの確かさを私たちは知るのです。