イザヤ9:1-7 「希望をもたらす主」
今年は新しい手作りのアドベントクランツを用意していただきまして、ロウソクを灯しています。このアドベントクランツのロウソクにはそれぞれに意味がありまして、一つ目のロウソクは「希望」。二つ目は「平和」。三つめは「喜び」。四つ目は「愛」を意味しているのだそうです。つまり主のご降誕によって、この地に希望、平和、喜び、愛がもたらされる。今日は第一主日ですので、希望の火が点っているわけです。イエス様の誕生。それは人類に希望をもたらす光だと言うことです。
イザヤ書9:6の御言葉は救い主誕生についての最も有名な預言と言っても良いかと思います。この預言がユダ王国に語られたのはイエス様誕生の700年以上も前のことです。ソロモン王以降たもとを分かれた北イスラエル王国がいよいよアッシリアによって滅ぼされる。そしてその後、このアッシリアの侵略の手はユダ王国にまで伸ばされていくのです。あれほどまでに競い合い苦汁をなめさせられたイスラエルがいとも簡単に滅ぼされていく様子をユダの民は見ていきます。同じ神を信じたはずの国。ダビデ王国の歴史を共に持つ国がいとも簡単に滅ぼされる。誰もが、次は我が身かと恐怖に身を震わせたのです。神様なんて言ってられない。祈ってる場合じゃない。現実の困難に目を開かなければ。北の大国アッシリアと南に君臨するエジプトに挟まれて、ユダの国は右往左往、綱渡りのような外交でこの難局を乗り切ろうとします。具体的には、ヒゼキヤ王の時代。アッシリアの王セナケリブが次々とユダの町を征服し、ついにエルサレムまで包囲されるという窮地に陥ります。ヒゼキヤ王を初め、皆がエジプトに援助を求めることを良しとします。けれど、イザヤだけははっきりと言いました。北でも南でもない。天に寄り頼めであります。イザヤの力強い預言にヒゼキヤ王がひざまずいた時、御使いにより一夜にして18万5千人のアッシリア兵が討たれて、ユダは窮地を脱したのです。
イザヤの力強い言葉の根拠。それこそが、先立って与えられた救い主の預言です。救い主が来られる。だから天に寄り頼めなのです。今は救いが無いように見えるかもしれない。今は闇の中に感じるかもしれない。けれど「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。」とあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」と言われています。だから、信じて留まろう。神に寄り頼んで耐えよう。これが彼らの合言葉だったのです。
イエス様が誕生される時代、大国の支配から独立して100年続いたハスモン王朝が、ローマと、その後押しを得たヘロデによってかすめ取られてしまいます。ヘロデは王国の各地で巨大な建造物を築き、その莫大な費用を民から徴収します。きらびやかな王宮や神殿が建てられ、各地から巡礼する者が訪れ、エルサレムにそびえ立つヘロデの神殿は世界にその名を馳せます。けれど、その足元では貧困に喘ぐ無数の民が生まれたのです。神殿の周りには物乞いたちが並び座り、町の外には追い出された人々の集団がそこかしと暮らします。ユダヤは再び闇の中をさまよいます。そのような困難の中で、人々は救い主の誕生を待ち望みます。一夜にしてアッシリア軍を滅ぼされた神が、ひとりの男の子を与え、その子に主権を与えると語られたからです。北でも、南でもない。天を寄り頼め。イザヤの救い主誕生の預言は、時代を超えて、出口のない闇にさまよう全ての民の希望となって輝くのです。
私たちがイエス様を信じているから、コロナウィルスにかからないということではないでしょう。天を見あげていれば、困難が立ちどころに消え去るということではないでしょう。世の中には不条理がいっぱいです。けれど、だからこそ、その暗闇の中で私たちはイエス様という光を見るのです。なぜなら不条理に思うその中をイエス様も立たれたからです。キリスト者は病気にかからないわけではありません。困難に合わないわけでもありません。けれどその困難の中で、私たちは罪から離れる手立てを知るのです。義のために生きる術を手に入れるのです。現状を嘆いて腐るばかりであった私たちが、そのところでイエス様と言う希望を見ることができます。そして遂にはその困難すらも感謝することができるのです。
大事なのは問題の渦中にも主の希望を見つめるということです。なぜなら生きている限り問題は無くならないからです。一つの問題が去っても、また一つ。罪の世の中に生きるとはそういうことです。けれど私たちはやがて新しい地を踏むのです。ですから、もちろん問題の解決に私たちは奔走しますけれども、それと同時に、その渦中にあってキリストと共にある幸いを見出したいのです。
今年は新しい手作りのアドベントクランツを用意していただきまして、ロウソクを灯しています。このアドベントクランツのロウソクにはそれぞれに意味がありまして、一つ目のロウソクは「希望」。二つ目は「平和」。三つめは「喜び」。四つ目は「愛」を意味しているのだそうです。つまり主のご降誕によって、この地に希望、平和、喜び、愛がもたらされる。今日は第一主日ですので、希望の火が点っているわけです。イエス様の誕生。それは人類に希望をもたらす光だと言うことです。
イザヤ書9:6の御言葉は救い主誕生についての最も有名な預言と言っても良いかと思います。この預言がユダ王国に語られたのはイエス様誕生の700年以上も前のことです。ソロモン王以降たもとを分かれた北イスラエル王国がいよいよアッシリアによって滅ぼされる。そしてその後、このアッシリアの侵略の手はユダ王国にまで伸ばされていくのです。あれほどまでに競い合い苦汁をなめさせられたイスラエルがいとも簡単に滅ぼされていく様子をユダの民は見ていきます。同じ神を信じたはずの国。ダビデ王国の歴史を共に持つ国がいとも簡単に滅ぼされる。誰もが、次は我が身かと恐怖に身を震わせたのです。神様なんて言ってられない。祈ってる場合じゃない。現実の困難に目を開かなければ。北の大国アッシリアと南に君臨するエジプトに挟まれて、ユダの国は右往左往、綱渡りのような外交でこの難局を乗り切ろうとします。具体的には、ヒゼキヤ王の時代。アッシリアの王セナケリブが次々とユダの町を征服し、ついにエルサレムまで包囲されるという窮地に陥ります。ヒゼキヤ王を初め、皆がエジプトに援助を求めることを良しとします。けれど、イザヤだけははっきりと言いました。北でも南でもない。天に寄り頼めであります。イザヤの力強い預言にヒゼキヤ王がひざまずいた時、御使いにより一夜にして18万5千人のアッシリア兵が討たれて、ユダは窮地を脱したのです。
イザヤの力強い言葉の根拠。それこそが、先立って与えられた救い主の預言です。救い主が来られる。だから天に寄り頼めなのです。今は救いが無いように見えるかもしれない。今は闇の中に感じるかもしれない。けれど「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。」とあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」と言われています。だから、信じて留まろう。神に寄り頼んで耐えよう。これが彼らの合言葉だったのです。
イエス様が誕生される時代、大国の支配から独立して100年続いたハスモン王朝が、ローマと、その後押しを得たヘロデによってかすめ取られてしまいます。ヘロデは王国の各地で巨大な建造物を築き、その莫大な費用を民から徴収します。きらびやかな王宮や神殿が建てられ、各地から巡礼する者が訪れ、エルサレムにそびえ立つヘロデの神殿は世界にその名を馳せます。けれど、その足元では貧困に喘ぐ無数の民が生まれたのです。神殿の周りには物乞いたちが並び座り、町の外には追い出された人々の集団がそこかしと暮らします。ユダヤは再び闇の中をさまよいます。そのような困難の中で、人々は救い主の誕生を待ち望みます。一夜にしてアッシリア軍を滅ぼされた神が、ひとりの男の子を与え、その子に主権を与えると語られたからです。北でも、南でもない。天を寄り頼め。イザヤの救い主誕生の預言は、時代を超えて、出口のない闇にさまよう全ての民の希望となって輝くのです。
私たちがイエス様を信じているから、コロナウィルスにかからないということではないでしょう。天を見あげていれば、困難が立ちどころに消え去るということではないでしょう。世の中には不条理がいっぱいです。けれど、だからこそ、その暗闇の中で私たちはイエス様という光を見るのです。なぜなら不条理に思うその中をイエス様も立たれたからです。キリスト者は病気にかからないわけではありません。困難に合わないわけでもありません。けれどその困難の中で、私たちは罪から離れる手立てを知るのです。義のために生きる術を手に入れるのです。現状を嘆いて腐るばかりであった私たちが、そのところでイエス様と言う希望を見ることができます。そして遂にはその困難すらも感謝することができるのです。
大事なのは問題の渦中にも主の希望を見つめるということです。なぜなら生きている限り問題は無くならないからです。一つの問題が去っても、また一つ。罪の世の中に生きるとはそういうことです。けれど私たちはやがて新しい地を踏むのです。ですから、もちろん問題の解決に私たちは奔走しますけれども、それと同時に、その渦中にあってキリストと共にある幸いを見出したいのです。