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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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221211 イザヤ30章6-15節 「虐げと悪巧みに頼るな」

イザヤ30章6-15節 「虐げと悪巧みに頼るな」

 オリンピックで始まり、ワールドカップで終わろうとするこの一年は大変激動で闇の深い一年でありました。戦争が起こり、世界規模の疫病が蔓延し続けました。もう一つ上げるとするなら、統一教会に端を発して元総理を暗殺するという前代未聞の事件でありましょう。衝撃でありました。安全をブランドとする日本で、まさかこんなことがと耳を疑いました。けれど、この事件をきっかけに明らかになったのは、統一教会というさらに大きな闇でした。霊感商法や拉致監禁、数十年前にあれほどまでに世間を騒がせ批難された宗教が、日本の政治の中枢にこれほど根深く浸透していたとは、いったい誰が想像したでしょうか。
 イザヤ書30章の背景は、迫り来るアッシリアを前に、エジプトとの同盟を画策するユダヤに語られた預言です。ヒゼキヤ王としては少しでも国を守る役に立つなら、何でもやるという心境でありましょう。それほど北イスラエル王国の滅亡は彼らにとって衝撃だったのです。30:1-2を見ると、どうやらヒゼキヤ王の取り巻きにはエジプトとの同盟を強力に推し進めた者たちがいたようです。主はそのような者たちを「反逆の民、嘘つきの子ら、【主】のおしえを聞こうとしない子ら」(9)と言っています。なぜなら「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこう言」うからです。「『われわれについて正しいことを幻で見るな。われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」(10-11)いつの時代も、正しいこと、耳に痛いことを言う者は煙たがられるのです。心地よいことを語る者が受け入れられる。それがたとえ騙しごとであってもです。これはいつの時代にも言えることです。聖書とは明らかに異なる異端の教えがなぜこの世に蔓延るのか。それは彼らが心地のよいことを語るからです。現実に傷つき疲れ果てている多くの人は、癒やされたいのです。慰められたいのです。ですから正しいことを聞くくらいなら、心地よく騙されていたいのです。彼らは目の前にわかりやすい解答を用意します。エジプトと同盟さえすればアッシリアは手を出せませんよ。この壺を買えば徳が高まりますよ。教祖様の言う人と結婚をすれば、必ず幸せになれますよ。安易な解答を用意して、根本的な罪の問題から目を背けさせるのです。幾ら何でもそんな解答に飛びつくはずはないと言われるでしょうか。けれど、本当に闇の中にいる人は飛びつくのです。どうしようもない現実に傷つき諦めるしかない人は身を委ねてしまうのです。冷静な判断ができなくなっているのです。だからこそ、まずは落ち着くことが大事です。
 慌ててはいけません。大事なのは主に立ち返って落ち着くことです。静かにして信頼することです。まずはその手を止めることが大事なのです。15節の最後の一言が耳に残ります。『イスラエルの聖なる方、【神】である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。』
 母教会で一緒にCSの教師をしていた婦人は、何かを決める時、必ず「祈ってから返事します。」と言って持ち帰るのです。大きなことならともかく、いや、これくらい即答してよと思うこともありましたが、それが姉妹の信仰のあり方でした。まず立ち止まる。感情にまかせて決断しない。それだけに決断したことは最後まで全うする姉妹でありました。大事なことだと思います。私はよく飛びついてしまうことがあります。焦って安易に解答を求めたくなります。そして同じだけ失敗を繰り返します。やっぱり主に尋ねることが大事です。いえ、大事どころか、それが必須です。30:1に「わざわいだ、頑なな子ら。──【主】のことば──彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。」とあります。主の霊によらない、私(わたくし)のはかりごとは、罪に罪を増し加えることになるのです。私たちから出るものは、残念ながらそうなのです。「どんな知恵も英知も、はかりごとも、【主】の前では無きに等しい。」(箴21:30)だからこそ私たちは主の御声に聞かねばならないのです。

221127 イザヤ49:13-18 「わたしはあなたを忘れない」

イザヤ49:13-18 「わたしはあなたを忘れない」

 イザヤ書40章から後半は、バビロン捕囚からの解放が一つのテーマとなって語られ、そして新天新地、終末の栄光までがいっきに語られます。もちろんイザヤが語るこの時点で、バビロン捕囚は起きていません。彼が直面するのはアッシリアからの脅威でありました。そして、その脅威が過ぎ去り、その後ヒゼキヤ王の時代になって、初めてバビロンに捕囚されることが預言されます。39章です。けれど、実際にユダがバビロンによって滅ぼされるのはその200年も後のことなのです。ですから、ここから後の預言は、イザヤの時代、決して耳が傾けられることはなかった預言です。誰も気に留めなかった。誰もが忘れていた預言。それが後になって、国の滅亡を経験し、バビロン捕囚を経験して、改めて脚光を浴びるのです。長く閉ざされいた預言は、再び民に読み解かれます。
 イザヤ49章に記されるのは、神はシオンを見捨てられないということ。けれど、これが語られる背景には、その事実を忘れてしまう現実、「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と嘆かずにはいられない苦難が起こるのです。ユダの人々はこの先、祖国の滅亡を経験することになります。城壁が崩れ、町々が崩れ、崩れ落ちた城壁の下敷きになった人々の様子や、崩れ落ちた神殿の跡からあらゆる貴重品が奪い去られていく様子をまざまざと見ることとなるのです。着の身着のまま、槍で脅されて進む先には捕虜たちの収容場があり、一定の人数が揃う度、そのまま敵本国へと連れ去られていく。家族と離れ離れ。再び会う保証もないまま、年老いた者も、幼い者も、怪我をしている者も、病を患う者も一様に、連行されていくのです。
 ウクライナがロシアによって侵略されて9ヶ月が経ちます。その現状はユダのそれと重なります。ミサイルが打ち込まれ、戦車が進軍し、街を崩壊し始めました。大勢の人が土地を奪われ、瓦礫に埋もれ、見せしめに殺され、そして故郷を捨てて逃げざるを得なくなりました。残った人たちは自分たちの国を取り戻そうと今も必死に戦っています。でも、どうなるかわからない。今日死ぬか、明日死ぬか。そういう不安をいつも抱えて過ごしています。家族が散り散りになる人たちも少なくありません。ウクライナの宗教は主にウクライナ正教とギリシャ系カトリックです。立場の違いはあれど、彼らは同じ神を信じています。それはロシアも同じです。なのに、彼らは国を追われた。「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と叫ばずにはいられない状況がそこにあるのです。
 だからこそ、私たちは続く主の言葉を聞かねばなりません。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」この言葉にどれほどのユダの民が救われたことでしょうか。どれほどのキリスト者が救われたことでしょうか。
 誰かに忘れられることほど辛いことはありません。忘れられるとは、その人の中で自分がいなくなるということです。自分がいてもいなくても変わりない存在となることです。これは到底受け入れられることではありません。しかし2000年前、エルサレムの郊外にいた羊飼いたちはまさにそういう人々でした。彼らはユダの国中を騒がす住民登録にすら数えられない人たちでした。主役は羊で、彼らは日陰の者でした。けれど、主はそんな彼らにスポットライトを当てます。彼らは救い主の誕生を真っ先に祝った者として、後世に語り継がれることとなるのです。クリスマスの度に世界中の人々が彼ら羊飼いを覚えます。それもこれも主が彼らを忘れなかったからです。
 自分が誰からも必要とされていない。自分がいてもいなくてもいい存在のように感じる。自分という存在が忘れられたように扱われる。そういう思いを私たちもまたするでしょうか。けれど神は忘れられたその人を、ご自身の最も大切なご計画に用いられたのです。私たちの人生にも主のご計画が確かにあります。「このわたしは、あなたを忘れない。」この言葉は私たちにもまた語られています。

220731 イザヤ43:16-21 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」 勿来キリスト教会 住吉英治師

イザヤ43:16-21 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」 住吉英治師

211219 イザヤ59 ヨハネ1:9-13 「すべての人を照らすまことの光」

イザヤ59 ヨハネ1:9-13 「すべての人を照らすまことの光」

 ヨハネは「すべての人を照らすまことの光が来ようとしていた。」と言います。その背景には、すべての人を照らす光がなかったという現実があるわけです。そこには闇があった。まことの光が必要だった。だから、イエス様が来られたのです。
 私たちの人生で闇と感じるときはどんなときでしょうか。光が差さない。希望がない毎日。誰かの悪意にさらされ、何をやっても自分の思い通りに行かず、もうどうしていいかわからないそんな状況の中で闇を感じることでしょうか。イザヤ59章にあるように、明日に希望が持てず、今日を生きることに何の意味も見いだせないで、ただ死人のように無為に過ごしているとすれば、それはまさに闇であります。私たちはまっとうな扱いを願っているだけなのに、現実には偏見や贔屓や思惑が様々にあって、不当な扱いがあって、その出口の見えないとすれば、それもまた闇です。助けてくれる人は誰もおらず、慰めてくれる人もいない。挙げ句、私たちの最後の砦、神にまで見放されるとすれば、私たちはどうしようもない闇を実感するのです。
 けれど、そうじゃないとイザヤは言います。問題は闇じゃないんだと。問題は闇をもたらしたものにあるんだと、こう言うわけです。私たちは闇を恐れます。不満を感じます。なんで私を助けてくれないのか。と叫びたくなります。けれどその闇は、私たちの罪がもたらした結果なんだとイザヤは言うのです。神が私たちを闇に置いているのではありません。私たちが自らを闇に置いているのです。闇に身を潜めれば、罪を隠せるからです。私たちは闇を恐れていながら、決してそこから抜け出そうとはしないのです。咎を認めたくないのです。罪を明るみに出したくないのです。神の前に不用意に出ることを恐れているのです。だから自らを闇の中に置いて、不満を言っているくらいが居心地いいのです。私たちは自ら罪人だと言いながら、本当にその罪を嫌っているでしょうか。悔いているでしょうか。どこかで、その罪を手放せず、闇の中に身を潜める思いがあるのではないでしょうか。けれどその闇は、私たちが思っている以上に私たちを貪ります。縛り付けます。私たちは闇に身を隠し、息を潜める内に、そこに同化し、そこから抜け出せなくなってしまうのです。
 嘘を隠すために嘘を塗り重ねるということがありますが、自らの罪を明るみに出さないために、誰かの罪を断罪し、陥れ、自らの義を謀ることで、私たちはより深いその闇に身を潜めるのです。本当は気付いているのです。けれど、認めたくないのです。被害者ぶっていたいのです。「そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。」(59:15)本当にどうしようもない闇が私たちの内にあります。

 この闇の中に、まことの光が生まれた。この闇を照らすために、イエス様がお生まれになった。これがクリスマスです。主は、私たちが闇の中に身をゆだねているのを放っては置けなかったのです。私たちは自分ではもう抜け出せないほどに悪のとりことなっているからです。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:15b-16)これこそがクリスマスの全てです。それは主が私たちを見て心を痛められたという出来事です。悪のとりことなって、そこから抜け出さないでいる私たち、滅びに身を任せている私たちを憐れまれたという出来事。それゆえご自身の身を死に差し出されたという出来事であります。
イエス様誕生の背景には、イエス様の並々ならない覚悟と憐れみがあります。このイエス様の姿に照らされて、私たちは歩むのです。光は闇を照らすために来ました。イエス様は私たちの罪を明るみに出すために来られました。イエス様の人としての歩みが、十字架の御業が、私たちの今日の歩みを白日のもとに導くのです。それはもしかすると私たちにとっては見たくない部分かもしれません。できることならごまかしていたかったことかもしれません。少しくらい良いじゃないかという内なる声が聞こえてきます。けれど、イエス様はその少しのために命を捨てられたのです。イエス様はその少しのために、私たちが滅びることを放っては置けなかったからです。
 イザヤの預言は続きます。60章の1-3節「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。この光は私たちを断罪するための光ではありません。この光は私たちを導く光。これこそが私たちの希望なのです。

210509 イザヤ65:17-25 「新しい天地の関係」

イザヤ65:17-25 「新しい天地の関係」

イザヤ書65章は終末の預言です。その冒頭、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」とあります。天地創造に匹敵する新しい神の御業がなされるとの宣言です。そしてそれに続く新天新地の祝福の様子が明らかにされています。「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」と言うのです。ここはもう余計な解説はいりません。読めば読むほどに心が弾んでくるような神の新しい創造の御業が語られています。「数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。」とあります。また「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。」ともあります。そこには誰もが安心して暮らすことのできる日常があるのです。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。その日常はいつも神を身近に覚え、神の御声を聞くことができる。いえ、それどころか、神がご自身の民を一人ひとりご覧になられて、喜び、楽しんでくださると言う。そういう神と人、新しい天と新しい地との麗しい関係が創造されると語られる。新しい天と新しい地の創造。そこには古いそれとは違った天地の関係があります。天の父と地に住む私たちの関係が全く新しいものにされるのです。なんと素晴らしい幻ではないでしょうか。
 けれどです。彼らの置かれた現実はそうではありません。この終末の預言は、一義的には、後に来るバビロン捕囚とそこからの回復の預言だと言われています。ユダの民は多くの預言者たちによって罪を指摘され、道を正されますが、それでも尚、神のことばを無視して滅びの道を邁進していったのです。神に聞くことをせず、己の感と欲に身を任せて過ごす神の民ユダ。しかしその行き着く先は、国が蹂躙され、生まれたばかりの乳飲み子が命を失うという現実を迎えるようになる。安らかな死を迎える者は一人もおらず、住む家もなく、仕事も、食べるものすらもない。そういう極限の状況を迎える事となっていくのです。もうダメだ。もう神様は私たちをお見捨てになった。そういう絶望の中で、彼らはこの絶望が終わりではないことを知るのです。彼らにとって、当の昔に語られたイザヤの預言が、絶望の中の光となって彼らを支えるのです。
 新天新地の預言は、困難の中に生きる者にこそ励ましとなるものです。なぜなら、困難の中で主に立ち返る者は、やがて来る新天新地の完成を夢見るだけでなく、すでにその恵みを先取りしていることに気付くからです。新天新地と聞きますと、何か遠い未来の世界。別の次元の話を想像しますが、それは天におられる神と地に住む人々の関係が全く新しくされた世界。いえ、本来のあるべき関係とされるということです。天地創造において人は神の前に何ら恥じること無く、そのご栄光の前に身を晒して生きたことでした。神と直接顔を合わせ、声を交わし、麗しい関係がそこにはありました。神は人を信頼してこの世界を治めさせ、人はその使命に生きることを何物にも代えがたい充実を得て過ごしておりました。しかし罪のゆえにそれらは失われたのです。人にとって労働は苦しみとなり、神との間には致命的な断絶が生じてしまいました。けれどです。その関係が再び回復される。いえ、新しく築かれるとイザヤは言うのです。
 そして、このように理解すると、この新天新地の祝福が、やがて来る祝福であると共に、すでにある恵みであることがわかるのです。それは私たちにとって馴染みのあるもの。イエス様の十字架の贖いによって神の民とされた者への特権です。新しい天地は、神を王とした恵みの王国です。神がご自身の民を喜び楽しんでくださり、私たちもまた恐れではなくて信頼を持って主の御顔を仰ぎ見る。そのような麗しい関係がここにはあります。それはつまり地上の教会においてです。もちろん、それはまだ完成とは程遠いものです。その完成は主が再び来られる時に恵みとしてもたらさるものです。けれど私たちは御霊を受け、イエスの名によって祈り、神の御言葉に聞き従うことができるのです。