Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」
テサロニケ教会はパウロの第二次伝道旅行において誕生しました。ヨーロッパで最初の教会が誕生したのがピリピ。その後、パウロ一行はテサロニケに向かいます。そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで3週間、パウロはイエス・キリストこそが聖書の語る救い主であることを論証いたしました。その結果、幾人かのユダヤ人と大勢の神を敬うギリシャ人が信じました。ところが、妬みにかられたユダヤ人がならず者を集めて、暴動を起こし、ヤソンの家を襲ったのです。ヤソンはテサロニケでパウロたちを迎え入れた家の者です。この暴動によりパウロとシラスはテサロニケに留まれず、ベレヤへと逃げ落ちることとなるのでした。
たった3週間の滞在で教会が建ったということは聖霊による驚くべき御業です。しかし、同時にパウロには十分に福音が伝えきれなかったという心残りがありました。テサロニケのユダヤ人指導者はわざわざベレヤにまで追いかけて、そこでも群衆を扇動して騒動を起こします。パウロはさらにアテネ、そしてコリントへと移動します。この時のパウロは行く先々で迫害に遭い、逃れるように次の町へと移動しました。そしてコリントでようやく落ち着くことができたパウロは、気がかりだったテサロニケの信者のことを聞くためにベレヤに残したテモテを呼び寄せました。テモテの報告を聞くと、案の定、テサロニケの信者の中に混乱があるようです。例えば、キリストがもうすぐ再臨するのだから働く必要は無いと考える者や、すでに死んでしまった者は再臨に与れないと考えて悲嘆にくれる者たちがおりました。異教的な生活に戻ってしまう者もおりました。そんな彼らの誤解を解き、信仰を励ますためにこの手紙がしたためられました。
今日の箇所は、4章で再臨における死者の取り扱いについてが記され、そのことを踏まえた上で今をどのように生きるかということに言及したところです。主の再臨は「突如」「滅び」として襲い掛かり、誰も「逃れることはできず」、しかし信仰者にとってそれは決して「襲うことはない」ものであって、「救いを得る」ことだとパウロは語ります。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と奨めるのです。
私たちは信仰を持っていても様々に悩み、恐れ、不安になります。私たちにはどれだけ考えようとも先のことはわからないからです。けれど、わからない将来は、主の知られないところではない。私たちは人生を己の手の内から主に委ねることを通して、初めて不安から解き放たれるのです。私たちの悩みは将来に訪れる困難を思いやってのことでしょうか。けれど、これまでの人生の中で、その困難こそが私たちを救いの恵みに導いたことではないでしょうか。主の取り扱いの確かさに気付かされる出来事ではなかったでしょうか。私たちは再臨を恐れます。困難を恐れます。けれどその再臨は、困難は、主にあっては別の意味を持っています。それは救いであり、ご計画であり、主が共におられることの確かさとされるのです。
主の再臨は必ず来ます。誰も逃れることはできない滅びは必ずやって来ます。けれど、それがいつかは私たちには知らされてはいません。これは大事なことです。いつやって来るか知っていれば、私たちは今はまだ大丈夫と考えるでしょう。滅びる日を逆算して、安心してしまうことでしょう。もしくは、もう何をやっても関係ない、どうせ終わりが来るのだからと刹那的に振舞うことでしょう。けれど、私たちのそういう生き方を神は望んではおられません。ルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」と言いました。永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」
テサロニケ教会はパウロの第二次伝道旅行において誕生しました。ヨーロッパで最初の教会が誕生したのがピリピ。その後、パウロ一行はテサロニケに向かいます。そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで3週間、パウロはイエス・キリストこそが聖書の語る救い主であることを論証いたしました。その結果、幾人かのユダヤ人と大勢の神を敬うギリシャ人が信じました。ところが、妬みにかられたユダヤ人がならず者を集めて、暴動を起こし、ヤソンの家を襲ったのです。ヤソンはテサロニケでパウロたちを迎え入れた家の者です。この暴動によりパウロとシラスはテサロニケに留まれず、ベレヤへと逃げ落ちることとなるのでした。
たった3週間の滞在で教会が建ったということは聖霊による驚くべき御業です。しかし、同時にパウロには十分に福音が伝えきれなかったという心残りがありました。テサロニケのユダヤ人指導者はわざわざベレヤにまで追いかけて、そこでも群衆を扇動して騒動を起こします。パウロはさらにアテネ、そしてコリントへと移動します。この時のパウロは行く先々で迫害に遭い、逃れるように次の町へと移動しました。そしてコリントでようやく落ち着くことができたパウロは、気がかりだったテサロニケの信者のことを聞くためにベレヤに残したテモテを呼び寄せました。テモテの報告を聞くと、案の定、テサロニケの信者の中に混乱があるようです。例えば、キリストがもうすぐ再臨するのだから働く必要は無いと考える者や、すでに死んでしまった者は再臨に与れないと考えて悲嘆にくれる者たちがおりました。異教的な生活に戻ってしまう者もおりました。そんな彼らの誤解を解き、信仰を励ますためにこの手紙がしたためられました。
今日の箇所は、4章で再臨における死者の取り扱いについてが記され、そのことを踏まえた上で今をどのように生きるかということに言及したところです。主の再臨は「突如」「滅び」として襲い掛かり、誰も「逃れることはできず」、しかし信仰者にとってそれは決して「襲うことはない」ものであって、「救いを得る」ことだとパウロは語ります。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と奨めるのです。
私たちは信仰を持っていても様々に悩み、恐れ、不安になります。私たちにはどれだけ考えようとも先のことはわからないからです。けれど、わからない将来は、主の知られないところではない。私たちは人生を己の手の内から主に委ねることを通して、初めて不安から解き放たれるのです。私たちの悩みは将来に訪れる困難を思いやってのことでしょうか。けれど、これまでの人生の中で、その困難こそが私たちを救いの恵みに導いたことではないでしょうか。主の取り扱いの確かさに気付かされる出来事ではなかったでしょうか。私たちは再臨を恐れます。困難を恐れます。けれどその再臨は、困難は、主にあっては別の意味を持っています。それは救いであり、ご計画であり、主が共におられることの確かさとされるのです。
主の再臨は必ず来ます。誰も逃れることはできない滅びは必ずやって来ます。けれど、それがいつかは私たちには知らされてはいません。これは大事なことです。いつやって来るか知っていれば、私たちは今はまだ大丈夫と考えるでしょう。滅びる日を逆算して、安心してしまうことでしょう。もしくは、もう何をやっても関係ない、どうせ終わりが来るのだからと刹那的に振舞うことでしょう。けれど、私たちのそういう生き方を神は望んではおられません。ルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」と言いました。永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」