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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220522 Ⅰテサロニケ4:13-18 「死して尚用いられる器」

Ⅰテサロニケ4:13-18 「死して尚用いられる器」

 天の御国の希望とは、雲のような掴みどころのない希望ではありません。私たちに関わるあの兄弟、あの姉妹との具体的な再会を意味しています。そしてこのことは、より大きな一つの恵みへと私たちの目を向けさせます。それは主イエスとの再会です。4:14に「イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」とあります。4:17には「私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」ともあります。私たちは来たるべき御国において、私たちの恋い慕うところのイエス様と、ようやく面と向かってお会いすることが出来る。いつまでも主とともいるようになるのです。
 さて、パウロは天の御国の順番について言及しています。「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」(4:15)
 「生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」これは何を意味しているのでしょう。ぱっと思いつくのが、入場門の前に並んだ整列でしょうか。日本人は整列するのが好きですね。ラーメン屋でも行列の店と行列のない店が隣同士にあれば、多くの人はたとえ時間がかかっても行列の店に並ぶのではないでしょうか。教会の近くにあるドコモショップには、日曜日の開店前いつも列が出来ていますね。凄いなぁと思ったりします。そんな日常に暮らす私たちですので、ともかく想像するのは、天国の門の前に先に死んだ人から一列に順番につきまして、その後に再臨を生き残った者たち。そしてまだ死に与ることなく迎える者たちがその順番の後ろにつく。こういう場面でありましょうか。でもまぁ、これはちょっと想像しすぎでありましょう。
 ここで強調されているのは行列の順番ではありません。それよりは御国の確かさです。死んでいる人々、眠っている人々はもうすでに主イエスとともにあるというこの事実です。
 先に召された兄弟姉妹を覚えて、私たちはこのような墓地礼拝を持っているわけですが、それは兄弟姉妹が生前このように過ごされた。そういえばあの時こうだった。こんなことがあった。と単なる昔を懐かしむということだけに留まりません。そのように共に過ごした懐かしい兄弟姉妹は、今や、私たちに先んじてよみがえり主とともにある。この約束の中に置かれているということであります。そしてこのことは次に、私たちもその列に加えられるということでもあります。
 以前ある方と話しておりましたら、その方はご自身のことを4代目のクリスチャンだとおっしゃっておられました。4代目と言いますと江戸時代まで遡るでしょうか。すごいですね。聖書を焼かれながら信仰を守ったらしいとお聞きしました。その1代目から、2代目、3代目、歴代の信仰の歩みを誇らしげに語ってくださいました。その方の天の御国の希望はそれははっきりしています。あのあばあちゃんに会える。あのおじいちゃんが先にいる。そういう天の御国の希望です。先立って天にいる信仰者の存在が天の希望なのです。そしてこの希望の中にその方も、そして私たちも入れられていく。
 つまり、私たちもまたやがて次の世代の希望となるのです。私たちが天に召されることで、次の者たちは、ちょうど今の私たちのように、天の御国を確かなものとして想像するようになるのです。子どもたちが、孫たちが、私たちを思い浮かべて天国での再会を待ち望む。そうやって天の御国の希望は引き継がれていくのです。私たちの死すらも続く者たちへの慰めとなる。励ましとなる。これはなんと凄いことでしょうか。私たちは死して尚、主を証しする者として用いられるのです。

211212 Ⅰテサロニケ5:1-11 「何をすべきですか」

Ⅰテサロニケ5:1-11 「何をすべきですか」

 主イエスの再臨をどのように待つべきか。私たちはその見本となる姿を、クリスマスの出来事から見ることができます。それはイエス様の母となるマリアの姿からです。御使いのお告げで救い主の母となることを告げられたマリア。ヨセフとの婚約期間中でありました。律法によりますと、婚約中の女性が夫以外の子を産むというのは、石打にあってもおかしくありません。ガブリエルのお告げは、おいそれと、めでたいと受け止められるような内容ではないのです。
 戸惑うマリアは声を振り絞って問いかけます。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」これに対して御使いガブリエルは、それは聖霊の力によると言います。そして神にとって不可能なことは一つもないとです。そして、主には不可能なことがないという証拠として与えられたしるしが、不妊の女エリサベツの胎の実であると言うのです。エリサベツはマリアの親戚にあたります。子が産めなかったエリサベツは、きっと幼いマリアを実の子のようにかわいがっていたことでしょう。そして、マリアもまた、不妊の女の悲しみを身近に見ていたことでしょう。そのエリサベツに子が与えられた。本当だとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。自分のことで言えば、戸惑いしか無い御使いの知らせ。けれど、エリサベツの身に起きた奇跡ならマリアは心から喜べます。神のなさることは全て時にかなって美しい。それは間違いなく主がなさることに違いありません。そして主がなさるのなら、私に告げられたことも、その通りになるしかない。マリアはエリサベツの出来事を聞いて、この御使いの言うとおり、ただ主を信じて受け入れる決心をしたのです。38節「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 では、御使いのお告げを受け入れたマリアはどうしたでしょう。救い主誕生までの日々をどのように待ち続けたのでしょう。彼女はすぐさまエリサベツの元に駆け付けます。そして、そのお告げの正しさを確認するのです。そこには半年後の自分の姿がありました。認めざるを得ない、御使いの知らせの正しさがありました。不妊で悩み続けた叔母の穏やかで喜ばしい姿がありました。そして何よりも、誰にも相談できない突然の重荷を、ひと目で認め合い、励まし合い、理解し合える交わりがありました。他の誰に言っても信じてもらえない。話せない。けれどエリサベツになら話せます。彼女だけは、この世界で唯一、マリヤの置かれた状況を理解してくれる。同情してくれる。そういう安全で平和な交わりに、マリアは3ヶ月の間身を置いて、来る結婚と出産に備えたのでありました。
 さて話は変わりますが、今日の箇所第1テサロニケ5章では、イエス様の再臨を待ち望むキリスト者の有り様が教えられております。主の日は盗人が夜やって来るように来ると言います。つまり主は予期しない時に、突如としてやって来るという意味です。その日、突然の破滅が襲います。主の日とは、主のさばきの日です。妊婦に産みの苦しみが臨むように、誰もこれを逃れることはできません。けれど備えることはできます。「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。」ですから目を覚ましておけば良いのです。常日頃から光に留まっていれば良いのです。そうすれば、その突然の日を恐れることはないし、慌てることもありません。
 パウロは主の日に備えるにあたって、目を覚まし、身を慎んでいましょう。信仰の武具を身に着けましょう。そしてそのために互いに励まし合い、互いに高め合いましょう。と、こう言っています。目を覚ましというのは、昼に活動する、光に側に立つということです。慎むというのは、過ちや軽はずみなことを避けるということです。信仰と愛、救いの望みにしっかりと目を向けて、罪の誘惑に身を委ねないで過ごしましょうというのです。
 そして、そのために大事なのが、互いに励まし合い、互いを高め合うということです。私たちはどれだけ高い志を持とうと、一人では弱いからです。欠けだらけだからです。励まし合い、高め合うことをもって私たちはようやく主とともに生きるのです。私たちはキリストの部分であります。それぞれを担う掛け替えのない部分。しかしそれは同時に、一つだけでは機能しないということです。励まし合い、高め合い、補い合って、私たちはキリストの体とされていくのです。マリアにはエリサベツが必要でした。エリサベツが共感し、受け入れ、喜んだことが、孤独のマリアを主の内に生かしたのです。私たちにも主にある兄弟姉妹との交わりが必要なのです。声を掛け合って、目を覚まし合って、今日、主とともにあることの幸いを積み重ねてまいりましょう。

210203 Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

 テサロニケ教会はパウロの第二次伝道旅行において誕生しました。ヨーロッパで最初の教会が誕生したのがピリピ。その後、パウロ一行はテサロニケに向かいます。そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで3週間、パウロはイエス・キリストこそが聖書の語る救い主であることを論証いたしました。その結果、幾人かのユダヤ人と大勢の神を敬うギリシャ人が信じました。ところが、妬みにかられたユダヤ人がならず者を集めて、暴動を起こし、ヤソンの家を襲ったのです。ヤソンはテサロニケでパウロたちを迎え入れた家の者です。この暴動によりパウロとシラスはテサロニケに留まれず、ベレヤへと逃げ落ちることとなるのでした。
 たった3週間の滞在で教会が建ったということは聖霊による驚くべき御業です。しかし、同時にパウロには十分に福音が伝えきれなかったという心残りがありました。テサロニケのユダヤ人指導者はわざわざベレヤにまで追いかけて、そこでも群衆を扇動して騒動を起こします。パウロはさらにアテネ、そしてコリントへと移動します。この時のパウロは行く先々で迫害に遭い、逃れるように次の町へと移動しました。そしてコリントでようやく落ち着くことができたパウロは、気がかりだったテサロニケの信者のことを聞くためにベレヤに残したテモテを呼び寄せました。テモテの報告を聞くと、案の定、テサロニケの信者の中に混乱があるようです。例えば、キリストがもうすぐ再臨するのだから働く必要は無いと考える者や、すでに死んでしまった者は再臨に与れないと考えて悲嘆にくれる者たちがおりました。異教的な生活に戻ってしまう者もおりました。そんな彼らの誤解を解き、信仰を励ますためにこの手紙がしたためられました。
 今日の箇所は、4章で再臨における死者の取り扱いについてが記され、そのことを踏まえた上で今をどのように生きるかということに言及したところです。主の再臨は「突如」「滅び」として襲い掛かり、誰も「逃れることはできず」、しかし信仰者にとってそれは決して「襲うことはない」ものであって、「救いを得る」ことだとパウロは語ります。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と奨めるのです。
 私たちは信仰を持っていても様々に悩み、恐れ、不安になります。私たちにはどれだけ考えようとも先のことはわからないからです。けれど、わからない将来は、主の知られないところではない。私たちは人生を己の手の内から主に委ねることを通して、初めて不安から解き放たれるのです。私たちの悩みは将来に訪れる困難を思いやってのことでしょうか。けれど、これまでの人生の中で、その困難こそが私たちを救いの恵みに導いたことではないでしょうか。主の取り扱いの確かさに気付かされる出来事ではなかったでしょうか。私たちは再臨を恐れます。困難を恐れます。けれどその再臨は、困難は、主にあっては別の意味を持っています。それは救いであり、ご計画であり、主が共におられることの確かさとされるのです。
 主の再臨は必ず来ます。誰も逃れることはできない滅びは必ずやって来ます。けれど、それがいつかは私たちには知らされてはいません。これは大事なことです。いつやって来るか知っていれば、私たちは今はまだ大丈夫と考えるでしょう。滅びる日を逆算して、安心してしまうことでしょう。もしくは、もう何をやっても関係ない、どうせ終わりが来るのだからと刹那的に振舞うことでしょう。けれど、私たちのそういう生き方を神は望んではおられません。ルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」と言いました。永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

180422 Ⅰテサロニケ4:13-18 「希望ある人生」

Ⅰテサロニケ4:13-18 「希望ある人生」

 聖書の中の聖書と言われるヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と記されています。本来、人は滅びるしかない存在でありますが、御子を信じるならば、私たちは決して滅びることなく、永遠のいのちを持つ。これが聖書の語る希望です。
 しかしです。滅びることなく、永遠のいのちを持つとは、どういう意味なのでしょうか。人は皆死にます。信じる者、信じない者を関係なく、死は全ての者に訪れます。これは疑いようのない事実です。では、それは滅びるということとは違うのでしょうか。人は皆死ぬのであれば、永遠のいのちとは言えないのではないでしょうか。死は人にとって、希望ではなくて絶望ではないでしょうか。
 実は聖書は死後の取り扱いについて2つの視点から語ります。一つは霊においては、私たちはキリストの贖いのゆえに滅ぼされることなく、永遠の神と共にある永遠のいのちとされること。そしてもう一つ、肉においては、死んで朽ち果てる者ですが、キリストが再び来られる日には、新しい体をいただいてよみがえることです。ですから、一方ではすでにもう永遠のいのちの中に入れられているのであり、もう一方では、これから後に用意されている。これはどちらがではなくて、どちらも正しい。神にあって矛盾なく約束されているところです。
 私の母教会の友人が交通事故で意識不明の状態になったことがあります。丸2日経ちまして、奇跡的に意識を取り戻しました。私たちは彼のために祈り、その時間は永遠かと思うような時間を過ごしました。けれど、後になって本人に聞きますと、彼にとってそれは一瞬の出来事で、事故をしたと思ったら次の瞬間には、もう病院のベッドだったと言うのです。つまり眠っていたようなものです。彼の回復は、2日間とも言えますし、一瞬とも言える。それはどちらが正しいということではありません。どちらも正しい。永遠のことを、私たちの側から見れば、それは後の日の希望です。しかし、先に召された者から見れば、それは一瞬の出来事で、すでにある希望なのです。
 では、そのことはいったい何を意味するのでしょうか。ここから急に身近な話になるわけですが、だから私たちは天の御国に具体的な兄弟姉妹の姿を思い浮かべることができる。先に召された兄弟姉妹との再会を天の希望とすることができるのです。墓を掘り返したら骨がある。そこにあるのだから天国にはまだ入れられていないし、よみがえりもしていない。という話ではありません。古いゾンビ映画を思い浮かべる必要は全くありません。天の御国は遠い遠い未来のいつかやって来る希望ではなくて、すでにある希望です。私たちの愛する兄弟姉妹は、すでに神の永遠の中にあり、やがて私たちもまた同じところに入れられるのです。

160515 Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」 召天者記念礼拝

Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」

 本日は、召天者記念礼拝です。私たちがこのようにして、先に召された兄弟姉妹を覚えるということはどのような意味があるのでしょうか。それはつまり天の御国をよりリアルに感じるということであります。
 天国ということを思います時に、私たちは色々な想像をするかと思います。聖書もまた、天の御国はこのようなものだと、色々と教えてくれています。ある個所では、「天の御国はからし種のようなものだ」と言っています。「パン種」と言ったり、「畑に隠された宝」のようだとも言っています。その他にも、様々にたとえを用いて、イエス様は天の御国と言うものについて教えてくださいます。また、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」とありますし、そこには私たちの住まいがすでに用意されているということを私たちは聞き及んでおります。そこでは、主の栄光が私たちを照らし、都の大通りの中央には水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木が12種の実を実らせていると言うのです。そして、このような天の御国に入れられる。この天の御国において今度は朽ちない体をいただき、永遠に神と共に生きる。これが私たちの希望だと言うのです。
 天の御国については、様々に、断片的に、私たちはその情報を得ます。けれども、実際のところ、それで私たちはどれほど具体的に天の御国を想像できますでしょうか。その恵みを心待ちにしますでしょうか。そこが素晴らしい所だということはわかります。しかし正直な話、具体的なことは行ってみないとわからないというのが、本音ではないでしょうか。
 しかし、そんな私たちにとって、天の御国を確かな希望とするのが、先に召された兄弟姉妹の存在です。私たちは彼らを思うとき、急に天の御国が身近なところと感じることができるのです。
 この3月の終わりに、教会に集っていたご家族がシンガポールに引っ越されました。それ以来、我が家の子どもたちはことあるごとにシンガポールの話をします。TVでシンガポールの映像が流れる度に大騒ぎです。それまでシンガポールという国は、彼らにとって遠い国。全く関係のない国でした。けれど、今やシンガポールは行きたい国ランキング第一位です。その国がどんな国か。どういう文化で、どういう生活か。彼らは何も知りません。そんなことよりも、何よりも、そこに親しい友達がいる。すると、もう、その国は身近で特別な国となるのです。
 パウロは、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と言います。眠った人々、先に召された兄弟姉妹を覚えることが、私たちの天の希望を確かなものとするのです。天の御国はもはや遠い世界の話ではありません。私たちの実際的な希望なのです。