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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210203 Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

Ⅰテサロニケ5:1-11 「今しているとおり」

 テサロニケ教会はパウロの第二次伝道旅行において誕生しました。ヨーロッパで最初の教会が誕生したのがピリピ。その後、パウロ一行はテサロニケに向かいます。そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで3週間、パウロはイエス・キリストこそが聖書の語る救い主であることを論証いたしました。その結果、幾人かのユダヤ人と大勢の神を敬うギリシャ人が信じました。ところが、妬みにかられたユダヤ人がならず者を集めて、暴動を起こし、ヤソンの家を襲ったのです。ヤソンはテサロニケでパウロたちを迎え入れた家の者です。この暴動によりパウロとシラスはテサロニケに留まれず、ベレヤへと逃げ落ちることとなるのでした。
 たった3週間の滞在で教会が建ったということは聖霊による驚くべき御業です。しかし、同時にパウロには十分に福音が伝えきれなかったという心残りがありました。テサロニケのユダヤ人指導者はわざわざベレヤにまで追いかけて、そこでも群衆を扇動して騒動を起こします。パウロはさらにアテネ、そしてコリントへと移動します。この時のパウロは行く先々で迫害に遭い、逃れるように次の町へと移動しました。そしてコリントでようやく落ち着くことができたパウロは、気がかりだったテサロニケの信者のことを聞くためにベレヤに残したテモテを呼び寄せました。テモテの報告を聞くと、案の定、テサロニケの信者の中に混乱があるようです。例えば、キリストがもうすぐ再臨するのだから働く必要は無いと考える者や、すでに死んでしまった者は再臨に与れないと考えて悲嘆にくれる者たちがおりました。異教的な生活に戻ってしまう者もおりました。そんな彼らの誤解を解き、信仰を励ますためにこの手紙がしたためられました。
 今日の箇所は、4章で再臨における死者の取り扱いについてが記され、そのことを踏まえた上で今をどのように生きるかということに言及したところです。主の再臨は「突如」「滅び」として襲い掛かり、誰も「逃れることはできず」、しかし信仰者にとってそれは決して「襲うことはない」ものであって、「救いを得る」ことだとパウロは語ります。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と奨めるのです。
 私たちは信仰を持っていても様々に悩み、恐れ、不安になります。私たちにはどれだけ考えようとも先のことはわからないからです。けれど、わからない将来は、主の知られないところではない。私たちは人生を己の手の内から主に委ねることを通して、初めて不安から解き放たれるのです。私たちの悩みは将来に訪れる困難を思いやってのことでしょうか。けれど、これまでの人生の中で、その困難こそが私たちを救いの恵みに導いたことではないでしょうか。主の取り扱いの確かさに気付かされる出来事ではなかったでしょうか。私たちは再臨を恐れます。困難を恐れます。けれどその再臨は、困難は、主にあっては別の意味を持っています。それは救いであり、ご計画であり、主が共におられることの確かさとされるのです。
 主の再臨は必ず来ます。誰も逃れることはできない滅びは必ずやって来ます。けれど、それがいつかは私たちには知らされてはいません。これは大事なことです。いつやって来るか知っていれば、私たちは今はまだ大丈夫と考えるでしょう。滅びる日を逆算して、安心してしまうことでしょう。もしくは、もう何をやっても関係ない、どうせ終わりが来るのだからと刹那的に振舞うことでしょう。けれど、私たちのそういう生き方を神は望んではおられません。ルターは「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」と言いました。永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

180422 Ⅰテサロニケ4:13-18 「希望ある人生」

Ⅰテサロニケ4:13-18 「希望ある人生」

 聖書の中の聖書と言われるヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と記されています。本来、人は滅びるしかない存在でありますが、御子を信じるならば、私たちは決して滅びることなく、永遠のいのちを持つ。これが聖書の語る希望です。
 しかしです。滅びることなく、永遠のいのちを持つとは、どういう意味なのでしょうか。人は皆死にます。信じる者、信じない者を関係なく、死は全ての者に訪れます。これは疑いようのない事実です。では、それは滅びるということとは違うのでしょうか。人は皆死ぬのであれば、永遠のいのちとは言えないのではないでしょうか。死は人にとって、希望ではなくて絶望ではないでしょうか。
 実は聖書は死後の取り扱いについて2つの視点から語ります。一つは霊においては、私たちはキリストの贖いのゆえに滅ぼされることなく、永遠の神と共にある永遠のいのちとされること。そしてもう一つ、肉においては、死んで朽ち果てる者ですが、キリストが再び来られる日には、新しい体をいただいてよみがえることです。ですから、一方ではすでにもう永遠のいのちの中に入れられているのであり、もう一方では、これから後に用意されている。これはどちらがではなくて、どちらも正しい。神にあって矛盾なく約束されているところです。
 私の母教会の友人が交通事故で意識不明の状態になったことがあります。丸2日経ちまして、奇跡的に意識を取り戻しました。私たちは彼のために祈り、その時間は永遠かと思うような時間を過ごしました。けれど、後になって本人に聞きますと、彼にとってそれは一瞬の出来事で、事故をしたと思ったら次の瞬間には、もう病院のベッドだったと言うのです。つまり眠っていたようなものです。彼の回復は、2日間とも言えますし、一瞬とも言える。それはどちらが正しいということではありません。どちらも正しい。永遠のことを、私たちの側から見れば、それは後の日の希望です。しかし、先に召された者から見れば、それは一瞬の出来事で、すでにある希望なのです。
 では、そのことはいったい何を意味するのでしょうか。ここから急に身近な話になるわけですが、だから私たちは天の御国に具体的な兄弟姉妹の姿を思い浮かべることができる。先に召された兄弟姉妹との再会を天の希望とすることができるのです。墓を掘り返したら骨がある。そこにあるのだから天国にはまだ入れられていないし、よみがえりもしていない。という話ではありません。古いゾンビ映画を思い浮かべる必要は全くありません。天の御国は遠い遠い未来のいつかやって来る希望ではなくて、すでにある希望です。私たちの愛する兄弟姉妹は、すでに神の永遠の中にあり、やがて私たちもまた同じところに入れられるのです。

160515 Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」 召天者記念礼拝

Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」

 本日は、召天者記念礼拝です。私たちがこのようにして、先に召された兄弟姉妹を覚えるということはどのような意味があるのでしょうか。それはつまり天の御国をよりリアルに感じるということであります。
 天国ということを思います時に、私たちは色々な想像をするかと思います。聖書もまた、天の御国はこのようなものだと、色々と教えてくれています。ある個所では、「天の御国はからし種のようなものだ」と言っています。「パン種」と言ったり、「畑に隠された宝」のようだとも言っています。その他にも、様々にたとえを用いて、イエス様は天の御国と言うものについて教えてくださいます。また、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」とありますし、そこには私たちの住まいがすでに用意されているということを私たちは聞き及んでおります。そこでは、主の栄光が私たちを照らし、都の大通りの中央には水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木が12種の実を実らせていると言うのです。そして、このような天の御国に入れられる。この天の御国において今度は朽ちない体をいただき、永遠に神と共に生きる。これが私たちの希望だと言うのです。
 天の御国については、様々に、断片的に、私たちはその情報を得ます。けれども、実際のところ、それで私たちはどれほど具体的に天の御国を想像できますでしょうか。その恵みを心待ちにしますでしょうか。そこが素晴らしい所だということはわかります。しかし正直な話、具体的なことは行ってみないとわからないというのが、本音ではないでしょうか。
 しかし、そんな私たちにとって、天の御国を確かな希望とするのが、先に召された兄弟姉妹の存在です。私たちは彼らを思うとき、急に天の御国が身近なところと感じることができるのです。
 この3月の終わりに、教会に集っていたご家族がシンガポールに引っ越されました。それ以来、我が家の子どもたちはことあるごとにシンガポールの話をします。TVでシンガポールの映像が流れる度に大騒ぎです。それまでシンガポールという国は、彼らにとって遠い国。全く関係のない国でした。けれど、今やシンガポールは行きたい国ランキング第一位です。その国がどんな国か。どういう文化で、どういう生活か。彼らは何も知りません。そんなことよりも、何よりも、そこに親しい友達がいる。すると、もう、その国は身近で特別な国となるのです。
 パウロは、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と言います。眠った人々、先に召された兄弟姉妹を覚えることが、私たちの天の希望を確かなものとするのです。天の御国はもはや遠い世界の話ではありません。私たちの実際的な希望なのです。