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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230702 ローマ12:9-21 「主にある交わり」

ローマ12:9-21 「主にある交わり」

 私たちがこの地にあっては寄留者であり、旅人の如くであり、それはどこまで行ってもアウェイなんだということ。それはイエス様ご自身が、私たちを狼の中に送り出すようなものだとおっしゃっていたことからもわかります。イエス様は私たちのことを心配しながらも、それでいて信頼しておられる。だからこそ、私たちにとってのホームを常に確保しておくということが大事なわけです。
 私たちの信仰生活において、ホームとはもちろん主の御下であり、そして教会です。いえ、教会と言いましたが、より具体的に言うと、主にある交わりと言えるでしょう。私たちは日曜日には教会に通い礼拝を捧げ、平日にあっては世の光となり地の塩となる。教会の意義は礼拝と宣教にあることは明白ですが、極端な話、礼拝と宣教は一人でもできるのです。けれど、交わりは一人ではできません。なぜ教会は共に集うのか。コロナ禍を経験して、私たちはそのことの意味が問われたのです。リモート礼拝もあるのです。私たちはリモート礼拝の霊的な根拠を「一つの御霊による」と理解しました。私たちを結び合わせるのは私たちの内におられる御霊によるという理解です。お陰で、私たちは世界的パンデミックの中でも礼拝を守ることができたのです。けれどです。だったらもうそれで良いじゃないか、という話でしょうか。じゃあ実際に集まるということにはもう意味がないのでしょうか。決してそんな事はありません。聖書は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)と言っています。確かに礼拝はできる。宣教もできる。けれど、集まるということにはもう一つ大切な意味がある。それは互いを励まし合うこと。つまり主にある交わりだと聖書は言うのです。
 ローマ書12章では、共同体のあり方についてが記されています。まずパウロは「その身を聖い、生きた供え物として献げ」ることが礼拝だと言いまして、だから、この世と調子を合わせてはいけないと言います。私たちが世と一線を引いた者、神のみこころを第一とする者、つまり新しい神の民であることを意識するように言うわけです。では神の民であるとはどういうことか。それは、私たちが一つのからだ、主にある教会を形成する各器官であるということです。ここでは特に私たちが異なる器官であることが強調されています。異なるからこそ、一人ひとり特別の意味を持つ存在として、互いを必要とし、互いに補い合うことができるんだと言うのです。教会とはそういう集まりなんだと。教会は競い合う場ではなくて、補い合う場なのだとです。
 そして、9節からはより具体的な共同体でのあり方についてが記されていきます。私たちはこの交わりの中でどのようにあるべきか。それは「愛には偽りがあってはなりません。」と語られる通りです。奉仕から、祈りから、交わりから、愛が失われれば、それは偽りでしか無いのです。義務感も、満足感も、責任感すらも、それらの根拠としてはいけないのです。
 では、偽らないことが愛なのか。そうですね。偽りがないこと。それは愛の条件です。けれど、それだけではいけない。私たちの偽らざる本音が相手を傷つけないとは限らないからです。私たちの思いが必ずしも相手に受け入れられるわけでもないからです。「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」とあります。その愛には相手に対するリスペクトが必要なのです。独りよがりではいけないのです。相手を無視して、自分のしたいことを一方的に押し付ける独りよがりの愛は、愛ではないのです。相手を認めず、義務感で接することも愛ではありません。それは偽りの愛です。しかし相手をリスペクトできれば、私たちは確かに愛し合うことができるのです。相手が自分の担えない部分を担っている器官だと知れれば、それが、からだ全体にとって必要な器官だと知れれば、私たちが愛し合うことは可能なのです。ですから、パウロは「思い上がることなく」と語っています。「自分を知恵ある者と考えてはいけません。」とも語ります。自分の正しさを誇る時、私たちは相手を尊敬できなくなるからです。教会は善悪を刈り取る場ではありません。それは神のなさることです。私たちは、自分がからだの部分に過ぎないということを認めなくてはいけません。そして、隣りにいるその人もまた換えの利かない唯一の部分だとです。互いが異なる特別だと知れば、私たちは排除し合うのでなく、尊敬し合うことができるのです。
 私たちの本来の戦いはこの交わりの外にあります。私たちにはそれぞれアウェイの場が待っています。ですから、ホームにあっては、私たちは互いに応援するサポーターでありたいのです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」独りよがりの愛ではなくて、相手を良く観察し、理解し、受け止め、そして私たちは寄り添うのです。

220807 ローマ8:14-17 「私たちは愛される子」

ローマ8:14-17 「私たちは愛される子」

 教会は神の家族と言われますが、その根幹は親子関係にあります。なぜなら全ての兄弟関係は、親子関係のもとに生まれるからです。私たちはなぜ教会で兄弟姉妹と呼びあうのでしょう。それは私たちが同じ親を持ったからです。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を信じる者には、神の子どもとなる特権が与えられる。神の子どもとされる。神と親子関係になる。だから、私たちは同じ天の父を持つ者として兄弟姉妹。神の家族とされるのです。ですから教会の交わりを考える時、何よりも大事にしなくてはならないのは、まず一人ひとりが天の父との関係をしっかりと築くということです。父との関係を失えば、必然的に兄弟姉妹の関係も失われてしまうのです。神の家族を考えるとき、私たちはまず神の子とされることの意味を理解しなければなりません。
 私たちが神の子とされる。それは神の子としての特権を相続するということです。では特権とは何でしょう。
 ひかり幼稚園の春の風物詩に年少さんの涙の登園風景がありますね。登園して親がいる間は大丈夫。けれど親がいなくなるとわかった途端、その子はけたたましく泣き叫ぶのです。逆に言いますと、それだけ親に安心しているということです。幼い子どもは親が自分の味方であると本能的に理解しています。ですから親と一緒にいるとき、安心して自由に過ごすことができます。私たちも同じです。父なる神と共にいる時、本当の意味で安心して過ごすことができます。父なる神が見守っていてくださるからです。
 子としての自由は、思いのままに親の元に近づく自由でもあります。たとえば私たちが王様の前に出ることは、沢山の手続きとボディーチェックが必要で、たとえそれらをパスしたとしても、多大な緊張を強いられることは否めません。けれど子どもなら別です。どれだけ権威ある王様であろうと、子にとっては一人の親でしかないからです。それは天地の造り主である神であっても変わりません。神は私たちの父なるお方です。だからこそ私たちは何を恐れることなく、奴隷の霊を持つこと無く、父の御前に自由に出ることができるのです。これらは神の子とされた者の特権です。8:15に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」とあります。私たちは御霊によって神の子とされました。それゆえに、私たちは全能の神を何ら恐れること無く、父なる神と呼ぶことができる。安心して神とともにいられるのです。
 また、神の子どもとされるということは、その国籍が天国にあるということでもあります。なぜなら私たちは父なる神の養子とされたからです。神の子とされたのですから、その国籍は当然父なる神と共にあります。ですから私たちは国籍を天に置きながら地上の歩みをしているキリスト者なのです。天国人である私たちの地上での歩みは、それはもはや旅人であり、寄留者であると聖書は言っています。私たちにとっての地上の歩みはホームではありません。アウェーです。そこではむしろ緊張を強いられます。信仰のゆえの疎外感や戸惑いを味わうこともあります。けれど私たちはやがて帰ることが決まっているのです。帰るべきところのない旅は少しも楽しくありません。多くの人は将来に何の希望も持てません。希望のない世の中だから、とにかく今を楽しもう。そういう世の中です。多くの人にとって確かなのは今だけです。だから、今を楽しむ。けれど、それは不安を先延ばしにしているに過ぎません。私たちは神の子として、帰るべきホームを持っています。だからこそ今という時を安心して過ごせるのです。
 私たちは旅をしています。けれど私たちは決して一人ではありません。そこには子を慈しむ親の眼差しがあります。親は我が子の一挙一投足に関心を持って見守ります。わざかな変化、成長を心から喜びます。父なる神は私たちを見守り、いつでも手を差し伸べてくださるのです。それが子とされるということなのです。

211124 ローマ14:1-12 「感謝できているか」

ローマ14:1-12 「感謝できているか」

 信仰の弱い人を受け入れなさい。とあります。その例として、野菜しか食べない人を上げています。なんだかよくわからない例えに思えますが、当時の教会ではこれが大きな問題となっていたわけです。実はコリント教会でも同様の問題がありました。それは偶像に献げられた肉を食べるか食べないかという問題です。それは偶像礼拝ではないかというわけです。パウロはコリント10:23で「「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。」と言っています。そして「あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。」(10:27-28)とも言っています。つまり、食べるか食べないか。それは相手への配慮の問題だと言うのです。それをつまづきと感じる人がいるなら、食べてはいけないと言っています。
 パウロは野菜しか食べない人を弱い人だと言います。野菜しか食べないとは、偶像に捧げられたかもしれないので、その可能性を排除する人たちのことです。つまり律法を厳格に守ろうとする人たちです。そういう人こそ信仰深い人と普通は思いがちです。しかし、パウロはそのようには言いません。偶像は真の神ではないので、実際にはおりません。それは色々な形を持った石であり木であり、被造物に他なりません。それを偶像たらしめているのは、それを見る者の心です。真の神のみを信じ、その赦しをいただいたならば、本来信仰者は自由です。けれどそのことにつまづきを覚える人たちがいる。そんなのは信仰者として相応しくないと訴える人たちがいる。律法の鎖に縛られて、未だに不自由な人達がいる。そう言う救いの確信に立てない人をパウロは弱い人と呼んでいるのです。
 しかしパウロはそのような人たちがダメだと言っているのではありません。そう言う人たちを裁いてはいけないと言っているのです。それは逆もまた然りです。つまり、互いの信仰の違いを裁いてはいけないと言っているのです。自分の正義を押し付けない。他人の正義を評価しない。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。これは安息日を想定してのことでしょう。パウロはそのどちらかを否定してはいけないと言います。大事なのはその信仰が、神への感謝に基づいているかです。なぜ律法を大事とするのか。なぜ律法を気にしないのか。どちらも神への感謝に基づいているかと問うているのです。主イエスの救いに与って、この救いに感謝し、それに相応しく生きたいと願う。信仰の応答において律法は私たちを正しく測る物差しとなります。一方で主イエスの救いに感謝し、赦しを確信し、目に見える律法により頼まない。これもまた信仰の応答の一つの姿です。パウロはそのどちらも否定しません。それは神の憐れみの範疇に置かれると言うのです。そもそもの話、私たちに完璧な正義はありません。私たちの理想はそれぞれにあるでしょう。しかし、その理想に叶う人など自分を含めて誰一人おりません。なのに、なぜ他人の信仰を裁くのか。それはどこかに自分が正しいという思いがあるからです。聖書はことある毎に言っています。正義は私たちの内に無いとです。正義はただイエス・キリストにある。その正義は律法の字面ではなくて、その御心を汲み取り、愛に基づく寛容と自己犠牲の正義です。自分の目の中に大きな梁があるのに、他人の目の埃を払おうとするのは、なんと醜い光景でしょうか。私が問うべきは他人の信仰の是非ではありません。私自身が今、主の恵みに感謝できているかどうかです。

211117 ローマ10:14-21 「後のことは主に委ねて」

ローマ10:14-21 「後のことは主に委ねて」

 10:13に「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」とあります。けれど宣べ伝える者がいなければ聞くことはできないし、聞くことができなければ信じることなどできません。信じることができなければ、もちろん呼び求めることはできません。主の御名を呼び求める者はだれでも救われるとは、まさにその通りですが、だからこそ、宣べ伝える者の必要が語られるのです。なぜなら、神は人をして御自身の宣教の業をなされるからです。第1コリント1:20「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とある通りです。
 そして、何を宣べ伝えるのかということは、ちょうど礼拝で確認したところでした。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」パウロが引用したイザヤ52:7のみ言葉からは、それはまず平和であり、次に喜びであり、そして救いだとわかります。私たちは何をおいてもまず救いと思いがちです。しかし、そうではありません。私の内に平和がなければ、その人は心を閉ざします。喜びがなければ、聞く耳を持ちません。救いの知らせはとても素晴らしいものですが、宣べ伝える私たちがその恵みを享受していなければ、誰がその言葉に聞き入ることでしょう。誰がその言葉に希望を見ることでしょう。福音宣教は、人と人との関わりです。わざわざ、「良いことの知らせを伝える人々の足」と表現するのは、福音が関係性の中で伝わるということです。そうでなければ同じことを繰り返すだけのロボットで十分です。私たちがその人と関わるそのときに、私たちの内にある平和と喜びが本物であるか、人々は生きた神の証として見るのです。

 さて、パウロはイゼヤ書53:1の言葉を引用しています。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。」この53章は苦難のしもべの預言です。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。罪の贖いとして十字架にかかられるキリストの預言です。しかしイエス様が来られる以前、イスラエルはこれを救い主の預言とは理解できませんでした。この救い主は彼らが願い求める姿とは違っていたからです。何が言いたいのでしょう。
 これまでパウロは伝える人の必要を語ってきました。あなたもその一人となるようにという期待を込めてです。しかし、どれだけ伝える人が起こされようと、全ての人が福音に従ったわけではありません。このことは、私たちの努力不足でしょうか。熱心さが足りないということでしょうか。そうではありません。どれだけ熱心であろうと、平和と喜びを持って関わろうと、その本人が聞こうとせず反抗するならば、その人が救いに至ることはないのです。誤解しないでいただきたいのは、だから宣べ伝える必要はないと言っているのではありません。先に救われた私たちには福音を宣べ伝える責任があります。伝える者がいなければ聞くことはできず、聞くことがなければ、信じることもできないからです。私たちのことばをもって福音を宣教される。これは主の素晴らしいご計画です。けれど、それでも信じない頑なな者がいます。決して耳を貸さない人たちがいます。これはもうその人の責任です。
 語っても尚、聞かれない。熱心に関わっても、信じてもらえない。私たちはその状況に落ち込みます。自分を責めます。けれど、イスラエルが救い主を信じなかったのは、彼らが聞こえなかったからではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」とあります。むしろ彼らには幾度となく語られておりました。けれど、彼らは聞こうとはしなかったのです。苦難のしもべを救い主とは聞きたくなかった。救い主が自分たちの罪のために刺し通されるとは認めたくなかった。ですから、彼らが聞かないのは彼らの責任です。苦難のしもべは、むしろ異邦人に見いだされていくのです。
 私たちの責任は福音を宣べ伝えることにあるのです。救いと滅びは私たちの責任ではありません。結果は主のものです。しかし私たちがやるべきことをやりきらなかったら、きっと後悔が残ります。やるべきことをやり、結果は主に委ねる。その先を決めるのは、あくまでもその人の信仰だからです。

211107 ローマ10:13-15、エペソ4:1-3 「平和の絆」

ローマ10:13-15、エペソ4:1-3 「平和の絆」

 ローマ書10:13-15は私たちに福音宣教を促す重要な箇所です。主の御名を呼び求める者はみな救われる。神様の救いは決して難しいことではありません。ただ主の御名を呼び求めるだけで、信じるだけで与えられるんだと語っています。その他の何も求められることはありません。けれど、どれだけ素晴らしい救いの知らせも、聞いたことがなければ信じることはできません。伝える人がいなければ聞くことはできませんし、そもそも遣わされなければ伝えることはできません。だから、良い知らせを伝えるために、まず一歩を踏み出す、まず一声をかけるということが大事なわけです。ところでパウロはここで、イザヤ書の御言葉を引用しています。「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」パウロは「良い知らせを伝える人」とまとめて言っていますが、元々は、「平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と言う人」と言っているんですね。当然パウロが引用する時、熱心なユダヤ人であれば、このイザヤ書の言葉が頭に浮かんでいます。どれだけ素晴らしい救いであろうと、それを語る人に喜びがなければ、伝わることはありません。どれだけ喜びに満ちていようと、それが強要されて伝わるものではありません。語る者と聞く者の間に平和があり、その人の幸いがにじみ出ている。だからその救いの知らせは人々に聞かれていくのです。救いを語る前に、そこに平和と喜びがなければ、その救いは証明されることなく、伝わらないのです。
 パウロもまた、事ある毎に、教会の平和を勧めています。エペソ書でパウロは「平和の絆で結ばれて」と言っています。そこに平和がなければ、私たちが抱く喜びや、いただいた救いは証明されないからです。イエス様の救いの御業を信じて行き着くところが、教会内の派閥争いや権力闘争だとしたら、皆、そんなことに巻き込まれるのはまっぴらだと言うことになるでしょう。誰かと争っている中で、私たちは心から救いを喜ぶことはできません。私たちは救いを語る前に、喜ぶことが大事です。そして心から喜べるために、平和を築くことが大事です。逆に言いますと、私たちが平和を共有し、心から喜びを持つ時、この交わりは何よりも救いの確かさを証明するのです。
 パウロは召しにふさわしい歩みとは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍」ぶことだと言っています。強い者がその余裕の内に相手の弱さを受容するということではありません。まず自分の弱さを認め、そして相手の弱さ認めるのです。私たちは主の贖いの御業がなければ、所詮何一つ救われる要素のない者です。自らの弱さを認めることができて初めて、私たちは隣りにいるその人を心から尊敬することができます。目の前にいるその人を頼りとすることができるのです。
 ピリピ2:3にも「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。「利己的な思い」とは「自己中心」という意味です。私たちが自分を中心に置く時、そこに平和は築かれません。私が私の中心を主に明け渡すこと。私たちが心から自分の弱さを認めて、主にへりくだる時、私たちは初めて目の前にいるその人を、その強さも弱さも含めて尊敬し、喜べるようになるのです。教会の平和は、互いが罪赦された者であることが根底であります。私たちの能力や功績、熱心さで築かれるものではありません。私たちは互いを見るときに、主の十字架の御業を通して見るのです。主の尊い犠牲を覚えて見るのです。だからこそ、キリストの救いはここにあるのです。
 パウロは最後に御霊の一致を熱心に保ちなさい。と言います。私たちを結び合わせるのは、私たちの内の何かではありません。ただ御霊によるのです。ですから、祈りを無くして私たちが平和を築くことはできません。もしも私たちが平和の絆で結ばれないとしたら、目の前にいるその人に寛容を示せないとするなら、憎しみと猜疑心を持って見るとするならば、私たちはまずその人のために祈ることから始めましょう。平和は私たちの内にはないからです。それは御霊によるからです。私たちがバラバラなのはある意味で当然です。好みも考えも違う私たち。けれど、御霊は一つです。私がもうどうしようもない罪の中から救われたように、ここにいる皆が救われたのです。この一点で、私たちは平和を築くことができるのです。