詩篇12 「へつらいの唇と傲慢の舌」
若者に支持を得ているYoutuberの中に、現代の論客と言われている人がいます。大変頭の切れる方で、度々議論をして相手を黙らせる様子がTVやインターネットでも見られます。時には権力者や政治家に対しても臆せずに発言する。そういう姿に、若者たちの絶大な支持を得ているのだそうです。
私も彼を見ると確かに頭の切れる方だなぁと思います。けれど同時に、その言葉には愛がないなぁとも思うのです。なぜなら、彼の言葉は、相手を論破するということだけに向けられているからです。相手の意見を封じるためだけに言葉を紡ぐ。正直に言いますと、聞いていてとても辛くなります。人はそれぞれの立場があり、それぞれの背景があり、その発言には様々な経緯があります。けれど、そういった背景を全く無視して、ことの善悪を理詰めで決めつけていく。彼の発言は基本的にディベートでしかありません。ディベートは自分の主義主張ではなくて、与えられた役割の中で相手を論破するということを目的とします。はっきりと勝ち負けが生じます。けれど本来ディベートで大事なのはその勝敗ではなくて、立場が変われば見え方も正義も変わるということを体験することにあるのではないでしょうか。私は相手を論破するということだけがもてはやされる昨今の風潮にはいささか辟易いたします。
ダビデに向けられるのは「むなしいことを話しへつらいの唇と二心」の話しです。ダビデは願います。「主がへつらいの唇と傲慢の舌をことごとく断ち切ってくださいますように。」本当に責任のない言葉のなんと質の悪いことでしょう。今はSNSの時代です。匿名の批判、つぶやきが世界中に拡散される時代です。他愛も無い一言がどれほど相手を追い詰めることになるか、計り知れません。誰もが発言し、誰もが受信できるこの現代は、言い方を変えると、誰もが告発し、誰もが批判をする時代でもあるのです。彼らは言います。「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれがわれらの主人なのか。」誰がわれらの主人なのか。それはつまり私自身だと言いたいのです。主人だから何を言っても良いのだとでも言いたげです。
しかし主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ貧しい人が嘆くから今わたしは立ち上がる。わたしは彼をその求める救いに入れよう。」主は苦しむ人が踏みにじられ貧しい人が嘆くその状況を見てられないと言われるのです。それは正常ではないのです。正論で他人を斬りつける現代の論客は間違いだと言われるのです。そして、主はいつも踏みにじられた者にこそ手を差し伸べられるのです。
主のことばに二心、別の思惑はありません。その言葉は混じり気のない、純化された言葉です。「【主】よあなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも彼らを保たれます。」私たちはこの言葉を信じてよいのです。と言いますか、ここに立たないとです。なぜなら「人の子の間で卑しいことがあがめられているときには悪しき者がいたるところで横行します。」これもまた現実だからです。
聖書は私たちの今をきれいなオブラートで隠そうとはしません。その心無い現実を無視しません。たしかに私たちが置かれているこの地は悪意を持って人を踏みにじる者が横行しているのです。だからこそです。私たちは、彼をその求める救いに入れようと言われる主の言葉に信頼し、自分自身がそのへつらいと傲慢に身を委ねていないかと吟味しなければなりません。もう一度1節を見れば、「敬虔な人は後を絶ち誠実な人は人の子らの中から消え去りました。」とあります。私たちもまた、そこから離れてしまう可能性があるということです。へつらいと傲慢に、いつの間にか取り込まれてしまうことがあるということです。自分を卑下して強者に媚びを売ることも、自分を正義の使者として他人を斬り付けることも、主の望まれるところではありません。「舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。」(ヤコブ3:6)と言われています。また、「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」(ヤコブ3:9-10)とも言われています。ことば一つに、主の香りが醸し出されます。そして、ことば一つが体全体を汚すのです。今一度、主の約束に立ち返り、私たちの舌を吟味してまいりましょう。

詩篇5 「朝に信仰の大盾を」
ダビデによる朝の祈りと呼ばれる詩篇です。
朝明けに、神に呼びかけの声を挙げるダビデ。
私のことばに耳を傾けてください。
私のうめきを聞き取ってください。
私の叫ぶ声を耳に留めてください。
私の王、私の神、私はあなたに祈っています。
朝明けに私の声を聞いてください。
朝明けに私はあなたの御前に備えをし仰ぎ望みます。
冒頭に繰り返される、神への嘆願に、ダビデの真剣さが見受けられます。
そして、その祈りはダビデに神の存在を今一度思い起こさせるのです。
神は、不法を行う者を憎まれ、偽る者を滅ぼし、人の血を流す者、欺く者を嫌われます。
しかし一方で、恐れ平伏す者の味方となってくださいます。たとえ現実に、待ち伏せている者がいようと、その口が偽りによる破壊であろうと、神はそれらに対しても権威をお持ちの方。「主は、正しい者を祝福し大盾のようにいつくしみでおおってくださ」るのです。
さて冒頭、必死に主に呼びかけるダビデの姿に、朝の祈りが、それほど一日を左右するということを知るのです。これから始まる一日の歩みを、祈りを持って、主のことばをもって始めるか否か。それはまさしく一日の霊的な勝敗を左右するのです。
正直に言えば、朝の時間ほど慌ただしい時間はありません。家族がいれば、子どもがいれば、その子たちを送り出すまでは戦場のようです。主婦の方であれば、日照時間というものがありますから、布団や洗濯物を干すのは朝しかありません。特に冬の朝は貴重な時間です。朝の祈りが大切とは思いつつも、なかなか時間が作れないというのが本音ではないでしょうか。慌ただしい中で、急いで祈る方がよっぽど失礼じゃないか。それよりは、ゆっくりと御言葉に集中できる夜にやったほうが良いのでは。そんな風にも思ったりします。けれど、そうじゃないと、ダビデは言うのです。
たとえ5分。たとえ3分。慌ただしくとも、忙しくとも、一日の初めに主に呼びかけ、主に思いを馳せ、主への信頼を再確認する。神が私の味方であることを確かめる。
まず私たちの心を主への信頼で覆うのです。
エペソ6:16「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」
信仰の盾は、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。忙しさを理由に、裸で戦場に出れば、その者は格好の的となるのです。敵は私たちの都合を聞いてはくれません。ですから前もって備えておくことが大事です。
そうでなければ、私たちはいとも簡単に世の影響を受けるのです。そのときその瞬間に左右されてしまうものなのです。事が起こってからでは、私たちはその対処に追われ続けるのです。あらゆることが起こる前に、主への信頼を着ることが大事です。朝の祈りというものは、やったほうが良い。といったものではなくて、その一日を霊的誘惑から守り、勝利へと導く信仰の大盾なのです。

詩篇91:1-16 「全能者の陰に宿る」
10節に「わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。」とあります。けれどどうでしょう。本当ですか?と思わず問わずにはいられない現実ではないでしょうか。新型コロナの世界的流行から凡そ3年が経とうとしています。神さまいったいいつまで続くのですか、と叫ばずにはいられません。もはやこれは人が制御できるものではないんじゃないかと思ったりします。けれど同時に思うのです。じゃあ、神さまなら制御できるのはずなのに、なぜ制御なさらないんだ。とです。そこで初めの問いに至るのです。神さまいったいいつまで続くのですか?
私たちはここで考えを替える必要があります。詩篇91篇は前の90篇の続きの詩であると言われていますが、90:10には「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」とあります。詩人ダビデは人生のはかなさを認め、だからこそ主に、自分の日を数えることを願います。そして、毎日主の恵みで満ち足らせてくださるように願います。与えられた寿命を無駄に過ごさず、その残された日を喜び歌い楽しむことができるようにです。
今回のコロナで何が一番辛いのでしょう。悪化すれば死に至る病だということでしょうか。実際、信じられないほど大勢の人が亡くなっています。私はヨーロッパの教会が死体安置所に変わったコロナ当初の様子を今でも忘れることは出来ません。火葬や葬儀が間に合わず、そこに列べ置くことしかできなかったあの報道を見て、もし私たちの教会が同じ様になったらと思うと大変恐怖したことでした。死を伴う病。けれど、コロナにかからなかったらそれで安心なのかと言いますと、そんなことは全くありません。ヘブル9:27に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とあります。その時が来れば私たちは皆死ぬのです。たとえ病は避けられても、死は避けられない。ですから私たちは、いずれ死ぬ身をどう満足して生きるかが大事です。
コロナに限らず、疫病の恐ろしいことは私たちの生きる拠り所を奪うということでしょう。具体的に言うと、私たちの身近な繋がりを断つということです。聖書においてツァラアトという病が取り分け重く語られるのは、それが強力に感染するものだったからです。ツァラアトにかかった人はまず7日間隔離されます。そして、7日後に祭司によって症状が確認され、たとえ症状が収まっていても、もう7日間。収まっていなければ、また最初の7日間から隔離がなされます。その間、その患者が触れたものは一切接触してはなりません。私たちはこの処置の医学的適切さを知っています。それは付着したウィルスによる感染を避けるためです。けれど、当時の人達はわかりませんから、より一層得体の知れないものとして不気味がったのです。ですからツァラアトに感染した人は、家の外、町の外に追いやられて孤独に治ることを待つしかなかった。詩篇38:11には、やはり病で心痛める詩人の詩が載っています。「愛する者や私の友も私の病を避けて立ち近親の者でさえ遠く離れて立っています。」病が人や社会との大切な繋がりを分断するのです。しかし、だからこそイエス様がそのような病人と共におられたということに、私たちは驚きと感動を覚えるのです。
マルコ1:40以降に、ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに癒やしを願ってやって来たことが記されています。その時、イエス様はどうされたのか。「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた」のです。驚くべきことに、手を伸ばして彼に触ったのです。それは単に感染のリスクを負ったということだけではありません。イエス様ご自身が分断されるリスクを負ったということでもあります。事実、イエス様はこのことのゆえに「もはや表立って町に入ることができ」なくなったと、マルコは記しています。言葉一つで治せるお方が、リスク承知でさわられたのです。イエス様はそういうお方なのです。神の栄光を捨てて、人として貧しさの中に生まれてくださった。だからこそ私たちはどんな状況の中であっても主を見ることができるのです。その孤独の中で、苦難の中で、私たちと繋がってくださるお方なのです。
ヘブル2:17-18 「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」

詩篇141 「御霊に頼って」
詩篇141は「夕べの詩篇」と呼ばれているものです。7節、9節からわかるように詩人の置かれた状況は、大変苦境にありました。それは物理的な苦難とともに、霊的な戦い、悪への誘惑に対する困難でありました。不法を行う者たちは、ごちそうを並べています。一方で、正しい者は、厳しい戒めの言葉を並べるわけです。そのような現実に、詩人は「【主】よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。」と祈ります。「私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。」と祈るのです。
罪や誘惑に対して、私たちは己の決意だけでそれを逃れることはできません。悪の誘いこそ甘美で、ごちそうに見えるのです。アダムとエバの目には、善悪の知識の木の実は見るからに美味しそうでした。サタンはイエス様を誘惑する時に、腹を満たすパンを用意し、身を守る奇跡を用意し、そしてこの世の全ての栄華を与えると約束しました。Ⅰヨハネ2:16には「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。それは、世にあっては生きる目的そのものであります。それらを手に入れるためにこそ、人々は懸命に働いてると言っても過言ではありません。それだけにごちそうは人の目を曇らせる誘惑ともなるのです。
エサウは一杯のスープと引き換えに長子の権利を手放してしまいました。ちょっとだけ。これくらいならという小さな妥協が私たちを取り返しのつかない罪へと導くことが往々にしてあります。小さな妥協の積み重ねが、罪に対しての危機感を奪い取ってしまうからです。そして罪に対する危機感を失えば、私たちはそもそもの神との関係すらも必要としなくなる。むしろ、神はうるさいことを言う父親のように、面倒な存在として避けたくなるのです。
確かに、投げ出したくなるような現実があるのです。頑張るのはもう良いか。と手放したくなるような時があります。それは本当によくわかります。けれど、そうやって自暴自棄になってもその先に救いがあるかと言えば決してそこにはないのです。私たちは時に信仰生活の生き辛さから、世の人々を羨みます。けれど、彼らが何の不安も悩みもなく幸せに生きているのかと言えば、決してそんなことはありません。神を知らぬ者は、全てのことを自分の責任として負わなければなりません。彼らはどこにも頼れない。全て自分で解決しなければならない。けれど、全てのことに解決があるとは限らないのです。
だから腐らずに頑張りましょう。と言いたいのではありません。私たちの力だけでは、その困難には、そして誘惑には打ち勝つことが出来ないと言いたいのです。だから、詩人は祈ります。
「【主】よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。」
「私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。」
御霊に力をいただかずして、私たちはこの誘惑に打ち勝つことはできません。内なる御霊の助けをいただきましょう。祈りと賛美をもって、私たちの日々を覆うことといたしましょう。

詩篇125 「私たちの境界線」
都の上りの詩の六番目として数えられています。
エルサレムは山間部にある町で、主要な幹線道路からは外れた不便な町でありました。けれど、エルサレムには神殿があります。敬虔なユダヤ人は悪路を厭わず、巡礼のためにエルサレムに上っていきました。特に祭りの日には、国中から、数千、数万の人々がエルサレムに上ってきます。町中が人で溢れかえり、巡礼者は郊外にまで設けられた臨時の宿を借りて、大いに散財し、エルサレムの経済を潤したことでした。
人々がそれぞれの町からエルサレムに上るとき、彼らは一つの集団(キャラバン)を作って旅をしました。なぜなら、その道中は強盗に襲われる危険があったからです。道によっては野獣が出ることもありました。道の脇に死体が転がることも珍しいことではありませんでした。ですから、エリコなどエルサレムの手前の町に入ると、巡礼者たちは出発の時間を調整して、キャラバンを作ってエルサレムに向かうように手配したりもしました。
そんな巡礼者たちが今エルサレムの町に上ってくるのです。道中の危険に最大限の気を配りながら、巡礼者たちは小高い丘を登ってエルサレムにやって来ます。すると城壁に囲まれたエルサレムが目に飛び込んでくる。町の横には谷が刻まれ、町の奥には山々が取り囲むかのように連なっています。三方を谷で囲まれたエルサレムの町は天然の要害。道中の気疲れもあって、彼らはようやく安堵のため息を着くのです。
さて詩人は、この様子からさらに発想を飛ばして、主に信頼することの確かさに想いを馳せるのです。宣材写真から発想を飛ばして俳句を作る番組がありますが、それに近いですね。揺らぐこと無くそびえ立つ山々は、まるでエルサレムの町を守るかのように取り囲んでいます。その様子が、み民を取り囲む主の守りのようだと詠うのです。3節に「それは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがなく正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするためだ。」とあります。エルサレムの周りを取り囲む山々が道中の不便をもたらしました。仮にも首都に続く道のりが強盗や野獣の巣窟となっていました。人々は肩を寄せ合って悪路を旅したことでした。けれど、その不便さがエルサレムを守ってきたのもまた事実なのです。主の守りは、一方で外敵が侵入して占拠することを阻み、一方で住民が外の不正に手を伸ばすことをとどめさせます。内外両方の意味があるんだと言うのです。
キリスト者はこのエルサレムのようです。山に囲まれたその町は、一見、不便で融通が利かないように思えます。しかし、それゆえに多くの外敵から守られてきたのです。キリスト者の生活は、ここから出ない、これ以上には住まない。という枠組みに囲まれています。人々はそれを窮屈だと言います。融通が利かない奴だと馬鹿にします。これだからクリスチャンは常識がないと言われます。けれどその融通の利かなさにこそ私たちは守られているのです。外の価値観を安易に受け入れるとき、私たちの平和は崩されます。外と中の境界線が無くなれば、私たちはいつであろうと、どこにいても強盗や野獣に心配しなければならなくなります。境界線があるから、私たちはその中で平安を得ることができるのです。不便な山々は私たちにとっては、頼もしい城壁です。主の御言葉こそが私たちの防壁なのです。
