FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

170910 出エジプト20:13 「殺してはいけない」

出エジプト20:13 「殺してはいけない」

 幼稚園で聞いた話です。ある時、ひとりの男の子が園庭の隅でとかげを切り刻んでいたんだそうです。慌てて止めさせようとしたら、その子が言いました。「大丈夫だよ。命は3つまであるからね。」なんとも笑えない話です。
 「人はなぜ人を殺してはいけないのでしょうか。」これは、昔、テレビの討論番組の中で、ある青年が発した質問です。日本中の有識者と言われる人々がありとあらゆる返答をしましたが、しかし、これと言った回答が得られないままになっている永遠のテーマです。皆さんだったら何と答えますか。
 色んな考えがあるでしょう。ある人は言います。死んだ者を生き返らすことはできないからだと。また、殺しを認めてしまったら、いずれ自分が殺されるから。と言う人もいるでしょう。私はこれを考えるとき、まず命の価値を知る必要があると思います。命の価値が希薄になっているために、それが尊ばれないのだと思うのです。
 子育てをしておりますと、人一人が育つのに、どれほど大きな犠牲が払われているのかがわかります。子育てってのは大変です。自分の時間も労力もお金も愛情も、一切を注ぎ込んで育てるわけです。投げ出したくもなりますが、投げ出すわけには行かない。親としての責任をもって、精一杯関わって子育てをするのです。でも、だからこそです。私はこの子たちが愛おしくて仕方ない。そこに犠牲があればあるほど、その存在が愛おしくなってくるというものです。そして、つくづく思うのは、自分がこのように育つのにも、沢山の犠牲があったんだろうなぁということです。
 自分がどれほど大切にされているか、自分がどれほど愛されているか。このことは、自分の存在価値に繋がります。命の尊さに繋がります。そして、どれほど愛されているかということは、どれほど犠牲が支払われてきたかによってわかるのです。犠牲のない中で、余りある中から与えることは誰にでもできます。しかし足りない中、犠牲のある中で与えることには、愛が必要です。こどもの内はそれが犠牲とは気付かなかったのですが、親の身になって、どれほどの犠牲が支払われてきたことか、どれほど大切にされて来たかを知るのです。私たちは、この身のために支払われた犠牲を覚えなくてはなりません。両親が、家族が、友人が、どれほど犠牲を払ってきたか。そして何よりも、神がどれほどの犠牲を支払っておられるかに目を向けなければなりません。
 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)親にとって、子どものために命を捨てるという思いはどこかで共感するところです。けれど、他人のために子どもの命を捨てるということは、どうあっても共感できないことではないでしょうか。しかし、神は、私たちのために、その尊いひとり子の命を犠牲とされたのです。イエス様は十字架で叫びます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」自分の子どもが、心から助けを叫ぶその声を、父なる神は無視したのです。そして自らその裁きの御手を降ろされた。それはいったい、どれほどの悲しみでしょうか。
 イエス様を十字架に架けることは、父なる神のみこころでした。ご計画でした。けれどだから神は何の躊躇もなかったかと言えば、そんなことはあり得ない。天地万物の創造主なる神、全てを統べ治める神が、痛みと苦しみを伴って、ひとり子の命を見捨てられたのです。私たちの命は、この犠牲の上に置かれているのです。そしてこれが私たち一人ひとりに付けられた命の価値です。私たちの命の代価として、イエス様の命が支払われたのです。
 だから聖書は、殺してはいけないと言います。そのひとりのために、イエス様の命が犠牲となったのです。ですから、その命を奪うことは、父なる神の苦渋の選択を足蹴にすることです。イエス様の尊い犠牲を無意味にすることになるのです。神がそれほどまでの犠牲を負って、私たちを生かすのはなぜでしょうか。それは私たちが命を殺す者ではなくて、生かす者となるためにです。私たちは身代わりとなったイエス様に相応しく生きたいと思います。目の前の一人に、イエス様の命を見出す者となりたいのです。

170702 出エジプト20:12  「父母を敬う」

出エジプト20:12  「父母を敬う」

 「あなたの父と母を敬え」とありますが、単に親子関係のあり方だけを言っているわけではないかと思います。もし、そうならば、たとえば、若くして両親を失った人で、天涯孤独という人には、この戒めは意味が無いものとなってしまいます。けれど、神が特別に与えられた戒めが、その立場によって、大事だったり、意味がなかったりするものでしょうか。ですから、これは単なる親子関係に留まらない、あらゆる人間関係に当てはまる人としてのあり方を指しているのではないでしょうか。それでも「父母を」と言うのは、それがあらゆる人間関係の中で、最も基本で、難しい関係だからではないでしょうか。
 神様は人と人の最も身近な関係を、敬うことをもって築きなさいと言います。敬うとは、尊敬するということです。裏も表も知り尽くした相手を敬いなさいと言う。これは非常に難しいことではないでしょうか。
 他人との関係は、ちょっとしたことで簡単に壊れてしまいます。何気ない一言で関係が一変することすらあります。だからこそ緊張しながら、配慮しながら、あらゆることに気を遣って関係を築いていきます。けれど、家族は違います。多少のわがままであっても、だらしなくても、それで関係が途切れるわけではありません。だから安心して素の自分が出せるのです。けれど、気を付けなければならないことは、安心できる関係とは、決して気遣わなくてもいい、配慮しなくてもいい関係とは違うということです。簡単に崩れない関係というのが曲者です。つまり、大抵のことは我慢してしまう。小さな棘が積もり積もってしまう。他人なら距離を空けて、時間を空けて、心の修復を持つ場面でも、家族ならそうはいかない。家族は近すぎる関係だからこそ、一旦こじれてしまうとなかなか修復が難しくなるのです。親子関係が何もしなくても築かれていくというのは嘘です。後回しにしていいということは間違いです。身近な関係だからこそ、他の人に対する以上に、気遣いと配慮をもって、敬って関係を築かなくてはならないのです。
 さて聖書は別の箇所で「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」とも言っています。親子という密接な関係は、どこかで線引をして、一定の距離を設けて、ひとりの人格として尊敬し合うべきだと言うのです。過激な言い方をすれば、親子は他人である、別人であると認めるべきだと言うのです。私たちのあらゆる関係の構築は、一人ひとりが違う存在であるという前提に立って築かれるべきです。親だからこうあるべきとか、子どもだからこれで当然とか、自分の理想を押し付けるべきではないのです。
 聖書は神の家族の関係をキリストの体と各器官に例えています。この関係の築き方は私たちの肉の家族に対しても当てはめるべきだと思います。つまり、私たちは家族であろうと、同じ使命、同じ賜物をいただいているのではないということです。そして、だからこそ、私たちは互いを尊敬することができる。敬うことができるのです。自分にはない賜物をいただき、自分とは違う使命を負っている。尊敬は相手の中に自分には無い何かを見つけることで生まれるのです。違いを認めることは、敬うことの下準備です。わかってくれないで当然。理解できなくて当たり前。私たちは違う者ですから、気遣いと配慮をもって、敬う心をもって、互いを認めることといたしましょう。

170604 出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

 この戒めは、私たちクリスチャンにとって、一番身近に試される戒めではないかと思います。毎週日曜日になる度に、試されている戒め。しかも、これが安息日と呼ばれている。平日、働き詰めで来た者にとって、日曜日にも教会に行くのなら、それは安息ではないじゃないか。と思われるかもしれません。日曜日は休む日と言うのに、教会で奉仕に追われて、いったいどこが安息なのかとです。しかし、これはどうも安息ということの意味を誤解していることから来るのではないかと思います。私たちは今一度、安息とは何かと問う必要があるように思います。
 なぜ日曜日は取り分けられたのかという話です。それは11節「それは主が六日の内に、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」主は六日間創造の働きをなされ、七日目に休まれた。この主が休まれたことに倣ってということです。では休むとはどういう意味でしょうか。何もしない。という意味でしょうか。いやいや、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とも言います。主が七日目に、何もしていないことではありません。主は七日目も神の民を守っておられます。ですから、私たちは、短絡的に安息日=何もしないと考えることは間違いです。第4戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。つまり、安息は、聖なる日を持つための下準備だということです。休むことの先がある。むしろそこが大切だと言うのです。ですから、安息とは何もしないことではなくて、聖なる日を持つために、働きを止めるという意味です。神の恵みを受け取るために、今、係わっている仕事。抱え込んでいる悩み。日々置かれている日常からひととき離れなさいと言っているのです。
 週の初めに敢えて日常を離れて神を想うということに意味があるのです。教会は忙しいと感じる方もおられるかもしれません。しかし、日常のままに過ごしては駄目なのです。私たちを思い煩わせる日々の出来事に埋もれてしまってはいけないのです。それらは神の恵みを見失わせます。
 学生の頃、毎度毎度の礼拝に嫌気が差して、何度かズル休みをしたことがあります。いつもよりも遅い時間に起きて、だらだらと午前中を過ごし、午後は久しぶりの友人を誘って遊びに行きました。普段ではできない日曜日を過ごしました。けれどです。一日、思う存分過ごしたようでいて、ずっと付きまとうのは罪悪感。そして、居心地の悪さ。私にとって、礼拝がいかに大切かを思い知る結果となりました。けれどです。休みが続けばどうでしょう。罪悪感がある内はまだ良いのです。けれど私たちはすぐに慣れます。そして、どうでも良くなってしまう。主の前に日を取り分けることを止めてしまえば、その日は自分だけのもの。もはや神に生かされていることすらも覚えず、その恵みに目を向けることもない。それは楽な生き方のように思えるかもしれない。自由な生き方のように見えるかもしれない。しかし、最も大切なものを失うこととなるのです。
 7日間全てを自由とはしないで、一日は神の日とする。制限ある自由が、実は大事です。それによって私たちは、神を神とし、恵みに生かされることを知るのです。

170507 出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

 主の御名をみだりに唱えてはならない。とあります。「みだりに」というのは、「むやみやたらに」とか「無計画に」とか「考えなしに」という意味です。むやみやたらに御名を唱えてはいけない。つまり、主の御名を軽んじてはいけないよ。という意味です。
 ですから、イスラエルの民は、神の御名を唱えることに、とても慎重でありました。その昔、モーセが神にイスラエルの民を引き連れてエジプトから連れ出すよう命じられたときのことです。モーセは神の名を尋ねました。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』というものである。」この『わたしはある』というのが神様の実態を表す名前です。ヤハウェという名前です。イスラエルの民は、このヤハウェという名前をむやみやたらに唱えないように、その名を読む時にはアドナイ(我が主)と読み替えるほどに徹底していました。それは彼らの信仰の現れです。けれど、それは果たして主なる神の望まれるところでしょうか。罰を恐れて、単にその名前を口にしなければいいと考えている民。その結果、神の御名の発音すら失ってしまう民。そのような関係を主なる神が求めておられるとは到底思えません。
 むやみやたらに御名を唱えない。それはつまり、自分のために神の名を利用しない。神を私物化しないということです。神は私たちの願いを適えるための便利な道具でしょうか。それとも私たちを権威付けるための何かでしょうか。私たちがもし、神を私物化し、自己実現のために利用するとしたら、どれだけ神の御名を呼び替えようとも、それはこの第3戒を破っているのです。イエス様を誘惑するために、サタンは神の言葉を引用しました。自らの考えを神によって権威付けようとしたのです。文脈を無視して、自分の都合のよい解釈だけで神のみことばを語る。これは異端やカルトの典型的な特徴です。信じてもいないのに口先だけで祈ったり、ポーズだけの信仰であったりということもまた同じです。平日神を忘れて過ごし、休みの日にだけ信仰者を気取るのもそうでしょう。私たちはあまりにも軽々しく主の御名を口にします。しかし、その結果がもたらす悲劇には一向に目を向けていません。「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」と言われているのです。
 みだりに唱えることが禁じられているのです。つまり、正しく主の御名が唱えられることは禁じていません。いえ、むしろ、そうあるようにという暗黙の期待がここには込められています。ハイデルベルク信仰問答の問99の答えにこのようにあります。「要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」間違いのないように口を閉じたり、呼び名を変えたりということが求められているのではありません。キリスト者として正しく主の御名を用いなさい。ということです。
 では正しく主の御名を用いるとはどういうことでしょうか。それは畏れと敬虔によってということでしょう。裏表なく真心からということでしょう。主はからし種ほどの信仰があれば、山をも動かすとおっしゃいました。けれど、私たちはどこかで疑っています。山よ動けと祈りながら、山など動くはずがないと思っています。神を信じますと言いながら、神などいないと疑ってしまいます。エレミヤ33:2-3には次のようにあります。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」神を信頼する者の声を、神は遮ることはなさいません。むしろ、わたしを呼べとおっしゃってくださる。私たちは主の御名をみだりに唱えてはいけません。本気で唱えるのです。そこには私たちの理解を越えた主の大いなる答えが用意されているからです。

170402 出エジプト20:4-6 「偶像を退け」

出エジプト20:4-6 「偶像を退け」

 今日の箇所は第2戒、偶像礼拝の禁止です。一見すると第1戒と第2戒は同じようなことを言っているように思えますが、その方向性は随分と違います。第1戒はまことの神のみを礼拝するようにと命じられ、第2戒はまことの神ではないものを神としない、ということが命じられている。つまり、コインの表裏のような関係。どちらも唯一の神への信仰を求めるものですが、第2戒には明確に偶像を拒否するという意志の現れが求められるのです。
 では偶像とは何でしょう。何か他の神々の像、例えば仏像とかゼウス像とか、道端にあるお地蔵さんとか、そういうものを想像されるかもしれません。もちろん、それも偶像ですけれども、この第2戒が言っている偶像は、もっと身近で、もっと広範囲のものです。
 たとえばです。偶像という言葉を英語ではアイドルと言います。一昔前のアイドルの追っかけと呼ばれる人たちは、○○命、といったハチマキをしていました。○○命。松田聖子命。とか、小泉今日子命。とかですね。この人のためになら死んでもいい、と崇拝する存在。これがアイドルというわけです。尾崎豊がなくなったとき、沢山の後追い自殺がありました。それら一部のファンにとって尾崎豊は完全に神となっていたわけです。
 偶像とは、本来神によって造られ、神のために生きる目的をもった人間が神以外のものに依存して生きる。この神以外の全てのものが偶像となり得るのです。ですから偶像を作るとは、自分に都合良く、神の代わりを作りあげるということなのです。
 あらゆる偶像は人が幸せになりたいという願望から生まれたものと言えるでしょう。では幸せは何がもたらしてくれるのか。お金があれば幸せになれると信じる人にとっては、お金こそが神となりましょう。学歴があれば幸せになれると信じる人は学歴が偶像に。あのアイドルがいれば幸せになれると言うならば、そのアイドルを偶像としているのです。偶像はその人の生き方を束縛します。人生の目的をその偶像に向けてしまうのです。そしてさらに問題なのは、その偶像が失われるとき自身の拠り所をも失ってしまうことです。お金を神としていたとして、ではそのお金に裏切られれば、その人はいったい何を目的として生きればいいでしょう。学歴は。アイドルは。神の代わりは所詮代わりでしかありません。永遠ではない。完全ではない。求めていた理想が打ち破れたとき、人はいったいどうなってしまうのでしょう。
 この第2戒を学ぶにあたって、どうしても触れなければならないのは、教会の過去の過ちについてです。先の戦争の折、教会は偶像礼拝の罪を犯しました。教会では礼拝に先立って、必ず、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)と君が代斉唱が行われました。教団のトップが神社参拝をし、伝道報国を掲げ、天皇に仕えることがキリスト者の生き方であると教えられました。そして、これら全ては国民儀礼であるというのが当時の教会の言い分でした。教会は神の前にどうあるかを問う前に、国家の前にどうあるかと問うたのです。覚えておきたいのは、彼らも聖書の神を信じていたのです。私たちよりも信仰が劣っていたとか、信じていなかったということではなくて、むしろ、熱心に聖書の神を信じていた。けれど、そこに別の要素を並び立ててしまったのです。
 今、世の中を戦前のあり方に戻そうとする動きが急速に力をつけてきています。教育勅語を暗証させる幼稚園が批判を浴びていますが、あれがまかり通る時代を取り戻そうとする動きです。再び国民としてどうあるかを問われる時代が来るとして、私たちは再び同じ過ちを犯さないと言えるでしょうか。神を信じているから大丈夫という話ではないのです。私たちはまことの神を神として認める。ということだけでは不十分です。私たちは神ならぬものを認めない。という断固とした意思と姿勢を持たなくてはならないのです。