出エジプト20:17 「欲しがってはならない」
第十戒は私たちが他人の家を欲することを禁じています。しかし、ここで言う家とは、単なる住まいだけの話ではなく、その生活の有り様、置かれている状況、あらゆることに通ずる内面の欲望を戒めているのです。
では実際に欲しがらないでいられるのかという話です。例えば隣人の家が目に入らないようにと、人里離れれば私たちは欲望を遠ざけることができるでしょうか。そういうことではないと思います。たとえ隣人の家を見ずとも、欲望は私たちの奥底から沸々と湧いてくるものではないでしょうか。
欲望というのは厄介なもので、その思いは、際限なく膨れ上がっていきます。いくら新しいものを手に入れようとも、これで満足とは決してなりません。TVのCMは絶えず、私たちに語りかけます。この新しい商品があれば、あなたの生活はもっと便利に、もっと豊かになりますよ。幸せになれますよ。けれどです。実際にそれが手に入れば、私たちはそれで満足するかと言いますと決してそうではありません。満足できない。まだ足りない。なぜなら、もっと便利に、もっと豊かに、というその誘惑は、今のあなたは足りないですよ。と不安を煽っているからです。つまりそれは、あるものを見ずに、無いものを見させようとしているのです。だから現状に対して感謝ではなくて、不満しか出てこなくなる。アダムとエバが、善悪の知識の木の実を見て、自分たちの自由にできない不満を覚えます。少し周りを見渡してみれば、そこには思うままに取って食べても良いあらゆる木の実が用意されていたわけです。けれど、彼らにはもうそれらは見えない。彼らの目は不自由な木の実に釘付けです。これが欲望の恐ろしいところです。欲望は恵みから目を逸らさせてしまいます。そして挙句、彼らは神との約束を破ってでも、その実を盗もうとするのです。
隣人の家を欲しがるとは、そこに自分の家との違いに目を向けるということです。自分の家には無いものを見つける。そして自分は足りないと思う。そしてやがては自分が不当な扱いを受けているようにすら思えてくるのです。私たちは他人の成功を羨んだり、自分の現状を恨んだり。けれど他人の家を見て、自分に無いものを数える生活は、私たちに何ら幸せをもたらしません。神様が今日与えてくださる恵みは不十分なのでしょうか。足りないのでしょうか。イエス様はある時、言われました。「信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」天の父は知っておられるのです。知っているからこそ、今日、私たちの必要を満たしてくださる方なのです。私たちは今日も養われています。今日を生かされています。ここに目を向けない時、私たちは足りなさを追う羽目になります。隣人の家ばかりが目に入るようになるのです。

出エジプト20:16 「真実を隠さず」
偽らないということは、ただ単に嘘を言わないということではありません。真実を語るということです。本当のことを知っていながら黙っている。真実は別にあるけれども、関わるのが面倒なので話さない。確かに嘘は言っていませんが、しかし、真実も言っていない。これは偽っているのと同じではないでしょうか。この第九戒は証言することを放棄する無責任な態度についても戒めているのです。
第3版までの新改訳聖書には「あなたの隣人に対し」とありましたが、新しい聖書には「あなたの隣人について」(出20:16)とあります。前回この証言という言葉は、裁判での証言を指す言葉だと言いましたが、そのことがより強調された訳し方になっているわけです。証言台に呼ばれ、証言を求められている。その証言如何によって、その人の処遇が定められる。そしてその人に関わる無数の人生が左右される。そういう重苦しい場面で今、偽りの証言をしてはならないと命じられる。つまり、あなたの言葉の重みを、十分に理解して語りなさい。とこう言っているわけです。
そのように問われますと、私たちは証言することに躊躇してしまうわけです。いったい何と証言すれば良いのか。どう答えるのが正解なのか。自分の証言が、決定的な何かとなってその人の今後を左右すると言うのなら、自分はそんなにも重たい十字架は背負いたくないとは思うのです。現代の裁判では、黙秘権が認められています。自分に不利益になる発言は拒否することができる。これは証言者の権利です。けれど、私たちは考えなければなりません。私たちが話さないことの影響をです。と言いますのも、証言台に立つのは私一人とは限らないからです。私が話さないその裏で、無数の発言がなされる。中には悪意を持った発言もある。確かに私が発言をしなければ、私はその人の結果を左右することはないかもしれない。けれど、私が発言しないために、多くの身勝手な発言がその人の人生を左右するかもしれない。そのようなこととなれば、それはまた別の十字架を背負うことにはならないでしょうか。
面白いことに、誘惑するという一事について、サタンほど勤勉な存在はありません。サタンは僅かな空きも見逃さず、誘惑することを狙っています。ですから私たちは黙って過ごすわけにはいかないのです。真実を語らなければならないのです。私が語らずとも、と。私たちはそう思いたいでしょう。実は、偽りの証言をするということ以上に、黙っているという誘惑は大きいです。けれど、真実に口を閉ざせば、サタンの思う壺です。「平安だ。平安だ。」という言葉は耳に優しくて、誰もがその言葉になびきやすいのです。
罪を悔い改め、イエスを救い主として信じなければ、決して永遠の命を得ることはない。これが聖書の語るところです。けれど、世の中が語るのはもっと安易です。この車を手に入れれば、幸せになれますよ。この保険に入ればあなたの将来は何の心配もありませんよ。この人脈さえ得れば、あなたの人生は勝ち組ですよ。そうして皆が永遠の問題から目をそらせようとしています。なぜなら聖書が問うところは重たすぎるからです。けれど、それは必ず来る現実です。私たちは夢見て生きよではなくて、やがて来る現実に備えよと、声を上げなければならないのです。
Ⅱテモ4:4には次のようにあります。「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」真理に耳を背け、偽りにそれていく時代です。正しいことを押し曲げてでも、権力に擦り寄ろうとする世の中です。そのような時代に私たちが求められていることは何でしょう。それは時代に影響されないことばを伝えることです。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」一言で言えば、真実を語りなさい。ということです。偽りの時代だからこそ、私たちは真実を語る。福音を伝えなければならないのです。

出エジプト20:16 「偽りの証言をしてはならない」
偽りを捨てるということは、口で言うほど易しくはありません。なぜ、偽りの証言をするのか。それは多くの場合、自己保身のためだからです。子どもたちを見ているとよくわかります。彼らは叱られたくない一心に、平気で嘘をつきます。どれだけ状況が揃っていても、認めません。僕じゃない。その嘘が余計に怒りを買うことに頭が回りません。彼らの嘘は非常に反射的です。恐らく何も考えずに、口から出ているのです。
親として、そういう姿を見ると本当に悲しくなるわけです。正直に叱られているほうがどれほどマシか。と思います。子どもの言うことに何を大げさなと思われるでしょうか。けれど、その小さな嘘の本質は罪です。自分の身可愛さに、他人に責任をなすりつけようとする。他人を罪人に陥れようとする。子どもだからと笑って過ごせることではありません。世の中には叱らない親も増えてきています。けれど、私はきちんと叱らなければならないと思っています。それは、子憎しということではありません。親として子に期待をしているからです。大切な存在だと認めているからです。だから、偽りの人生を歩んでほしくない。人と人との関係を嘘で塗り固めてほしくない。相手を信頼する人生を歩んでほしいと思うからです。親は子に正しい道を教える責任があるのです。
そして、その思いはまさに、父なる神が私たちに対して抱いている思いなのではないでしょうか。父なる神の前に、私たちは言い訳ばかりしている子どもと同じではないでしょうか。私たちの必死な言い逃れを、天の父なるお方は悲しんではおられないでしょうか。
嘘は所詮偽物ですから、辻褄を合わせるためには、更なる嘘を必要とします。中には、嘘も時には必要だと言われるでしょうか。相手の為を想っての嘘は嘘じゃないのでしょうか。私が学生の頃「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画がありました。それはアウシュビッツ収容所に入れられた親子の話で、父のグイドは息子のジョズエに、悲惨な現実の中でも希望を失わないために、これは大掛かりなゲームだと息子に嘘をつくのです。子を想う親心を描いた名作。けれど、私の評価は違います。現実を見せないという親の嘘は、本当に子にとって幸せなのか。それはまやかしではないのか、と思うのです。映画の最後、父グイドはドイツ兵に連れられて行きます。それを見る息子を心配かけまいと、大げさな行進で笑顔に画面から消えていきます。そして銃声が聞こえる。ジェイドは父の死を知らぬまま、翌日、戦争が終結し、彼は解放軍の戦車に乗って笑顔に収容所を出るのです。映画はそこで終わります。しかし、思うのです。この子の現実はそこから始まるのではないでしょうか。たとえば、ゲームだと笑って過ごしたその裏で、沢山の仲間たちが死んでいったことだとか、父が自分のための嘘を突き通すために、周りの人を巻き込んで多くの悲惨があったことだとか。彼はそれをどう受け止めるでしょう。その傍らにもはや父はいないのです・・・。私は、子に向かって夢の中で生きよと言うよりは、むしろ、現実を教え、そこに立ち向かう手立てを教えるのが親の責任ではないかと思うのです。
聖書にはしばしば、偽預言者が出てきます。彼らは何を語るのか。それは、人々の望む言葉を語ったのです。人々の耳に心地よい偽りの言葉。まやかしの言葉。預言者エレミヤが涙を流して民の滅びを預言し、その悔い改めを迫る隣で、偽予言者たちは「平安だ。平安だ。」と安易な慰めを口にしたのです。その結果が何をもたらすか、考えもなしにです。
十戒は、偽りの証言をしてはならない。とあります。証言という言葉からわかるように、これは元々、裁判での証言を指している言葉です。今でも裁判所で証言をするとき、証言者は偽らないことを宣誓しなくてはいけません。もし偽れば、偽証罪に問われます。それほど念を入れる。なぜなら、その証言如何によって、一人の人の人生が左右されるからです。私たちの軽はずみな発言が、取り返しのつかない大きな結果を生み出すからです。だからこそ、私たちは偽りで誤魔化すわけにはいきません。
偽りの証言をしてはいけないとは、真実を語らなければならないという意味でもあります。たとえ、周りの全ての者が平安だと言ったとしても、神の真実が別にあるのなら、私たちは語らなければなりません。福音は人の罪をあばきます。しかしそれゆえに神の救いに導くのです。

出エジプト20:15 「盗んではならない」
そもそも人はなぜ盗むのでしょうか。それはそこに飢えがあるからです。つまり満たされない思いです。満たされない思いが沸くから、羨み、妬み、そして盗むのです。
盗んだことがあるかどうかは別としましても、人は誰しもが他人の物を羨む経験をお持ちではないかと思います。自分が持っていないおもちゃを、隣りにいる子が持っている。いいなぁ。欲しいなぁ。ではどうするのでしょうか。多くの人は諦めるか、それを手に入れる努力をします。子どもならば親を説得することでしょうし、大人ならば働いて購入する。けれど、それは手間も時間もかかる方法です。そして、どれだけ時間をかけようと手に入らない物もあります。それよりももっと確かで手っ取り早い方法があるとしたらどうでしょう。幸いなことに周りには誰もいません。今なら誰にもばれません。欲しい欲しいという思いで頭がいっぱいになれば、思わず手を伸ばしてしまう。そうならないのは、ただ単に状況が許さないからなのかもしれません。
誰も見ていない。今ならばれない。そのような状況で、思いとどまれるかどうかは、神の存在を認めるかどうかにかかっています。神は私の振る舞いをご存知である。そして、神は私たちを正しく裁かれる。実は「盗んではならない」というこの戒めは、私たちに神の光に照らされて生きよ。と教えているのです。
人の目だけを気にする人は、人目のないところで、思いとどまることはできません。日本では他人様に迷惑をかけてはいけないと教えられます。けれど、他人に迷惑をかけるから駄目なのでしょうか。例えば人目のない道端に落ちているお金をポケットに入れる。恐らく、誰に迷惑をかけることでもないかもしれません。多くの人はラッキーと言って罪悪感すら感じ無い。けれど、それは果たして神の前に正しいと言えるのでしょうか。相手に頼まれたことならば、迷惑はかからない。では、もう生きているのが辛いから殺してくれと頼まれれば、そうするべきなのでしょうか。いや、それは法律で禁じられているからダメだと言います。では法律で裁けないことは何をしても良いのでしょうか。法律の網をくぐって悪さをする人が後を絶ちませんが、それは賢い生き方と言えば良いのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。マタイ16:27には「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」とあります。神は全てを承知で、義しく裁かれる方です。ですから私たちは人の戒めを越えた、神の戒め、神の光に照らされて歩まねばなりません。
マラキ書には「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。」とあります。神のものを盗むな。これが神の問われる正義です。私たちは手にするものは自分のものと理解しています。そして自分のものは自分の思い通りにしても良いと。けれど、そもそもが私たちは神の憐れみのゆえに生かされている者であることを、忘れれてはいけません。恵みの初穂を献金として捧げ、一週間の初穂である日曜日を捧げ、一日の初穂である朝の時間を捧げる。日々の食事を頂く前に、感謝の祈りを捧げ、与えられた賜物をもって教会に仕える。これらは全て、神に生かされてある身を覚えるためにです。私たちが神の恵みを数えること無く、全て自分の手柄とするならば、それは神のものを盗んでいることに他ならないのです。
この戒めから神様の言われることは、とどのつまり、あなたに必要なものは全て用意されている。ということです。自分には無いものを隣の人は持っている。この無いものに目を留めると、私たちはもう駄目です。無いことが不幸せのように感じてしまう。あるものへの感謝が失われてしまう。それは人類の初めアダムとエバからしてそうなのです。私たちの目を、無いものに向けるのは止めましょう。そうではない。頂いているものの豊かさを数えるのです。神への感謝こそが、私たちの他人への妬みを退けてくれるのです。

出エジプト20:14 「姦淫してはならない」
たった一行の戒め。具体的な性に関する戒めは、レビ記18章に詳しく記されています。ここでは、性に対する基本的な倫理感が教えられています。
わたしのおきてと定めを守るように。と言われます。出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指す荒野での道中で、彼らは神と契約を交わし神の民とされますが、彼らにはエジプトでの性に対する価値観や倫理観が深く浸透しておりました。具体的には近親婚、不倫、人身御供、同性愛、獣姦などです。これらは実際に、エジプトにおいて、カナンにおいてなされていたことで、この時代の感覚で言うと、それほど問題視されていなかったことでした。しかし、主は明確にこれらを禁じられます。私たちからしますと、そのような間違った性関係を禁じることは、まぁある意味、当然のことじゃないかと思われるかもしれません。しかし実はこういった性に関する倫理観というのは聖書独自の教えなのです。日本でも性倫理が問われるようになったのは近年に入ってからです。それはキリスト教の影響です。日本では古くから、夜這いの風習がありますし、性器がご神体の神社もあります。遊郭なども公に認められたりしました。慰安婦の問題で、韓国だけでなく諸外国との温度差があるのは、そもそもの倫理観が違うからです。橋下徹氏がまだ大阪市長であったとき、犯罪抑止のための性のはけ口として風俗を勧める発言をしましたが、いわば、その程度の倫理観なわけです。この国の倫理観は壊れています。しかし、聖書は不品行を避け、姦淫を避けるようにと教えます。これは実は画期的なことなのです。
民はこれを聞いて不自由さを感じたことでしょうか。そして、現代の私たちも、だからキリスト教は息が詰まると言われるでしょうか。実際に、そのような批判を教会は受けてきました。教会の戒めは、余りにも今の時代には合わない。古めかしい。自由恋愛が叫ばれる今の世の中で、不倫も同性愛も、婚前交渉も、愛情表現の一つではないかと、こう言うのです。しかし、聖書ははっきりとそれは違うと言います。間違ったこの世の価値観を引きずったまま、神の民として生きることは相応しくありません。彼らは、神の民とされたのです。ならば、神の民としての生き方があります。私たちも同じなのです。
さて新約聖書では、この姦淫してはならないという戒めを、単なる倫理観ではなく、より積極的に夫婦関係を築くための大切な要素として理解します。結婚という枠組みの中で性の祝福を語るのです。パウロは、結婚した夫婦について、互いにこの性の権利を奪い取ってはならないと第一コリント書で語っています。互いを愛すること、愛されることを拒んではならないと語るのです。それは、結婚してなお、互いの想いが外に向けられないためにです。性の営みというと、教会では、とかく否定的に思われやすいですが、しかし夫婦におけるそれは、二人を一体とするための大切な要素です。夫婦の正しい関係が築かれていないから、互いは再び外の世界へと目を向けるのです。埋まらない欲求を埋めるために、簡単に誘惑になびいてしまうのです。正しい結婚の枠の中に生きる。これが、誘惑を祝福と変える秘訣です。
さて姦淫は神が定められた正しい夫婦関係を破壊することです。そして、このことは未来の夫婦関係を破壊するという意味において、結婚以前の私たちの在り方をも規定しているのです。パウロは繰り返し不品行を避けるようにと命じています。結婚以前に性交渉を持つことは、将来の伴侶に対して性の比較材料を持つと言うことに他なりません。最も信頼すべき夫婦関係が、見えない誰かと比べられることをいつも不安に思いながら過ごさなければならないとすれば、これは本当に残念です。愛するから関係を持つのではありません。愛するから祝福の時を待つのです。そしてその誠実が、相手との信頼を築いていくのです。男女ともに結婚前の貞操を保つこと。それは将来の伴侶への信頼を築くことなのです。
