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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210303 民数記31:42-54 「一人で戦うのではなくて」

民数記31:42-54 「一人で戦うのではなくて」

 31章の初めに「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」とあります。あなたの民に加えられる。とは、死んだ民の数に加えられる。ということです。つまりモーセの生涯で、最後の務めが命じられているわけです。それが、このミデヤン人への報いです。ではミデヤン人への報いとは何でしょう。それは25章に記されていた事件。イスラエル人がモアブの娘たちとみだらなことをし始めたことをきっかけにバアル・ペオルを慕うようになり、そのことが主の怒りとなって燃え上がり24,000人のイスラエル人が神罰で死ぬという事件。この事件に対しての報いです。
 このモアブの娘たちはミデヤン人でありました。ミデヤン人はエドムの東から紅海に至るアラビヤ砂漠に住んでいた民で、イシュマエル人、モアブ人、アマレク人などの様々な部族連合の総称だそうです。イスラエルがモアブの草原に宿営したとき、モアブの王バラクはこれを恐れて、占い師のバラムに呪いを依頼しますが思惑通りには行かず、次の策として考えたのが、このモアブの娘たちを用いての懐柔策でありました。敵対して勝ち目がないなら、懐に入ろうというわけです。しかしこの結果、イスラエルの民は偶像礼拝を行い、神の怒りを買って24,000人もの命が取られるというバアル・ペオルの事件が起きてしまいました。神はこの事件を決して軽く扱われません。むしろカナンに入る前のどうしてもやるべきこととして、この仇討を命じておられるのです。
 何となく、残酷な仕打ちに見えるでしょうか。しかし、主はもともと「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたにはその土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」(申命記2:9)と命じておられました。ですからイスラエルは彼らの土地を迂回して北上しました。最初からイスラエルにはモアブをどうこうとするつもりはなかったのです。けれどモアブがイスラエルを恐れ、あれこれといらぬ策を講じたがために、イスラエルの民の偶像礼拝を招き、本来死ぬ必要のない民がたくさん死にました。もちろんだからと言って淫行したイスラエルの民を擁護することはできません。彼ら24,000人はことごとく死に絶えました。しかし、一方でミデヤン人の処遇を曖昧にしたままで、カナンの地に入っていくことを主は許しません。イスラエルと現地の民との淫行は、主への裏切り行為であると、内外共に知っておく必要があったからです。
 モーセは各部族から1000人を戦いに出させて1万2千人の軍を整え、ピネハスを大将としてミデヤンの地に送り出します。結果イスラエルはミデヤン人の男子を全て殺し、女性や子どもを捕らえ、家畜や財産をことごとく奪い取るという大勝利をおさめました。

 さて、今日の箇所はこの戦いによって得た戦利品の戦後処理についてが記されています。実は25節から続いている一連の文章です。まず戦利品の総数が確認され、それを従軍した民とそうでない民とに二分します。従軍した民の取り分から、500につき1を主のための奉納物として、エルアザルや祭司に渡されました。一方、従軍しなかった残りの民の取り分から、50につき1をレビ人の取り分とされました。
 特筆すべきは、戦利品の中の腕飾りや指輪などの装飾品もまた主に献げられたということです。総量16,750シェケル。1シェケルは11gと言いますから、183,700g=183.7kgの金が奉納されたということです。これは主の命じるところではなくて、自主的な献げ物でした。それはこの戦いで一人の死者も出なかったということに対する感謝の応答でした。規定通りのささげ物をしているのですから、普通はその他のものは自分の物。特に装飾品は先の戦利品の一覧に載っていませんから、奪い取った兵たちの取っ払いと言いましょうか、文字通り戦利品なわけです。羊や牛やろば、奴隷はイスラエルの共有の戦利品でした。けれど装飾品は見つけて奪い取れば、それは火を通して清めることは必要でしたが、それさえすめば自分のものとなったのです。実はこれは戦いに参加することの旨味だったのです。ところがイスラエルの兵たちはその装飾品を惜しむことなく主に献げています。それは彼らがこの戦いを私利私欲の戦いにせず、主の戦いであると理解していたからでした。
 思えば、私たちはあらゆる出来事のほとんどを自分の戦いとしてはいないでしょうか。自分のための戦い、自分一人で頑張る戦い、自分だけが受け取るべき戦い。けれど、そこには主の守りが確かにあるというのに、それを見ないようにはしてはいないでしょうか。独り相撲をしているのではないでしょうか。主が共におられる戦いを、私利私欲で戦うなら、私たちはその結果も負わなければなりません。けれど、それを主の戦いとして参加するとき、主は私たちの身と心を守り、確かな勝利へと導かれるのです。

210224 民数記28:1-15 「生活の中心」

民数記28:1-15 「生活の中心」

 主へのなだめのかおりのささげものについてが命じられています。常供の全焼のいけにえとして、一歳の傷の無い雄の子羊を毎日朝に一頭、夕に一頭。穀物のささげ物として、オリーブ油を混ぜた小麦粉10分の1エパ(2.3L)。注ぎのささげ物として、子羊一頭につき4分の1ヒン(0.95L)の強い酒(ぶどう酒)。これがあらゆるいけにえの基準です。
 安息日には、この常供のいけにえに加えて、一歳の傷の無い雄の子羊二頭。穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)が献げられます。
 また月の第一日(新月祭)は、やはり常供のいけにえに加えて、全焼のいけにえとして、傷の無い若い雄牛2頭、雄羊1頭、一歳の雄の子羊7頭、そして祭司のために罪のためのいけにえとして雄やぎ1頭。穀物のささげ物として、雄牛1頭につき、油を混ぜた小麦粉10分の3エパ(6.9L)、雄羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)、子羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の1エパ。注ぎのささげ物として、雄牛1頭につきぶどう酒4分の1ヒン。雄羊1頭につきぶどう酒2分の1ヒン、子羊1頭につきぶどう酒3分の1ヒン。が献げられます。

 そして28章16節から29章までは、さらに過ぎ越しの祭りや種無しパンの祭りが行われる第1の月のいけにえ、初穂の日(五旬節)のいけにえ、そして贖罪日がある第7の月のいけにえの規定が記されています。

 カナンに入る直前、後継者にヨシュアが選ばれたその直後、最初に主から命じられるのがいけにえについての事細かな規定でした。毎日のいけにえ、安息日毎のいけにえ、新月祭のいけにえ、初穂の日のいけにえ、そして、出エジプトを覚える第1の月と贖罪日を迎える第7の月に献げられる特別のいけにえ。それらは彼らイスラエルの生活が、神の恵みによることを思い起こさせる行為でありました。これからカナンに入国することになるイスラエルはその地に定住することとなります。するとどうなるか。日々の生活が神の導きであることよりも、自らの努力の結果と映るようになるのです。荒野の旅は、天からのマナとうずらをいただき、日々主の恵みによって生かされる日々でした。困難は彼らに主に頼ることを教え、思いもよらぬ神の奇跡が彼らの目を覚まさせたことでした。けれど、カナンに入ればどうなるでしょう。乳と蜜の流れる地と呼ばれたカナンは、豊かなで、農業や放牧に適した地も多く、入居した地で彼らは定住生活を送るようになります。彼らはそこで畑を耕し、穀物を育て、家畜を育て、蓄え、富みを築いていくのです。これまでは神に依存した生活でした。けれど、これからは彼らの努力が彼らの成功に直結する生活となる。それは彼らのやる気となり、同時に彼らが神を必要としなくなる下地ともなるのです。
 主はそのような生活に入る前に、彼らの生活の中心をどこに置くべきかをこのいけにえの規定を通じて教えておられるのです。いけにえを献げることはすなわち礼拝です。カトリックのミサはキリストのいけにえを捧げる行為です。私たちはキリストを再び十字架にかけることはしませんが、礼拝の度に主の贖いの恵みを覚え、感謝することは決して間違いではありません。しかしです。イスラエルに命じられたいけにえの規定の見る限り、私たちの礼拝は週に一度では足りません。それは毎日献げることが命じられているのです。
 全焼のいけにえは、傷の無い家畜と穀物と注ぎの献げ物。私たちの生きるために食すもの、そして懸命に蓄えた財を、まず初穂として神に捧げることが命じられています。それは私たちが己の力ではなく、主によって生かされていると認め、感謝すること。ひれ伏すことを意味します。私たちは毎日、主によって生かされ、養われてあるこの身を覚えるように。感謝するようにと命じられているのです。
 詩編103:2「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

210217 民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

 今日の箇所は、バラムがバラクのもとに行く道すがらの不思議な出来事についてです。バラムの乗っていたろばがうずくまってしまい、バラムは怒りのままにろばを杖で打ち付けます。するとろばが喋り始めて、バラムを諭し始めるのです。しかし、実はそこには剣を持った主の使いがおりました。ろばが身を巡らせていなければ、主の使いがバラムを滅ぼしていたところでした。バラムはろばによって救われていたのです。本人の気付かぬところで、多くの助けがあるものです。けれどそのことに一向に気付けないのはバラムがの高ぶりです。目のおおいが取り去られて、主の使いの姿を確認して、ようやくバラムは自らの罪を悟ります。そして、主のお告げに従い、心新たにして、バラクのもとへと出発するのです。
 さて、この出来事は主の使いがろばを用いてバラムを諫め、彼の態度を改めさせ、主の御用に相応しく整えられる場面です。しかし、彼の何が問題だったのでしょうか。22章の前半を見る限り、バラムは主のお告げに忠実なしもべのように見えます。彼はまず主のことば通りにバラクの誘いを断りました。再びの時は、主のお告げ通り、バラクの使いたちと共に出発をいたします。神のことばに忠実なバラム。と一見見えなくもありません。けれど、彼の狙いは別にありました。Ⅱペテロ2:15-16には、この時のバラムの様子を解説して次のように記しています。「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」バラムは不義の報酬を愛したとあります。つまり、バラクの申し出を一度断ったのは、自らの価値を高めるための小賢しい知恵であり、バラクから手厚い報酬の約束を引き出すことができたのでバラムは出かけたのです。主に伺いを立て、主のことばに聞き従っているように見えたのは全て彼のポーズでした。主のことばを自分の利益のための権威付けに利用する、その身勝手な振舞いを主は怒られたのでした。
 つまり、神のことばを自らの計画や考えを押し通すための錦の御旗にしてはいけないということです。バラムには神のことばに先立つ己の企てがあったのです。占いというのはそういう側面があります。ことの現象を見て解説する占いは、しかしその解説の根拠を示すことができません。たとえば亀の甲羅を焼いて、その焼き跡を見て占う。しかし、そのひびが何を意味するかは占い師の匙加減です。星占いと言いますが、その星の動向が何を意味するかは、経験から来る予想に過ぎません。つまり占い師は起こり得るあらゆる現象を自らの経験や考えを根拠として語るのです。その逆ではありません。けれど、主が再三に渡っておっしゃるのは、「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」ということです。そこに占い師の予想や意見は必要ないのです。主のことばに混ぜ物をせずに聞き、従う。みことばに対する謙遜さが彼には欠けておりました。みことばすらも自己実現のために利用しようとする高慢な態度がありました。
 もっとも彼自身、そのことに気付いていなかったのかもしれません。みつかいの剣の前にひれ伏した彼は目が開かれます。占い師から預言者へと変わった瞬間です。彼はバラクのもとに行き、堂々と宣言します。「私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」
 神のことばを自己実現のために利用することは、主の望まれることではありません。主が語られるところに、私たちの理解も、私たちの都合も関係がありません。告げられたままに従う。私たちに問われるのは、主の前にある従順です。私の計画を一旦おいて、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。

210210 民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

 アロンとアロンの子孫とに与えられる祭司職についての決まりが記され、その後レビ人のそれが同様に記されます。強調されるのは職務の聖さ。祭司職と天幕の任務は彼らだけに特別に授けられる職務であって、他の資格のない者が近づくことすら赦されることはないと語られます。

 実はこれに先立って、16章でレビ人コラによる騒動が記されています。レビ人であるコラは、アロンが全イスラエルの祭司の聖職を独占しているのを妬んで、モーセとアロンに逆らい、指導者たちを扇動し、反旗を翻します。彼らの表立っての言い分は「イスラエルの全会衆が残らず聖なるものであるのに、モーセやアロンが指導者としての地位を独占しているのはおかしい。」というものでした。けれど、そのモーセとアロンを選ばれたのは他でもない主です。主はこれを良しとせず、コラとその家族、彼に属する全ての者と持ち物は、地面に飲み込まれ、生きながらよみに下るという凄惨な結果で終わります。主が反逆を戒めるしるしとして、そのようにされたのです。ところが会衆はこの出来事をモーセとアロンの仕業と決めつけて逆らったのです。更なる民の反旗に神は神罰を与えられます。17400人が息絶えました。しかし、それはモーセが急いでアロンに贖いを命じ、アロンが香を焚いたことで神罰が止んでくれた結果でした。
 17章では、主は12部族の杖とアロンの杖の中から、アロンの杖だけを芽吹かせることで、今一度、アロンの選びを明らかにされました。しかし、民は自分たちも滅ぼされると尚も恐怖に陥っておりました。

 そのような背景があっての18章です。主はアロンと祭司職の務めについて、レビ人の務めについて、改めて民に明らかにされるのです。
 1節から7節まで主はアロンの担う祭司職について語られます。主はまず冒頭で、祭司職に関する咎はアロンとその子たちが負わなければならないと明言されます。そしてレビ人は祭司に連なりこれに仕える者であることを明言されます。レビ人は天幕全体の任務に当たりますが、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。とその職務の線引きをなされるのです。それは彼らが死ぬことのないようにするためです。コラの反乱はこの職務の越権による混乱によって起きました。つまり、それは神の奉仕に対しての認識不足から来ていたのです。
 平等であるべき。という主張は一見、正しい主張に聞こえますが、その実は神の奉仕に優劣をつけて不平等を訴えているに過ぎません。それはヒューマニズムと呼ばれるものです。神は私たちを奉仕の業に招かれます。しかし、そこには役割の違いがあります。賜物の違いです。ある者は指導者として、ある者は祭司、ある者は天幕の奉仕、ある者は荷物の運搬、ある者はラッパの号令。この違いを優劣と捕らえるのは神の本意ではありません。神はそれぞれの賜物が最も生かせるようにそれぞれの役職を与えられるのです。
 誤解を恐れずに言いますと、実は教会は平等という価値観では動いてはいません。主は一人一人を同じようには扱いません。違う存在として扱われます。違う賜物を持った者たちとして、力を合わせることを求めておられます。パウロは一人一人の賜物を器官にとらえて、いたわり合ってからだなる教会を建て上げるようにと言いました。これはモーセの時代から一貫した神の民のあり方です。なぜなら、人は決して全能ではないからです。私たちには部分しか担えないのです。頭が歩くことはできないし、足が見ることはできないのです。コラにはコラの、アロンにはアロンの担うべき役割があります。コラにアロンの代わりはできないし、アロンにもコラの代わりはできません。私たちの罪はそこに優劣をつけることです。別々の特別な賜物にわざわざ優劣をつけて、同じようになれと強要してしまうのです。しかしそれは神の賜物に優劣をつけることに他なりませんし、何よりそれでは神のからだは機能しません。Ⅰペテロ4:10には「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」とあります。私たちは与えられた賜物を精一杯に用いて神に仕え、互いに仕えるのです。
 さて8節からは祭司の奉納物についてが語られます。それはアロンの受け取る分だと言うのです。他の部族から見れば、なぜ彼らがと疑問に思うでしょうか。神への献げ物として持ってきたのに、儀式が終わればそれを祭司たちが自分の物とする。なんだか腑に落ちないと思うかもしれません。けれど20節には「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」とあります。それは祭司たちにとっての割り当て地だと言うのです。コラの件で民がモーセたちに詰め寄り神罰が起きたとき、民の贖いをしたのは他ならぬアロンたち祭司でした。彼らは聖所に関わる咎を負わなければならないと命じられました。彼らは咎を負うために、相続地を持たず、聖所で仕えます。その代わりに彼らは奉納物を受け取り分とされたのです。つまり祭司たちは民に雇われているのではなく、ましてや奉納物を着服しているのでもなく、神によって任じられているということです。ここがブレますと、たとえば牧師が信徒の献金額を見て態度を変えたり、信徒が教職者を雇っていると勘違いすることが起こり得てしまうのです。牧師は教会を自分の教会にしてはいけませんし、教会員も教会を自分たちの教会にしてはいけません。教会はあくまでも主のものでなければなりません。
 主によって集められた私たちに優劣の差はありません。あるのは賜物の違いです。主が私たち一人一人に最もふさわしい、最も輝ける賜物を授けてくださいました。私たちは互いの賜物を認め合い、神に仕え、互いに仕えてまいりたいと思います。

210127 民数記14:1-25 「今日の信頼、明日の確信」

民数記14:1-25 「今日の信頼、明日の確信」

 カナンの地を目前とした、パランの荒野に到着したイスラエルは、各部族から1名の偵察隊を選びカナンの地を回らせます。12人は命じられるままにその地を巡り、40日の時を経て、民に報告いたします。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」問題はこの報告の後に語られた偵察隊の2つの結論です。
 ヨシュアとカレブは言いました。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」その他の10人は「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と結論付けます。そして、「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」と感想を語るのです。
 この偵察隊の報告を聞いた民の様子が、今日の箇所であります。冒頭、全会衆は大声をあげて叫び、泣き明かしております。彼らは偵察隊の報告に絶望したのです。それはつまり、彼らが10人の報告を信じたということです。そして、こともあろうか、エジプトから連れ出してくださった主に不満の声を上げるのです。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ【主】は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
 カレブとヨシュアは必死になって説得します。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし【主】が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、【主】に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」しかし、不安に陥った民に二人の声は届きません。それどころか全会衆は二人を石で撃ち殺そうと言い出す始末です。
 なぜ彼らは、10人の報告を信じたのでしょうか。それは主がお語りになるところです。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」それはつまり、彼らが主が共におられることのしるしを見ようとはしないからです。出エジプトの折の10の奇跡と海の間を通る体験。毎日の命を繋ぐマナとうずら。彼らの道を指し示す炎と雲の柱。忘れようにも忘れられない奇跡の数々を彼らは体験しています。にもかかわらず、その恵みに目を向けません。神が共におられることの確信がないので、まだ見ぬ不安に心を奪われるしかないのです。
 カレブとヨシュアは違います。二人はこれがカナンの民の強弱の問題ではなくて、主に背くか背かないかの信仰の問題であることを悟っています。なぜなら、そこは主が約束された地だからです。主の約束に対する信頼をもってその地を見るとき、そこは乳と密が流れる地です。しかし、主の約束を抜きにしてみれば、そこは住む者を食い尽くす地と映るのです。
 さて、モーセは主に嘆願します。「もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。」モーセのこの言い方はまるで脅しのようです。けれど、そのようにしか言えないのです。民の咎はもはや擁護できるものではないからです。モーセは民のためにとは言いません。あなたの御名のためにと言います。あなたの御名が貶められることのないためにです。私たちは主の赦しを余りにも当たり前に期待しているかもしれません。確かに主イエスの贖いはただ一度、私たちを完全に赦しうる贖いの御業です。けれど、この赦しを受け取るかどうかは、一人一人の信仰に委ねられているのです。主は求める者には一切を与えてくださるお方ですが、その口をこじ開けて、無理やりねじ込めるお方ではありません。日々の恵みに慣れすぎて、感謝を忘れ、不平不満だけに心を奪われている者は、自ら主の赦しと祝福を拒んでいるのです。私たちが主を侮るなら、私たちは主の約束を見ることはできないのです。
 この結果、イスラエルの民は荒野での放浪を余儀なくされます。出エジプトを果たした世代は皆、カレブとヨシュアを残して代替わりして約束の地に入ることになります。今日神が共におられることの信頼を失うということは、それほどまでに私たちの人生の終着点を違ったものにしてしまうのです。もう一度主が共におられることの幸いに目を向けなければなりません。わかりやすいマナとうずらはなくとも、日々生かされることの恵みに心を留めていきたいと思います。明日を知れぬ私たちではありますが、今日信頼することが明日の確信へと繋がるのです。