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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220320 民数記13 「信仰をもって進もう!」 東北宣教プロジェクト・グレイスハウス教会 斎藤満師

民数記13 「信仰をもって進もう!」 斎藤満師

 主の年2022年、私が所属しているグレイスハウス教会は信仰の岐路に立っています。昨年は教会の活動拠点兼会堂を失い流浪の民となりました。震災からもうすぐ11年になり、人々の関心は薄れ、さらにコロナ禍が追い打ちをかけています。状況はあまり良くないかもしれません。しかし、聖書にはこのようにあります。「わたしの義人は信仰によって生きる。 もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。」ヘブル10章38節。私たちは信仰をもって、主の御心を選び取っていかなければなりません。今日、この箇所から私たちもまた、主に信頼し、選択していくことを学びたいと思います。
 今日は2つの段落でお話します。① 信仰的ポジティブ ② 信仰は私たちの選択を変える 
 この箇所において、まず最初にみておきたいのは1節。この偵察は誰の命令でなされているでしょうか。そうなのです。神様が、あの約束の地をどんな所か見てきなさいと言われたのです。それはなぜでしょうか。少なくとも2つ理由があります。
 1つ目。神様は出エジプト記3章8節でイスラエルにこういう約束をくださっているのです。「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。」つまり神様はイスラエルの民に、偵察してもらうことによって今神様の約束がそのとおりになろうとしていることを、知ってもらおうとしたのです。
 2つ目は、約束されたカナンの地がいかに素晴らしいかをイスラエルの人々に見てもらうためであった。もちろん、これから入って行くために、実際の土地や地形を知るためでもあったでしょう。
 信仰は私たちの選択を変えます。では、信仰的選択とはどんなものか。カレブやヨシュアは、自分の力を過信していたのであのように言ったのでしょうか。そうではないでしょう。では彼らはなぜその状況をポジティブにうけとめられたのでしょうか。それは彼らは神様が「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。」と言われた、その約束を信じたからでありました。
 ヘブル人への手紙を書いた著者は11章1節でこう言っています。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」これはどういう意味なのでしょうか。「望んでいることを保証し」の「保証」とは、そのものをささえる土台を意味する言葉であり、「実体」とか、「確信」を意味することば。それが転じて、土地家屋の権利保証書を表すようになった。権利保証書とは、それをもっているなら、離れたところにいてもそれがその人のものですよと証明するものです。
 また「目に見えないものを確信させるもの」の「確信」という言葉は、「証拠」や「とがめ」を表すことばで、これも転じて「検分済み確認書」を表すようになったことば。つまり、簡単に言い換えると、「信仰」はまだ手にしていないものが、必要な検査を終え、すでにあなたのものとなったことを保証する、証明書のようだといっているのです。
 信仰は聖書の奥義であり、神の知恵です。そして、神さまが私たちに唯一求めているもの。私たちの生活において、普通、保証書は買ったもの、すでに手にしたものに発行されます。しかし、このみ言葉は、信仰とは、まだ見ていないものの保証書だと言っているのです。聖書が私たちにくださっている約束、「救い、天の御国、神の子どもとされる特権、復活」。これらは、すべてまだ目にしていない、まだ完全には手にしていないもの。しかし、聖書は、信仰によって、それにはすでに私達のものと保証されているのだ。信仰こそ、それがそのとおりになるという保証書なのだと教えているのです。
 私は被災地だからこの地を任地に選んだわけではありません。主がこの地にお前を遣わすと言われ、遣わされて来たのです。私は主の約束と御心を信じたいです。 また私はグレイスハウス教会がやがて、この地に根ざし、多くの人々とともに歩む教会になることを信じています。三陸沿岸の状況、また現在の状況は良いときではないでしょう。しかし、恐れて退くのではなく、行こう必ず主がそうさせてくださると、この2022年さらに踏み出したいのです。ぜひ皆様も共に心合わせ、約束の地に登ってくだされば幸いです。

210310 民数記35:16-34 「復讐の権利を捨てて」

民数記35:16-34 「復讐の権利を捨てて」

 35章では、各部族の相続地の運用についてが語られています。各部族はそれぞれの相続地において、レビ人のための町と放牧地を用意することが命じられました。具体的にはレビ人が住む町として42、逃れの町として6つ、そしてそれぞれに放牧地を設けることが命じられ、これらの町々はイスラエルの相続地全体に行き渡るように設けられました。

 さて今日の箇所の16節からは、故意の殺人と過失による殺人のケースが紹介されています。事細かに記されるのは、これが復讐と密接に繋がっているからです。新約の時代に生きる私たちには驚くべきことですが、聖書は復讐を否定してはいません。なぜならそれは殺された者の家族にとっては当然の怒りであり、悲しみであるからです。命に対しては命が問われるというのは、神に対してだけではなく、人に対しても言えることです。
 けれど、どんな場合でもそれが構わないというわけではありません。それが故意であるか、過失であるか、それによって扱いが全く違います。殺意ある殺害に対しては復讐が認められています。けれど、それが過失である場合はその誤って殺してしまった人は逃れの町に入ることが許されているのです。この逃れの町にいる間は、たとえ被害者の家族と言えど、復讐をしてはならないと命じられました。けれど、もしもこの加害者が逃れの町の外にいるならば、復讐をしても構わないとされました。あくまでもこの加害者が逃れの町に留まる時、その者は復讐から逃れることができたのです。
 けれど、誤って殺したのだとしても、遺族にとってそれは立派な殺人です。愛する人の死のために、悲しみ、復讐心に駆られます。ですから、主はそれがたとえ故意でなかろうとそれを無罪とはなさいません。どんな事情があったとしても、人を殺せば恨まれるし、町を追われなければなりません。そうでなければ残された遺族は、町で相手を見かける度に恨みを増し加え、復讐の思いを背負い続けなければなりません。逃れの町に入ることは、定められた狭い土地に生涯を過ごすことです。その町から離れることは復讐の危険を負うことです。ですから、その者は自分の意志でそこに居続けなければなりません。決して居心地の良い町ではないでしょう。そこに住むのは、自分と同じように、誰かを殺したというすねに傷のある者たち。置いてきた家族を不憫に思いながら閉ざされた町中で生涯を暮らすと言うのはかなりのストレスです。さながら大きな独房のよう。現代の独房システムと違うことは、その町から出ることはいつでもできるということです。彼らは被害者の家族を復讐者とさせないために、そこに居続けることが命じられるのです。つまり、そこに居続けることが彼らの罪滅ぼしなのです。

 イエス様の十戒の解説などを聞いている私たちは、何となく、復讐を前提としたこの命令に違和感を覚えるかもしれません。けれど忘れてはならないことは、人を殺すということはそれほど重大な罪であるということです。殺した人にも人権がある。と言うかもしれませんが、殺された人にも人権はあったのです。もちろん、殺された遺族にもです。人が人の命を奪うなら、必ずその命をもって清算されなければならないのです。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」とある通りです。つまり、復讐と言う過激な報復手段を認めているのは、それほど人の命は重いということの表れなのです。そもそもの主の命令は「殺してはいけない」であることに疑いの余地はありません。
 ですから復讐にせよ、公開による処刑にせよ、裁きというのは、個人の判断でなされてはいけません。聖書は一人の証言、賄賂を禁じています。それは公の場で、誰もが納得のいく形で、複数の証言を吟味して、ようやく祭司によって定められるのです。それは慎重でなければなりません。ヘロデによるイエス様の裁判が如何に不当であったかが伺い知れます。そして不当な扱いに対しても、従順に受け入れられたイエス様の十字架の姿に、私たちは復讐を超えた憎しみからの解放を見るのです。復讐は傷つけられた者の正当な権利です。けれど、復讐によって満足することはできません。復讐すれば死んだ者が生き返るのなら大いにやるべきですが、そうはなりません。復讐を果たして得られるのは、空しさと新たな憎しみの連鎖のみです。模範解答はイエス様にあります。真の平安は復讐を手放す先にあるのです。

210303 民数記31:42-54 「私利私欲で戦わず」

民数記31:42-54 「私利私欲で戦わず」

 31章の初めに「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」とあります。あなたの民に加えられる。とは、死んだ民の数に加えられる。ということです。つまりモーセの生涯で、最後の務めが命じられているわけです。それが、このミデヤン人への報いです。ではミデヤン人への報いとは何でしょう。それは25章に記されていた事件。イスラエル人がモアブの娘たちとみだらなことをし始めたことをきっかけにバアル・ペオルを慕うようになり、そのことが主の怒りとなって燃え上がり24,000人のイスラエル人が神罰で死ぬという事件。この事件に対しての報いです。
 このモアブの娘たちはミデヤン人でありました。ミデヤン人はエドムの東から紅海に至るアラビヤ砂漠に住んでいた民で、イシュマエル人、モアブ人、アマレク人などの様々な部族連合の総称だそうです。イスラエルがモアブの草原に宿営したとき、モアブの王バラクはこれを恐れて、占い師のバラムに呪いを依頼しますが思惑通りには行かず、次の策として考えたのが、このモアブの娘たちを用いての懐柔策でありました。敵対して勝ち目がないなら、懐に入ろうというわけです。しかしこの結果、イスラエルの民は偶像礼拝を行い、神の怒りを買って24,000人もの命が取られるというバアル・ペオルの事件が起きてしまいました。神はこの事件を決して軽く扱われません。むしろカナンに入る前のどうしてもやるべきこととして、この仇討を命じておられるのです。
 何となく、残酷な仕打ちに見えるでしょうか。しかし、主はもともと「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたにはその土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」(申命記2:9)と命じておられました。ですからイスラエルは彼らの土地を迂回して北上しました。最初からイスラエルにはモアブをどうこうとするつもりはなかったのです。けれどモアブがイスラエルを恐れ、あれこれといらぬ策を講じたがために、イスラエルの民の偶像礼拝を招き、本来死ぬ必要のない民がたくさん死にました。もちろんだからと言って淫行したイスラエルの民を擁護することはできません。彼ら24,000人はことごとく死に絶えました。しかし、一方でミデヤン人の処遇を曖昧にしたままで、カナンの地に入っていくことを主は許しません。イスラエルと現地の民との淫行は、主への裏切り行為であると、内外共に知っておく必要があったからです。
 モーセは各部族から1000人を戦いに出させて1万2千人の軍を整え、ピネハスを大将としてミデヤンの地に送り出します。結果イスラエルはミデヤン人の男子を全て殺し、女性や子どもを捕らえ、家畜や財産をことごとく奪い取るという大勝利をおさめました。

 さて、今日の箇所はこの戦いによって得た戦利品の戦後処理についてが記されています。実は25節から続いている一連の文章です。まず戦利品の総数が確認され、それを従軍した民とそうでない民とに二分します。従軍した民の取り分から、500につき1を主のための奉納物として、エルアザルや祭司に渡されました。一方、従軍しなかった残りの民の取り分から、50につき1をレビ人の取り分とされました。
 特筆すべきは、戦利品の中の腕飾りや指輪などの装飾品もまた主に献げられたということです。総量16,750シェケル。1シェケルは11gと言いますから、183,700g=183.7kgの金が奉納されたということです。これは主の命じるところではなくて、自主的な献げ物でした。それはこの戦いで一人の死者も出なかったということに対する感謝の応答でした。規定通りのささげ物をしているのですから、普通はその他のものは自分の物。特に装飾品は先の戦利品の一覧に載っていませんから、奪い取った兵たちの取っ払いと言いましょうか、文字通り戦利品なわけです。羊や牛やろば、奴隷はイスラエルの共有の戦利品でした。けれど装飾品は見つけて奪い取れば、火を通して清めることは必要でしたが、それさえすめば自分のものとなったのです。実はこれは戦いに参加することの旨味だったのです。ところがイスラエルの兵たちはその装飾品を惜しむことなく主に献げています。それは彼らがこの戦いを私利私欲の戦いにせず、主の戦いであると理解していたからでした。
 思えば、私たちはあらゆる出来事のほとんどを自分の戦いとしてはいないでしょうか。自分のための戦い、自分一人で頑張る戦い、自分だけが受け取る戦い。けれど、そこには主の守りが確かにあるというのに、それを見ないようにはしてはいないでしょうか。独りよがりな相撲をしているのではないでしょうか。主が共におられる戦いを、私利私欲で戦うなら、私たちはその結果も一人で負わなければなりません。けれど、それを主の戦いとして参加するとき、主は私たちの身と心を守り、確かな勝利へと導かれるのです。

210224 民数記28:1-15 「生活の中心」

民数記28:1-15 「生活の中心」

 主へのなだめのかおりのささげものについてが命じられています。常供の全焼のいけにえとして、一歳の傷の無い雄の子羊を毎日朝に一頭、夕に一頭。穀物のささげ物として、オリーブ油を混ぜた小麦粉10分の1エパ(2.3L)。注ぎのささげ物として、子羊一頭につき4分の1ヒン(0.95L)の強い酒(ぶどう酒)。これがあらゆるいけにえの基準です。
 安息日には、この常供のいけにえに加えて、一歳の傷の無い雄の子羊二頭。穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)が献げられます。
 また月の第一日(新月祭)は、やはり常供のいけにえに加えて、全焼のいけにえとして、傷の無い若い雄牛2頭、雄羊1頭、一歳の雄の子羊7頭、そして祭司のために罪のためのいけにえとして雄やぎ1頭。穀物のささげ物として、雄牛1頭につき、油を混ぜた小麦粉10分の3エパ(6.9L)、雄羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の2エパ(4.6L)、子羊1頭につき油を混ぜた小麦粉10分の1エパ。注ぎのささげ物として、雄牛1頭につきぶどう酒4分の1ヒン。雄羊1頭につきぶどう酒2分の1ヒン、子羊1頭につきぶどう酒3分の1ヒン。が献げられます。

 そして28章16節から29章までは、さらに過ぎ越しの祭りや種無しパンの祭りが行われる第1の月のいけにえ、初穂の日(五旬節)のいけにえ、そして贖罪日がある第7の月のいけにえの規定が記されています。

 カナンに入る直前、後継者にヨシュアが選ばれたその直後、最初に主から命じられるのがいけにえについての事細かな規定でした。毎日のいけにえ、安息日毎のいけにえ、新月祭のいけにえ、初穂の日のいけにえ、そして、出エジプトを覚える第1の月と贖罪日を迎える第7の月に献げられる特別のいけにえ。それらは彼らイスラエルの生活が、神の恵みによることを思い起こさせる行為でありました。これからカナンに入国することになるイスラエルはその地に定住することとなります。するとどうなるか。日々の生活が神の導きであることよりも、自らの努力の結果と映るようになるのです。荒野の旅は、天からのマナとうずらをいただき、日々主の恵みによって生かされる日々でした。困難は彼らに主に頼ることを教え、思いもよらぬ神の奇跡が彼らの目を覚まさせたことでした。けれど、カナンに入ればどうなるでしょう。乳と蜜の流れる地と呼ばれたカナンは、豊かなで、農業や放牧に適した地も多く、入居した地で彼らは定住生活を送るようになります。彼らはそこで畑を耕し、穀物を育て、家畜を育て、蓄え、富みを築いていくのです。これまでは神に依存した生活でした。けれど、これからは彼らの努力が彼らの成功に直結する生活となる。それは彼らのやる気となり、同時に彼らが神を必要としなくなる下地ともなるのです。
 主はそのような生活に入る前に、彼らの生活の中心をどこに置くべきかをこのいけにえの規定を通じて教えておられるのです。いけにえを献げることはすなわち礼拝です。カトリックのミサはキリストのいけにえを捧げる行為です。私たちはキリストを再び十字架にかけることはしませんが、礼拝の度に主の贖いの恵みを覚え、感謝することは決して間違いではありません。しかしです。イスラエルに命じられたいけにえの規定の見る限り、私たちの礼拝は週に一度では足りません。それは毎日献げることが命じられているのです。
 全焼のいけにえは、傷の無い家畜と穀物と注ぎの献げ物。私たちの生きるために食すもの、そして懸命に蓄えた財を、まず初穂として神に捧げることが命じられています。それは私たちが己の力ではなく、主によって生かされていると認め、感謝すること。ひれ伏すことを意味します。私たちは毎日、主によって生かされ、養われてあるこの身を覚えるように。感謝するようにと命じられているのです。
 詩編103:2「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

210217 民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

民数記22:21-41 「みことばにひれ伏し」

 今日の箇所は、バラムがバラクのもとに行く道すがらの不思議な出来事についてです。バラムの乗っていたろばがうずくまってしまい、バラムは怒りのままにろばを杖で打ち付けます。するとろばが喋り始めて、バラムを諭し始めるのです。しかし、実はそこには剣を持った主の使いがおりました。ろばが身を巡らせていなければ、主の使いがバラムを滅ぼしていたところでした。バラムはろばによって救われていたのです。本人の気付かぬところで、多くの助けがあるものです。けれどそのことに一向に気付けないのはバラムがの高ぶりです。目のおおいが取り去られて、主の使いの姿を確認して、ようやくバラムは自らの罪を悟ります。そして、主のお告げに従い、心新たにして、バラクのもとへと出発するのです。
 さて、この出来事は主の使いがろばを用いてバラムを諫め、彼の態度を改めさせ、主の御用に相応しく整えられる場面です。しかし、彼の何が問題だったのでしょうか。22章の前半を見る限り、バラムは主のお告げに忠実なしもべのように見えます。彼はまず主のことば通りにバラクの誘いを断りました。再びの時は、主のお告げ通り、バラクの使いたちと共に出発をいたします。神のことばに忠実なバラム。と一見見えなくもありません。けれど、彼の狙いは別にありました。Ⅱペテロ2:15-16には、この時のバラムの様子を解説して次のように記しています。「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」バラムは不義の報酬を愛したとあります。つまり、バラクの申し出を一度断ったのは、自らの価値を高めるための小賢しい知恵であり、バラクから手厚い報酬の約束を引き出すことができたのでバラムは出かけたのです。主に伺いを立て、主のことばに聞き従っているように見えたのは全て彼のポーズでした。主のことばを自分の利益のための権威付けに利用する、その身勝手な振舞いを主は怒られたのでした。
 つまり、神のことばを自らの計画や考えを押し通すための錦の御旗にしてはいけないということです。バラムには神のことばに先立つ己の企てがあったのです。占いというのはそういう側面があります。ことの現象を見て解説する占いは、しかしその解説の根拠を示すことができません。たとえば亀の甲羅を焼いて、その焼き跡を見て占う。しかし、そのひびが何を意味するかは占い師の匙加減です。星占いと言いますが、その星の動向が何を意味するかは、経験から来る予想に過ぎません。つまり占い師は起こり得るあらゆる現象を自らの経験や考えを根拠として語るのです。その逆ではありません。けれど、主が再三に渡っておっしゃるのは、「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」ということです。そこに占い師の予想や意見は必要ないのです。主のことばに混ぜ物をせずに聞き、従う。みことばに対する謙遜さが彼には欠けておりました。みことばすらも自己実現のために利用しようとする高慢な態度がありました。
 もっとも彼自身、そのことに気付いていなかったのかもしれません。みつかいの剣の前にひれ伏した彼は目が開かれます。占い師から預言者へと変わった瞬間です。彼はバラクのもとに行き、堂々と宣言します。「私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」
 神のことばを自己実現のために利用することは、主の望まれることではありません。主が語られるところに、私たちの理解も、私たちの都合も関係がありません。告げられたままに従う。私たちに問われるのは、主の前にある従順です。私の計画を一旦おいて、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。