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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190818 ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

180812 ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

 ガラテヤ4:12〜20はパウロの語る福音に熱心に応答していたガラテヤ教会の人々が、パウロがいなくなって後、福音に反発するようになった現実と、その背景にある惑わせる者の存在についてを記してます。17節に「あの人たちは」とあるのがそれです。ガラテヤ教会をパウロが去って後、残された人々に熱心に関わる人たちがいたのです。けれど、その熱心には下心がありました。人々を福音の恵みから引き離し、自分たちに引き寄せるためだったのです。
 熱心に関わってくれるというのはやっぱり嬉しいものです。自分に興味を持ってくれている。自分を心配してくれている。そのような相手に私たちは心許すところです。以前、学会員のおばあさんとお話をしました。そのおばあさんが言いますには、どういう教えかとか、難しいことはよくわからないけれども、学会員の人が色々と声をかけて良くしてくれたので、私も学会員になったと言います。だんだんと親しくなっていくと、やがて熱心に関わってくれた義理もあって、断りきれず入会したというのです。人は自分に向けられる熱心さに感動します。熱心さというのは人の心を動かすに十分な理由となるのです。
 しかし、だから私たちも熱心でありましょうと言いたいのではありません。いえ、キリスト者が熱心であることは大切なことではありますが、それでも熱心さは御霊の実ではありません。熱心さは御霊によってもたらされるものではなくて、私たち自身から出ているものです。大切ですが、方向を間違えると、他人をつまずかせたり、欺いたり、裁いたりする原因ともなります。それは熱心であればあるほどそうなのです。もう一度言います。御霊の実は熱心ではありません。善意です。
 では善意とは何かという話です。辞書を調べますと善意についてこのようにありました。①良い心。②他人のためを思う親切心。③好意的に相手の言動などを受け止めることとありました。御霊の実が、敢えて親切と善意とに分けられていることを考えますと、この善意で確認するべきはこの3番目の用法についてでしょう。御霊の実は教会の実、交わりの中に結ばれるものです。私たちが自我を棄てて御霊によって歩むとき、私たちの交わりは御霊の実を結びます。具体的には、相手の言動を好意的に受け止めるようになると言うのです。交わりにおいて、これはとても大事な視点ではないでしょうか。
 どれだけ相手のためを思って親切にしようとも、受け止める側しだいでその結果はいかようにも変わります。たとえば、誰かにお願いごとをしようと声をかけますが、その人は通り過ぎてしまいました。無視をしたのでしょうか。嫌われているのでしょうか。それとも、ただ単に忙しくて気付かなかっただけでしょうか。どちらもあり得ますね。ならば、私たちは後者で受け止めたいのです。
 私たちはあらかじめ敵意を持って相手の言動を受け止めてはいないでしょうか。相手が何をしても何を話しても、敵意のフィルターを通しては、決して御霊の実は結ばれません。もちろん、私たちに向けられるあらゆる言動が、私たちにとって全て親切であるとは限りません。嫌味もある。批判もある。ですから、その信頼は裏切られるかもしれません。いや、もうすでに傷を付けられた関係かもしれない。けれど私たちは、それでも善意でもって備える者でありたいと思います。相手の善意を信頼する者でありたいと思うのです。
 第2コリント7:16には「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。」とあります。問題多いコリント教会を、このように言うことができるまでには、いったいパウロにどれほどの忍耐があったでしょうか。しかし、パウロは彼らを諦めませんでした。きっと彼らは大丈夫と信頼し続けたのです。パウロのこの言葉は信頼の結果です。相手を疑い出したらキリがありません。善意とは相手を信頼する心です。私がまず信頼するのです。そうすればその善意は双方向に育つでしょう。

180107 ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

 あるときイエス様は言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」またイエス様は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)とも言っています。注意したいのは、私たちが弟子となったから、多くの実を結ぶのではありません。多くの実を結ぶその生き方がイエスの弟子と呼ばれるのです。確かに、あの人の生き方はイエス様のようだ。と、その人の生き方に見いだされる多くの実が、人々をして、イエス様の弟子と認めさせるのです。
 では、多くの実とはいったい何かという話です。このぶどうの木の例え話は、この後、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と続き、一連のまとめとして17節で「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られます。イエス様のことばに留まることとは、イエス様の愛の中に留まるということであり、それは具体的には、わたしたちが互いに愛し合うことだと言うのです。今日の箇所でパウロが御霊の実として数えていることも同じです。御霊の実とは何か抽象的な何かではなくて、具体的に私たちの間に見られる喜びであり、平安であり、寛容であると言うのです。そして、私たちの互いに愛し合うその様子を見まして、世の人々は私たちの中にキリストを見る。私たちをキリストの弟子と認めるのです。逆に言いますと、もし、私たちの間で愛が見られず、憎み合ったり、批難し合ったり、陰口ばかりであれば、およそキリストの名に相応しく無い私たちであれば、それはキリストの名を汚すことであり、人々は決して私たちをキリストの弟子とは認めないということです。
 このように聞きますと、これは何と重たい看板でしょうか。互いに愛し合うとは、聞こえの良い教えですが、実際にそれを実行するとなりますと、これが大変難しいのです。キリストの贖いのゆえに義とされた私たちですが、私たちは今もなお、私たちの内にはびこる肉の思いを捨て去ることができません。制御できないおぞましい感情が、内側から沸々と湧き出ることすらあります。パウロは御霊の実を数えます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。しかし私たちの現実は、中々そうではいられないのです。では、それは、絵に書いた餅なのでしょうか。無駄なこと。無意味なこと。私たちキリスト者は、高望みしている夢想家なのでしょうか。
 今年、私たちは、この御霊の実について学んでいくわけですが、まずその最初に覚えておかなくてはならないことは、これは御霊によってでなければ、決して結ぶことのできない実であるということです。私たちの努力では限界がある。無理がある。一生懸命、愛そうと思う。頑張って喜んでいる。無理やり平安だと思い込もうとする。こういうことでは、決して得ることはできない実なのです。私たちはついついそのようにしがちです。特に真面目な人ほどそうです。一生懸命、御霊の実を結ぼうとします。けれど、そうじゃない。それは肉の思いで、実を結ぼうとしているのと同じです。そうではなくて、御霊によって結ばせていただくのです。
 イエス様は「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言われました。ですから、絶えずイエス様のことばに聞くことが大事です。イエス様のお姿に倣うことが大事です。「愛さなければ」「喜ばなければ」ではなくて、イエス様ならどうされるか。イエス様はどう言われたか、と聞くことが大事です。なぜなら、御霊の実を追い求めれば、それはイエス様にこそ行き着くからからです。
 具体的に想像したいのです。私たちの交わりが真に愛に溢れ、喜びに満たされるところをです。心から互いを心配し、尊敬し、柔和で自制に満ちた交わり。人々はそこにキリストを見るのです。このような交わりを私たちは夢物語で終わらせてはいけません。私たち一人ひとりが、そのようにイエス様の御心を求め、御霊の語りかけに身を委ねる時、確かに私たちに愛が生まれ、喜びが溢れ、平安に満たされるのです。