ガラテヤ4:5-6 「私たちは神のゆえに家族」
私たちが神の家族として付き合っていく時、私たちはまず神の視点に立ち返ることが大事です。つまり、父なる神の眼差しが共にあることを意識しながら相手と接することが大事だということです。では、神は眼差しは何を見ているのか?学歴か?職業か?血統か?それとも能力か?体型や容姿か?国籍や性別、年齢か?神さまがそんなことを気になさるはずはないと思われるでしょうか。その通りです。これらはむしろ私たちが日常で気にしていることです。なぜなら肩書や特徴は自分と相手との関係を即座に位置付けてくれるからです。この人にはこういう接し方をしよう。ですから私たちは自己紹介をするとき相手の肩書に特に注意を払います。けれど、じゃあ、同じように神はその人を見ているのかというと、もちろん、そんなことはありません。なぜなら神はその人を、そして私を、我が子として見ておられるからです。あらゆる身分や肩書は必要ありません。どんな肩書であろうと、どんな立場に就こうと、もうその関係は決まって変わることはありません。それは親と子の関係です。たとえ、子が落ちぶれて、職を失い、住むところも転々とし、挙げ句豚の世話で糞尿にまみれ、身に付けるものもボロボロ、痩せこけて、髭も髪も伸び放題で、およそ人が顔を背けるようになったとしても、親にとっては愛する子に変わりありません。そしてこれは家族間においても言えること。兄弟がどれだけ立場が変わろうと、兄弟は兄弟です。家族の間柄はあらゆる肩書も社会的立場も飛び越えて結び付いているのです。
これまで教会を通じて様々な人と出会いました。病院のホスピス長であったり、高等裁判官であったり、弁護士であったり、陶芸家や国体選手であったり。自分の祖父ほどの年齢の方とも温かい交わりを持たせていただきました。だから何だと思われるかもしれません。しかしこれこそが教会の教会たる所以ではないかと思っています。つまり教会の交わりの特徴は、互いの身分や肩書きを必要としないということです。恐らく教会でなければ、このような方々と何の利害関係もなくお付き合いするということはなかったと思います。教会を一歩出れば、身分や肩書き、それぞれの立場がどうしても付きまとう私たちです。当時学生であった私と大病院のホスピス長であった兄弟とでは、抱えている問題も悩みも興味も、全てが違っていて、それこそもう住む世界が違うわけです。普通では決して交わらない人生であったと思います。たとえどこかで出会ったとしても、腹を割って話せるような関係には到底なれなかったと思います。けれど教会ではそれができるのです。私たちは神にあって家族だからです。
教会の交わりにどんな身分も必要ありません。なぜなら教会の交わりは、お互いの間に父なる神がおられる交わりだからです。私たち兄弟姉妹の関係は直接的なものではありません。私たちが同じ神の子とされたがゆえの関係です。つまり父なる神を介した間接的な間柄。だからこそ、私たちは互いの間に父なる神を置くのです。神の前に私たちは自分の肩書きを誇りません。当然です。神の前に誇ることの出来る肩書きなど誰も持っていないからであります。神様という超越したお方の前に、私たちの肩書きなど何の意味も持ちません。神様の前には私たちは罪人に過ぎません。私たちが神の子とされたのは、私たちの内に何か正しさや功績があったからではなくて、ただ主の十字架の憐れみによるのです。イエス様という贖いの代価によるものです。
赦された罪人。ただ恵みのゆえに神の子とされた者。これが私たちが唯一掲げる肩書です。だからこそ、この交わりは互いを尊敬する交わりとなるのです。自分を誇る者は他者を見下します。そこには本当の意味での尊敬は生まれません。自分自身に絶望し、神の恵みに生きてこそ、私たちは目の前にいるその人を心から尊敬することが出来るようになるのです。この世の肩書きや能力に左右されることのない人格的交わりが生まれるのです。ピリピ2:3に「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。大事なのは相手に敬意を払うことです。もしも相手に対して尊敬できないとしたら、利己的な思いや虚栄が心に渦巻いている証拠です。そのときはまず、相手を見ることを止めて、私たちの間におられる神を見ましょう。イエス・キリストの十字架を見ましょう。受け入れられないその人の姿は、かつての自分です。認められないその人の振る舞いは、自分の鏡です。けれど、あなたと同様にその人もまたイエス様の愛のゆえに神の子とされています。私たちは決して互いを見るのではありません。私たちを結びあわせるのはただ神の恵みです。
私たちが神の家族として付き合っていく時、私たちはまず神の視点に立ち返ることが大事です。つまり、父なる神の眼差しが共にあることを意識しながら相手と接することが大事だということです。では、神は眼差しは何を見ているのか?学歴か?職業か?血統か?それとも能力か?体型や容姿か?国籍や性別、年齢か?神さまがそんなことを気になさるはずはないと思われるでしょうか。その通りです。これらはむしろ私たちが日常で気にしていることです。なぜなら肩書や特徴は自分と相手との関係を即座に位置付けてくれるからです。この人にはこういう接し方をしよう。ですから私たちは自己紹介をするとき相手の肩書に特に注意を払います。けれど、じゃあ、同じように神はその人を見ているのかというと、もちろん、そんなことはありません。なぜなら神はその人を、そして私を、我が子として見ておられるからです。あらゆる身分や肩書は必要ありません。どんな肩書であろうと、どんな立場に就こうと、もうその関係は決まって変わることはありません。それは親と子の関係です。たとえ、子が落ちぶれて、職を失い、住むところも転々とし、挙げ句豚の世話で糞尿にまみれ、身に付けるものもボロボロ、痩せこけて、髭も髪も伸び放題で、およそ人が顔を背けるようになったとしても、親にとっては愛する子に変わりありません。そしてこれは家族間においても言えること。兄弟がどれだけ立場が変わろうと、兄弟は兄弟です。家族の間柄はあらゆる肩書も社会的立場も飛び越えて結び付いているのです。
これまで教会を通じて様々な人と出会いました。病院のホスピス長であったり、高等裁判官であったり、弁護士であったり、陶芸家や国体選手であったり。自分の祖父ほどの年齢の方とも温かい交わりを持たせていただきました。だから何だと思われるかもしれません。しかしこれこそが教会の教会たる所以ではないかと思っています。つまり教会の交わりの特徴は、互いの身分や肩書きを必要としないということです。恐らく教会でなければ、このような方々と何の利害関係もなくお付き合いするということはなかったと思います。教会を一歩出れば、身分や肩書き、それぞれの立場がどうしても付きまとう私たちです。当時学生であった私と大病院のホスピス長であった兄弟とでは、抱えている問題も悩みも興味も、全てが違っていて、それこそもう住む世界が違うわけです。普通では決して交わらない人生であったと思います。たとえどこかで出会ったとしても、腹を割って話せるような関係には到底なれなかったと思います。けれど教会ではそれができるのです。私たちは神にあって家族だからです。
教会の交わりにどんな身分も必要ありません。なぜなら教会の交わりは、お互いの間に父なる神がおられる交わりだからです。私たち兄弟姉妹の関係は直接的なものではありません。私たちが同じ神の子とされたがゆえの関係です。つまり父なる神を介した間接的な間柄。だからこそ、私たちは互いの間に父なる神を置くのです。神の前に私たちは自分の肩書きを誇りません。当然です。神の前に誇ることの出来る肩書きなど誰も持っていないからであります。神様という超越したお方の前に、私たちの肩書きなど何の意味も持ちません。神様の前には私たちは罪人に過ぎません。私たちが神の子とされたのは、私たちの内に何か正しさや功績があったからではなくて、ただ主の十字架の憐れみによるのです。イエス様という贖いの代価によるものです。
赦された罪人。ただ恵みのゆえに神の子とされた者。これが私たちが唯一掲げる肩書です。だからこそ、この交わりは互いを尊敬する交わりとなるのです。自分を誇る者は他者を見下します。そこには本当の意味での尊敬は生まれません。自分自身に絶望し、神の恵みに生きてこそ、私たちは目の前にいるその人を心から尊敬することが出来るようになるのです。この世の肩書きや能力に左右されることのない人格的交わりが生まれるのです。ピリピ2:3に「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。大事なのは相手に敬意を払うことです。もしも相手に対して尊敬できないとしたら、利己的な思いや虚栄が心に渦巻いている証拠です。そのときはまず、相手を見ることを止めて、私たちの間におられる神を見ましょう。イエス・キリストの十字架を見ましょう。受け入れられないその人の姿は、かつての自分です。認められないその人の振る舞いは、自分の鏡です。けれど、あなたと同様にその人もまたイエス様の愛のゆえに神の子とされています。私たちは決して互いを見るのではありません。私たちを結びあわせるのはただ神の恵みです。