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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220904 ガラテヤ4:5-6 「私たちは神のゆえに家族」

ガラテヤ4:5-6 「私たちは神のゆえに家族」

 私たちが神の家族として付き合っていく時、私たちはまず神の視点に立ち返ることが大事です。つまり、父なる神の眼差しが共にあることを意識しながら相手と接することが大事だということです。では、神は眼差しは何を見ているのか?学歴か?職業か?血統か?それとも能力か?体型や容姿か?国籍や性別、年齢か?神さまがそんなことを気になさるはずはないと思われるでしょうか。その通りです。これらはむしろ私たちが日常で気にしていることです。なぜなら肩書や特徴は自分と相手との関係を即座に位置付けてくれるからです。この人にはこういう接し方をしよう。ですから私たちは自己紹介をするとき相手の肩書に特に注意を払います。けれど、じゃあ、同じように神はその人を見ているのかというと、もちろん、そんなことはありません。なぜなら神はその人を、そして私を、我が子として見ておられるからです。あらゆる身分や肩書は必要ありません。どんな肩書であろうと、どんな立場に就こうと、もうその関係は決まって変わることはありません。それは親と子の関係です。たとえ、子が落ちぶれて、職を失い、住むところも転々とし、挙げ句豚の世話で糞尿にまみれ、身に付けるものもボロボロ、痩せこけて、髭も髪も伸び放題で、およそ人が顔を背けるようになったとしても、親にとっては愛する子に変わりありません。そしてこれは家族間においても言えること。兄弟がどれだけ立場が変わろうと、兄弟は兄弟です。家族の間柄はあらゆる肩書も社会的立場も飛び越えて結び付いているのです。
 これまで教会を通じて様々な人と出会いました。病院のホスピス長であったり、高等裁判官であったり、弁護士であったり、陶芸家や国体選手であったり。自分の祖父ほどの年齢の方とも温かい交わりを持たせていただきました。だから何だと思われるかもしれません。しかしこれこそが教会の教会たる所以ではないかと思っています。つまり教会の交わりの特徴は、互いの身分や肩書きを必要としないということです。恐らく教会でなければ、このような方々と何の利害関係もなくお付き合いするということはなかったと思います。教会を一歩出れば、身分や肩書き、それぞれの立場がどうしても付きまとう私たちです。当時学生であった私と大病院のホスピス長であった兄弟とでは、抱えている問題も悩みも興味も、全てが違っていて、それこそもう住む世界が違うわけです。普通では決して交わらない人生であったと思います。たとえどこかで出会ったとしても、腹を割って話せるような関係には到底なれなかったと思います。けれど教会ではそれができるのです。私たちは神にあって家族だからです。
 教会の交わりにどんな身分も必要ありません。なぜなら教会の交わりは、お互いの間に父なる神がおられる交わりだからです。私たち兄弟姉妹の関係は直接的なものではありません。私たちが同じ神の子とされたがゆえの関係です。つまり父なる神を介した間接的な間柄。だからこそ、私たちは互いの間に父なる神を置くのです。神の前に私たちは自分の肩書きを誇りません。当然です。神の前に誇ることの出来る肩書きなど誰も持っていないからであります。神様という超越したお方の前に、私たちの肩書きなど何の意味も持ちません。神様の前には私たちは罪人に過ぎません。私たちが神の子とされたのは、私たちの内に何か正しさや功績があったからではなくて、ただ主の十字架の憐れみによるのです。イエス様という贖いの代価によるものです。
 赦された罪人。ただ恵みのゆえに神の子とされた者。これが私たちが唯一掲げる肩書です。だからこそ、この交わりは互いを尊敬する交わりとなるのです。自分を誇る者は他者を見下します。そこには本当の意味での尊敬は生まれません。自分自身に絶望し、神の恵みに生きてこそ、私たちは目の前にいるその人を心から尊敬することが出来るようになるのです。この世の肩書きや能力に左右されることのない人格的交わりが生まれるのです。ピリピ2:3に「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。大事なのは相手に敬意を払うことです。もしも相手に対して尊敬できないとしたら、利己的な思いや虚栄が心に渦巻いている証拠です。そのときはまず、相手を見ることを止めて、私たちの間におられる神を見ましょう。イエス・キリストの十字架を見ましょう。受け入れられないその人の姿は、かつての自分です。認められないその人の振る舞いは、自分の鏡です。けれど、あなたと同様にその人もまたイエス様の愛のゆえに神の子とされています。私たちは決して互いを見るのではありません。私たちを結びあわせるのはただ神の恵みです。

190818 ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

180812 ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

 ガラテヤ4:12〜20はパウロの語る福音に熱心に応答していたガラテヤ教会の人々が、パウロがいなくなって後、福音に反発するようになった現実と、その背景にある惑わせる者の存在についてを記してます。17節に「あの人たちは」とあるのがそれです。ガラテヤ教会をパウロが去って後、残された人々に熱心に関わる人たちがいたのです。けれど、その熱心には下心がありました。人々を福音の恵みから引き離し、自分たちに引き寄せるためだったのです。
 熱心に関わってくれるというのはやっぱり嬉しいものです。自分に興味を持ってくれている。自分を心配してくれている。そのような相手に私たちは心許すところです。以前、学会員のおばあさんとお話をしました。そのおばあさんが言いますには、どういう教えかとか、難しいことはよくわからないけれども、学会員の人が色々と声をかけて良くしてくれたので、私も学会員になったと言います。だんだんと親しくなっていくと、やがて熱心に関わってくれた義理もあって、断りきれず入会したというのです。人は自分に向けられる熱心さに感動します。熱心さというのは人の心を動かすに十分な理由となるのです。
 しかし、だから私たちも熱心でありましょうと言いたいのではありません。いえ、キリスト者が熱心であることは大切なことではありますが、それでも熱心さは御霊の実ではありません。熱心さは御霊によってもたらされるものではなくて、私たち自身から出ているものです。大切ですが、方向を間違えると、他人をつまずかせたり、欺いたり、裁いたりする原因ともなります。それは熱心であればあるほどそうなのです。もう一度言います。御霊の実は熱心ではありません。善意です。
 では善意とは何かという話です。辞書を調べますと善意についてこのようにありました。①良い心。②他人のためを思う親切心。③好意的に相手の言動などを受け止めることとありました。御霊の実が、敢えて親切と善意とに分けられていることを考えますと、この善意で確認するべきはこの3番目の用法についてでしょう。御霊の実は教会の実、交わりの中に結ばれるものです。私たちが自我を棄てて御霊によって歩むとき、私たちの交わりは御霊の実を結びます。具体的には、相手の言動を好意的に受け止めるようになると言うのです。交わりにおいて、これはとても大事な視点ではないでしょうか。
 どれだけ相手のためを思って親切にしようとも、受け止める側しだいでその結果はいかようにも変わります。たとえば、誰かにお願いごとをしようと声をかけますが、その人は通り過ぎてしまいました。無視をしたのでしょうか。嫌われているのでしょうか。それとも、ただ単に忙しくて気付かなかっただけでしょうか。どちらもあり得ますね。ならば、私たちは後者で受け止めたいのです。
 私たちはあらかじめ敵意を持って相手の言動を受け止めてはいないでしょうか。相手が何をしても何を話しても、敵意のフィルターを通しては、決して御霊の実は結ばれません。もちろん、私たちに向けられるあらゆる言動が、私たちにとって全て親切であるとは限りません。嫌味もある。批判もある。ですから、その信頼は裏切られるかもしれません。いや、もうすでに傷を付けられた関係かもしれない。けれど私たちは、それでも善意でもって備える者でありたいと思います。相手の善意を信頼する者でありたいと思うのです。
 第2コリント7:16には「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。」とあります。問題多いコリント教会を、このように言うことができるまでには、いったいパウロにどれほどの忍耐があったでしょうか。しかし、パウロは彼らを諦めませんでした。きっと彼らは大丈夫と信頼し続けたのです。パウロのこの言葉は信頼の結果です。相手を疑い出したらキリがありません。善意とは相手を信頼する心です。私がまず信頼するのです。そうすればその善意は双方向に育つでしょう。

180107 ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

 あるときイエス様は言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」またイエス様は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)とも言っています。注意したいのは、私たちが弟子となったから、多くの実を結ぶのではありません。多くの実を結ぶその生き方がイエスの弟子と呼ばれるのです。確かに、あの人の生き方はイエス様のようだ。と、その人の生き方に見いだされる多くの実が、人々をして、イエス様の弟子と認めさせるのです。
 では、多くの実とはいったい何かという話です。このぶどうの木の例え話は、この後、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と続き、一連のまとめとして17節で「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られます。イエス様のことばに留まることとは、イエス様の愛の中に留まるということであり、それは具体的には、わたしたちが互いに愛し合うことだと言うのです。今日の箇所でパウロが御霊の実として数えていることも同じです。御霊の実とは何か抽象的な何かではなくて、具体的に私たちの間に見られる喜びであり、平安であり、寛容であると言うのです。そして、私たちの互いに愛し合うその様子を見まして、世の人々は私たちの中にキリストを見る。私たちをキリストの弟子と認めるのです。逆に言いますと、もし、私たちの間で愛が見られず、憎み合ったり、批難し合ったり、陰口ばかりであれば、およそキリストの名に相応しく無い私たちであれば、それはキリストの名を汚すことであり、人々は決して私たちをキリストの弟子とは認めないということです。
 このように聞きますと、これは何と重たい看板でしょうか。互いに愛し合うとは、聞こえの良い教えですが、実際にそれを実行するとなりますと、これが大変難しいのです。キリストの贖いのゆえに義とされた私たちですが、私たちは今もなお、私たちの内にはびこる肉の思いを捨て去ることができません。制御できないおぞましい感情が、内側から沸々と湧き出ることすらあります。パウロは御霊の実を数えます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。しかし私たちの現実は、中々そうではいられないのです。では、それは、絵に書いた餅なのでしょうか。無駄なこと。無意味なこと。私たちキリスト者は、高望みしている夢想家なのでしょうか。
 今年、私たちは、この御霊の実について学んでいくわけですが、まずその最初に覚えておかなくてはならないことは、これは御霊によってでなければ、決して結ぶことのできない実であるということです。私たちの努力では限界がある。無理がある。一生懸命、愛そうと思う。頑張って喜んでいる。無理やり平安だと思い込もうとする。こういうことでは、決して得ることはできない実なのです。私たちはついついそのようにしがちです。特に真面目な人ほどそうです。一生懸命、御霊の実を結ぼうとします。けれど、そうじゃない。それは肉の思いで、実を結ぼうとしているのと同じです。そうではなくて、御霊によって結ばせていただくのです。
 イエス様は「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言われました。ですから、絶えずイエス様のことばに聞くことが大事です。イエス様のお姿に倣うことが大事です。「愛さなければ」「喜ばなければ」ではなくて、イエス様ならどうされるか。イエス様はどう言われたか、と聞くことが大事です。なぜなら、御霊の実を追い求めれば、それはイエス様にこそ行き着くからからです。
 具体的に想像したいのです。私たちの交わりが真に愛に溢れ、喜びに満たされるところをです。心から互いを心配し、尊敬し、柔和で自制に満ちた交わり。人々はそこにキリストを見るのです。このような交わりを私たちは夢物語で終わらせてはいけません。私たち一人ひとりが、そのようにイエス様の御心を求め、御霊の語りかけに身を委ねる時、確かに私たちに愛が生まれ、喜びが溢れ、平安に満たされるのです。