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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230719 Ⅰコリント10:14-33 「自分の利益を求めず」

Ⅰコリント10:14-33 「自分の利益を求めず」

 偶像礼拝を避けなさい。というテーマで語られています。このテーマはすでに8章で語られたことでもありました。けれど、その時は、弱い兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。と説明するパウロでした。
 10章では、その対象は異邦人にまで広がっています。すると、そこにはより一層の注意と配慮が必要だと言うのです。なぜなら、偶像の神は確かに神ではないけれど、悪霊であるからであります。その肉は悪霊と紐付けられている恐れがあるのです。聖餐式で私たちをキリストの血とからだにあずからせるのは一つの御霊です。食べる行為が、聖霊によって主と結び合わされるのだとしたら、同じ様に悪霊によって私たちは何に結び合わされることでしょう。それはサタンと言っても良いでしょうし、死と言っても良いでしょう。10:23『「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。』とあります。実は同様の言葉が6:12にもあります。『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。』この時は遊女と交わるということに言及しています。姦淫は、主と一つであるはずの私たちを引き離し、遊女と一つのからだとなるという罪なのです。つまり偶像礼拝や姦淫の罪というのは、主を裏切るという罪であるとともに、悪霊や遊女と堅く結び付くという二重の罪でもあるのです。ですから、これは「すべて許されている。」と言って簡単に済ませられる問題ではなくて、十二分に注意しなければならない由々しき問題なのです。
 ではどういう範囲まで注意すべきなのか。全ての肉にまで気を張らなければならないのか。10:25には「市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」とあります。市場で売っている肉の中には、偶像の神に献げられた肉を下請けしたものも売られていました。もちろん、そうでないものもあります。けれど、その肉を全て詮索してこれはどこから来た肉かと問う必要はないと言っています。
 ただし、未信者の家に招かれたときに、もしもその出どころが偶像に献げた肉だと知らされたとしたら、それは食べてはいけないと言います。つまり、こちらから詮索する必要はないけれど、それが明らかになるなら、それ以上食べてはいけないのです。なぜなら、その人にとってそれは偶像と結び付けられており、そういう背景を持った食事として、私たちの前に置かれるからです。例えば、私が大阪に暮らしていた頃、川向うの八幡市に行きましたら、石清水八幡宮で祈祷された厄除けうどんだとか、厄除けぜんざいがあちこちで売られていました。それは私たちにとってはもちろん何の根拠もないわけですが、彼らにとってはそれが根拠なわけです。では、それを食べるクリスチャンの姿は人々にどう映るのか。「クリスチャンの人も、厄除けを気にするんだな」とか「八幡さんの神さまを受け入れてるんだな」とはならないでしょうか。つまり、私がどれだけ関係ない、気にしない、と言ったとしても、その相手の人はそのようには見ないわけで、それは如いては相手を神から引き離す行為、つまずかせる行為となってしまうのです。
 結論として31節。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。何をするにも、何をしないにも、神の栄光を現すために。そのためには、誰かにつまずきを与えないということが大事です。自分さえ良ければ良いという考えは通用しないのです。私が高校生の頃、集会に来ていた女の子がよく短いスカートを履いて、ノースリーブの服でいるので、どこを見て良いのか本当に困りました。その子は女姉妹で育ち、女子校に通う高校生でしたから、普段からそういう意識が無かったのかもしれません。けれど、年頃の男子にとっては目のやり場に困る存在でありました。例えば教会の礼拝に何を着てはいけないということはありません。何を着たから信仰が足りないとか、罪だとか、そういう話ではありません。けれど、配慮が足りないということはやはりあるわけです。そして、その配慮の足りなさが、誰かにとってのつまずきとなるということがあるのです。主にある兄弟姉妹の間で何を言っても良いわけです。けれど不用意な言葉が、相手をつまずかせてしまうことがあるのです。自分が良いと思うことが、相手も良いと思うと言うのは、傲慢です。ですから、パウロは言います。「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」とです。

230705 第1コリント3:1-9 「教会は誰のものか」

第1コリント3:1-9 「教会は誰のものか」

 パウロがこの手紙を書いたのはコリント教会の中で分裂騒ぎが起きていたからです。コリント教会はパウロが開拓した教会です。パウロが去った後はアポロがその宣教を引き継ぎ、アポロの雄弁な説教を通して多くのユダヤ人が論破され成長してきました。ところが、そのコリント教会が今、幾つかのグループに分かれて、どちらが正しい正しくないと、言い争いをしているのです。彼らは教会が正しい福音理解の内に一つになって欲しいと心から願っている人たちです。大真面目です。しかし問題は、自分たちこそは正しい、成長した大人のクリスチャンであると自負していたところにあります。周りの人たちを自分色に塗り潰すことが正しいと信じ込み躍起になっていたのです。しかし、パウロに言わせれば、それゆえ彼らは只の人であり、成長したクリスチャンではないのです。クリスチャンの成長とは隣人愛という具体的な形で現されるものです。ですから、もしそこに愛や赦しではなくて、ねたみや争いがあるとすれば、それは正しい成長を遂げていないのです。
 この箇所でパウロは身近な畑の喩えを用いて、教会を成長させたのは誰なのか、すなわち教会は誰のものなのかという、教会の本質について語っています。それは牧師のものですか?それとも開拓者のものですか?いやいや教会員一人ひとりのものでしょうか?
 「アポロとは何でしょう」「パウロとは何でしょう」と語るパウロですが、単純に考えれば、アポロはコリント教会の2代目の牧師であり、パウロは初代牧師です。古くからのコリントの教会に集った人々にはパウロ先生と共に苦労して教会を建てあげてきたという自負と思い出があったことでしょう。パウロの愚かなまでも率直な十字架の言葉に心を鷲掴みにされた人々。ユダヤ人たちの妨害をパウロと一緒に耐えながら、異邦人伝道に励んできたのです。彼らにとって教会とは、パウロと共に過ごしたあの輝かしい日々こそが教会でありました。
一方、新しく教会に集う者にとっては、アポロと過ごすその日々こそがまさしく教会でありました。雄弁にユダヤ人たちを論破するアポロ先生の姿は、彼らには大変勇ましく映ったことでしょう。流暢な言葉に促されて新しい人々が次々に救いに起こされていく、教会の成長を実感するその日々は、彼らにとってアポロへの信頼を増し加えたことでした。
パウロを慕う人、アポロを慕う人。きっとコリントの人たちは情に厚い人たちなのでしょう。争いあうほどに教会を愛し一つにしようとしています。しかし、その彼らの情熱が分裂騒ぎを起こす原因となっているのは皮肉です。どちらにせよ、彼らは教会の頭として、彼らが尊敬して止まない教会の指導者の姿を見ているわけです。
 パウロはしかし、あなたがたが大層に担ぎ上げているその人たちは、主に用いられた奉仕者にすぎないと言っています。ここに、パウロが持つ教会観と、コリントの人々が持つ教会観の違いが見えてきます。 あくまでも奉仕者であって、主人ではないと言うのです。彼はしもべを用いる主人の存在を見ています。教会の頭に目に見えないはずの主の姿を見ているのです。
 だから教会の牧師や宣教師を尊敬してはいけないと言っているのではありません。けれど、教会を誰か特定の人のものにしてはいけないのです。教会の頭は主ただお一人です。
 パウロは種の成長を語ります。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」けれど、そもそも、種が死んだ種ならば、植えようと、水をやろうと、決して芽を出すことはないのです。種の中に命が宿っているとき、植えることも、水をやることも、その種を育てるための必要な働きの一部となるのです。パウロのように植える働きも大切です。アポロのように水を注ぐ働きも大切です。しかし、それは一つの影響であって、それ自体が芽を出させ、花を咲かせるのではありません。それは種の内側から働く力によって成長していくのです。そして、この命の部分を担っておられるのは、他ならぬ神ご自身です。
 教会とは誰のものかと問えば、ある人はこう言います。「ここは何々先生の教会です」と。しかし教師はいずれ変わります。教会が教師のものなら、教師が変わるたびに教会は変わるのです。いえ、変わるだけならまだしも、教師がいなくなることもあります。無牧の教会はいったい誰のものなのでしょうか。
 ある人は言います。「それはそこに集う全ての人のものである」と。これは、大変魅力ある回答です。教会に所属意識を持つ。教会を自分の教会と称して愛することは一概に間違いではないかもしれません。けれど私の教会が、私の思い通りの教会となるとこれはよろしくない。それは教会を私物化することです。
 パウロならこう答えるでしょう。それは「主のものである」とです。私たちはパウロがそうであったように、私は主のしもべに過ぎないとの自覚が大事です。単なるしもべに過ぎない私たちが、しかし神の協力者とされるという驚き。ここにこそ神の偉大な計画を見ることができるのです。

220605 Ⅰコリント6:19-20 「私たちの内の永遠」

Ⅰコリント6:19-20 「私たちの内の永遠」

 今日の箇所で特に覚えたいのは私たちのからだが「聖霊の宮」と呼ばれていることであります。ペンテコステはイエス様が天に昇られて後、イエス様の代わりに助け主として聖霊が降られた日のことでありますけれども、それ以降、信仰者のからだは「聖霊の宮」と呼ばれるようになりました。イエス様を救い主と信じる者の内には聖霊が住んでくださるからです。このことを聖霊の内住と呼びます。実はこの聖霊の内住こそが私たちの信仰生活の基盤であります。
 しかし私たちは聖霊の宮と呼ばれることに抵抗があるかもしれません。ペテロはイエス様の栄光を目の当たりにして「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いましたが、私たちこそ罪深い人間です。聖霊が共におられることに私たちは申し訳なさを感じます。あまりにも釣り合わない自分に愕然とします。けれど聖霊は敢えて、そのところにおいでになられたのです。まるで、貧しい家畜小屋にお生まれになったイエス様のようにです。私たちが聖霊の宮となることは相応しくないことです。けれど大事なのは聖霊がそれを良しとされたということです。これはペンテコステ以来与えられた特別の恵みです。私たちの助け主は、私たちと共に歩み、私たちを助け、慰め、教え導き、いつも励ますことを自ら選ばれたお方なのです。
 さて、私たちの信仰生活は聖霊の助け無しにはありえません。私たちが罪に気付き悔い改めることができるのも、キリストの十字架の死が罪の贖いであり、このお方を信じる者は罪赦され神の子とされると確証させるのも、主イエスを救い主と告白することも、全て聖霊によるものです。聖霊は御言葉をもって私たちを導き、とりなしをし、私たちを整えて、栄光あるキリストのみからだを建て上げてくださるのです。そして聖霊は私たちに語るべき言葉をさずけ(ヨハネ6:63、Ⅱペテロ1:21)、神の器としてその尊いご計画に用いてくださる。つまり私たちの救いと聖化に纏わる一切の事が聖霊の助けによるものなのです。
 そんな聖霊ですが、何よりも理解すべきことはこのお方が三位一体の神であるということです。つまり聖霊は私たち皆の内に住まわれるお方でありますけれども、唯一の神であり、永遠の神であられるということです。私の中に住まわれる聖霊と皆さんの内におられる聖霊は違う聖霊ということではなくて、一つの聖霊です。そしてその聖霊はペンテコステの折、ペテロの上に降りられたあの聖霊でもあり、キリスト者迫害の張本人であったパウロを主の一番弟子へと生まれ変わらせた聖霊でもあるのです。私たちが2000年前の出来事を今私の出来事として受け取り、聖書の文言を神の御言葉として受け取れるのは、私たちの内に住まわれるお方が、唯一永遠のお方であり、主の御降誕に、十字架に、復活に共におられた、まさにそのお方だからです。これはすごいことですね。アウグスティヌスを真理に目覚めさせた聖霊。マルティン・ルターに改革の炎を与えた聖霊。キリシタン弾圧の折に、迫害に屈しない26人の志を最後まで守り通された聖霊。みんな同じ聖霊なんですね。そしてその同じ聖霊が私たちの内におられるというのです。
 神にどのようなご計画があろうと、キリストによる贖いの御業がどれほど素晴らしくとも、私たちが信仰をもってそれを受け取らなければ、それは単なる歴史的出来事でしかありません。客観的に見れば、そんな大昔の話が私にいったい何の関係があるでしょう。けれど、聖霊はイエス様に関する一切を私のこととして結び合わせて下さるのです。なぜなら私たちの内に住まれる聖霊にとって、それは過去の事でも、他人事でもなく、永遠の神であられるご自身の出来事だからです。この永遠なる神が、今日、私の内から働きかけ、私たちを神の恵みに結び合わせて下さるのです。

200517 Ⅰコリント15:51-58 「終わりのラッパとともに」

Ⅰコリント15:51-58 「終わりのラッパとともに」

 人は死んだらどうなるのでしょうか。キリストが死から甦られたように、私たちもまた甦る。聖書はそう約束しています。しかしただ蘇るのではありません。それは「死者は朽ちないものによみがえり」とパウロは言います。私たちの今あるからだに戻るということではなくて、栄光のからだとして、終わりのラッパとともに永遠のいのちにかえられるのだと言っています。
 私たちにとって、からだとはやがて朽ちていくものです。ある年代をピークに、人は誰でも老いというものを感じるようになっていきます。細かな作業ができない。物覚えが悪くなる。息切れが激しい。病気にかかりやすくなる。その症状は様々ですが、今まで出来ていたことができなくなって行くことの焦りや不安というものは、それは大きなものではないでしょうか。私たちの死に対する恐怖とは、死そのものに対する恐れはもちろんのこと、その死に至るまでの過程にも、不安を感じる者なのです。
 人で有る身なら誰もが受け入れなければならない、しかし、決して受け入れがたい肉体の衰え。滅び。死。しかし、新しくされる私たちのからだは決して朽ちることのないからだであると聖書は語ります。だからこそ、よみがえりは希望となり得るわけです。よみがえって、尚も、衰えていく体であれば、それは希望ではありません。尚も、病に伏せるのであれば、それは、苦しみの延長でしかありません。本当に死の恐怖を味わった者にとって、復活が単なる人生のやり直し程度のものであるとすれば、それはいったい何の希望だと言うのでしょうか。ですから、私は輪廻という考え方には何ら希望を見出すことができません。そこには根本的な死への勝利がありません。何度繰り返しても、やがては訪れる死への恐怖を延々と味わい続けなければなりません。死に対する勝利が必要です。朽ちないからだとされることが大事です。そしてまさに聖書はそのことを約束しているのです。黙示録21章に次のようにあります。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」先に召されたお一人お一人が今はそのような者とされている。そして私たちもまた悲しみも叫びも苦しみもない者とされる。何かに怯えるような毎日ではなくて、心からの神への讃美に溢れるのです。いかがでしょうか。天での再会とは、それはそれは晴れ晴れとしたものではないでしょうか。
 さて、もう一つ、今日の箇所には「私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。」とあります。ここでは「死ぬ」ことを「眠る」と表現しています。イエス様がそうだったように、蘇ることが約束されている死、それはまるで眠っているようだと言うのです。ですから「みな眠るわけではありませんが」というのは、ある者たちは先に死んで眠っており、ある者たちは死ぬことなく、その時を迎える。そしてその時には皆が変えられる。つまり、キリストの再臨を意識しての表現なわけです。復活の信仰と、この再臨信仰というのは切っても切れないものでして、その時は今、この瞬間にも起こりうる出来事だという理解のもとで、私たちは復活を考えなければなりません。ですから、自分の好きなように生きて、歳を重ねてからイエス様を信じますというのではまずいのです。今日やるべきことを先延ばしにして、いつかやりますではいけないのです。いつ来るかわからないその時を、私たちは今起きても構わないという覚悟の中で迎えなければなりません。
 私たちは自らに問わなければなりません。今日、主の前に恥じぬ一日を過ごしているだろうか、とです。10年後、1年後、1か月後、いえ、明日のことすらわからない私たちです。見えない先を思えば不安ばかり。コロナ過の中、心配は決して尽きません。けれど、それは今日をいい加減に生きる理由にはなりません。今日という日に与えられている恵みを見ずにして、先の不安だけに心を囚われていてはなりません。空の鳥は種まきをせずとも、養われました。野の花は着飾ることがなくとも、美しさを誇ります。イエス様は言われました。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)今日という日を精一杯に生きよ、という主のお言葉です。今日の恵みを見失うな、ということです。
 パウロは最後に言います。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」私たちの日々の労苦は決して無駄ではありません。それは終わりにつながるものではなく、永遠に繋がるものだからです。

190616 Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 父母の日礼拝

Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 

 養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。父親は子の成長に責任を持ちます。その子が誤った道を歩むなら、体を張って引き戻すのが親心です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「私に倣う者となってください。」(16節)。
  親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉です。それは相手ではなくて、むしろ忠告する者の生き方こそが問われる言葉だからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
  けれどパウロは言います。「私に倣う者となってください。」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。パウロが「私に倣う者となってください。」という時の私(パウロ)とはいったいどのような者だったのでしょうか。1:27で、パウロは「この世の弱い者を選ばれました」と言っています。2:2では「十字架に付けられたキリストのほかは、何も知るまいと決心していた」とも言いました。3:5では自分のことを「奉仕者」と呼び、3:22では自分のことを「あなたがたのもの」と呼びます。そして4:9では「この世の見世物」とまでに呼ぶのです。彼の言うことを思い出してみれば、「私に倣う者となってください。」と命じるパウロの姿は、実は人前に何の誇るところもない、弱く小さな者に過ぎないのです。そんなパウロが唯一誇るのは、主です。つまりパウロは背伸びした自分を見せようとしているのではありません。失敗もし、落胆もする。人々から見下され、無視されることもある。しかし、そんな中でも私を支え、慰め、再び立ち上がらせてくれる主がおられる。このような弱い者を主は選んでくださった。そういう信仰生活の実態を見せようとしているのです。
  親として、信仰の先輩として、私たちは続く世代に何を見せるべきでしょうか。一切欠けのない完璧な立ち振る舞いでしょうか。人前で活躍し続ける様子でしょうか。それは無理というものでしょう。パウロは第一テモテ1:15-16で「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」と言います。罪人のかしらである自分が、憐れみのゆえに救われた。この恵みに立つからこそ、私たちは人々の見本となることができる。自らの内に働かれた神の憐れみを誇ることが出来るのです。自分自身を見せるとき、自分の愚かさ、醜さ、隠してしまいたい過去、そのような弱さと共に、そこに働かれるキリストの温かさ、懐の深さ、寛容さ、力強さといったものが確かに証しされる。だから、私は罪人のかしらであることを恥じることなく、私(の内に働かれた主)を見よと言うことができる。(キリストの他に何一つ誇ることのない)私に倣う者となってくださいと語ることができるのです。
  子どもたちは見ています。私たちの信仰が、本当に困難にあって救いとなるのかをです。私たちが困難にあって、本当に信仰に頼るのかをです。私たちはその時その時、等身大で構いません。正直に神と向き合う姿を証しするのです。
  私には誇るものは何一つありません。私は人に見せられるような者ではありません。けれど、私のうちに働かれた主は違います。どんな人にも胸を張って誇ることができる、主の取り扱い。どれほどそれが憐れみ深いかは私の弱さを見ればわかります。こんな者をも主イエスは憐れんでくださった。ですから、神の憐れみの保証は、私たちの内にあるのです。そしてこれこそ、私たちが次の世代に誇るべき信仰の姿です。