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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200517 Ⅰコリント15:51-58 「終わりのラッパとともに」

200517 Ⅰコリント15:51-58 「終わりのラッパとともに」

 人は死んだらどうなるのでしょうか。キリストが死から甦られたように、私たちもまた甦る。聖書はそう約束しています。しかしただ蘇るのではありません。それは「死者は朽ちないものによみがえり」とパウロは言います。私たちの今あるからだに戻るということではなくて、栄光のからだとして、終わりのラッパとともに永遠のいのちにかえられるのだと言っています。
 私たちにとって、からだとはやがて朽ちていくものです。ある年代をピークに、人は誰でも老いというものを感じるようになっていきます。細かな作業ができない。物覚えが悪くなる。息切れが激しい。病気にかかりやすくなる。その症状は様々ですが、今まで出来ていたことができなくなって行くことの焦りや不安というものは、それは大きなものではないでしょうか。私たちの死に対する恐怖とは、死そのものに対する恐れはもちろんのこと、その死に至るまでの過程にも、不安を感じる者なのです。
 人で有る身なら誰もが受け入れなければならない、しかし、決して受け入れがたい肉体の衰え。滅び。死。しかし、新しくされる私たちのからだは決して朽ちることのないからだであると聖書は語ります。だからこそ、よみがえりは希望となり得るわけです。よみがえって、尚も、衰えていく体であれば、それは希望ではありません。尚も、病に伏せるのであれば、それは、苦しみの延長でしかありません。本当に死の恐怖を味わった者にとって、復活が単なる人生のやり直し程度のものであるとすれば、それはいったい何の希望だと言うのでしょうか。ですから、私は輪廻という考え方には何ら希望を見出すことができません。そこには根本的な死への勝利がありません。何度繰り返しても、やがては訪れる死への恐怖を延々と味わい続けなければなりません。死に対する勝利が必要です。朽ちないからだとされることが大事です。そしてまさに聖書はそのことを約束しているのです。黙示録21章に次のようにあります。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」先に召されたお一人お一人が今はそのような者とされている。そして私たちもまた悲しみも叫びも苦しみもない者とされる。何かに怯えるような毎日ではなくて、心からの神への讃美に溢れるのです。いかがでしょうか。天での再会とは、それはそれは晴れ晴れとしたものではないでしょうか。
 さて、もう一つ、今日の箇所には「私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。」とあります。ここでは「死ぬ」ことを「眠る」と表現しています。イエス様がそうだったように、蘇ることが約束されている死、それはまるで眠っているようだと言うのです。ですから「みな眠るわけではありませんが」というのは、ある者たちは先に死んで眠っており、ある者たちは死ぬことなく、その時を迎える。そしてその時には皆が変えられる。つまり、キリストの再臨を意識しての表現なわけです。復活の信仰と、この再臨信仰というのは切っても切れないものでして、その時は今、この瞬間にも起こりうる出来事だという理解のもとで、私たちは復活を考えなければなりません。ですから、自分の好きなように生きて、歳を重ねてからイエス様を信じますというのではまずいのです。今日やるべきことを先延ばしにして、いつかやりますではいけないのです。いつ来るかわからないその時を、私たちは今起きても構わないという覚悟の中で迎えなければなりません。
 私たちは自らに問わなければなりません。今日、主の前に恥じぬ一日を過ごしているだろうか、とです。10年後、1年後、1か月後、いえ、明日のことすらわからない私たちです。見えない先を思えば不安ばかり。コロナ過の中、心配は決して尽きません。けれど、それは今日をいい加減に生きる理由にはなりません。今日という日に与えられている恵みを見ずにして、先の不安だけに心を囚われていてはなりません。空の鳥は種まきをせずとも、養われました。野の花は着飾ることがなくとも、美しさを誇ります。イエス様は言われました。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)今日という日を精一杯に生きよ、という主のお言葉です。今日の恵みを見失うな、ということです。
 パウロは最後に言います。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」私たちの日々の労苦は決して無駄ではありません。それは終わりにつながるものではなく、永遠に繋がるものだからです。

190616 Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 父母の日礼拝

Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 

 養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。父親は子の成長に責任を持ちます。その子が誤った道を歩むなら、体を張って引き戻すのが親心です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「私に倣う者となってください。」(16節)。
  親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉です。それは相手ではなくて、むしろ忠告する者の生き方こそが問われる言葉だからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
  けれどパウロは言います。「私に倣う者となってください。」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。パウロが「私に倣う者となってください。」という時の私(パウロ)とはいったいどのような者だったのでしょうか。1:27で、パウロは「この世の弱い者を選ばれました」と言っています。2:2では「十字架に付けられたキリストのほかは、何も知るまいと決心していた」とも言いました。3:5では自分のことを「奉仕者」と呼び、3:22では自分のことを「あなたがたのもの」と呼びます。そして4:9では「この世の見世物」とまでに呼ぶのです。彼の言うことを思い出してみれば、「私に倣う者となってください。」と命じるパウロの姿は、実は人前に何の誇るところもない、弱く小さな者に過ぎないのです。そんなパウロが唯一誇るのは、主です。つまりパウロは背伸びした自分を見せようとしているのではありません。失敗もし、落胆もする。人々から見下され、無視されることもある。しかし、そんな中でも私を支え、慰め、再び立ち上がらせてくれる主がおられる。このような弱い者を主は選んでくださった。そういう信仰生活の実態を見せようとしているのです。
  親として、信仰の先輩として、私たちは続く世代に何を見せるべきでしょうか。一切欠けのない完璧な立ち振る舞いでしょうか。人前で活躍し続ける様子でしょうか。それは無理というものでしょう。パウロは第一テモテ1:15-16で「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」と言います。罪人のかしらである自分が、憐れみのゆえに救われた。この恵みに立つからこそ、私たちは人々の見本となることができる。自らの内に働かれた神の憐れみを誇ることが出来るのです。自分自身を見せるとき、自分の愚かさ、醜さ、隠してしまいたい過去、そのような弱さと共に、そこに働かれるキリストの温かさ、懐の深さ、寛容さ、力強さといったものが確かに証しされる。だから、私は罪人のかしらであることを恥じることなく、私(の内に働かれた主)を見よと言うことができる。(キリストの他に何一つ誇ることのない)私に倣う者となってくださいと語ることができるのです。
  子どもたちは見ています。私たちの信仰が、本当に困難にあって救いとなるのかをです。私たちが困難にあって、本当に信仰に頼るのかをです。私たちはその時その時、等身大で構いません。正直に神と向き合う姿を証しするのです。
  私には誇るものは何一つありません。私は人に見せられるような者ではありません。けれど、私のうちに働かれた主は違います。どんな人にも胸を張って誇ることができる、主の取り扱い。どれほどそれが憐れみ深いかは私の弱さを見ればわかります。こんな者をも主イエスは憐れんでくださった。ですから、神の憐れみの保証は、私たちの内にあるのです。そしてこれこそ、私たちが次の世代に誇るべき信仰の姿です。

180401 第一コリント15:3-5 「もっとも大切なこと」

第一コリント15:3-5 「もっとも大切なこと」

 パウロは、最も大切なことはイエス様が死なれたこととよみがえったこと。つまり、「十字架とよみがえり」であると教えています。なぜそれが大事なのか。それは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。」とあります。「私たちのため」だから大事。しかしイエス様が十字架にかかって死なれたのは、2000年も前の話です。それがいったいなぜ私たちのためなのでしょうか。
 このことを理解するためには、さらに、ずっとずっと昔の話に遡らなければなりません。それはこの世界の初めの話です。聖書は「はじめに神が天と地を創造された。」とあります。もともと神様がおられて、神様がこの世界と全ての命を、人間を造ったと言うのです。日本では神というのは私たちの願いを聞いてくれる神です。たとえば真夏に日照りが続いて、地域一帯が大飢饉となります。すると、雨の神を祀って雨を降らせてもらおうという具合にです。日本では、まず必要があって、それに応じた神々を造ってきたのです。そして、その時々の状況を見て、今日はこっちの神、明日はあっちの神と、神々を取捨選択してきたのです。ですから、この国の人と神々の関係は人が主で神々が従です。
 けれど、聖書が言う神は全く違います。私たちが造った神々ではなくて、この世界も、私たちも、全てを造られた神がおられると言うのです。このことは、全ての者は神にとって価値ある存在だということを意味します。神の創造は無意味ではあり得ないからです。他の人から私がどう見られているか、それはわかりません。人と自分を比べれば、優越感に浸ったり、劣等感を覚えたりするのが私たちです。いつもその違いに悩み、苦しむ私たち。けれど神から見れば、私たちは比べようのない大切な神の作品なのです。これがそもそもの神と人との関係です。人は神との関係の中で、本来の生きる意味を見出し、神から必要とされる生涯を過ごしていたのです。
 ところが人は、この創造の神を否定して、自分の思いのままに生きることを選びました。神様が唯一つ食べてはいけないと言われた木の実を食べたのです。それは神に従うことよりも、自分の思いを優先したと言うことです。これが罪です。罪とは自己中心の思いのこと。神に感謝し、神を賛美し、神を礼拝するはずの人間が、自分を喜び、自分を褒め称え、あまつさえ自分を神とする。これが罪です。そして、この罪のゆえに、人は神からの栄誉を受けることができなくなってしまったのです。
 神様と人との関係は、もう以前のような麗しい関係ではなくなりました。人は神の作品として、神に必要とされて生きる栄誉を失いました。神様を恐れて、顔を隠して生きなければならなくなりました。永遠の神と共にある時、私たちも永遠の存在でした。しかしそこから離れた時、私たちは限りある存在でしかありません。私たちは、罪のゆえに神に受け入れられない存在であり、滅びるしかない存在となってしまいました。
 さて前置きが長くなりましたが、だからこそ神様は、ご自身のひとり子であるイエス様を人として地上に送ってくださったのです。神の御子イエスの命と引き換えに私たちの命を救われようとされたのです。つまり罪の生贄を用意されたのです。罪を罰せずにいることは神様にはできません。しかし、神様はご自身が造られた作品である人間が滅びるのを良しとはなさいません。神は義であるとともに、愛のお方です。そこで神は、人々のために自ら生贄を用意されました。それがイエス・キリストという方であり、十字架の出来事だったのです。
 そしてこのイエス様がまことに神の子であったことを証明するのが、イエス様の復活というわけです。人は死にます。これは逃れることのできない事実です。どれだけお金を積もうとも、どれだけ名声を集めようと、死を免れることはありません。私たちは死の圧倒的な力を知っています。じわじわと迫りくる死の影に私たちはどれほど恐怖を覚えることでしょう。けれど、イエス様は死して終わること無く、よみがえられたのです。これ以上の神証明はありません。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:27-28)一度目にイエス様が来られたのは、私たちの罪を負うためでした。しかし二度目、イエス様がよみがえられたのは私たちの救いのためにです。イエス様が死んだままであるなら、それは単なる偉大な教師の死でしかありません。しかし、イエス様はよみがえられたのです。それゆえ十字架は私たちの救いとされたのです。十字架はもはや処刑ではなく、敗北でもなく、復活・勝利の象徴とされたのです。