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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191110 コロサイ1:5-6 「届けられた福音」 小川真師 KGK主事(世田谷中央教会牧師)

コロサイ1:5-6 「届けられた福音」 小川真師 KGK主事(世田谷中央教会牧師)

「それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」(コロサイ1:5-6)

 みなさんにイエス様のことを伝えてくれた人は誰でしょうか?イエス様の愛の知らせを、「福音」良き知らせ、と言います。福音は、コロサイの町に届けられ、海を渡って日本の地にまで届けられました。一昨年のKGK夏期学校には100名の学生が参加しました。一緒に食事をし、ハイキングをし、メッセージを聞きました。ある初参加の学生は、初めてイエス様の愛の福音を聞きました。そして最後の夜、その学生は講師の先生から「イエス様を信じませんか」と招かれた時、手を挙げたのです。ひとりの学生にイエス様の愛が届けられたことを思うとき、背後の祈りを思わずにはいられません。学生たちにイエス様の愛が届けられるために、キリストの愛が届けられるため私たちは祈ります。
 パウロは、私たちがイエス様の十字架の愛の話しを聞き「本当に理解するとき」があると語ります。それはイエス様に出会う経験とも言えます。私は小学生5年生で参加したバイブルキャンプのメッセージを通してイエス様に出会いました。そして大学時代、私は自分の罪の赦しが分からず悩んだ時期がありましたが、神様は「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」との御言葉によって、私に赦しの確信を与えてくださいました。
 本当に理解された福音は、実を結び成長していくとパウロは言います。生命力を持って育つ植物のように、福音は実を結び成長する。福音には力があるのです。シンガポールにある社長さんがいました。その社長さんはイエス様を信じました。すると、それまで会社で当たり前のように行われていたショールーム実物のサイズが違うという習慣をやめたのだそうです。こんなことをして、イエス様は喜ばれるだろうか、いや悲しまれるのではないかと。まさに、福音がその社長さんの人生を変えました。福音は人を変え、組織すら変えるのです。まさに福音は力です。
 イエス様の福音は、日本中で、世界中で、実を結び成長し続けています。いのちの福音が、根を張って成長し、実を結んでいるのです。

180603 コロサイ1:11 「寛容な人となる」

コロサイ1:11 「寛容な人となる」

 御霊の実の4番目は寛容です。寛容というのは相手を許す度量のことです。しかし、ここで言う許すというのは罪を赦すの「赦す」ではありません。許容するという意味での「許す」の方です。異なった思想や信条、立場を認めるという意味で使われたりします。一言で言うと、「寛容」とは、違う立場を許すと言っても良いでしょう。御霊の実は、教会に与えられる実ですから、教会は違いを認め合う交わりだと言うのです。
 しかしです。私たちは寛容でありたいとは思うのですが、これがなかなか難しいのです。自分と異なった意見や立場を受け入れたいと思うのですが、なかなかそうはできません。なぜなら、異なった意見や、異なった立場を受け入れるためには、まず自分の主張を引き下げなければならないからです。自分が我慢しなくてはいけない。だから、私たちは寛容でいられないのです。実は聖書で「寛容」と使われるとき、多くの箇所でセットになって使われる言葉があります。「忍耐」です。今日の箇所にも「どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」とあります。寛容であるためには、同時に忍耐が求められるのです。だから、難しい。相手を責めて、排除するほうがよっぽど楽なのです。けれど、本当にそれで良いのでしょうか。それは自ら墓穴を掘ることにはならないでしょうか。ある集団で、自分とは異なる意見を排除していけば、そこは居心地の良い場所になるでしょうか。もしそれを良しとするならば、やがては自分が排除される番になるのではないでしょうか。私たちは寛容を学ばなければなりません。異なる意見を受け入れる心の余裕を持たなければなりません。
 では寛容となるためにはどうすれば良いのでしょうか。一つは、人は違う存在であると認めることです。もう一つは、人は不完全であると認めることです。
 そもそもの話、私たちは一人として同じ存在としては造られていないのです。神様は一人ひとり特別の存在として役割を与えられ、賜物を用意し、命を授けて下さったのです。パウロは教会をキリストのからだと例えます。それぞれが別の役割を持った各機関なのだと言います。一人ひとりは違う存在だからこそ、互いを補い合って、一つなるからだを営むことができるのです。実は私たちが同じでなければならないというのは、幻想です。そもそもの創造の摂理を無視することです。神は人を男と女に造られました。それは同じになるために造られたのではなくて、補い合うために造られたのです。
 面白いことに、神様はあらゆるものを創造されて、その後、自らの創造の様子をご覧になられて、それを良しとされたわけですが、唯一神様が良しとされなかった創造物があります。それが人間です。神様はアダムを見て、「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、「ふさわしい助け手」としてエバを造られたのです。それはつまり、人は誰であれ、不完全であるということです。どれだけ才能があろうと、どれだけ蓄えがあろうと、どれだけ経験を積もうと、人は決して完全とはなり得ない。だから、人は補い合うのです。自分がどれほど正しいと思っても、その正しさは完全ではない。自分がどれだけ優れていると思っても、私たちは遠く完全には及ばない。
 私たちは自分と異なる存在を、不審に思い、邪魔に思います。けれど、その存在がなければ、私たちは本来あるべき姿ではいられないのです。私たちは一人で生きるようには造られていません。神は私たちを助け、愛し合う存在とするために、違う者、不完全な者とされました。ですから、違っていて当たり前なのです。それを無視して、同じにしようとするから寛容でいられなくなるのです。ピリピ2:3には、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。自分の弱さを受け入れる者は、他人の弱さを受け入れられます。己の欠けを知ることが、寛容への第1歩です。

180304 コロサイ1:9‐14節 「霊的な成長のために祈ろう」 齋藤満師(東北宣教プロジェクト)

コロサイ1:9‐14節 「霊的な成長のために祈ろう」 齋藤満師

 今日の箇所は、パウロがコロサイの教会に宛てた手紙の一部です。そこには救われた教会に必要な、霊的成長についての祈りが書かれていました。今日はこの4つの祈りから、私たちが残された地上の生涯において、みことばと祈りによってどのような成長を目指すべきかを学びたいと思います。
 今日の箇所にはパウロの4つの祈りがあります。それを要約するとこうなります。
 ①神の御心を知ることができるように(9節)。「霊的な知恵を理解力によって」とありますが、霊的知恵とは「神の前にそれが正しのかを、状況に応じて判断する」ことを意味します。また、理解力とは、もともと総合するという意味の動詞から出ている言葉で、霊的な様々な判断から総合的に判断することを意味します。しかし、パウロは私たちにそうした能力があるといっているのではありません。「霊的」につまり、聖霊の助けにより、また神様から与えられる知恵によってそうした判断ができるようになることを祈り求めるように言っているのです。
 ②神を知ることによって成長するように(10節)。私たちが神の御心を理解する時、それが主にふさわしく、主の喜ぶ歩みをすることにつながります。それではなぜそれが神を知り、成長することにつながるのでしょうか。それは、私たちがこの世で主の道に歩むなら、必ず世との摩擦、試練を経験するからです。その闘いの中で、私たちはまさに神との人格的な対話を経験し、神が自分にとってどんな存在であるのかを確信させられ、成長することができるのです。
 ここまでの2つの祈りは「神を人格的に知る祈り」と言い換えることができると思います。神をさらに人格的、体験的に知って行くことが、この世の残りの歩みに不可欠であるとパウロは知っているのです。
 ③神によって強められ、忍耐することができるように(11節)。ここでは2つの違う忍耐が祈られます。最初の忍耐は「自分のいる所にとどまること」を意味する言葉。つまり信仰にとどまることを意味しているでしょう。また次の「寛容」と訳されている言葉は「容易に怒らない」忍耐を示しています。たとえ理不尽な誤解や、迫害の試練にあっても、容易に怒ることなく、耐え忍んでいく。しかし、それは私たちの力では到底できないこと。ここでもパウロは、私たちの力や根性ではなく、神の栄光の権能、つまりこの全宇宙を創造した権威によって、あらゆる力によって強められてその忍耐いただけるように祈っています。
 ④天の相続を約束された神に喜びをもって感謝を捧げられるように(12節)。最後にたどり着く祈り、それは神への喜びと感謝が捧げられるようにでした。私たちには全く分不相応な、莫大な神の財産を相続する資格を無償で与えくださる神。そのために私たちの罪を赦すために十字架によって私たちを贖った主イエス様を覚えます(13,14節)。忍耐の限りを要求された主は、それでも自分の受ける天の栄光を見て、喜び、神に感謝しました。私たちもこの天にあるものに目を留めるとき、あらゆる艱難と試練のなかでも喜びをもって神に感謝する生活へと導かれます。
 今日はパウロの教会のために祈った祈りから学びました。この4つの祈りが示している生き方。ここに私たちのモデル、究極の最終目標であるイエスさまの姿があります。是非この祈りから学んだことを心に刻み、祈り、栄光から栄光へ主と同じ姿に変えられる人生を今週も送りたいと願います。