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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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181125 第2テモテ3:14-17 「聖書信仰」

第2テモテ3:14-17 「聖書信仰」

 エレミヤ36:21~32にはエレミヤからの依頼を受けて神のことばをまきものに記すバルクの様子が記されます。バルクが記した神のことばは国中の話題となり、すぐに王の耳にも入ります。王はその巻物を持ってこさせて家来に読ませました。その巻物は神からの忠告のことばでした。「ユダの国はバビロンの国によって滅ぼされる!」国が滅ぶなど、王にとってこれ以上に聞きたくないことばはありません。怒った王は巻物を切り刻んで、暖炉で焼いてしまいました。神はもう一度新しい巻物を書くようにエレミヤに命じられ、そしてエレミヤはバルクにそのことを命じるのです。王が切って捨てた巻物をもう一度書くことは、王に逆らうことです。王の怒りを買って、いのちを失うかもしれません。けれど、バルクはもう一度神のことばを書き記します。それは神のことばこそが、聞くものを生かす、いのちのことばだからです。
 この出来事は、聖書記者と神との関係を如実に表しております。巻物を書くのは、バルクであり、エレミヤであり、時代時代の聖書記者たちです。その時代の制約の中で、苦心し、決断をもって記します。しかし、同時に、この聖書の真の執筆者は神でもあるのです。パウロはこのことを謙虚に受け止めてきました。だからこそ、聖書を唯一絶対の信仰の規範として受け入れたのです。
 近代の教会史の中で、特に、科学的アプローチの影響を受けて、聖書の文体を時代検証し、聖書本文を切り刻んで理解しようとする人々が起こりました。聖書のこの箇所はモーセの時代のものであり、この箇所は第2神殿の再建の後である。と言った風にです。この言葉はイエス様が言った言葉だけど、このところはパウロの教えであるとかです。そのようにして、聖書の中から信頼できる言葉とできない言葉を色分ける作業がなされました。学術的には大変知的好奇心を刺激する試みであったのかもしれません。けれど、そのようにして色分けされた聖書は、もう信頼できる神のことばではありませんでした。
 一方で、聖書が神のことばであることを強調するあまり、その時代に用いられた聖書記者も文脈も歴史的意味も無視して御言葉を自分勝手に継ぎ接ぎしようとする人々もおりました。例えば、神は愛です。という御言葉を取り上げ、一方でキリストは罪人を救うために来られたということを持ってきて、続けて、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。との御言葉を読むなら、なるほど、キリスト者となれば一切の罪に責任がなくなるのだと思ってもおかしくありません。けれど、それが神のみこころに叶う聖書の読み方なのかと問いますと、決してそうではない。自分の望むことを正当化するために御言葉を取捨選択することは、神がその時代に語られたメッセージを無視することに他なりません。それぞれのテキストには、それぞれの時代の聴衆に語られたメッセージがあります。まずはその聖書箇所がそれぞれの時代に向けて語るところを理解し、その意味するところを、現代の私たちの生活の中で適応させて行かなければなりません。
 一つ恥ずかしい証をします。私がまだ神学校の1年生のこと。初めて学ぶ神学の教えは大変興味深く、目が開かれる思いがしました。知識が増すことへの純粋な喜び。ですから私は初めての説教演習で、今まで知らなかったことを発見する説教をするんだと、意気揚々に資料を漁りました。しかし結果は散々な評価でした。新しさを求めて準備したその説教は、いつの間にか立場を違えて、書かれたテキストを無視した説教となっていたからでした。
 私たちが聖書を読むのに、新しさは要りません。今まで誰も語らなかった教えは、それが御言葉を無視しているから語られなかったのです。申命記4:2には「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。」とあります。パウロは「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」と言っています。御言葉がその時代に何と語り、今の私に何と語っているか。代々の信仰者が語り継いできた教えを頼りに、御言葉に真摯に向き合う私たちでありたいと思います。

180624 第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師

第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師