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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220306 Ⅱテモテ3:14-17、コロサイ2:6-8 「学んで確信したところ」

Ⅱテモテ3:14-17、コロサイ2:6-8 「学んで確信したところ」

 教会教育の目的は信徒一人ひとりが自ら聖書を読み解くことができるようになることです。宗教改革以前、聖書は教会のものであり、限られた聖職者のものでした。信徒は聖職者によって語られる教えを聞くことしかできませんでした。けれど、宗教改革と活版印刷の発明により、聖書は信徒の手に届くものとなったわけです。皆が自由に聖書を読むことができるようになった。それは、各自が好きなように聖書を読み解くようになったということでもあります。けれど聖書はただ読んで理解するには、なかなか難解な書物なのです。もちろん、わからないままに読んだとしても、御霊の導きの中で、恵みを受け取ることはできるでしょう。けれど歴史の中で記された聖書は、私たちの日常とはあまりにもかけ離れた文脈の中で記されているのです。
 教会の歴史は異端との戦いの歴史です。コロサイ書に「あの空しいだましごとの哲学」とあります。初期の教会の中にすでに異端が入り込んでいたのです。異端は全くかけ離れたことを教えるわけではありません。聖書の御言葉を、使徒と預言者の教えから逸れた、別の解釈で語るのです。それも全部が全部そうなのではなくて、混ぜものをするように、少しずつ、こっそりと。だから、見分けが付けづらいのです。そして、そのような教えほど、都合の良い、耳に優しい、ヒューマニズムの言葉で語られる。異端の教えは、強制的に口を開けて押し込まれる教えではありません。もちろん例外はあります。けれど多くの場合、人々は自ら好んで口に入れたのです。結果、人々は何が正しくて何が間違っているか判断ができなくなったのです。
 ですから聖書は個人ではなくて、教会で読むことが大事です。使徒と預言者に基づく、聖書の読み方とは何かを、共に学ぶ必要があります。そうでないと、私たちは自分勝手に、自分の好きなように解釈する危険があるからです。そして、その結果、神様のみこころとは全く違う読み方をして、別の結論にいたってしまう恐れがあるからです。
 教会では時折に、礼拝説教を用いて教理の学びをいたします。主の祈り、使徒信条、ハイデルベルク信仰問答。これらは教会が様々な異端の教えと戦ってきた歴史の中で培われたものです。聖書をこの枠組の中で読みましょう。解釈しましょう。聖書全体からその教えを抽出し、まとめ上げたのが教理であります。読み方に枠組みを決めるなんて、窮屈で、つまらないとおっしゃるかもしれません。もっと自由に読みたいと思われるかもしれません。けれど、独りよがりで聖書を読むときに、私たちは常に自分の都合の良いように読んでしまう誘惑があります。自分の耳に優しい部分だけを読みたくなります。そして、そういう欲にサタンは付け入ってくるのです。
 また、時々こういうお方もおられます。難しいことは知らなくていい。あの人が言うんだったら私も信じます。とです。きっと、その方が言う「あの人」とはとても素敵なキリスト者なのでしょう。けれど、それはあの人を信じているのであって、イエス様を信じているとはなりません。あの人頼みの信仰はあの人に失望すれば瞬く間に失われてしまうものです。私たちはイエス様を頼みとしなければなりません。イエス様以外に期待してはいけません。私たちはイエス様を知らなければであります。イエス様はなぜこの世に来られたのか。何を語られたのか。何をもたらしたのか。私たちはこのお方を何と告白するべきか。一つ一つ、丁寧に、私たちは共に聖書から学ぶのです。
 教会の教えは今の時代にそぐわないとおっしゃる方もいます。もっと目新しい、流行りの教えを紐解こう、とです。そして言います。だから教会はこの時代に見向きもされないとです。もちろん、時代時代に要請される教会の使命があるかとは思います。キリスト教化した中世ヨーロッパと異教蔓延る現代の日本では求められる働きに違いはあります。けれど、私たちが立つべきところは一つです。
 Ⅱテモテ3:14に「学んで確信したところにとどまる。」とあります。このとどまるということが大事です。敢えてとどまるのです。聖書の読み方は独りよがりでも、あの人頼みでも、知的好奇心でもありません。私たちに突飛な教えはいりません。目新しい解釈や流行りの教えもいりません。それらはいずれ古くなるものです。移り変わるものです。私たちに必要なのは時代によって変わることのない「使徒たちや預言者たちという土台」。イエス・キリストという土台です。

210801 Ⅱテモテ4:2 「伝道に突き動かす衝動」

Ⅱテモテ4:2 「伝道に突き動かす衝動」

 Ⅱテモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」この御言葉は教会に向けられた使命であると同時に、一人ひとりのキリスト者に向けての言葉です。私たちはまず教会の使命としての伝道を誤解しないために、一人ひとりの使命としての伝道を考えたいと思います。なぜなら、教会としての伝道という考えには、どうしても、個人の責任を曖昧にする誘惑があるからです。教会という群れとして、この使命を捉える時、教会には語るのが上手な人もいれば、苦手な人もいます。もてなすのが得意な人もいれば、影になって準備するのが上手な人もいます。様々な賜物を持った兄弟姉妹が互いに協力しあって、教会の使命を担っているわけです。これは教会の働きの重要な要素でして、それぞれが補い合って、一つの目的に向かって励むことを通して、一人では決して担いきれない働きを私たちは担っていくことができる。これは事実です。しかし、どうでしょう。私たちはともすると、互いを担いあい、分担するということを言い訳にして、神様からの使命をどこか他人事にしているということはないでしょうか。教会には賜物豊かな人、経験豊かな人、若くて元気な人、思慮深い人、あの人こそ相応しいという人が沢山います。そういう人たちを目にしますと、いつの間にか、自分自身がしゃしゃり出なくても、伝道ってのは何とかなるんじゃないか。それは私のやることではないのではないか。と思ったりはしないでしょうか。
 けれど、私たちの信仰生活の主戦場は教会ではなくて世です。私たちの日常において、たとえば職場であったり、学校であったり、家庭であって、私たちの出会うその人に福音を伝えるのは、教会の誰かではないはずです。けれど、私たちは恐れるのです。なぜなら福音を語ることは、私とその人の関係をこれからも続けていけるか否かがふるわれることだからです。だから、そう簡単には伝えられない。もう少し状況が整ってから、もう少し年を重ねてから、もう少し関係が強まってからと思うのです。
 しかし、それはあまりに安易な考えではないでしょうか。なぜなら、主のときはいつやって来るかわからないからです。なのに私たちはそれを先延ばしにしてしまいます。そして身近なその人たちの方から、たとえばどうしようもない試練にあって自分に助けを求めて来る。そういった状況になるのを期待して、ただひたすらに待ってしまいがちです。しかし、敢えて言わせてもらうなら、そういう火急のときに福音を語ることができるのは、常日頃から語っている人だけだということです。
 伝道を妨げる大きな要因が二つあります。一つは危機感の欠如。もう一つは感動の欠如です。聖書は死後の裁きと永遠の刑罰、そして救いをはっきりと記します。貧乏人ラザロと金持ちが死んで後、罪人と罪赦された者との間には、どうやっても超えることのできない永遠に隔てがあると記されています。聖書は全ての者が救われるとは言いません。滅び行く霊があるとはっきりと言います。だからこそ、私たちは、恐れを持って、危機感を持って、語り続けなければならないのです。
 いえ、受けた恵みの大きさを本当に知るなら、私たちは語らずにはいられないのです。ピリポが友人のナタナエルにイエス様のことを伝えます。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と反論しました。しかしピリポは言うのです。「来て、見なさい。」このピリポの伝道は理屈ではありません。衝動です。しかし、それが大事です。ピリポの言葉には何の裏付けもありません。けれどもナタナエルを動かしてしまうだけの説得力があります。それは彼の内には救い主に会ったという感動と確信があるからです。そこには何の迷いも、恥じらいもない。だからこそ聞く者は動かされるのです。
 私たちは余りにも相手に気を使いすぎてはいないでしょうか。こんなことを言ったら変に思われるかも。教会に誘ったら鬱陶しがられるかも。だから、たとえ誘うとしても「無理しないでもしも暇なら来て下さいね。」となるのです。けれど、私たちが受けた恵みは「暇なら来てね。」という程度のものでしょうか。それは私たちの人生を一変させた素晴らしい出会いだったはずです。そうでないとすれば、確かに、それは伝わらないでしょう。私たちの内に、滅びゆく魂への危機感はあるでしょうか。そして感動と確信はあるでしょうか。それらこそが私たちを突き動かす衝動です。

181125 第2テモテ3:14-17 「聖書信仰」

第2テモテ3:14-17 「聖書信仰」

 エレミヤ36:21~32にはエレミヤからの依頼を受けて神のことばをまきものに記すバルクの様子が記されます。バルクが記した神のことばは国中の話題となり、すぐに王の耳にも入ります。王はその巻物を持ってこさせて家来に読ませました。その巻物は神からの忠告のことばでした。「ユダの国はバビロンの国によって滅ぼされる!」国が滅ぶなど、王にとってこれ以上に聞きたくないことばはありません。怒った王は巻物を切り刻んで、暖炉で焼いてしまいました。神はもう一度新しい巻物を書くようにエレミヤに命じられ、そしてエレミヤはバルクにそのことを命じるのです。王が切って捨てた巻物をもう一度書くことは、王に逆らうことです。王の怒りを買って、いのちを失うかもしれません。けれど、バルクはもう一度神のことばを書き記します。それは神のことばこそが、聞くものを生かす、いのちのことばだからです。
 この出来事は、聖書記者と神との関係を如実に表しております。巻物を書くのは、バルクであり、エレミヤであり、時代時代の聖書記者たちです。その時代の制約の中で、苦心し、決断をもって記します。しかし、同時に、この聖書の真の執筆者は神でもあるのです。パウロはこのことを謙虚に受け止めてきました。だからこそ、聖書を唯一絶対の信仰の規範として受け入れたのです。
 近代の教会史の中で、特に、科学的アプローチの影響を受けて、聖書の文体を時代検証し、聖書本文を切り刻んで理解しようとする人々が起こりました。聖書のこの箇所はモーセの時代のものであり、この箇所は第2神殿の再建の後である。と言った風にです。この言葉はイエス様が言った言葉だけど、このところはパウロの教えであるとかです。そのようにして、聖書の中から信頼できる言葉とできない言葉を色分ける作業がなされました。学術的には大変知的好奇心を刺激する試みであったのかもしれません。けれど、そのようにして色分けされた聖書は、もう信頼できる神のことばではありませんでした。
 一方で、聖書が神のことばであることを強調するあまり、その時代に用いられた聖書記者も文脈も歴史的意味も無視して御言葉を自分勝手に継ぎ接ぎしようとする人々もおりました。例えば、神は愛です。という御言葉を取り上げ、一方でキリストは罪人を救うために来られたということを持ってきて、続けて、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。との御言葉を読むなら、なるほど、キリスト者となれば一切の罪に責任がなくなるのだと思ってもおかしくありません。けれど、それが神のみこころに叶う聖書の読み方なのかと問いますと、決してそうではない。自分の望むことを正当化するために御言葉を取捨選択することは、神がその時代に語られたメッセージを無視することに他なりません。それぞれのテキストには、それぞれの時代の聴衆に語られたメッセージがあります。まずはその聖書箇所がそれぞれの時代に向けて語るところを理解し、その意味するところを、現代の私たちの生活の中で適応させて行かなければなりません。
 一つ恥ずかしい証をします。私がまだ神学校の1年生のこと。初めて学ぶ神学の教えは大変興味深く、目が開かれる思いがしました。知識が増すことへの純粋な喜び。ですから私は初めての説教演習で、今まで知らなかったことを発見する説教をするんだと、意気揚々に資料を漁りました。しかし結果は散々な評価でした。新しさを求めて準備したその説教は、いつの間にか立場を違えて、書かれたテキストを無視した説教となっていたからでした。
 私たちが聖書を読むのに、新しさは要りません。今まで誰も語らなかった教えは、それが御言葉を無視しているから語られなかったのです。申命記4:2には「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。」とあります。パウロは「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」と言っています。御言葉がその時代に何と語り、今の私に何と語っているか。代々の信仰者が語り継いできた教えを頼りに、御言葉に真摯に向き合う私たちでありたいと思います。

180624 第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師

第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師