Ⅱテモテ3:14-17、コロサイ2:6-8 「学んで確信したところ」
教会教育の目的は信徒一人ひとりが自ら聖書を読み解くことができるようになることです。宗教改革以前、聖書は教会のものであり、限られた聖職者のものでした。信徒は聖職者によって語られる教えを聞くことしかできませんでした。けれど、宗教改革と活版印刷の発明により、聖書は信徒の手に届くものとなったわけです。皆が自由に聖書を読むことができるようになった。それは、各自が好きなように聖書を読み解くようになったということでもあります。けれど聖書はただ読んで理解するには、なかなか難解な書物なのです。もちろん、わからないままに読んだとしても、御霊の導きの中で、恵みを受け取ることはできるでしょう。けれど歴史の中で記された聖書は、私たちの日常とはあまりにもかけ離れた文脈の中で記されているのです。
教会の歴史は異端との戦いの歴史です。コロサイ書に「あの空しいだましごとの哲学」とあります。初期の教会の中にすでに異端が入り込んでいたのです。異端は全くかけ離れたことを教えるわけではありません。聖書の御言葉を、使徒と預言者の教えから逸れた、別の解釈で語るのです。それも全部が全部そうなのではなくて、混ぜものをするように、少しずつ、こっそりと。だから、見分けが付けづらいのです。そして、そのような教えほど、都合の良い、耳に優しい、ヒューマニズムの言葉で語られる。異端の教えは、強制的に口を開けて押し込まれる教えではありません。もちろん例外はあります。けれど多くの場合、人々は自ら好んで口に入れたのです。結果、人々は何が正しくて何が間違っているか判断ができなくなったのです。
ですから聖書は個人ではなくて、教会で読むことが大事です。使徒と預言者に基づく、聖書の読み方とは何かを、共に学ぶ必要があります。そうでないと、私たちは自分勝手に、自分の好きなように解釈する危険があるからです。そして、その結果、神様のみこころとは全く違う読み方をして、別の結論にいたってしまう恐れがあるからです。
教会では時折に、礼拝説教を用いて教理の学びをいたします。主の祈り、使徒信条、ハイデルベルク信仰問答。これらは教会が様々な異端の教えと戦ってきた歴史の中で培われたものです。聖書をこの枠組の中で読みましょう。解釈しましょう。聖書全体からその教えを抽出し、まとめ上げたのが教理であります。読み方に枠組みを決めるなんて、窮屈で、つまらないとおっしゃるかもしれません。もっと自由に読みたいと思われるかもしれません。けれど、独りよがりで聖書を読むときに、私たちは常に自分の都合の良いように読んでしまう誘惑があります。自分の耳に優しい部分だけを読みたくなります。そして、そういう欲にサタンは付け入ってくるのです。
また、時々こういうお方もおられます。難しいことは知らなくていい。あの人が言うんだったら私も信じます。とです。きっと、その方が言う「あの人」とはとても素敵なキリスト者なのでしょう。けれど、それはあの人を信じているのであって、イエス様を信じているとはなりません。あの人頼みの信仰はあの人に失望すれば瞬く間に失われてしまうものです。私たちはイエス様を頼みとしなければなりません。イエス様以外に期待してはいけません。私たちはイエス様を知らなければであります。イエス様はなぜこの世に来られたのか。何を語られたのか。何をもたらしたのか。私たちはこのお方を何と告白するべきか。一つ一つ、丁寧に、私たちは共に聖書から学ぶのです。
教会の教えは今の時代にそぐわないとおっしゃる方もいます。もっと目新しい、流行りの教えを紐解こう、とです。そして言います。だから教会はこの時代に見向きもされないとです。もちろん、時代時代に要請される教会の使命があるかとは思います。キリスト教化した中世ヨーロッパと異教蔓延る現代の日本では求められる働きに違いはあります。けれど、私たちが立つべきところは一つです。
Ⅱテモテ3:14に「学んで確信したところにとどまる。」とあります。このとどまるということが大事です。敢えてとどまるのです。聖書の読み方は独りよがりでも、あの人頼みでも、知的好奇心でもありません。私たちに突飛な教えはいりません。目新しい解釈や流行りの教えもいりません。それらはいずれ古くなるものです。移り変わるものです。私たちに必要なのは時代によって変わることのない「使徒たちや預言者たちという土台」。イエス・キリストという土台です。
教会教育の目的は信徒一人ひとりが自ら聖書を読み解くことができるようになることです。宗教改革以前、聖書は教会のものであり、限られた聖職者のものでした。信徒は聖職者によって語られる教えを聞くことしかできませんでした。けれど、宗教改革と活版印刷の発明により、聖書は信徒の手に届くものとなったわけです。皆が自由に聖書を読むことができるようになった。それは、各自が好きなように聖書を読み解くようになったということでもあります。けれど聖書はただ読んで理解するには、なかなか難解な書物なのです。もちろん、わからないままに読んだとしても、御霊の導きの中で、恵みを受け取ることはできるでしょう。けれど歴史の中で記された聖書は、私たちの日常とはあまりにもかけ離れた文脈の中で記されているのです。
教会の歴史は異端との戦いの歴史です。コロサイ書に「あの空しいだましごとの哲学」とあります。初期の教会の中にすでに異端が入り込んでいたのです。異端は全くかけ離れたことを教えるわけではありません。聖書の御言葉を、使徒と預言者の教えから逸れた、別の解釈で語るのです。それも全部が全部そうなのではなくて、混ぜものをするように、少しずつ、こっそりと。だから、見分けが付けづらいのです。そして、そのような教えほど、都合の良い、耳に優しい、ヒューマニズムの言葉で語られる。異端の教えは、強制的に口を開けて押し込まれる教えではありません。もちろん例外はあります。けれど多くの場合、人々は自ら好んで口に入れたのです。結果、人々は何が正しくて何が間違っているか判断ができなくなったのです。
ですから聖書は個人ではなくて、教会で読むことが大事です。使徒と預言者に基づく、聖書の読み方とは何かを、共に学ぶ必要があります。そうでないと、私たちは自分勝手に、自分の好きなように解釈する危険があるからです。そして、その結果、神様のみこころとは全く違う読み方をして、別の結論にいたってしまう恐れがあるからです。
教会では時折に、礼拝説教を用いて教理の学びをいたします。主の祈り、使徒信条、ハイデルベルク信仰問答。これらは教会が様々な異端の教えと戦ってきた歴史の中で培われたものです。聖書をこの枠組の中で読みましょう。解釈しましょう。聖書全体からその教えを抽出し、まとめ上げたのが教理であります。読み方に枠組みを決めるなんて、窮屈で、つまらないとおっしゃるかもしれません。もっと自由に読みたいと思われるかもしれません。けれど、独りよがりで聖書を読むときに、私たちは常に自分の都合の良いように読んでしまう誘惑があります。自分の耳に優しい部分だけを読みたくなります。そして、そういう欲にサタンは付け入ってくるのです。
また、時々こういうお方もおられます。難しいことは知らなくていい。あの人が言うんだったら私も信じます。とです。きっと、その方が言う「あの人」とはとても素敵なキリスト者なのでしょう。けれど、それはあの人を信じているのであって、イエス様を信じているとはなりません。あの人頼みの信仰はあの人に失望すれば瞬く間に失われてしまうものです。私たちはイエス様を頼みとしなければなりません。イエス様以外に期待してはいけません。私たちはイエス様を知らなければであります。イエス様はなぜこの世に来られたのか。何を語られたのか。何をもたらしたのか。私たちはこのお方を何と告白するべきか。一つ一つ、丁寧に、私たちは共に聖書から学ぶのです。
教会の教えは今の時代にそぐわないとおっしゃる方もいます。もっと目新しい、流行りの教えを紐解こう、とです。そして言います。だから教会はこの時代に見向きもされないとです。もちろん、時代時代に要請される教会の使命があるかとは思います。キリスト教化した中世ヨーロッパと異教蔓延る現代の日本では求められる働きに違いはあります。けれど、私たちが立つべきところは一つです。
Ⅱテモテ3:14に「学んで確信したところにとどまる。」とあります。このとどまるということが大事です。敢えてとどまるのです。聖書の読み方は独りよがりでも、あの人頼みでも、知的好奇心でもありません。私たちに突飛な教えはいりません。目新しい解釈や流行りの教えもいりません。それらはいずれ古くなるものです。移り変わるものです。私たちに必要なのは時代によって変わることのない「使徒たちや預言者たちという土台」。イエス・キリストという土台です。