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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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221002 エペソ4:11-16 「私たちは唯一無二の器官」

エペソ4:11-16 「私たちは唯一無二の器官」

 エペソ1:23には「教会はキリストのからだ」とはっきりと記されています。そしてエペソ5:30では「私たちはキリストのからだの部分だからです。」とあります。つまり、この2つの御言葉から、教会と私たちの関係が、キリストのからだとその部分に例えられているわけです。さらに今日の箇所エペソ4:12には「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」とありまして、聖徒と数えられる私たちは、キリストのからだの部分として奉仕の働きを担い、キリストのからだなる教会を建て上げるのだと言います。体の中の器官は、それぞれ役割は違いますが、共に一つの体を形成しています。同じように教会もまた、それぞれのキリスト者がそれぞれの奉仕を担い合い、一つなる教会を形成しているのです。ですから、この教会は単なる仲良し集団ではなくて、奉仕をする集まり。神から委ねられた働きを共有する集まりです。
 つまり奉仕をするということは、教会を建て上げるという主からの大切な使命に携わっているということです。この理解はとても大切です。そうでないと、私たちは時に何のために奉仕をするのかがわからなくなってしまうからです。
 時々、奉仕を教会での自分の居場所にする人がいます。奉仕をすることで皆から感謝されて、役に立っている。必要とされている。と、教会のおける自分の存在価値を奉仕の評価で確認する人です。他ならぬ私がそういう者でした。けれど、それは役に立たなければ必要がないということでもあります。他人の評価が居場所なら、評価されなければ居場所を失うしかないのです。そうするともう奉仕は喜びではありません。いつ「あなたなんていらない」と言われるかと不安でしかない。他人の顔色を窺ってやる奉仕は苦痛でしかありません。
 第一コリント12:27に「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」とあります。教会が何かの工場や、製品に例えられるのではなくて、からだに例えられるのには意味があります。部品だと言われれば、それは幾らでも替えの利く存在です。部品の形には意味はありますが、同じ形であればそれでなくても良いのです。けれど、からだの中の器官は、そうはいきません。からだの器官は、それぞれに違う役割を持った替えのきかない特別の存在なのです。
 一人ひとりがキリストのからだの一部を担っている。それは言い換えると、一部であって、からだ全部ではないということでもあります。部分だけではけっして「からだ」とはなり得ません。私たちはキリストのからだを担うそれぞれの部分です。それぞれが違う役割を担っているのですから、一つの部分も無駄ではありません。教会が、もし誰かをいらないと言って排除するなら、それは自分のからだの一部を捨てるのと同じです。その一人の欠けでからだ全体が機能しなくなるのです。
 そして、このことは、「私」もからだにとって大切な一部分なんだということでもあります。教会の中で誰一人、不必要な者、意味のない者はいない。そこにはもちろん「私」も含まれているのです。「私なんていてもいなくても同じだ」と嘆くその「私」もであります。教会において私たちはそれぞれに唯一無二の器官なのです。だからこそ「私」はいただいた賜物を用いて奉仕しなければなりません。土の中に隠しておくわけにはいきません。その賜物はキリストのからだを構成する大切な一部分だからです。
 そしてこの理解を教会全体に広げるのです。私たちはそれぞれの賜物に応じて、それぞれの役割を担って、一つの教会を建て上げています。皆がかけがえのない存在なのです。だからこそ私たちは互いの賜物を知り、想像することが大事です。見える結果だけでは私たちにはわかりません。その人の存在の尊さをです。だから想像するのです。その一人が陰で献げておられる時間や労苦をです。その一人が担ってくれているキリストのからだをです。目は手の働きを想像すべきです。頭は足の働きに感謝すべきです。教会にいるその一人の存在を、想像して、理解して、感謝することが大事です。一人では決して教会はなりません。私たちが組み合わされるとき、教会はなるのです。私たちがそれぞれの存在を心から感謝し喜ぶ時、教会は一つです。

210502 エペソ2:19 「同じ国民、神の家族」

エペソ2:19 「同じ国民、神の家族」

 教会とは何か。単なる会堂のことを指すわけではありません。教会とは人の集まりです。けれどそれは単なる人の集まりではありません。それは信仰者の群れです。もともと教会の語源となるエクレシアという言葉は召された者の集まりという意味です。
 今日の箇所のエペソ書2:19には、教会の特徴として「聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」とあります。なぜなら、それは16節「十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされ」たからです。私たちはキリストの十字架の贖いによって、神の国の住人とされ、神の家族とされ、神の教会に召し出されたのです。
 神の国の民とされたとは、言い換えると、もはや私たちが地上の民ではないということでもあります。私たちは神の国においては、もう他国人でも寄留者ではない。神の国こそがホームとなり、この世界においては逆に寄留者とされるのです。入れ替わったのです。ヘブル 11:13には、地上における私たちの存在が「旅人であり、寄留者である」と逆の視点が記されています。私たちは今や、地上の歩みこそが、価値観の違う異国の地を過ごす者となりました。この世界は真の神を否定し、自らを神と称しておのれの人生の主人公を決め込みます。そして、自分が作り出す世界に酔いしれます。一方で、私たちの国籍はもはや天国にあります。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、神のみこころに生きることを目指す者です。私たちの人生の主人公はイエス・キリストただお一人であります。ですから私たちキリスト者の存在は、根本的にこの世界にあって相容れないものなのです。
 ですから私たちは少なからず体感しています。自分の最も大切に思う部分を理解されることのない寂しさや、大っぴらにできないもどかしさをです。こんなことを言えば、変に思われるかもしれない。めんどくさがられるかもしれない。私たちは無駄な争いを避けるために、平和な関係を維持するために、知らず知らずのうちに相手に合わせることを強いられるのです。価値観の違う異国の地で暮らすことは緊張を伴うものです。そんな異国の地でも唯一気が休まるところがあるとすれば、それは我が家に帰ったときでしょう。仮住まいかもしれませんが、そこに家族がいるなら、それは立派な我が家です。私たちの国籍は天国にあります。しかし、教会は地上における私たちのホームなのです。
 教会が異国の地における我が家だとすれば、当然私たちの関係は家族です。けれど神の家族の特徴は、あくまでも同じ父を持つ養子同士の関係だと言うことです。つまり兄弟姉妹の間に直接の繋がりはないということです。ここをわきまえていないと教会の交わりは崩壊してしまいます。私たちは家族といえど同じではないのです。生まれた場所も環境も、好みも、全く違う私たち。けれど私たちはそのことを忘れて、家族なんだからと、私と同じであることを過度に期待し、強制してしまうことがあります。私が良いと思う教会、私が理想とするクリスチャン。そして自分勝手に失望し、相手を裁いてしまうのです。
 コリント教会は分裂の危機を迎えていた教会でした。彼らは分派争いをしていました。なぜでしょう。それは彼らの正義心から来るとことでした。理想の教会を求めての結果でした。一人ひとりは教会の分裂を望んでいるわけではありません。むしろ一致を望んでいました。けれど、その一致は、自分の望む形での一致でなければ我慢がならなかったのです。これは彼らの正義感によるものです。しかしこれは間違った正義感です。
 エペソ4:3-5には「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とあります。
 私たちは互いの性格を一つにすることはできません。立場や役割で一つになることもできません。感情や好みや正義心でも一つにはなれません。それらを一つにすることで教会の一致を図ろうとしても、どだい無理な話です。そもそも私たちはそのようには造られていないからです。私たちは個性ある存在として造られました。工場で大量生産されたのではなく、一人ひとり特別のご計画を持っていのちと賜物を与えられました。生まれた場所も環境も、好みも、全く違う私たち。けれど同じものがあります。「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり。信仰は一つ、バプテスマは一つです。」これしか私たちの共通するものはありません。けれどこれで十分です。同じ恵みを共有する家族として、一つなる御霊をいただく者として、教会は一つとされるのです。

180805 エペソ2:1-10 「あなたのできばえは?」 赤羽聖書教会 野寺恵美師

エペソ2:1-10 「あなたのできばえは?」 赤羽聖書教会 野寺恵美師

 ユダヤ人と異邦人。教会の中でも相容れず揉めていたこの両者、でも行き着く先は共に「死」「神のさばき」。一方、神にあるのは「豊かさ」「あわれみ」「たくさん」の「愛」。神はこの「大きな愛」をもって「背きの中に死んでいた ~ つまり異邦人もユダヤ人もひっくるめた ~ 私たちを」「共に生かし」「共によみがえらせ」「共に天上に座らせて」下さいました、「キリストにあって」。「共に生かす」あわれみ豊かな、私たちをたくさん愛して下さる神が、罪の中でなんの抵抗もできずに死んでいた私たちに新しい「命をつくって」下さり、その「命に生かして」下さるのです。罪の中にどっぷりとつかっていた時、死んでいた時には、自分がどこにいるのか、自分のいるところがどんなに汚いのか麻痺してしまってわかりません。息を吹き返して初めて感じることができるのです。罪の中で何もできずに死んでいた私たちが自分は罪深い人間だと自覚すること、それこそが確かに生きている証拠です。罪の中から救い出されて生かされたのです。「ともによみがえらせて下さった」確かにイエスの再臨の時に私たちはよみがえって新天新地に行くことができます。でもこの地上で生きている今も実はよみがえりの命を生きているのです。たとえ見た目には苦しみの多い、泣くこともつぶやくこともある、誰からも顧みられないようなちっぽけな人生のように見えても、それは朽ちることのないよみがえりの命であり、決して無駄な、無意味なものではないのです。「ともに天上に座らせて下さった」これは「神の右の座」に着いて神と共に神の国を治めることです。いえ、現に今治めているのです。人にはどう見えようと、自分でどう考えようと、神は私たちをご自分のパートナーにして下さっています。今している勉強、子育て、家事、仕事、友達とのおしゃべりや遊ぶこと、食べることでさえみな、神の右腕として神の国を治める仕事なのです。
 私たちは「神の」作品です。誰が何と言おうと作者はその作品のことを一番よく知っています。その作品を一番輝かせることができます。神は私たちが一番自分らしくいられるように、輝いていられるように、すべてを備えていて下さいます。責任をもって導いて下さいます。そうして私たちを通して、神の御栄光を、神の豊かな恵みを、神の大きな愛を現されるのです。罪の中にどっぷりとつかって身動きもとれずに、木偶の坊のように死んでいた私たちが、神の作品として生かされ、永遠のいのちをいただいて、神の右腕として手足を自由に動かして、全身全霊で神の良い働きができるのです。何という幸せでしょうか。しかも独りぼっちではありません。イエスさまが私たちの模範としていつも一緒にいて下さり、教会の兄弟姉妹が共に神の働きをする同労者としているのです。何とすばらしい神さまからのプレゼントではありませんか。それをいただいて歩みましょう。