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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180902 Ⅱコリント1:12「神から来る誠実」

Ⅱコリント1:12「神から来る誠実」

 「神から来る純真さと誠実さ」とあります。この「神から来る」というのが大事です。誠実とは嘘偽りなく、真心から事に当たる私たちの生きる姿勢のことです。しかし、それだけでは駄目だと言うのです。どれだけ嘘がなくても、どれだけ真心からであっても、それが神から来る誠実でなければいけない。言い換えると、それは肉的な知恵によらないということです。神の恵みによるということです。
 例えばです。嘘偽りなく、真心から、誠実に、仕事に励んでいる人がいるとします。その気持ち、その姿勢には、何の偽りもない。けれどその結果、多くの人の心を踏みにじったり、犠牲にしたりすることがあったらどうでしょうか。オウム真理教の多くの信者は、ある意味ただただ誠実であったと言えるでしょう。滅びることによって救済がある。彼らの中に、嘘偽りはなく、それは真心から相手のためにと振る舞ったのです。けれど、だから彼らは正しかったとは絶対に言えません。その時、その瞬間に、己の価値観に誠実であったとしても、それはどこか、独りよがりの自己陶酔ということがあり得るのです。
 ですから、私たちの誠実を図る物差しが必要なのです。
 私たちは何かを振る舞うとき、それは自分の気持ちに誠実であるかを問うでしょうか。それとも相手にとって誠実であることを意識するでしょうか。しかし、真に問うべきは、神に対してであると、聖書は教えているのです。
 パウロはコリントの人々に対して、誠実に振る舞ってきたことを誇っています。しかし、それは彼らの顔色を伺ってということではありません。パウロは神の恵みによって、誠実に振る舞ってきた。あなたがたに対しても、神の恵みに恥じぬようにと、誠実に、己の利得によらずに行動してきた。と言うのです。
 世の中を見ると、真面目に生きることが馬鹿馬鹿しく思うことがあるかもしれません。誠実な人が、悪者どもの食い物にされる。長い年月ひたすらに誠実を尽くしてきて、挙げ句、何も報われないということがあるかもしれません。そうではなくて、手段を問わず、結果を出すほうが大事だと言うのが、この世の教えかもしれません。けれど、それは神を知らない人の論理です。なぜなら、神はその過程をも全て、ご覧になっておられるからです。そして、私たちに神の恵みに相応しく生きてほしいと願っておられるからです。
 ミカ6:8「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」
 私たちの一つ一つの振る舞いの物差しは神の御心であります。イエス様こそが見本です。イエス様はどのようなお方だったでしょう。イエス様は見返りを期待して振る舞う方ではありませんでした。状況によって言動が違う方ではありませんでした。人々の敵意の中、弟子たちの無理解の中、たとえ指導者たちの怒りを買うことになろうとも、イエス様はぶれません。なぜでしょうか。それはイエス様が他でもない父なる神に対して誠実であろうと尽くされていたからであります。
 私がまだ学生だった頃、日曜日にちょっとした用事がありまして、教会に欠席の連絡をいたしました。牧師夫人に「ごめんなさい。お休みします。」すると「私に謝る必要はないですよ。もし謝るならイエス様に謝ってください。」と予期しない胸を刺される返事でありました。けれど、その通りです。神の前に誠実であるとはそういうことです。私は牧師夫人に「わかりました。大丈夫ですよ。」と言ってもらいたかったのです。休むということにちょっとした罪悪感を持っていて、誰かに、それを許してほしいと思っていた。でも全ては神の前に図るのです。私の言葉は、振る舞いは、神の前に誠実だろうか。その小さな黙想が私たちを主イエスの似姿へと整えていくのです。