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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181104 第2ペテロ1:3-8 「知識には自制を、自制には忍耐を」

第2ペテロ1:3-8 「知識には自制を、自制には忍耐を」

 今、社会全体がキレやすくなっていると言います。子どもも大人も関係なく、ほんのちょっとしたことがきっかけに、キレて暴れだします。ある程度、そのようにキレていたほうが、得をすると言いましょうか、楽に生きられる。たとえ暴れてでも自分を主張したほうが良い。そういう共通の認識がどこかにあるのです。一昔前のように、耐え忍ぶということが単純に美徳とは考えられないのです。自分の気持ちに正直に生きるのが良い。我慢するのは良くない。とても耳ざわりの良い勧めがまことしやかに語られています。
 けれど、自分の気持ちに正直に生きることは果たして正しいのでしょうか。タバコやお酒、ギャンブルや性衝動、DV、あらゆる欲望に対して、私たちは自分の気持ちを優先して良いものでしょうか。聖書は感情のままに自由に振る舞ってはいけないと教えます。なぜなら、人が自分の気持ちに正直に生きることは、基本的には神に従って生きるということと相対するからです。私たちの本質は罪人である。このところを見失うと私たちの目指すべきところも、ぶれてしまいます。 
 自分の気持ちや感情に正直になるとは聞こえが良いですが、私たちの正直は罪の影響を受けています。そして、その行き着く先は滅びであることは、実は私たちも知るところです。もちろん、だから何事にも我慢しなさい、と言いたいのではありません。自分の怒りや欲望に対して、気分や感情ではなくて、理性を持って、知識によって、向き合いなさいと言いたいのです。
 ところがです。今日の聖書箇所を見ますと、知識には自制をと書かれています。今まで散々に、自制のためには知識が必要だと見てきましたのに、聖書はその逆を言うのです。知識には自制を。つまり、物事に対して怒りや感情をもってではなくて、神のことばという新しい物差しで測ることは大事ですけれど、注意しないと、その神のことばすらも私たちは自分勝手に受け止めてしまう傾向があるということです。
 都合よく受け止められた神のことばは、都合よく利用され、それはもはや私にとっての都合の良いことばでしかありません。つまり、それは何の物差しにもならないということです。私たちの怒りや欲望を鎮めるどころか、むしろその怒りや欲望を正当化とする都合の良いことばと成り下がってしまいます。相手を裁き、自分を義人とするために神のことばが悪用されるのです。知識というのはある種の力です。神のことばは相手を黙らせる切り札ともなり得ます。それだけに、この知識には、自制が必要なのです。
 さらには自制には忍耐をとあります。自制は一度きりの決断ではないということです。当たり前の話ですが、それは何度も何度も繰り返し問われる資質です。自制することは、ある意味で、不自由であり、面倒です。投げ出したくなります。けれど、私たちはそこに留まらなければならないのです。タバコやお酒を辞めるために100回自制しようと、101回目に誘惑に負ければ、それまでの苦労は水の泡となります。1000回忍耐しようと、1001回目で投げ出せば、元の木阿弥です。怒りなどの感情も、どれだけ平静を保とうと、一度怒りに身を任せれば、もう止まらない。タガが外れてしまうのです。そう考えると、これは私たちには不可能に思います。聖書は現実離れなことを言っていると思います。だからこそ、これらの資質の一切に、愛を加えなさいとペテロは言うのです。
 私たちは失敗します。気持ちに流されます。すぐに我慢できなくなる弱い者です。けれど、主はその弱さに寄り添われたお方では無かったでしょうか。忍耐とは、失敗しないということではありません。それは留まることであり、諦めないことです。自制することに諦めない。たとえ100回が無駄になろうと、たとえ1000回が白紙に戻ろうと、私たちはまた積み上げれば良いのです。