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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220403 申命記4:9-10 「継いでいく教え」

申命記4:9-10 「継いでいく教え」

 神の怒りを買って約束の地に入ることを禁じられ、荒野で留まること40年。神の民イスラエルはヨシュアとカレブとその時20歳以下であった者たち以外は、丸々代替わりをいたします。今、民は再び約束の地を目前にして、父母に問われた信仰が再び問われるのです。けれど、彼らにはエジプトでの10の奇跡も、割れた海の底を渡る驚くべき体験もありません。いえ、それどころかエジプトでの奴隷生活の経験すらありません。毎日天から降るマナとうずらを食べ、雲の柱、炎の柱は目にしますけれども、しかし、それは生まれてからずっと当たり前のように目にしてきた光景です。つまり彼らにとっては、神は日常であり、奇跡ではないのです。信仰は習慣であって、決心ではありません。様々な奇跡体験をした父母たちですら、目の前の驚異に信仰が揺らいだのです。若い世代もまた不安を覚えないはずがありません。だからこそ、主は言われます。「それらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」つまり信仰継承。これが申命記が記された目的であり、使命であります。
 さてこの使命は、イエスを信じる信仰によって神の民とされた世々の教会にも向けられた使命であります。申命記の時代の二世世代の神の民と、教会に与えられた子どもたちはとても似ています。生まれてからずっと教会に連れられて、教会の交わりの中で育くまれてきた彼らには、神様の存在はあまりにも日常で、取り立てて意識せずに認め得るものです。第一世代の信仰者は、言い方は悪いですが、神がおられることに人生を賭けた人々です。えいやと覚悟して飛び込む信仰です。けれど、二世以降の信仰者は、神がおられることは当たり前から始まるのです。彼らは大きな決断をせずとも、純粋に神の存在を信じています。けれどそれだけにその信仰が理解されない場において、彼らの戸惑いは大きいのです。自分が信じてきたものは本当に正しかったのか。私はこれはその人にとって大切な信仰の過程だと思います。親の信仰から、自分の信仰へと向き直す必要な過程です。けれど、残念なことに、この過程において、信仰から離れる人がいることも事実なのです。
 信仰の決断は、その人の責任であります。けれど同時にそれは教会の責任でもあるのです。もちろん、決断を他人任せにすることはできません。誰かの指示による決断は、いずれ、あの人が言ったから。親が言ったから。と責任転嫁の原因となってしまいます。ですから信仰の決断はその人の責任においてなされなければなりません。けれどそこに至る過程において、教会は、親は、先輩は、教えるという責任を負っています。なぜなら、主は私たちにあらかじめ教えるようにと命じておられるからです。私たちに対する神様のご計画は、私たちが救われることで終わりません。私たちが救われて、教える者となる。神は、私たちが救いを継ぐ者となるように命じておられるのです。
 では私たちは何を教えるのでしょうか。それは私たちが見た神の御業であり、聞いた御言葉であり、学んだ信仰であります。そのためには、私たちは見たこと、聞いたこと、学んだことを、振り返り、整理し、確認しなければなりません。
 しかしこれは、単に相手のためというわけではありません。高校の試験勉強をしていた頃、友人とよく英単語や歴史の年表を問題にして出し合ったりしました。記憶というのはインプットするときよりも、アウトプットするときのほうが定着すると聞いたからです。これは信仰にも当てはまることです。私たちは教える時、むしろ教わるのです。御言葉を伝えようとしたら、教えることに間違いはないかと調べたり、より伝わるように言葉を選んだり、実体験で証しできることはないかと自らの日常を振り返ったり、誰よりもその御言葉と真摯に向き合うことでしょう。その結果、誰よりも御言葉に刺され、反省し、うなだれることでしょう。伝えるべき言葉を探りながら、いったいどの口が語るのか。と申し訳ない思いでいっぱいになるでしょう。しかし同時に慰めも受ける。だからこそ主は命じられます。葛藤も喜びも全部ひっくるめて、神とともに生きるあなたを証ししなさいと命じておられるのです。教えることは学ぶことであり、成長することであり、恵みに生きることに他ならないのです。

220206 申命記6:1-9 「教会の務め」

申命記6:1-9 「教会の務め」

 教会の使命の一つは教育であります。と言っても、算数を教える。国語を教える。という教育ではもちろんありません。人としてどのように生きていくか。どうすれば誇り高く、自信を持って生きていけるかということであります。どうやって自分を肯定するかと言い換えても構いません。これは学校教育ではなかなか教えてくれることではありません。
 学校で教えるそれは教会とは全く別ものです。いえ、学校だけに留まりません。それは社会の教えであり、人生の教えも同じです。つまりそれは相対的価値観によって自分が決まるという教えです。他人と比べて何かで勝っている者は、誇り高く自信を持って生きていける。けれど他人と比べて劣っている者は、その人の存在する価値が乏しいという教えです。本当に嫌になりますけれど、これがこの世界の価値基準なのです。私たちの生きている世界は競争の強いられる世界です。人より頭が良いとか、運動が出来るとか。誰かと比べて優れたところをもってその人の価値が評価される。これが私たちの置かれている世界です。けれどそれは本当なのでしょうか。では勉強が苦手な人。運動神経が無い人。歌が下手で特技も無い。取り立てて面白くもないし、人が振り返るようなかっこ良さもない。財力もない。そういう人には価値がないのでしょうか。実は世の価値観で言えばそうなのです。命の価値には順位がある。そういう結論になってしまいます。
 教会が持つ教育の使命、子どもたちに伝えるべきこととは、教理とか、信仰とか、もちろん色々ありますが、何よりもまずこの間違った価値観を正すということにあるのです。あなたの価値は他人と比べて測れるようなものじゃないよと。あなたが人よりできるから、あなたが大事なのではないよと。そのように語ることから始まるのです。
 冬季オリンピックが始まりました。早くも日本人選手の活躍が大々的に報道されています。あそこにいる人たちは他人との競争に勝ち抜いてあの場に立っています。それは評価されるべきことであり、称賛されるべきじゃないか。とおっしゃるでしょうか。それはそのとおりです。彼らの努力は評価されるべきです。彼らの生き方は称賛されるべきです。けれど、それは努力の価値ではあるけれど、命の価値ではありません。私は彼らをとても誇りに思いますが、あの人達だけが素晴らしいというわけではありません。競争に勝った人が価値ありと言うなら、老いを重ねるほどに価値を失うということでしょうか。誰かの役に立つから存在する意味があるんだと言うなら、泣くしかできない赤ん坊には価値がないということでしょうか。競技という一面、労働という一面ではそうかもしれませんが、それはほんの一面でしかありません。命の価値とはもっと根本的なところにあります。それは創造主なる神と被造物である私たちとの関係の中で見出すことが出来るものです。
 イザヤ43:4aには「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。神様の目には、私たちは宝物として映っていると言います。他の誰が何と言おうと、あなた自信があなたを愛せなくとも、わたしはあなたを愛していると言います。なぜでしょうか。イザヤ43:7に「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(新改訳第3版)とあります。それはこのお方が私たちをお造りになったお方だからだと言うのです。私たちに命を吹き込まれたお方だからです。つまり神様が私たちを愛される理由。私たちを評価される理由は、私たちにあるのではなくて、神様の内に一方的にあるんだとおっしゃるのです。
 私たちが私たち自身を愛せない理由は何でしょうか。誰かと比べて劣っているからでしょうか。理想通りにいられない現実があるからでしょうか。けれど、それは神が私たちを愛さない理由とはなりません。神は私を必要としている。神は私を大切でいてくださる。神のよって造られた事実がそれを物語っています。今、生かされてあるということに意味があります。この神様の愛は、何によっても打ち消されることはありません。
 申命記6章は子どもたちに信仰を継承しなさい。と教えています。いつでも、どこでも、何度でも。それほどまでに世の価値観が彼らを取り巻いているからです。勝ち負けで評価する世の声があります。役に立つ者だけがもてはやされ、役に立たない者は必要がないと切り捨てるこの世の声があります。それはもう浴びるように降り注いでいます。だからこそ、座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も。世の声を上塗りするほどに、何度でも、どこででも、私たちは主の愛を語り続けなければならないのです。