申命記4:9-10 「継いでいく教え」
神の怒りを買って約束の地に入ることを禁じられ、荒野で留まること40年。神の民イスラエルはヨシュアとカレブとその時20歳以下であった者たち以外は、丸々代替わりをいたします。今、民は再び約束の地を目前にして、父母に問われた信仰が再び問われるのです。けれど、彼らにはエジプトでの10の奇跡も、割れた海の底を渡る驚くべき体験もありません。いえ、それどころかエジプトでの奴隷生活の経験すらありません。毎日天から降るマナとうずらを食べ、雲の柱、炎の柱は目にしますけれども、しかし、それは生まれてからずっと当たり前のように目にしてきた光景です。つまり彼らにとっては、神は日常であり、奇跡ではないのです。信仰は習慣であって、決心ではありません。様々な奇跡体験をした父母たちですら、目の前の驚異に信仰が揺らいだのです。若い世代もまた不安を覚えないはずがありません。だからこそ、主は言われます。「それらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」つまり信仰継承。これが申命記が記された目的であり、使命であります。
さてこの使命は、イエスを信じる信仰によって神の民とされた世々の教会にも向けられた使命であります。申命記の時代の二世世代の神の民と、教会に与えられた子どもたちはとても似ています。生まれてからずっと教会に連れられて、教会の交わりの中で育くまれてきた彼らには、神様の存在はあまりにも日常で、取り立てて意識せずに認め得るものです。第一世代の信仰者は、言い方は悪いですが、神がおられることに人生を賭けた人々です。えいやと覚悟して飛び込む信仰です。けれど、二世以降の信仰者は、神がおられることは当たり前から始まるのです。彼らは大きな決断をせずとも、純粋に神の存在を信じています。けれどそれだけにその信仰が理解されない場において、彼らの戸惑いは大きいのです。自分が信じてきたものは本当に正しかったのか。私はこれはその人にとって大切な信仰の過程だと思います。親の信仰から、自分の信仰へと向き直す必要な過程です。けれど、残念なことに、この過程において、信仰から離れる人がいることも事実なのです。
信仰の決断は、その人の責任であります。けれど同時にそれは教会の責任でもあるのです。もちろん、決断を他人任せにすることはできません。誰かの指示による決断は、いずれ、あの人が言ったから。親が言ったから。と責任転嫁の原因となってしまいます。ですから信仰の決断はその人の責任においてなされなければなりません。けれどそこに至る過程において、教会は、親は、先輩は、教えるという責任を負っています。なぜなら、主は私たちにあらかじめ教えるようにと命じておられるからです。私たちに対する神様のご計画は、私たちが救われることで終わりません。私たちが救われて、教える者となる。神は、私たちが救いを継ぐ者となるように命じておられるのです。
では私たちは何を教えるのでしょうか。それは私たちが見た神の御業であり、聞いた御言葉であり、学んだ信仰であります。そのためには、私たちは見たこと、聞いたこと、学んだことを、振り返り、整理し、確認しなければなりません。
しかしこれは、単に相手のためというわけではありません。高校の試験勉強をしていた頃、友人とよく英単語や歴史の年表を問題にして出し合ったりしました。記憶というのはインプットするときよりも、アウトプットするときのほうが定着すると聞いたからです。これは信仰にも当てはまることです。私たちは教える時、むしろ教わるのです。御言葉を伝えようとしたら、教えることに間違いはないかと調べたり、より伝わるように言葉を選んだり、実体験で証しできることはないかと自らの日常を振り返ったり、誰よりもその御言葉と真摯に向き合うことでしょう。その結果、誰よりも御言葉に刺され、反省し、うなだれることでしょう。伝えるべき言葉を探りながら、いったいどの口が語るのか。と申し訳ない思いでいっぱいになるでしょう。しかし同時に慰めも受ける。だからこそ主は命じられます。葛藤も喜びも全部ひっくるめて、神とともに生きるあなたを証ししなさいと命じておられるのです。教えることは学ぶことであり、成長することであり、恵みに生きることに他ならないのです。
神の怒りを買って約束の地に入ることを禁じられ、荒野で留まること40年。神の民イスラエルはヨシュアとカレブとその時20歳以下であった者たち以外は、丸々代替わりをいたします。今、民は再び約束の地を目前にして、父母に問われた信仰が再び問われるのです。けれど、彼らにはエジプトでの10の奇跡も、割れた海の底を渡る驚くべき体験もありません。いえ、それどころかエジプトでの奴隷生活の経験すらありません。毎日天から降るマナとうずらを食べ、雲の柱、炎の柱は目にしますけれども、しかし、それは生まれてからずっと当たり前のように目にしてきた光景です。つまり彼らにとっては、神は日常であり、奇跡ではないのです。信仰は習慣であって、決心ではありません。様々な奇跡体験をした父母たちですら、目の前の驚異に信仰が揺らいだのです。若い世代もまた不安を覚えないはずがありません。だからこそ、主は言われます。「それらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」つまり信仰継承。これが申命記が記された目的であり、使命であります。
さてこの使命は、イエスを信じる信仰によって神の民とされた世々の教会にも向けられた使命であります。申命記の時代の二世世代の神の民と、教会に与えられた子どもたちはとても似ています。生まれてからずっと教会に連れられて、教会の交わりの中で育くまれてきた彼らには、神様の存在はあまりにも日常で、取り立てて意識せずに認め得るものです。第一世代の信仰者は、言い方は悪いですが、神がおられることに人生を賭けた人々です。えいやと覚悟して飛び込む信仰です。けれど、二世以降の信仰者は、神がおられることは当たり前から始まるのです。彼らは大きな決断をせずとも、純粋に神の存在を信じています。けれどそれだけにその信仰が理解されない場において、彼らの戸惑いは大きいのです。自分が信じてきたものは本当に正しかったのか。私はこれはその人にとって大切な信仰の過程だと思います。親の信仰から、自分の信仰へと向き直す必要な過程です。けれど、残念なことに、この過程において、信仰から離れる人がいることも事実なのです。
信仰の決断は、その人の責任であります。けれど同時にそれは教会の責任でもあるのです。もちろん、決断を他人任せにすることはできません。誰かの指示による決断は、いずれ、あの人が言ったから。親が言ったから。と責任転嫁の原因となってしまいます。ですから信仰の決断はその人の責任においてなされなければなりません。けれどそこに至る過程において、教会は、親は、先輩は、教えるという責任を負っています。なぜなら、主は私たちにあらかじめ教えるようにと命じておられるからです。私たちに対する神様のご計画は、私たちが救われることで終わりません。私たちが救われて、教える者となる。神は、私たちが救いを継ぐ者となるように命じておられるのです。
では私たちは何を教えるのでしょうか。それは私たちが見た神の御業であり、聞いた御言葉であり、学んだ信仰であります。そのためには、私たちは見たこと、聞いたこと、学んだことを、振り返り、整理し、確認しなければなりません。
しかしこれは、単に相手のためというわけではありません。高校の試験勉強をしていた頃、友人とよく英単語や歴史の年表を問題にして出し合ったりしました。記憶というのはインプットするときよりも、アウトプットするときのほうが定着すると聞いたからです。これは信仰にも当てはまることです。私たちは教える時、むしろ教わるのです。御言葉を伝えようとしたら、教えることに間違いはないかと調べたり、より伝わるように言葉を選んだり、実体験で証しできることはないかと自らの日常を振り返ったり、誰よりもその御言葉と真摯に向き合うことでしょう。その結果、誰よりも御言葉に刺され、反省し、うなだれることでしょう。伝えるべき言葉を探りながら、いったいどの口が語るのか。と申し訳ない思いでいっぱいになるでしょう。しかし同時に慰めも受ける。だからこそ主は命じられます。葛藤も喜びも全部ひっくるめて、神とともに生きるあなたを証ししなさいと命じておられるのです。教えることは学ぶことであり、成長することであり、恵みに生きることに他ならないのです。