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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200315 ハイデルベルク信仰問答 問123

Ⅱペテロ3:9-10 「御国を来たらせたまえ」

 前回の「御名をあがめさせたまえ」に続く2番目の祈り。それがこの「御国を来たらせたまえ」です。この祈りの前提にはもちろん、やがて御国、すなわち神の国が完成するという神様のご計画があり、しかしながら、今はまだその時が至っていないのだという理解があります。つまり、私たちはこの神の国の完成を前にした終末のときを生きているということです。この理解の下に「どうぞ神の国を完成させて下さい。地上の世界を、神の国として相応しいものへと作り変えて下さい。」という祈りを私たちはささげるのです。
 私たちはときに思います。なぜ世界はこんなにも悲惨で満ちているのだろうと。世界の各地では、今も尚、紛争が続き、大勢の命が奪われています。新種の病気や、地震などの災害。また盗みや殺人、個別の犯罪は至るところで起こっています。神様がおられるのなら、このような世界であるのはおかしいじゃないか。と、思わなくもありません。なぜなら、この世界は神の国に対するイメージとのあまりにも大きなギャップがあるからです。私たちは神の国はこんなものではないと知っているのです。神の国について、ヨハネの黙示録はもはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。と言っています(黙示録21:3-4)。そのような世界を心から願います。しかし、どうでしょうか。私たちの住むこの世界は、とてもそのような世界ではありません。
 けれど、これは当然のことかもしれません。なぜなら、私たちが今いるのは完成した神の国ではないからです。確かにイエス様によって救いの扉は開かれました。神の国は到来した。しかし、未だ完成していない途上にあるというのがこの世界なのです。ですから信仰者はこの地上で生きることに、色々な葛藤を覚えるのです。信仰が理解されず、価値観が受け入れられず、神に祈ることですら窮屈で不自由な思いをするのです。けれど、そのような葛藤は、いつまでも続かない。神の国はイエス様が再びやって来られるとき完成いたします。ですから私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。完成する神の国にはこれ以上ない希望が確かにあるからです。地上を支配するサタンは討ち滅ぼされて、そこには一切の罪の解決があり、永遠の神と共に過ごす穏やかな日々が約束されているのです。この祈りは私たちの心を地上の一切のしがらみから解き放ち、天上の祝福へと向かわせる道しるべとなる祈りなのです。
 この祈りは私たちの切なる願いです。イエス様が今日にでも来てくだされば、私たちの葛藤は無くなるのです。誘惑に迷うたびに、罪に後ろめたさを覚えるたびに、そして、この世の悪が蔓延るたびに私たちは思います。イエス様さえ来てくだされば・・・。しかしです。主は来てくださらないのです。これは2000年間、キリスト者が願いに願ってそれでも聞かれない祈りなのです。では御国は来ていないのか?そうではありません。御国は一人ひとりのキリスト者によって広げられるのです。
 神の国とは何か。「声なき者の友」の輪の神田英輔師は、それは神の主権の及ぶところだとおっしゃっいました。それはつまり世にあってキリスト者が影響するところと言い換えることが出来るでしょう。私たちが世に影響する。愛を持って関わる。そこに神の主権が及んでいくのです。イエス様が来られればそれは一瞬にして完成します。けれど、主は敢えてそうはされていないのです。第Ⅱペテロ3:9-10を見ると、それは主が猶予されているからだと言います。忍耐されておられるのだと。なぜなら主の再臨による神の国の完成とは、言い換えると、救いと滅びが確定するときでもあるからです。「御国がきますように」とは主の最終的なさばきの到来を願うことでもあるのです。けれど、主は私たち人間が悔い改めて、永遠のいのちを得ることを望んでおられます。主は待っておられる。だから主がこの祈りを実現されないとすれば、それは憐れみに他ならないのです。
 果たして私たちは「御国が来ますように」と躊躇なく祈ることができるでしょうか。神の国の完成は私たちの願うところです。けれど、救いと滅びが確定するというならば、「神様、ちょっと待ってください」とはならないでしょうか。明日主が再臨されるとしたら、私たちに思い残しはないでしょうか。私たちは主の福音を宣べ伝えなければなりません。それは私たちが愛するその人の滅びに後悔しないためにです。主は人々の悔い改めを待っておられます。そのために私たちが動くことを待っておられるのです。

200308 ハイデルベルク信仰問答 問122

詩篇115:1 「み名をあがめさせたまえ」

 「天におられる父なる神よ」という呼びかけに続いて、いよいよ祈りの部分が始まります。前半に3つ。後半に3つ。それぞれ、父なる神についての祈りと祈る私たちのための祈りです。この両方の祈りがバランスよくあることが大事です。イエス様はこのどちらも祈りなさいと言っておられます。考えてみますと、私たちは常日頃祈るときに、後者の祈りが多いのではないのかと思います。「こうして下さい」「ああして下さい」と自らの必要を祈ることが常でないかと思います。確かに、何を祈っても良いのです。父なる神様は、子を愛しく思い、心配し、最善をなしてくださるお方です。私たちが思うところを祈ることを喜んでおられます。しかし、イエス様はその前に祈ることがあると言っておられる。それが、この前半の3つの祈り。「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
 ハイデルベルク信仰問答は「み名をあがめさせたまえ」という願いに2つの意味が含まれていることを指摘しています。一つは、私たちが主の御名を正しくあがめ賛美できるようにということ。そしてもう一つは、私たちを通して主の御名があがめられ賛美されるようにということです。
 祈りにおいて、私たちがまず主の御名をあがめることが大切です。あがめるとは、もともと「聖とする」という意味の言葉です。そして「聖」とは「分離する」とか「切り離す」という意味の言葉です。旧約の時代、祭司は羊の群れの中から傷のない一番立派な子羊を取り出し、神にささげました。神に相応しくないものを切り離して、特別な相応しいものだけを選び取る。これが「聖」とするということ。ですから「神の御名を聖とする」とは、神様を他のあらゆるもの、相応しくないものから区別し、この方こそ特別の存在であることを認めて、褒め称えるということ。すなわち「父なる神様。あなただけがこの世界で唯お一人の神であられますように」という祈りです。
 なぜ、このように祈るのかと言いますと、そこには、神の御名が聖とされていない、つまり神の存在が特別ではない現実があるからです。この世の中には神々が氾濫しています。人の数だけ神がいると言っても過言ではありません。自分が望む神。自分に都合が良い神を皆が抱いています。そんな中にあって、人々はこの真の神の特別さを理解することが出来ないでいるのです。この真の神はオリジナルの神です。「わたしはある」と言われた、他者に依存しない唯一の神です。神によって作られた人間は本能的に神との関係を求めますが、人間は罪のゆえに神から引き離されたために、真の神を崇めることができません。それゆえ、人々は好き勝手に神のコピーを思い描き、間違った礼拝を捧げるのです。人が真の神を崇めるためには、神がご自身を明らかにして下さらない限り不可能です。ですから「御名をあがめさせたまえ」です。「私にご自身を明らかにして下さった父なる神様、どうぞあなたが全てのものを創造された唯一真の神であることを人々にも知らせ、皆があなたの尊いお名前を褒め讃えるようにさせて下さい」。この祈りは神のご栄光を讃えると共に、未だ神を知らない人々を覚えてのとりなしの祈りでもあるのです。
 人々が主の御名をあがめて賛美するように。しかしハイデルベルク信仰問答は、この祈りは単なるとりなしには終わらないと言います。この祈りは、神様に丸投げの「どうぞ明日起きたら願いが適っていますように」と言った、責任を委託する祈りではありません。それは具体的な応答の生き方へと私たちを導く祈りです。私たちがもしその行いにおいて不誠実であるなら、人々は私たちを見て、私たちではなくて、神に失望してしまうことでしょう。もしそのようなことになれば、私たちは神の御名を褒め讃えながら、実際には神の御名を汚してしまうことになるのです。ですから、この祈りは「こんなにも不誠実でどうしようもない私ですけれども、どうぞこの土の器をも用いて、主の御名が崇められますように」という決意の祈りでもあるのです。

200301 ハイデルベルク信仰問答問 問120-121

マタイ7:9-11 「天の父なる神」

 主の祈りは、神への呼びかけから始まります。この祈りは、他の誰でもない、この天の父に向けて祈りますよ。という区別であり、呼びかけをもって祈り始めなさいと命じておられるのです。神さまは唯一のお方なんだから、区別する必要があるのか?と思われるかもしれません。他の神々が並び立つのなら、どの神かと区別する必要があるわけですが、神は唯一なのだから、神さまと一言呼べばそれで良いんじゃないかとです。けれど、そうであっても、私たちがこの神をどのように理解しているかということは、やはり問われてきます。お寺で賽銭を入れて必死に願掛けをします。「受験の神様どうぞ試験に合格しますように。」神さまは唯一で、それ以外の神々は偽物で、実在しないのですから、じゃあこの祈りはまことの神に届けられているとなるでしょうか。それはやっぱりなりません。私たちが別の神々を意識して、その名によって祈るなら、それがどんなに実在しなくても、それはその神々を選び取っているのです。一つのものを選ぶということはその他を選ばないということです。まことの神を選ばない。まことの神に祈らないということです。ですから、イエス様は、正しく認識し、正しく呼びかけて祈ることをまず教えられるのです。
 イエス様は「天にまします我らの父よ。」と呼びかけるよう教えてくださいました。実はこれはとんでもないことです。なぜなら私たちは被造物であって、創造主なる神を、決して「父よ」と軽々しく呼ぶことなどできない存在だからです。私たちは神に創造され、神を裏切った存在です。神に従って生きることを良しとせず、自分の思いのままに生きようとする、罪を持った存在です。それゆえ、神はその聖さのゆえに、私たちを滅ぼされるのです。私たちは神に赦しを請うべき者ではあっても、父よと軽々しく呼べるような者ではありません。それなのに、イエス様はそんな立場を超えた呼びかけで、祈り始めることを勧められます。これはつまり、主イエスの購いの御業のゆえに、私たちの罪は赦され神の子とされる特権に与った、という約束を前提にして、あなたがたは神の子どもとして祈りなさいと教えておられるのです。
 私たちの神が単なる神ではなくて、父なる存在であるということはとても意味のあることです。それは全能の神が裁きの目ではなくて、親しみを込めて私たちと関わって下さるということを意味しているからです。親が子の成長に関心を寄せ、見守るように、父なる神は、私たちに関心を持っておられる。ですから私たちはどのような時も神の最善を期待して祈ることができるのです。時々、祈っても聞かれないと嘆かれる方がおられます。本当に神は実在するのかと。しかし、私たちが祈ったとおりに物事が進むことが、神の存在証明ではありません。子どもが毎日チョコレートばかり欲しがるとしたら、親はその結果どうなるか想像がつきますから、子どもの手の届かないところに隠してしまうでしょう。これは親が子の願いを聞いていないのではありません。子にとってより最善となるように親が判断しているのです。私たちは、祈ったことが聞かれているかどうかと、気にする必要はありません。神は聞かれているからです。神は全てをご存知で、その上で、私たちにとっての最善を成して下さるのです。祈っても祈らなくても結局のところ、神はみこころのとおりをされるのだったら、私たちが祈っても仕方がないのではないかと思われるでしょうか。しかし、そうではありません。確かに親はたとえ子が何も言わなくても子にとっての最善を用意することができます。しかし、だから子が思っていることを何も話さず、ただ黙っていることを望んでいるわけではありません。親は、子が何を考え、何を求めているのか、何を感じているかを聞きたいものです。確かに祈らなくても、神は私たちの最善を知っておられます。しかし、それでも神は私たちの願い思いを、私たちの口から直接聞くことを喜ばれるのです。神は私たちの祈りを待っておられる。そしてその願いに応えたいと思っておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの祈りの土台は神に対する子どものような畏れと信頼だと教えています。畏れと信頼。神の前に出ることへの罪人としての本能的畏れ。それはつまり被造物である自分と創造主なる神との正しい距離間、正しい立ち位置を理解すること。そして主イエスの贖いのゆえに神の子とされたことへの信頼を持つこと。これが祈りの前提としてあって、初めて呼びかけることができる「天にいます私たちの父よ。」なのです。ですから私たちは何気なく「天の父なる神さま」と祈りますが、しかし、これは決して当たり前のことではなくて、主イエスの購いによって勝ち取られた特別の権利であるということを理解し、感謝して祈りたいと思うのです。

200223 ハイデルベルク信仰問答 問116~119

Ⅰテサロニケ5:16-18 「みこころに適う祈り、適わぬ祈り」

 創造主なる神を知り、神の前に罪を犯した己を知り、その己のために自ら犠牲となって和解をもたらされた主イエスを知る。この過程を正しく辿らなければ、私たちの人生に揺るぎない感謝は生まれません。逆に言いますと、私たちがこの救いの過程を正しく理解する時、私たちは日常生活の様々な事柄とは別に、私たちには感謝が生まれるのです。今日嫌なことがあった。けんかをした。悪口を言われた。仕事で失敗した。そういう日常の出来事に、私たちはいつも喜ぶことなど到底できません。絶えず祈れと言われても、祈れないことも沢山あるし、祈りたくないときもある。けれど、そういう日常を超えて、私たちが神のご計画に目を向けるとき、今日と言う日が如何に失敗続きでも、喜べないことがあろうとも、やはり私たちには意味のない日々はなくて、全てを通して今に至ること、そして今を通して神のご計画がなることを知るのです。私と言う存在を、今日の出来事の良し悪しを通して図るのではなくて、神のご計画の中で捉えていけるようになるのです。もちろんだから全てOKとは、なかなかいかないんですけれども、それでも、私たちにはそういう私たちの側の影響を受けない、一方的な恵みに基づく感謝があるということは、なんと慰めであろうかと思うのです。神はそういう感謝に気付いて欲しいと思っておられるし、そういう感謝に基づいた祈りがキリスト者には必要なんだと、主イエスは教えておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答117問は、「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。」とあります。その答を要約しますと、まことの神に向けられた、神のみこころに沿う祈りであること。神の威厳の前にへりくだった祈りであること。そして、この祈りがただ主キリストの贖いの御業ゆえに聞き入れられると、確信を持って祈ることです。そのような祈りは神に喜ばれ、聞いていただけると言います。そしてそれらを適切に求める祈りの例として、これから「主の祈り」をご一緒に学んでいきましょうと言うわけです。
 さて主の祈りを具体的に学ぶ前に、主がこの祈りを教えられる背景に、当時の人々の間違った祈りがあったことは確認しておくべきでしょう。それは偽善者のような祈りや、異邦人のような祈りです。マタイ6:5では「祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」とあります。イエス様はここで、祈りが神に向けられず周りにいる人々の反応に向けられていることを指摘しています。当時の律法学者たちは、好んで会堂や大通りの角に立って祈りました。自分の信仰の熱心さを人々にアピールするためにです。彼らの祈りは聴衆こそ必要ではあるけれど、神を必要としていません。神を意識せず、聴衆を意識する。いえ、聴衆からの自分の評価を意識する。イエス様は彼らを偽善者と呼びました。偽善者の祈り。しかしこれは、ともすれば私たちも同じではないでしょうか。「こんな風に祈ったら、もっと熱心に聞こえるんじゃないだろうか。」「こんな祈りをしていたら、不信仰と批判されるんじゃないだろうか。」祈ることで自分が他の人にどのように評価されるかばかりが気になるのです。果たして私たちの祈りは誰に向けられているだろうかと問わなければなりません。
 もう一つイエス様が挙げておられるのは、異邦人のような祈りです。マタイ6:7には「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」とあります。これは別に同じ課題を何度も祈ってはいけないと言うことではありません。問題は彼らが、ことば数が多いことで聞かれると思っていることです。多くの宗教では、祈りの長さや、回数や、熱心さで、祈りが聞かれると考えています。けれど、祈りが聞かれるかどうかは、その祈りが神のみこころに適っているかによるのです。そして、一見聞かれていないように思えても、私たちの父なる神は、私たちの必要をすべてご承知で、私たちに必要な一切を備えてくださるのです。私たちの熱心さが祈りの結果をもたらすというのは、とても信仰的に聞こえますが、聖書的ではありません。私たちは祈りをもって、己の功績を誇ることもできないし、祈りをもって神の結果を強要することもできません。
 主が教えられた祈りは全くの真逆です。それは神のみこころを求める祈りです。神の望まれるこの地となるように、神の望まれるこの身となるように。この祈りの主権はあくまでも神にあるのです。ですから、私たちが主の祈りを学ぶことは、ただ単に祈り方を学ぶに留まらず、私たちの信仰の在りようそのものを学ぶことになるのです。

200216 ハイデルベルク信仰問答 問113~115

ピリピ3:12-14 「次第次第に」

 出エジプト20:17には「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」とあります。またヤコブ1:15には「そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」ともあります。あらゆる罪の原因となるもの、それが欲望であると言うのです。殺すことにせよ、姦淫することにせよ、盗むことにせよ、それらを突き詰めていくと、全てこの第10戒に行き着きます。第10戒が取り上げる欲望とは、罪の内面的動機に他ならないからです。
 ですから、これは今までの戒めと比べましても、格段に厳しい戒めと言えるかと思います。これまでの戒めは、聞く人によっては、何ら心探られることのない戒めです。私は盗んでない。殺してもいない。ところが、この第10戒まで来て、もはや誰も言い逃れることができません。自らの内にある罪と向き合わざるを得なくなるのです。
 隣人の家を欲しがるとは、そこに自分の家との違いに目を向けるということです。自分の家には無いものを見つける。そして自分は足りないと思う。そしてやがては自分が不当な扱いを受けているようにすら思えてくるのです。お隣の○○ちゃん、△△大学に受かったみたいよ。斜向かいの□□さんは部長に昇進したんですって。こういう話は私たちもよくしがちです。しかし、その裏には「それに比べてうちなんて」という恨み言や、「なんであの人ばっかりいい思いをして」というやっかみが私たちを捕らえているのです。これが問題です。素直に喜べないのです。喜びを共有できないのです。どこかで、比べてしまうのです。それは現状に対する不満があるからです。そして、それらは、多くの場合、与えられている恵みをきちんと把握していないことに原因があるのです。
 この第10戒は私たちの罪の動機となる、隣人への妬みややっかみといった問題をとりあげています。それは私たちの心の問題です。私たちが隣人とどのような思いで接しているかを問うています。この問題の厄介なところは、突き詰めていくと、この戒めを完全に守ることなどできないという結論に行き着いてしまうことです。戒めを守ろうとすればするほど、私たちは自身の至らなさと向き合うことになるのです。これは正直辛いことです。イエス様は実際に姦淫しなくても、心の中で情欲を抱いているなら姦淫を犯しているのと同じだと言われました。つまり、全ての戒めには、この第10戒が問われると言うことです。しかし、私たちの内面が問われるとすれば、果たして誰がこの戒めを守ることができるのでしょう。
 守れません。もちろん、だから仕方がないと開き直るわけではありません。できないと知ること。知った上で、尚も、この戒めに向き合うこと。私たちが神の戒めにどう向き合うかが問われているのです。
 そもそも神は、この戒めを通して私たちに何を求めておられるのでしょうか。私たちが神のごとく完璧に振る舞うことでしょうか。そうではありません。私たちがあらゆることにおいて、神に寄り頼み、神の恵みの内に生きるということです。それは、私たちが再び神にとって代わり、己を神として生きないということです。神は、ご自身の民として決意するイスラエルに向けて戒めを提示します。それは人に被造物である身の丈を思い知らせる戒めです。そして、それゆえに、神の憐みを恋い慕う者とされるのです。私たちは神の戒めに向き合うほどに、自らが神ならぬ身であることを知ります。神の聖さに至らない我が身を知ります。それゆえ、キリストにある罪の赦しと義の恵みに目を向ける者とされます。聖霊の助けをいただかなければ、罪に立ち向かえない者であることを知るのです。
 私たちの信仰生活は一向に変わらない罪の性質に嫌気がする毎日です。けれど、それは私たちが次第次第に変えられている証拠です。それは神のみこころに沿いたいと願う、私たちの想いの故なのです。神の戒めなど無視して、開き直って生きることもできます。その日その日楽しいことで誤魔化して生きることもできるでしょう。けれど、私たちは今日、神の御言葉に聞こうではありませんか。私たちのゴールは、やがて神になることではありません。やがて主のみこころと心一つにされることだからです。