詩篇115:1、Ⅱコリント1:20 「神の約束は全て然り」
第128問
【問】あなたはこの祈りを、どのように結びますか。
【答】「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」というようにです。すなわち、わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたこそわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、またそれがおできになるからであり、そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に讃美されるためなのです。
第129問
【問】「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
【答】「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心のなかで感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
主の祈りの最後は頌栄で結ばれます。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」ところが、イエス様が主の祈りを教えられたときにはこの部分はありませんでした。けれど世々の教会は祈りの終わりに頌栄を加えて祈るようになりました。それはこの頌栄が祈りの行き着くところ。祈る者の自然な応答を表しているからです。
「日毎の糧を与えてください。私たちの負い目をお赦しください。こころみにあわせず、悪より救い出してください。」それはその前提として、神は私たちの一切の必要を備えてくださるお方であり、神は罪を罰し、また赦す権威を持たれるお方であり、神は悪魔をもひれ伏させる権威あるお方である。という信頼をもとにして祈るのです。逆に言いますと、それ以外は何もいりません。私たちの祈りが聞かれる根拠は私たちの祈りの流暢さにあるのではありません。祈りに掛けた時間でも祈りの質ですらもない。ただ、この祈りを聞かれるお方が、全てを統べ治めておられる国と力と栄えのまことの権威者。王の王たるお方だということにあるのです。
さて、主の祈りの最後。いえ、全ての祈りの結び。それは「アーメン」です。アーメンというのはヘブル語で「本当に」とか「確実に」という意味の言葉です。今祈りましたことは全て私のまごころからの祈りです。という告白の「アーメン」。しかし、それだけではありません。さきほどの頌栄でも見たように、私のこの祈りが本当であり確実なのは、この祈りを聞いておられるのが他ならぬ全能の神であるからです。私が真実なる祈りをささげましたという以上に、真実なる神によって聞かれているということに、この祈りの確かさがある。今祈りました祈りの全ては主にあって本当となります。実は私たちは祈る度にこの「アーメン」という言葉を持って信仰告白をしているのです。
もちろんこれは主の祈りだけに当てはまることではありません。全ての祈りの最後がこのアーメンで締められているのは、祈りが私たちの内の真実に拠らないことを意味しています。私たちの内に真実はありません。本来なら聖なる神に祈ることすらおこがましい存在であるのが私たちです。ですから、私たちは祈るとき、これを執り成して下さった方のお名前によって祈るのです。私たちは祈ることすらも許されない者。しかし、私たちの代わりに私たちを執り成して下さった方がおられる。ご自身の命を差し出して私たちの負債を肩代わりして下さった方がおられる。それが神のひとり子イエス・キリストです。
「イエス・キリストのお名前によってお祈りします。」と私たちは祈ります。この方の名前を出すことは、負債が支払われたときの領収書を出すようなものです。もう私たちには負債は支払い済みですから、どうぞ今あなたの御前に祈ることをお赦しください。という意味なのです。主の祈りではイエス様のお名前で祈るようにとは言われていません。当然です。主の祈りは主ご自身の祈りなのですから、あえてそのような祈りをする必要がなかったのです。けれど私たちは違います。私たちはイエス様の名を出さなければならないのです。主の執り成しがあるゆえに、私たちは祈ることができるのです。そして、これを聞いて下さるのが他ならぬ神様であるゆえに祈ることができるのです。私たちの何かに依存しない祈りの確実さ。これが私たちの祈りを可能にしているのです。
ですから私たちは祈るたびに思い返したいものです。この祈りを可能にしているイエス・キリストの尊い犠牲があることを。そして、これを聞いて下さる方は何にも変えられない真実なお方であること。そうすれば私たちは祈るたびに謙遜にされ、感謝を増し加えることとなるのです。
十戒と主の祈りはこの神に感謝すべき私たちの今を整え導くものです。たかがアーメン一つに私たちは主の贖いと神の愛を見ることができるのです。情報も価値観も正義すらもが氾濫する時代です。都合の悪い基準は根本から変えてしまおうというのが、今の世の中です。しかし、それは結局長いものに巻かれる生き方。多数に紛れることを良しとする忖度の生き方。そのような生き方に真の平安はありません。私たちは変わらないものに目を向けて、この時代の波を乗り越えて行かなければなりません。十戒という普遍的な基準を胸に、今日も主の祈りに支えられながら、変わるところのない十字架と復活の恵みに目を留めて歩んでまいりましょう。
※尚、当ブログのハイデルベルク信仰問答は吉田隆訳を用いた。

ローマ8:12-17 「悪より救い出したまえ」
第127問
【問】第六の願いは何ですか。
【答】「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
すなわち、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上、わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。
先日、ネットニュースを読んでおりましたら、最近の日本語には敬語が4種類あるというニュースがありました。尊敬語、謙遜語、丁寧語。そして4つ目は卑屈語だと言うのです。「ご確認いただければ幸いと存じますがいかがでしょうか」と言ったように、必要以上な敬語を幾つも重ねて用いる言葉のことを記者は「卑屈語」と呼んでいます。そして卑屈語は相手に対する尊敬でも、謙遜でも、丁寧でもなく、「保身」の気持ちから生み出されていると指摘します。つまり「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」の気持ちが、日本語を歪め、卑屈にしているのだと言うのです。なるほどと思いました。私はそれが全て悪いとまでは思いませんが、しかし、その言葉の根底にあるものが「保身」であるとすれば、それはやはり敬語とは言えないと思いました。
このことは言葉だけの話ではありません。実は私たちの生き方、性格、あらゆる人間関係にも蔓延しているように思うのです。つまり、私たちの職場や学校や家庭において「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」気持ちが、その人を必要以上に卑屈にならせているということです。あらかじめ相手に期待させないように振る舞うことで、敵意や競争心の対象から外れようとしたり、相手を幻滅させないようにするのです。だから必要以上に自分を卑下します。けれど、そのような振る舞いは往々にして相手に「卑屈」として映るのです。そして余計に関係をこじらせていく。実はそういう人が増えている。それはつまり自分自身を肯定して見れない、自分に対する自信の無さから来ることです。そして、それは信仰においても同じ事が言えるのではないかと、こう思うわけです。つまり神に対して嫌われたくないという保身が、どうせ私なんてという卑屈に繋がっているという話です。
ある時、会堂で教えられるイエス様の前に一人の女性が連れて来られます。それは姦淫の現場を取り押さえられた女性でした。人々はイエス様にこの女性の裁きを委ね、イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と命じて、結果、彼女を救うのです。イエス様は彼女に言います。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」罪の赦しの後に、イエス様は罪を犯してはなりません。と命じられるのです。さて、この女性はこの後一切の罪を犯さずに過ごしたのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。というか、できません。私たちは神と真摯に向き合うほどに自らの罪に気付かされるからです。ですから、このイエス様の言葉は「もう次はありませんよ。今度罪を犯したら赦しませんよ」という意味ではありません。今までは罪と向き合うことをせず、自分の中で色んな言い訳をしてきたかもしれない。けれど、これからは罪と真摯に向き合って、戦って、犯さないように努力しなさいよ。どうせ神に罰せられると開き直らないで、卑屈にならないで、神の期待に応えられるように励んでくださいね。と、こういう意味であったろうと思うのです。
ですから「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」とは、神の前に罪を犯さないで歩んでいきたい。神の期待に沿える者でありたい。という心からの願いの行き着くところとして、この祈りがある。そして聖霊の助けがあるならば私たちにはできるという信頼の下に、この祈りがあるのです。
「謙遜」と「卑屈」は似て非なるものです。謙遜は自分の弱さを認めて遜ることですが、卑屈は見たくない現実を避けるために、敢えて弱さに甘んじることです。罪と向き合うことを避けるために、自分は弱いから仕方ないと開き直るのです。それは神さまには全てお見通しです。罪赦された私たちはその生きる向きを変えなければなりません。これからは決して罪を犯さない。という決意の向きにです。神の期待を応えて励む。という決意の向きにです。
ローマ8:15には、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」とあります。奴隷でいることはある意味、楽な生き方です。決断しなくて良いからです。責任を負わなくて良いからです。けれど奴隷でいることは、いつ主人の怒りを買うかわからない。いつもびくびくとそのご機嫌を取らなくてはならない毎日です。神はそのような関係を求めておられません。神は私たちを子として迎えてくださったのです。それは神が私たちの父となる。父として最後まで面倒を見てくださることを意味しています。失敗をすれば正されますし、間違いを犯せば叱られます。けれど、親子の関係は切れることはありません。注意され、叱られたからと言って、自分は愛されていないと不貞腐れる必要はありません。どうせ自分なんてと卑屈になる必要はありません。神はいつまでも父であり続けられるお方です。私たちの成長を楽しみとし、見守って下さるお方なのです。
卑屈は自信の無さから来るでしょう。けれど、自信が必要なのではありません。信頼があれば良い。私たちの弱さを覆う主の愛に信頼するとき、神と共に生きることの決意が生まれるのです。
だから、私たちは祈るのです。「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」父なる神に相応しい子でありたい。心からそう願いつつ、けれど適わない自分を認めつつ。だからこそ聖霊が私を助け、導いてくださるように。成長させてくださるように。私たちが大胆に神に近づけるようにと祈ってまいりましょう。

エペソ4:32 「負い目をお赦しください」
第126問
【問】第五の願いは何ですか。
【答】「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。
「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。」という祈りには、馴染みとともに違和感もあります。まるでこの祈り方では、私たちが赦したということを条件として突き付けて、私たちのことをも赦せと神に迫っているようだからです。あるいは、私たちが神の見本であるかのような印象も受けます。この祈りの表現は昔の文語訳聖書の訳から来ているかなり直訳的な表現ですが、実は今の聖書ではそのようには訳されておりません。マタイ6:12を見ますと「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」とあります。まず私たちの負い目を認め、神の赦しを乞う願いがあります。その上で、私たちも負い目のある人を赦します。と、赦された者としての生き方が決意されるのです。
まずは「私たちの負い目をお赦しください。」です。ルカの福音書では「私たちの罪」と言い換えています。「罪」と「負い目」は置き換え可能な同意義語だということです。つまり罪を犯すと、そこには負債が生じるのです。私たちが罪を犯すとき、法律に則って罰が下されます。同じように、神によって造られた人間が、神の意図に反し、神をないがしろにし、神に相応しくない振る舞いによってその御名を貶めているとするならば、それは神に対する重大な裏切り行為であり、それゆえ神に対して負債を負うこととなるのです。
私たちは神に負い目を持った者だと言うことを認めなければなりません。これが神と私のそもそもの位置関係です。ですから私の正しさや、私の評判や、私の努力や、私の実績を、神の前にひけらかしてその赦しや祝福を求めるなどあり得ないのです。私たちは神と取引をするなどできません。私たちには払うべきものがありません。むしろ負債を負っている。だから私たちは赦しを乞うしかないのです。「私たちの負い目をお赦しください。」これは私たちの内には赦される要素は何もないという罪の告白の祈りです。そして、その祈りは確かに主イエスによって聞かれたのです。
神の前に赦しを乞う私たちが、次に祈るべき祈りは何でしょう。それが「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という決意の祈りです。なぜなら、それこそが神が私たちに望んでおられる赦された者としての生き方だからです。イエス様はある時、一万タラントという借金を王から免除された男の話をされました。この男、王から莫大な借金を赦してもらったにも関わらず、自分が100デナリ貸していた仲間に返済を詰め寄ります。そして挙句牢に放り込むのです。王は男の振る舞いに大変憤り、負債を全部返すまで獄吏に預けたという話です。この例え話の王とはもちろん神さまのことであり、赦してもらった男とは私たち人間のことです。神は言われます。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべき」だとです。
私たちはイエス様の命と引き換えに赦された者です。それは一方的な恵みです。私にはその資格もないのに、主イエスは私たちの赦しとなられたのです。ですから私たちは赦されたことで終わらせてはなりません。赦す者となりたいと思います。イエス様ならそのように生きたであろうからです。私たちが赦すとき、そこにイエス様の生き様が証しされるからです。
さて、まず「私たちの負い目をお赦しください」。そして「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈る。この順序が大事だとお伝えしました。けれど、私たちはその祈りの意味と向き合うとき、もう一度最初の祈りに戻る。戻らざるを得なくなる。そういう意味で「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」とは、まさに私たちの心の内を言い表しているのです。なぜなら、私たちが誰かを赦そうとするとき、私たちはそのことの難しさに直面するからです。赦したくても赦せない。愛したくても愛せない。1万タラントを赦されても尚、たった100デナリを赦せない器の小ささを見出すからです。だからこそ「私たちの負い目をお赦しください」と戻らざるを得ないのです。
しかしこれは同時に、至らない私たちのために犠牲となられたイエス様の愛を実感するときでもあります。神の赦しは、イエス様の犠牲は、明らかに釣り合いの取れない破格なものなのです。私たちは絶えずこのところに戻らされます。だから決意するのです。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」己の弱さを知り、欠けを知った上での決意に意味があるのです。それは高いところから下々の者を見下ろす情けではありません。同じ弱さを抱え、痛みを抱えつつ、尚も赦しにあずかった者だけ持てる共感です。だからこそ、主は弱い惨めな私たちにご自身の命を託されたのです。

ピリピ4:10-13 「日毎の糧を与えたまえ」
問125
【問】第四の願いは何ですか。
【答】「我らの日用の糧をきょうも与えたまえ」です。そなわち、わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください。それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。
この第4の祈りから、具体的で個人的な祈りの勧めへと移ってまいります。イエス様はまず「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ることを教えられました。けれど、この祈りに違和感を覚える人は、少なくないのではないでしょうか。「働かざる者食うべからず」。今日生きる糧は天から降って来るのではなくて、今日頑張った報酬として与えられる。これが世の常識ではないでしょうか。だからこそ、この頑張った報酬を自由にすることは私たちの当然の権利として認められています。世の中が語るところは、「私の日ごとの糧は、私自身の努力による。」なのです。それを神頼みとするのは、何か、努力不足を露呈していると言いましょうか、ご都合主義と言いましょうか。聞く人が聞くと、この祈りは現実逃避のあまりにも甘えた祈りに聞こえるのではないでしょうか。
けれど、それは世の人々がまことの神を知らないからに他なりません。彼らは神以外のあらゆるものに頼らざるを得ません。努力と、生まれと、人脈と、そして運に頼らざるを得ない。けれどそれらは本当に頼りとなるのでしょうか。私たちの人生の保障となり得るでしょうか。イエス様がされたたとえ話に、ある金持ちが豊作の収穫物を蓄えるために、倉庫を建て替えようとする話があります。金持ちは思います。この倉庫が完成した暁には自分自身を褒めてやろう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」とこう自分に言ってやろう。。。けれど、そんな夢いっぱいの男に神ご自身からのお告げがあります。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』落語の題材になるような何とも落ちの利いた話です。けれど、これは実際にそうなのです。どんなに蓄えようとも、どれだけ糧を得ようとも、それらが私たちの人生を保障してくれるわけではありません。コロナ騒ぎで世界中が買い溜めに走って問題となっています。我先に、食料を蓄え、水を蓄え、トイレットペーパーを蓄えます。けれど、それらがどれだけ蓄えられようと、私たちの命が今晩取り去られるという不安が無くなるわけではないのです。私たちは今日自分の思うままに生きているようでいて、しかし一瞬先はまるでわからない、そういう者です。それは父なる神の領分です。ですから神に頼らなければなりません。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」というこの祈りは、ただ単に食べ物をくださいという祈りではありません。それは「私の生涯を本当の意味で保障されるのは神さまだけです」と認める祈りです。そして、この祈りは、神の備えた恵みに気付かせ、感謝として受け取るための備えとしての祈りでもあるのです。
マルティン・ルターは「小教理問答書」の中で「神は、確かに、毎日の食物を、私たちの祈りがなくても、悪人たちにさえ与えてくださっています。それにもかかわらず、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちにこの恵みを気付かせるために、そして、私たちが、感謝をもって毎日の食物を受け取ることができるようにするためです。」と解説しています。祈りによって恵みに気付き、感謝をもって受け取るために。と言うのです。私たちの日常生活の様々な場面で祈りが先行する時、私たちはそこに恵みを覚え感謝に生きることができるのです。祈らなくても私たちの日常は回るかもしれません。けれど、だからと言って祈らなくても良いわけではありません。日常を祈りの結果として迎えることが大事です。神がみこころのままに導いてくださった。そう信じることができるから、私たちはどのような結果も感謝して受け取ることができるのです。
約束の地を目指して荒野をさまよったイスラエルの民に、神は天からのマナとウズラを与えられました。働かざるとも与えられる天の糧。何と羨ましい話でしょう。けれど、彼らにとって、それは毎日の日常。代わり映えのない日々。朝起きて、その日のマナを取り、夕方、その晩のうずらを取る。同じことを延々と。それはもう習慣であり、あって当然。私たちが水を飲み空気を吸うが如くです。ですから、彼らに必要だったのは実はこの祈りでした。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。祈らなくてもマナは降るのでしょう。糧は与えられるのでしょう。けれど、敢えて祈るのです。毎日祈る。これは当たり前を恵みとして受け取るための指さし確認です。それが神からの特別の恵みであることを確認するのです。私たちは如何に神の恵みを当たり前にしていることでしょうか。自分の手柄としていることでしょうか。私たちが祈らずとも、陽は沈み、また昇るでしょう。けれど、祈りの内にその朝を迎えるとき、私たちはこの新しい朝を喜びと共に迎えるのです。神の御手に育まれて歩むことの幸いを知るのです。

マタイ26:36-42 「みこころをなさせたまえ」
第124問
【問】第三の願いは何ですか。
【答】「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。すなわち、わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。
「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」皆さんはどのように理解してこの祈りを捧げていることでしょうか。納得が行かないこの世界の現状に対して、天にあるみこころの地上での成就を願う。つまり「この罪深い世界は神様のみこころの通りになっていません。ですから、この地上を神様のみこころに叶う素晴らしい世界としてください。」という神の正義を求める祈りと理解されているでしょうか。実は私自身、長くそのように理解して祈っておりました。けれどよくよく考えて見ますと、私たちが何を祈ろうと祈るまいと神のみこころがなるのは動かしようのない事実です。あらゆることは神の御手にあり、神は私たちによって影響されるお方ではありません。そして天におられる神様は、地においても神であり、天地によって神のみこころに違いがあるわけではありません。神のみこころは天においても地においても等しく成るのです。ですからこの祈りには神の正義とはまた別の目的があるように思います。
ハイデルベルク信仰問答は、この祈りが、私たちが神のみこころに従えるように。私たちが自分の務めと召命を喜んで忠実に果たせるように。という祈りだと教えています。実はこの祈りは地上の誰かとか、地上の現状をともかくいうよりも、「私を自分の思いのままにではなくて、神のみこころのままに生きさせてください」という信仰者としての生き方を求める祈りだと言うのです。
私たちの祈りは、なんと自分優先の願いとはなっていないでしょうか。テストの点が取れますように。病気が治りますように。あの人と結婚できますように。もちろん、どう祈っても良いのです。けれど、みこころがなるのです。ですから、私たちの祈りがみこころに適うことを願い、更には私たちの祈りをみこころに委ねることが大事です。そうでなければ、私たちは祈りの結果だけに固執し、結果如何によって躓くことになりかねません。祈りの結果に一喜一憂するのは、祈りをおみくじにしているからではないでしょうか。そうではありません。祈りは神のみこころが成ることが大事であり、結果を事前に神に委ねることが大事なのです。
祈りの結果を神に委ねるためには、神のみこころこそが最善であるという確信がなければなりません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝3:11)とあります。神がこの世界に最善のご計画を持っておられることへの信頼なくして、神に祈ることはできません。どんなに逆立ちをしても被造物である私たちには、神のみこころを知り尽くすことはできないのですから、これはみこころを知った上で祈るものではありません。神のみこころがどのようかはわからないけれども、神は無駄なことをなさるはずはない。最善をなして下さる。だからこの信頼に基づいて、私を神のみこころのままに生かさせてくださいと願うのです。なぜなら、神のみこころがなることは疑いようのない事実ですが、私が神のみこころに生きられるかどうかは、私の意思や私の努力ではなくて、内なる聖霊によるからです。
主の祈りはこの後、具体的な日毎の祈りへと移っていくわけですが、その前に、神様のみこころがなるようにと願う。それは、神のみこころを私たちの祈りの結果として下さい、という祈りです。言い換えればこれは明け渡しの祈りと言えます。「私の祈りも願いも、状況も生涯も、いっさいを、主よ、あなたに明け渡します。」という祈りです。イエス様がゲッセマネで祈られた祈りを思い出します。イエス様はご自身の思いを願いつつ、しかし父なる神のみこころがなるようにと祈りました。だからこそ、祈りの結果を神の最善と受け止めることができたのです。目の前にある出来事に、どのような解決や結果が用意されているかは私たちにはわかりません。しかし、私たちは神がみこころをなされるお方だと知っています。そして神のみこころは私たちの思いを超えて最善であると信じています。ですから、この祈りの結果に、神のみこころがなりますようにと祈るのです。そのとき、私たちは祈りの結果に左右されません。それが私にとって好ましいか好ましくないかではなくて、神が用意された祈りの答えとしての結果に、感謝することができるのです。私たちが握りしめているこうあるべきという結果を委ねることで、私たちは神のみこころを知ることとなるのです。
