第1サムエル16:14-23 「神さまを見上げて」
今日は午後からヴァイオリンとピアノのコンサートがあります。イスラエルでも音楽は大変身近なものでして、聖書に出てくる人物はたびたび音楽に慣れ親しんでいます。
神の祝福が受けられなくなったサウル王が、塞ぎこみ、大変な憂鬱と不安に襲われるようになったときに、竪琴を弾いて、王の心を鎮めたのは他ならぬダビデでした。今でこそ、音楽療法というものが確立されておりまして、それは第2次世界大戦時にアメリカ軍の野戦病院において音楽を流してみると兵士の治癒が早まったということから始まったわけですが、実はなんと旧約聖書の時代からすでに、音楽療法というのはその効果が認められていたのですから驚きです。
さて、このサウルとダビデの話。この後、ダビデは諸外国との戦いの中で着実に戦果を挙げて、人々の名声を獲得して行きます。ある時、ペリシテとの戦争の中で、大男として名を馳せた将軍ゴリアテが一騎打ちを申し出て来ました。尻込みするイスラエルの兵たちに代わって若きダビデがゴリアテに挑みます。ゴリアテは2メートル半の大男。一方ダビデには体に合う鎧すらありません。手にするは石投げただ一つです。誰もがダビデの無残な死を思い浮かべました。ところが、ダビデの放った石ころはゴリアテの額に直撃し、見事、これを倒したのです。人々は小さな勇者の誕生に諸手を挙げて喜びました。長年の宿敵を打ち破ったイスラエル。ところが、一人この出来事を喜べなかった人物がおりました。サウル王です。凱旋の折、民衆は歌います。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」それを聞いて、サウルの心には嫉妬が沸き起こったのです。
有能な部下を持つということは、本来上司である者の手柄と言いますか、サウル王の王権を安泰させるもののはずでした。けれども、自分以上に民衆の人気者になるダビデにサウルは嫉妬します。サウルはダビデを憎むようになり、遂にはその命を奪おうとまでいたします。もちろんダビデは逃亡します。結果サウルは有能な部下を失ってしまったのです。そして、外国との戦争の中で命を失ってしまうのです。ダビデが側にいればと思わざるを得ません。この後ダビデはサウル王の敵を討ちまして、イスラエルの二代目の王となるのです。
「あいつさえいなければ」という思いは誰にでもある思いかもしれません。努力して努力してようやく手にした人々の評価を、いとも簡単に追い抜いていく後輩たち。チームの成果を自分だけの手柄として誇る上司。あいつさえいなければ。そこには、自分は正しい評価を受けていない。という、現状に対する不満があるわけです。しかし、私たちはあまりにも人を見てばかりで、本当に見るべきものを見失っているのです。
私たちが人を見るとき、自分と人を比べるとき、そこに罪が入ってきます。人類最初の殺人は、嫉妬が原因でした。他人を見れば、自分が劣っていると落ち込み、また自分が勝っていると見下します。会う人、会う人と自分を見比べて、その中での自分の順位をつけていくのです。たとえ私たちがそれを望まなくても、私たちは絶えずそう言った他人の評価に怯える日々です。それが正しく努力するモチベーションに結びつけば良いですが、ほとんどの場合はそうはいきません。自分が努力するよりも、他人の失敗を願うようになる。他人の存在を疎ましく思う。「あいつさえいなければ」他人の評価を気にするがあまり、私たちは正しい判断、振る舞いができなくなってしまうのです。うんざりです。私たちは他人に左右されない、確かな自分を確立させなければなりません。
人々の無責任な噂に人生を費やしてはいけません。その人は、あなたの見えるところしか知らないのです。全てを知っておられる方の言葉にこそ耳を傾けるべきです。主なる神は言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4a)これこそが、私たちの聞くべき声です。見るべきお方です。
今日は午後からヴァイオリンとピアノのコンサートがあります。イスラエルでも音楽は大変身近なものでして、聖書に出てくる人物はたびたび音楽に慣れ親しんでいます。
神の祝福が受けられなくなったサウル王が、塞ぎこみ、大変な憂鬱と不安に襲われるようになったときに、竪琴を弾いて、王の心を鎮めたのは他ならぬダビデでした。今でこそ、音楽療法というものが確立されておりまして、それは第2次世界大戦時にアメリカ軍の野戦病院において音楽を流してみると兵士の治癒が早まったということから始まったわけですが、実はなんと旧約聖書の時代からすでに、音楽療法というのはその効果が認められていたのですから驚きです。
さて、このサウルとダビデの話。この後、ダビデは諸外国との戦いの中で着実に戦果を挙げて、人々の名声を獲得して行きます。ある時、ペリシテとの戦争の中で、大男として名を馳せた将軍ゴリアテが一騎打ちを申し出て来ました。尻込みするイスラエルの兵たちに代わって若きダビデがゴリアテに挑みます。ゴリアテは2メートル半の大男。一方ダビデには体に合う鎧すらありません。手にするは石投げただ一つです。誰もがダビデの無残な死を思い浮かべました。ところが、ダビデの放った石ころはゴリアテの額に直撃し、見事、これを倒したのです。人々は小さな勇者の誕生に諸手を挙げて喜びました。長年の宿敵を打ち破ったイスラエル。ところが、一人この出来事を喜べなかった人物がおりました。サウル王です。凱旋の折、民衆は歌います。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」それを聞いて、サウルの心には嫉妬が沸き起こったのです。
有能な部下を持つということは、本来上司である者の手柄と言いますか、サウル王の王権を安泰させるもののはずでした。けれども、自分以上に民衆の人気者になるダビデにサウルは嫉妬します。サウルはダビデを憎むようになり、遂にはその命を奪おうとまでいたします。もちろんダビデは逃亡します。結果サウルは有能な部下を失ってしまったのです。そして、外国との戦争の中で命を失ってしまうのです。ダビデが側にいればと思わざるを得ません。この後ダビデはサウル王の敵を討ちまして、イスラエルの二代目の王となるのです。
「あいつさえいなければ」という思いは誰にでもある思いかもしれません。努力して努力してようやく手にした人々の評価を、いとも簡単に追い抜いていく後輩たち。チームの成果を自分だけの手柄として誇る上司。あいつさえいなければ。そこには、自分は正しい評価を受けていない。という、現状に対する不満があるわけです。しかし、私たちはあまりにも人を見てばかりで、本当に見るべきものを見失っているのです。
私たちが人を見るとき、自分と人を比べるとき、そこに罪が入ってきます。人類最初の殺人は、嫉妬が原因でした。他人を見れば、自分が劣っていると落ち込み、また自分が勝っていると見下します。会う人、会う人と自分を見比べて、その中での自分の順位をつけていくのです。たとえ私たちがそれを望まなくても、私たちは絶えずそう言った他人の評価に怯える日々です。それが正しく努力するモチベーションに結びつけば良いですが、ほとんどの場合はそうはいきません。自分が努力するよりも、他人の失敗を願うようになる。他人の存在を疎ましく思う。「あいつさえいなければ」他人の評価を気にするがあまり、私たちは正しい判断、振る舞いができなくなってしまうのです。うんざりです。私たちは他人に左右されない、確かな自分を確立させなければなりません。
人々の無責任な噂に人生を費やしてはいけません。その人は、あなたの見えるところしか知らないのです。全てを知っておられる方の言葉にこそ耳を傾けるべきです。主なる神は言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4a)これこそが、私たちの聞くべき声です。見るべきお方です。