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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160803 へブル12:18-29 「揺り動かされない御国」

へブル12:18-29 「揺り動かされない御国」

 18節から21節はシナイ山で十戒が与えられる時、つまり神との初めの契約が結ばれる時の様子が記されています。22節から24節には新しい契約によってもたらされる景色がここには記されています。ですから、ここには2つの契約によって見える景色がしるされているわけです。その上でへブル書は警告を与えます。「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。」「・・・まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」大事なのは、私たちはすでに聞いている。新しい契約の中に入れられている者だと言うことです。すでに古い契約に遥かに勝る新しい契約が結ばれたのです。
 26節から27節で、全てが振るいにかけられるその時が来るとヘブル書は記します。それは以前のものとは比較にならない徹底したものです。けれど、私たちはもはや新しい契約の中にいる。ですからその時は私たちにとって単なる恐怖ではなく、希望の時となるのです。律法によっては罪の意識が明らかになります。けれど、十字架は罪の清算をもたらしました。ですから律法は神への服従を要求しますが、十字架は神への感謝をもたらすのです。
 イエス様の十字架の贖いのゆえに、私たちは来るべき審判を免れている。私たちはもっともっとこのことに目を留め、感謝すべきではないでしょうか。時に、私たちは日々の出来事で頭がいっぱいです。遠い未来のことよりも、今晩のおかずの方が心配です。知り合いの何気ない一言に傷付き、明日の準備に追われる毎日です。目まぐるしく移り変わる毎日に、ため息ばかりが口に出る私たちです。しかし、だからこそ、私たちは天の御国に心を向けるべきではないでしょうか。そこには変わらない、揺らぐことのない希望があるからです。もちろん日常を疎かにせよということではありません。しかし、そこだけを見ていては、もっと大事なものを見失ってしまうことがあります。神さまのご計画の全てを、私たちは知ることはできませんから、その時、その時は「なぜ?」と思うことの方が多いです。そんな時、そこだけを切り取って見ていても、私たちに平安はありません。もっと高い視点が大事です。日常に振り回されない、確かな恵みに目を留めるべきです。
 長距離を車で移動していますと、子どもたちが言います。何で太陽は僕達に付いて来るの?どれだけ走っても動かない太陽に、子どもたちは不思議がります。あれは太陽があまりに高いところにあるので、動いていないように見えるんですね。天の御国の希望も同じようです。どこに行ってもその希望は変わらずに注がれている。それは天高くある希望だからです。それは決して揺らぐことのない希望です。どんな状況にあろうとも変わることのない光です。目の前のことに一喜一憂する私たちだからこそ、変わることのない希望に目を向けるべきです。感謝するべきなのです。

160703 へブル12:14-17 「聖さを追い求めて」

へブル12:14-17 「聖さを追い求めて」

 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。平和と聖められることが平行して勧められています。平和というのは争い事から離れた状態のことです。そして聖という言葉はもともと分離するという意味です。それは悪から離れて、神との関係を持つ。これが聖です。ですから、この御言葉は、世に対して、神に対して、あらゆる悪から離れて生きなさいという意味です。
 しかしです。悪から離れて生きるとは簡単なようで難しいものです。私たちは少々濁りがあったほうが住みやすいと感じることはないでしょうか。余りにもきれいな部屋に招かれますと、落ち着かないと言いましょうか。多少のことまで全て指摘されますと、息が詰まると言いましょうか。完全な悪はもちろん望みません。けれど、完全な聖は自分自身の居場所を失います。それはどこかで自分が罪と折り合いをつけながら、過ごしているということを自覚しているからです。
 私たちの見えない部分、根の部分に苦さがあるのです。私たちの隠れたところに罪との妥協があるならば、いくら表面を装ってもそれは聖化とはなりません。霊と肉は連動しています。神の前に後ろめたさを持つ者は、現実にも濁った水を求めるものなのです。私たちが神を恐ろしく思う。いつまでたっても平安が得られない。不安がつきまとう。それは、私たちの根が苦いままであるからです。見えないところを明け渡していないからです。表面的にはクリスチャンを装っても、深いところで、この世の価値観を手放せないでいるからです。
 聖化の問題は、根を完全に断ち切らなければなりません。根が残っていれば、どれだけ草を刈ってもすぐにまた生えてきます。大事なのは根こそぎにするということです。神に完全に明け渡すということです。しかし、このことは一朝一夕にできることではありません。聖化は一瞬にしてなる現象ではありません。それは聖なる者と変えられていく過程です。私たちは聖められることを願います。けれど、願うほどにそれとはかけ離れた自分を発見します。そして悩みます。苦しみます。しかし、これこそが実は聖化の歩みなのです。
 愛すれば愛するほど、自身の愛の足りなさを知る。これは真理です。なぜなら愛は神のうちにあるからです。神を見るほどに、私たちの愛がいかに脆いものか、幼いものかを知る。己が神ならぬ者であることを知るのです。そして、神無くしては今日を悔いなく歩めない者であることも。実は聖化の歩みとは、山の頂上を目指して駆け上がっていくものではありません。むしろ谷底を知る。遜っていくものなのです。ですから聖化の歩みとは自我を捨てる過程と言いかえても良いかもしれません。己を捨てた後、そこには何が残るのでしょうか。そこには聖霊がおられます。私たちの内に住まわれる聖霊は、私たちの自我を取り去って、私たちの心と思いを神の恵みへと向けさせるのです。

160605 へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

 聖書は子育てについて、次のように言っています。箴言13:24「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」我が子を溺愛して何でも言いなりになる親がおりますが、子どもが間違ったことをしても見て見ぬ振りをするならば、それは本当の意味で子を愛していることにはなりません。懲らしめることは、事の善悪を教えることです。善悪を知らぬ者は簡単に悪事を犯しますが、それは知らなかったではすみません。例えば、母国では大丈夫だったからと言って、日本で拳銃を所持していれば、それは銃刀法違反。知っていようがいまいが捕まってしまうのは当然のことです。知らないことは罪です。ですから、親は子に厳しくむちを与えなければなりません。正しい善悪の基準を教えなければならないのです。
 今日の箇所で著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と指摘しています。罪とは自我のことです。自我と戦って、抵抗したことがない。という意味です。へブル人への手紙はユダヤ教に引き戻そうとする人々の迫害に遭い、心揺れ動いている、そんなクリスチャンに宛てられた手紙です。彼らは目の前の困難のゆえに、イエス・キリストの贖いに自信を失い、信仰を捨てようか、はたまた妥協して過ごそうかと思い悩んでいる人々。そんな彼らに、自分自身の弱さと向き合って、戦いなさい。抵抗しなさい。と勧めているのです。
 神を信じ、キリストの贖いのゆえに、神の子とされた私たちは、もはや自分の願い通りに生きるのではなく、父なる神のみこころに生きることが求められています。けれど、それはやはり私たちにとっては苦痛です。面倒です。私たちはやはり自分の願うとおりに、好きなように自由に生きたいと思うのです。ですから少々のためらいや後ろめたさを感じながらも、これくらいは仕方ないよねと、簡単に罪に妥協してしまうのです。聖書の言葉は、時として、私たちの心を射抜きます。私たちの弱さや妥協、保身の思いを貫いて、私たちに仕えること、捨て去ることを求めます。ですから信仰を持って生きることは、この世にあっては、ある種の不自由さを感じることのように思えます。
 けれどです。聖書は、これを「主の愛する者への懲らしめ」だと言うのです。地上における信仰の歩みの実践は、将来に向けての大切な訓練だと言うのです。今だけを見れば、それは不自由に映るでしょう。けれど、もっと長い視点で今を見るとき、この懲らしめが私たちを救うのです。父親の懲らしめは子にとっては不自由なものです。けれど、それがあるから、私たちは道を間違えないで済みます。より大きな過ちを避けることができます。箴言5:22「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。」とある通りです。
 私たちにとって信仰生活は不自由なものでしょうか。神のことばは面倒でしょうか。しかし、そこに留まることが私たちの平和なのです。小さな子どもは親の目がある中では自由に振る舞います。ところが、親の目が見えなくなると途端に不安になって、思うことができなくなります。子どもは親の懲らしめが、自分たちを守るものであることを本能的に知っているのです。私たちは神の目の中で過ごさなければなりません。私たちが罪と戦って、血を流すまで抵抗するためには、神の見守りの中に身を置かなければなりません。神が見守ってくださっている。だから、私たちは罪と向き合うことができるのです。そこに踏みとどまることができるのです。子を懲らしめるのは親の愛です。父なる神は私たちを心から愛し、懲らしめ、見守っていてくださるのです。

160501 へブル12:1-3 「イエスから目を離さずに」

へブル12:1-3 「イエスから目を離さずに」

 聖書は、信仰生活と言うものを競争に例えています。それも「忍耐をもって」とありますから、短い50メートル走とか、100メートル走ではなくて、マラソンのような長距離走をイメージしているわけです。しかし競争といいながら、その目指すべきところは、誰かと競って1位を取るということではありません。最後まで走り抜くこと。途中で脱落しないことです。つまり競うのは自分自身と言うことです。長距離走の経験がある人はわかると思いますが、長距離走は他人を意識しすぎると完走することができません。自分のペースを崩してしまうからです。長距離走はあくまでも自分との戦いです。挫けそうになる心。投げ出したくなる心。そういった弱気な心と戦いながら、この一歩がゴールに繋がると信じて走り続けるのです。問題は、この競争はどこまで走ればゴールなのかがわからないことです。長く忍耐を求められる競争も、ゴールが見えているから頑張れるのです。あの丘を越えればゴールが待っている。そうわかっていれば、今の一歩を踏み出せるというものです。ところが、その丘を越えてみれば、そこにはまだまだ果てしない丘が連なっている。これは私たちの心を挫くのに十分すぎる理由ではないでしょうか。正直な話、私たちは信仰生活に疲れ果ててしまうことがあるのです。幾度となく繰り返される試練の数々に、もういいか。と心がぽっきりと折れてしまうことがあるのです。
 ですから、へブル書の著者はこの競争を続けるのに大切な2つのことを挙げています。一つは「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」ること。もう一つは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」ことです。
 マラソンを走るのに、わざわざ重たい荷物を背負っては疲れ果ててしまうだけです。それは無謀です。けれど、私たちはこと信仰生活においては、そのような無謀を犯していることがままあるのです。私たちにとっての重荷とは何でしょう。人間関係でしょうか。趣味でしょうか。仕事でしょうか。恋人でしょうか。それらは決して悪いものではありません。しかしどうでしょう。悪いものではありませんが、それらのものをあまりに抱え込んでしまっては、到底走ることはできません。例えばです。マラソンの最中に雨が降るかもしれないからと言って、リュックの中に傘や雨合羽を入れて、途中でお腹がすくといけないからお弁当も入れて、万が一けがをした時のために救急箱を抱えて、汗をかくから着替えも2、3着は用意して、そんな調子で大量の荷物を抱えて、じゃあマラソンを走りきることができるのかと言うと、それはやはり無理なのです。
 私たちは本当に必要なものだけにすべきです。それ以外は手放す勇気が必要です。では、本当に必要なものとは何でしょう。それは「イエスから目を離さない」ということです。イエス様は信仰の創始者であり完成者です。ですから、イエスから目を離さないとは、ゴールから目を離さないという意味です。ゴールが見えるということは、私たちにとって大きな励ましです。しかし、同時に、イエス様を見るということは、遠いゴールで待っているイエス様を見るということではなくて、今まさに私とともにいてくださるイエス様を見るということでもあるのです。
 先ほど賛美しました「Footprints」はまさに信仰生活の実際を歌ったものです。またイザヤ43:2には「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ともあります。私たちが神の存在を見失うような試練の時、実は神が最も身近にいてくださる時でもあるのです。私たちは試練の時、何が苦しいのでしょう。それは神にも見放されたと思う孤独ではないでしょうか。しかし、それは正しくありません。神はあなたとともにいるのです。私たちは荒れた海を見て、不安になって、イエス様が共にいるという肝心なことを忘れてしまいます。もう一度イエス様に目を向けましょう。それは「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

160403 ヘブル11:32-40 「信仰によってあかしされる」

ヘブル11:32-40 「信仰によってあかしされる」

 へブル書11章は信仰の勇者たちを数え上げて信仰に生きることの幸いを教えていますが、今日の箇所は若干雰囲気が違います。と申しますのも、これこれの人たちは信仰によって勝利を得た。という成功譚だけではなくて、信仰の故に迫害に遭う。苦しみを経験する。という苦々しい経験を告白しているからです。このことは何を意味しているのでしょうか。それはつまり、信仰というのは、私たちの人生の幸せを約束する類のものではないということです。
 私たちはどこかで信仰が幸せを生み出すと考えてはいないでしょうか。そして、変わらない日常の中で、私が不幸なのは信仰が足りないからだとか、信仰のないあの人よりも私が不自由な生活をしているのはおかしいとか、そんな風に感じることはないでしょうか。もちろん、幸せをどのような意味で捉えるのかという話ではありますが、私たちは日常生活をもっと楽に、自由にするための必須アイテムとして信仰というものを考えしまうことがあるかもしれません。しかし、それは聖書の語るところなのでしょうか。
 聖書は、からし種ほどの信仰があれば山をも動かせると言っています。信仰の量が私たちの幸せの度合いを決めるなんてどこにも言っていません。信仰のゆえに祝福が与えられることもあれば、信仰のゆえに苦難が振りかかることもある。これが聖書の語るところです。
 では信仰に生きるということに、いったい何の意味があるのでしょう。
 イエス様が道を歩いておられた時に、生まれついての盲人を見られたことがあります。すると弟子たちがイエス様に聞きました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」弟子たちには、信仰が無ければ不幸になる。信仰があれば幸せになれる。という単純で乱暴な考えがありました。けれどイエス様は言います。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
 私たちも、信仰の故に神の奇跡を体験することもあるでしょう。逆に信仰の故に迫害に遭ったり、この世の苦難を味わうこともあるでしょう。現実の生活が上手くいかないとき、私たちはそれを罪のせいだと責めがちです。不幸な出来事が続くとき、私たちは信仰の足りなさを嘆きます。思いがけない神の奇跡に出会ったとき、私たちは信仰を誇ります。けれどどちらが良い悪いではありません。信仰によって病が癒されることも神の証しだし、苦難の内で信仰に寄り掛かることもまた神の証しです。すべて神の栄光を表す生き方なのです。