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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230521 ヘブル11:13-16 「天の故郷」

ヘブル11:13-16 「天の故郷」 

 ヘブル書11章は旧約聖書に記される信仰者の列伝であります。目に見えないものを確信し、その生涯を全うした信仰の先達たちを一人ひとり数え上げて、信仰とは何か、信仰に生きるとは何かを伝えています。
 ヘブル書の記者は信仰者の生き様を幾つも確認した上で言います。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11:13)そして更には、ヘブル13:14-15で「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」と言って結論付けています。
 地上の歩みだけを考えれば、信仰を持たずとも要領よく生きている人は幾らでもいます。私たちも無理せず周囲に妥協して生きたほうが、無難に生きることができるでしょう。けれど、私たちが愛する人に伝えたいこと、次の世代に継いでいきたいことは、そういうことなのでしょうか。先人たちから伝え聞いたことはそのようなことだったでしょうか。「賢く生きなさい」ということでしょうか。そうではなくて、私たちは後に来る都を求める者です。天よりの祝福をいただく者です。たとえ試練の中にあろうとも、それが神にあって無駄ではないということを信じている者です。だからどのようなときも、たとえ迫害の中にあっても、変わらずに賛美のいけにえをささげることができると言っているのです。私たちの信仰は決して無駄には終わらない。そのことは、どうでしょう。先に召された兄弟姉妹を思い浮かべれば明らかではないでしょうか。ユダヤ人たちはノアを思えば、そしてアブラハムを思えば、信じることの幸いを得ることができました。私たちも同様ですが、正直言って、ノアよりも、アブラハムよりも、この召天者のお写真から思うのです。最後まで信仰に生きることの幸いをです。
 ヘブル11:16には「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」とあります。私たちが普段から、天の故郷に憧れて過ごすということが大事なのです。天の故郷を見た人は一人もおりません。憧れよ。と言われても、憧れるほどに思い浮かばないというのが正直なところではないでしょうか。でも、そこにおられる兄姉のことはどうでしょうか。天の故郷は先に召されたお一人お一人がおられるところです。その再会の場です。最後まで信仰を誇りとして生き切ったそのお一人お一人がおられるそのところ。だからこそ、その再会を覚えて、恥じることなく今を送ろうと決意するのです。
 私どもの教会でも、このコロナ禍の中でお二人の召天者がおりました。お二人は今どうしておられるのでしょう。天において地上の労苦を労い合っている様子が、皆さんには容易に思い浮かぶのではないでしょうか。「私たちよくやったよね。」と肩を叩き合いながら、イエス様に褒めてもらっていることではないでしょうか。それこそが私たちの希望であり、慰めです。天の故郷は確かに用意されています。そうでなければ先に召された兄姉の信仰は無駄になってしまいます。しかし無駄ではありません。私たちが帰る故郷は確かにあります。この天地を造られたお方が、その住まいを用意してくださっているのです。そのために愛する御子を先にお送りになられたのです。私たちはそこでイエス様との対面を果たし、愛する者との再会を果たし、そして地上の営みを労い合うのです。

211003 ヘブル10:23-25 「地上の宿り木」

ヘブル10:23-25 「地上の宿り木」

 私たちキリスト者の使命が伝道にあるということ。そして、その伝道の場とは、私たちの日常なんだということを以前確認しました。私たちはこの地上における神の国の大使です。私たちが行くところで、私たちがキリスト者であること。神を認め、神を意識し、神とともに生きる。つまりキリスト者として悩み、呻き、祈り、感動し、そして礼拝する。そういう私たちの神ありきの日常の姿が、生ける神の証となって、神の権威の及ぶ所、すなわち神の国の拡大へと繋がっていくのです。これは本当に凄いことです。
 けれど、私たちの日常を見る時、本当に神の国は拡大しているのか。と疑問に思うわけです。それは私たちの日常生活が証にならない。神の名を背負うに相応しくない。ということだけにとどまらず、信仰者にとって異教社会で信仰を持って生きるということが、本当に窮屈で息苦しいことだからです。キリスト者はこの国においては圧倒的少数派です。ですから私たちは主日の教会を一歩出たその瞬間から、常に孤独な信仰の戦いを強いられているのです。周りの人たちが自分の損得で判断する中、私たちは「神は何を望んでおられるか」と自問しながら、時に周囲の人たちとの違いに怯え、時に長いものに巻かれる誘惑と戦いながら、それでもキリスト者として生きることの孤独な戦いをしているのです。それは私たちにとっては誇りであり、喜びです。しかし同時に、それは確かにプレッシャーでもあるのです。信仰と妥協の間で、私たちは日々どれだけの葛藤を抱えていることでしょうか。
 だからこそです。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」というパウロの言葉が、私たちの胸に刺さるのであります。私たちは励まし合っていくのです。教会はそのためにこそあるのです。それぞれの日常という伝道の場で心をすり減らしながら霊的戦いに励んでいる私たちが、教会という宿り木でひととき羽を休める。互いに注意を払い、励まし合う。私たちにはそういう交わりが必要なのです。息継ぎを無しに泳ぐことはできません。息継ぎの間隔が長ければ長いほど苦しいし、溺れる可能性があります。どれだけ我慢して泳いでもすぐに限界が来ます。定期的に息継ぎをすることで、私たちはより遠くに伸び伸びと泳ぐことができるのです。教会の交わりもまた息継ぎのようなものです。霊の呼吸です。礼拝を献げ、祝福をいただき、互いを励まし、祈り合う。日常生活とは切り離された霊の交わりに身を置くことで、私たちは信仰を新たにし、それぞれの場、学校へ、職場へ、家庭へと出ていけるのです。
 このことはコロナ禍にあって、つくづく実感するところではないでしょうか。最初の緊急事態宣言から、もう1年半以上が経ちます。この間、私たちは一人でいることが、どれほど心細く、そしてどれほど流されやすいかを思わされたことではないでしょうか。私たちは私たちが思っている以上に、弱いのです。そして私たちが思っている以上に、この交わりに支えられています。ここに共に集まることの意味があるのです。
 もちろん、それができない現状があります。集まりたくても集まれない、会いたくても会えない。そういう試みの中を私たちは過ごしています。けれど、だから交わりが必要ないということにはなりません。パウロも似た苦しみを味わいました。会いたくても会えない不自由の中、しかし彼はピリピの兄弟姉妹に向けて言います。「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」(ピリピ1:3-5)祈りが互いの心を結び合わせたのです。いえ、祈りの内に働かれる御霊が一つなのです。私たちが安全な日常を取り戻せるのは、いつになるでしょうか。けれど、それをただ待っているわけにはいきません。互いを祈ることは、できたらやったほうが良いという程度のことではありません。今は祈るときです。祈りの内に互いを思いやる時。この祈りの交わりが、私たちの再開をより喜ばしいものにするのです。

170122 ヘブル13:20-25 「結びの祝祷」

ヘブル13:20-25 「結びの祝祷」

 いよいよヘブル書の最後です。22節以降は、当時の一般的な手紙の形式に則った挨拶ですから、この手紙の実質の最後は20節、21節ということになります。では、これは何かと言いますと、これは祝祷でありました。
 手紙でも何でも最後に交わすのは、普通は別れの挨拶です。友との再会の約束をしたり、互いの健康をいたわったりです。季節柄、年賀状が幾らか届きましたが、今年こそはどこかで会いましょう。といった一筆が書かれ続けてもう何十年という方が大勢います。それはどこか形式的な挨拶です。ところが、キリスト者のそれは、挨拶だけに留まりません。別れの際、友の祝福を祈ることができるのです。
 単なる挨拶と祝祷はどう違うのでしょうか。どちらも相手を気遣う言葉です。けれど決定的に違うのは、挨拶が相手への直接的な語りかけであるということです。それも別れの挨拶ですから、言いっ放し、無責任な語りかけであるのに対して、祝祷は神を経由しての間接的な語りかけであり、会えない間も効力を発する、とりなしの祈りだということです。
 祝祷は友のために神よりの祝福を祈ることです。ですから神の正しい理解こそが祈りの確信となってきます。では会えない友のことを委ねる神とはどのような神でしょうか。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、」とあります。単に「平和の神が」と始めても良いのです。けれど、わざわざ説明を付け加えます。この神は、天高く雲の上で、蟻のような私たちの人生を眺めているような遠い神ではなくて、罪人の私たちを探し出して悔い改めさせるために来られた大牧者たるイエス・キリストを遣わされた神。そして、このお方を死より蘇らせた神。この神は私たちという存在に関わって下さる神だというのです。この神が、友に関心を寄せて下さる神だから、大牧者として羊を守り導いて下さる神だから、私たちは会えない友を安心して委ねることができるのです。
 では、この神に友の何を祈り委ねるのか。実はこの所が、他の書に記される祝祷と違っているところです。たとえばローマ書15:3にある祝祷は「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。」とあります。Ⅰコリント16:23の祝祷は「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ですし、Ⅱコリント13:13は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。多くの祝祷が「神がともにあるように」という神へのとりなしであるのに対して、ヘブル書は「みこころを行なう」ためという具体的で、能動的な目的を伴っています。そして、そのために「あなたがたを完全な者としてくださいますように。」新共同訳聖書で「すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」と祈るのです。ここには、単なる神の祝福を祈るというだけでなく、その友を派遣する意味が込められています。つまり、私たちは神のみこころを行なうキリスト者と意識して日々を過ごすのです。友との別れに際して、私たちは私たちの生きる姿勢を確認しながら、信頼すべき神にその友を委ねるのです。私たちの日々はこのような友の祈りによって支えられているということは何と心強いことでしょう。
 礼拝もまた祝祷を持って終わります。この所から送り出されて、また再び帰るまでの間、神が私たちと共にあり、私たちの歩みを守り導いてくださるように。様々な事情で礼拝時間に間に合わないということがあるかもしれません。けれど、もしこの祝祷に間に合うのなら、十分礼拝に来る価値があります。私はこの祈りこそが私たちの信仰生活の生命線だと思うのです。

170115 ヘブル13:18-19 「兄弟の祈りに支えられて」

ヘブル13:18-19 「兄弟の祈りに支えられて」

 今日のところで著者は、私たちのために祈ってください。と繰り返し依頼しています。ヘブル書は著者が確定した書ではありませんが、ここらへんの記述はとてもパウロ的です。ローマ書やエペソ書、テサロニケの手紙などにも同様の祈りの要請があります。迫害や牢獄、難破や漂流、様々な困難を経験したパウロや、このへブル書の著者が、それでも最後まで福音宣教に従事したその秘訣はどこにあるのか。それがこの兄弟たちのとりなしの祈りでした。
 祈りの重要性については、皆さんもよく聞くところではないでしょうか。祈りとは神との対話であり、対話無くして関係を築くことはできません。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と言っています。神を賛美し、神の御心を願い、神にとりなしの祈りをする。私たちはその大事さを重々承知しているのです。にもかかわらず、信仰生活においては、時に祈れないということが少なくありません。
 例えば、祈っても祈っても聞かれないとき、私たちはそれ以上祈ることができなくなってしまいます。降り掛かった試練があまりにも大きくて、苦しくて、祈れない。祈りたくない。ということもあります。また、こんな自分勝手な祈りは、とても神さまに聞かせられない。ということもあるかもしれません。このことはたとえ神様であってもどうしようもない、と諦めてしまうこともあるでしょう。ともかく、私たちは時に、祈りたくても祈れない。祈りたくない。ということがある。そして、どう祈ったら良いのかわからない。ということがあるのです。
 そんな時です。私のために祈ってくれる友の祈りというものが、どれほどの慰めであり、励ましでありましょうか。
 中には祈られることに抵抗を感じる方がおられるかもしれません。それは、自分の弱さを相手にさらけ出すことだからです。社会にあっては、それは時に致命傷だったりもします。弱さは付け込まれ、脅しの種になる。だから必死に強がって、弱い素振りは見せられません。けれど教会までそうである必要はありません。私たちは、父なる神の前に何の誇るところのない罪人であることを共有した兄弟姉妹だからです。
 祈ることは信仰生活の土台です。同時に祈られることは信仰生活の砦です。私たちはもっと積極的に祈られるべきではないでしょうか。それはすなわち、目の前の兄弟姉妹をもっと信頼すべきということです。自分が一人で立っていると思うのは間違いです。私の弱さに同情し、とりなしてくれるのが兄弟姉妹です。実は今も、私たちは兄弟姉妹の祈りの中で支えられているのです。

170108 ヘブル13:7-17 「信仰の先達者たちにならって」

ヘブル13:7-17 「信仰の先達者たちにならって」

 へブル人への手紙はユダヤ教に引き戻そうとする人々の迫害に遭い、心揺れ動いている、そんなクリスチャンに宛てられた手紙です。彼らには常に心を迷わせる誘惑がありました。それは再び幕屋で仕える者になるという誘惑、つまりユダヤ人の社会に復帰するという誘惑です。ユダヤ人でありながらキリスト者となった彼らは、イエスさまを救い主と信じることについては確信に至っても、ユダヤ人社会から出るということに関しては躊躇するのです。
 こういう感覚はよくわかる気がします。個人的にはイエス様を信じても、地域や家族の目が合って信仰に入れないということがあるからです。特に地方に行きますと、こういうことは少なくありません。と言いますのも、地方では、住む町、住む村がまるごと神社やお寺の檀家となっている場合が結構あります。そのような中で、クリスチャンになるということは、ある意味、その社会から離脱することだからです。人と人との関係が希薄な都会なら、問題にならないかもしれません。けれど、村の殆どが親族郎党というような田舎にあっては、一人異なる信仰を持つことがいったいどれほどのプレッシャーでありましょうか。いえいえ、たとえ都会であろうとも、家族であるとか、クラスであるとか、職場であるとか、私たちが普段過ごす社会の中で一人信仰を持つということに、躊躇するのは当然のことであります。
 私たちは宿営の中に留まりたい。けれど、イエス様は門の外で苦しみを受けられたのだとへブル書は語るのです。伝統や文化、古い教えに留まることはある意味安心です。井の中にある蛙は平和かもしれません。けれど、井戸の水が無くなれば、蛙は干からびるしかありません。まだ見ぬ大海は不安ですけれども、イエス様と共にあること、神の御声に従って踏み出すことが大事なのです。
 指導者たちのことを思い出しなさい。とあります。そして、その生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさいともです。信仰は単なる儀式や知識ではありません。神に従うことに、様々な喜びも困難も経験しながら、それでも尚、神の御心の内に生きる。それが信仰の歩みです。私たちはアブラハムやモーセの神話化された成功譚ではなくて、そういった葛藤や挫折を織り交ぜたところの等身大の生き様にならうのです。ノアは神のことばを信じて、馬鹿げた箱舟造りに着手しました。アブラハムはまだ見ぬ祝福を求めて、行先も知らぬ旅に出ました。モーセは神の使命に従って王族としてのいっさいの生活を捨てました。それは日常の変化を伴います。新しいことには困難が付き物です。けれど、大事なのは「結末をよく見る」ことなのです。
 アブラハムやモーセの生き方にならえと言われれば、私たちは正直、躊躇するかもしれません。私たちは思います。「あんな波瀾万丈の人生は私の願うところではない」とです。けれど、私たちは彼らの結末をよく見なければなりません。彼らはその信仰のゆえに、約束のものを得たのです。ここが大事です。結末を抜きにして、今だけを見ているわけにはいきません。肝心なものを失ってしまうことになり兼ねないのです。