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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170122 ヘブル13:20-25 「結びの祝祷」

ヘブル13:20-25 「結びの祝祷」

 いよいよヘブル書の最後です。22節以降は、当時の一般的な手紙の形式に則った挨拶ですから、この手紙の実質の最後は20節、21節ということになります。では、これは何かと言いますと、これは祝祷でありました。
 手紙でも何でも最後に交わすのは、普通は別れの挨拶です。友との再会の約束をしたり、互いの健康をいたわったりです。季節柄、年賀状が幾らか届きましたが、今年こそはどこかで会いましょう。といった一筆が書かれ続けてもう何十年という方が大勢います。それはどこか形式的な挨拶です。ところが、キリスト者のそれは、挨拶だけに留まりません。別れの際、友の祝福を祈ることができるのです。
 単なる挨拶と祝祷はどう違うのでしょうか。どちらも相手を気遣う言葉です。けれど決定的に違うのは、挨拶が相手への直接的な語りかけであるということです。それも別れの挨拶ですから、言いっ放し、無責任な語りかけであるのに対して、祝祷は神を経由しての間接的な語りかけであり、会えない間も効力を発する、とりなしの祈りだということです。
 祝祷は友のために神よりの祝福を祈ることです。ですから神の正しい理解こそが祈りの確信となってきます。では会えない友のことを委ねる神とはどのような神でしょうか。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、」とあります。単に「平和の神が」と始めても良いのです。けれど、わざわざ説明を付け加えます。この神は、天高く雲の上で、蟻のような私たちの人生を眺めているような遠い神ではなくて、罪人の私たちを探し出して悔い改めさせるために来られた大牧者たるイエス・キリストを遣わされた神。そして、このお方を死より蘇らせた神。この神は私たちという存在に関わって下さる神だというのです。この神が、友に関心を寄せて下さる神だから、大牧者として羊を守り導いて下さる神だから、私たちは会えない友を安心して委ねることができるのです。
 では、この神に友の何を祈り委ねるのか。実はこの所が、他の書に記される祝祷と違っているところです。たとえばローマ書15:3にある祝祷は「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。」とあります。Ⅰコリント16:23の祝祷は「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ですし、Ⅱコリント13:13は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。多くの祝祷が「神がともにあるように」という神へのとりなしであるのに対して、ヘブル書は「みこころを行なう」ためという具体的で、能動的な目的を伴っています。そして、そのために「あなたがたを完全な者としてくださいますように。」新共同訳聖書で「すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」と祈るのです。ここには、単なる神の祝福を祈るというだけでなく、その友を派遣する意味が込められています。つまり、私たちは神のみこころを行なうキリスト者と意識して日々を過ごすのです。友との別れに際して、私たちは私たちの生きる姿勢を確認しながら、信頼すべき神にその友を委ねるのです。私たちの日々はこのような友の祈りによって支えられているということは何と心強いことでしょう。
 礼拝もまた祝祷を持って終わります。この所から送り出されて、また再び帰るまでの間、神が私たちと共にあり、私たちの歩みを守り導いてくださるように。様々な事情で礼拝時間に間に合わないということがあるかもしれません。けれど、もしこの祝祷に間に合うのなら、十分礼拝に来る価値があります。私はこの祈りこそが私たちの信仰生活の生命線だと思うのです。

170115 ヘブル13:18-19 「兄弟の祈りに支えられて」

ヘブル13:18-19 「兄弟の祈りに支えられて」

 今日のところで著者は、私たちのために祈ってください。と繰り返し依頼しています。ヘブル書は著者が確定した書ではありませんが、ここらへんの記述はとてもパウロ的です。ローマ書やエペソ書、テサロニケの手紙などにも同様の祈りの要請があります。迫害や牢獄、難破や漂流、様々な困難を経験したパウロや、このへブル書の著者が、それでも最後まで福音宣教に従事したその秘訣はどこにあるのか。それがこの兄弟たちのとりなしの祈りでした。
 祈りの重要性については、皆さんもよく聞くところではないでしょうか。祈りとは神との対話であり、対話無くして関係を築くことはできません。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と言っています。神を賛美し、神の御心を願い、神にとりなしの祈りをする。私たちはその大事さを重々承知しているのです。にもかかわらず、信仰生活においては、時に祈れないということが少なくありません。
 例えば、祈っても祈っても聞かれないとき、私たちはそれ以上祈ることができなくなってしまいます。降り掛かった試練があまりにも大きくて、苦しくて、祈れない。祈りたくない。ということもあります。また、こんな自分勝手な祈りは、とても神さまに聞かせられない。ということもあるかもしれません。このことはたとえ神様であってもどうしようもない、と諦めてしまうこともあるでしょう。ともかく、私たちは時に、祈りたくても祈れない。祈りたくない。ということがある。そして、どう祈ったら良いのかわからない。ということがあるのです。
 そんな時です。私のために祈ってくれる友の祈りというものが、どれほどの慰めであり、励ましでありましょうか。
 中には祈られることに抵抗を感じる方がおられるかもしれません。それは、自分の弱さを相手にさらけ出すことだからです。社会にあっては、それは時に致命傷だったりもします。弱さは付け込まれ、脅しの種になる。だから必死に強がって、弱い素振りは見せられません。けれど教会までそうである必要はありません。私たちは、父なる神の前に何の誇るところのない罪人であることを共有した兄弟姉妹だからです。
 祈ることは信仰生活の土台です。同時に祈られることは信仰生活の砦です。私たちはもっと積極的に祈られるべきではないでしょうか。それはすなわち、目の前の兄弟姉妹をもっと信頼すべきということです。自分が一人で立っていると思うのは間違いです。私の弱さに同情し、とりなしてくれるのが兄弟姉妹です。実は今も、私たちは兄弟姉妹の祈りの中で支えられているのです。

170108 ヘブル13:7-17 「信仰の先達者たちにならって」

ヘブル13:7-17 「信仰の先達者たちにならって」

 へブル人への手紙はユダヤ教に引き戻そうとする人々の迫害に遭い、心揺れ動いている、そんなクリスチャンに宛てられた手紙です。彼らには常に心を迷わせる誘惑がありました。それは再び幕屋で仕える者になるという誘惑、つまりユダヤ人の社会に復帰するという誘惑です。ユダヤ人でありながらキリスト者となった彼らは、イエスさまを救い主と信じることについては確信に至っても、ユダヤ人社会から出るということに関しては躊躇するのです。
 こういう感覚はよくわかる気がします。個人的にはイエス様を信じても、地域や家族の目が合って信仰に入れないということがあるからです。特に地方に行きますと、こういうことは少なくありません。と言いますのも、地方では、住む町、住む村がまるごと神社やお寺の檀家となっている場合が結構あります。そのような中で、クリスチャンになるということは、ある意味、その社会から離脱することだからです。人と人との関係が希薄な都会なら、問題にならないかもしれません。けれど、村の殆どが親族郎党というような田舎にあっては、一人異なる信仰を持つことがいったいどれほどのプレッシャーでありましょうか。いえいえ、たとえ都会であろうとも、家族であるとか、クラスであるとか、職場であるとか、私たちが普段過ごす社会の中で一人信仰を持つということに、躊躇するのは当然のことであります。
 私たちは宿営の中に留まりたい。けれど、イエス様は門の外で苦しみを受けられたのだとへブル書は語るのです。伝統や文化、古い教えに留まることはある意味安心です。井の中にある蛙は平和かもしれません。けれど、井戸の水が無くなれば、蛙は干からびるしかありません。まだ見ぬ大海は不安ですけれども、イエス様と共にあること、神の御声に従って踏み出すことが大事なのです。
 指導者たちのことを思い出しなさい。とあります。そして、その生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさいともです。信仰は単なる儀式や知識ではありません。神に従うことに、様々な喜びも困難も経験しながら、それでも尚、神の御心の内に生きる。それが信仰の歩みです。私たちはアブラハムやモーセの神話化された成功譚ではなくて、そういった葛藤や挫折を織り交ぜたところの等身大の生き様にならうのです。ノアは神のことばを信じて、馬鹿げた箱舟造りに着手しました。アブラハムはまだ見ぬ祝福を求めて、行先も知らぬ旅に出ました。モーセは神の使命に従って王族としてのいっさいの生活を捨てました。それは日常の変化を伴います。新しいことには困難が付き物です。けれど、大事なのは「結末をよく見る」ことなのです。
 アブラハムやモーセの生き方にならえと言われれば、私たちは正直、躊躇するかもしれません。私たちは思います。「あんな波瀾万丈の人生は私の願うところではない」とです。けれど、私たちは彼らの結末をよく見なければなりません。彼らはその信仰のゆえに、約束のものを得たのです。ここが大事です。結末を抜きにして、今だけを見ているわけにはいきません。肝心なものを失ってしまうことになり兼ねないのです。

161106 ヘブル13:4-6 「いま持っているもので」

ヘブル13:4-6 「いま持っているもので」

 イエス様はここでさらに具体的な信仰生活の実践が語られています。それは結婚と金銭についてです。
 4節「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」不品行は日常的な性的不道徳を意味し、姦淫は結婚外の男女の肉体関係を意味します。どちらも結婚という祝福を汚す行為であり、聖書は信仰者にこれを避けるようにと命じています。何を今更と思われるでしょうか。そんなことは当たり前じゃないかと。けれど、考えてみますと、当たり前じゃないんですね。現代の世にあっては、たとえば結婚をするまで純潔をまもるだとか、生涯、夫婦で添い遂げるだとか、そういう価値観は、まるで古い化石のような扱いを受けています。それは世にあっては、もはや当たり前じゃない価値観に成り下がっているんですね。しかし、だからこそ、聖書ははっきりと言います。寝床を汚してはいけません。とです。結婚の祝福に留まるように。とです。なぜなら、それらの悪は全て、結婚という尊い関係を汚してしまう行為に他ならないからです。
 5節「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」これもまた、古めかしい教えだという声が聞こえてきそうです。金銭を愛して何が悪い。それが資本主義と言うものだとです。けれど、そのお金が原因で起こる事件が後を断ちません。相続を機に、家族に争いが起こったという話をよく聞きます。時に殺人すらも起こります。お金があれば何でもできると勘違いする人が巷には溢れかえっています。犯罪ですら、お金で揉み消すということが実際にあるくらいです。お金は力です。お金は私たちの生活を保証し、私たちの価値すらも高めてくれます。お金さえあれば幸せが約束されているように思います。けれど、だからこそ、私たちはそれに囚われる人生を送ってはいけません。私たちの人生を保証するのは神ただお一人です。お金ではありません。それはいつ失われるかわからない頼りないものです。
 大事なのは、結婚にせよ、金銭にせよ、「いま持っているもので満足する」ということでありましょう。私たちはたくさんのものを持っています。今日必要なものをいただいています。私たちはこれを感謝すべきです。他人と見て、比べるとダメですね。あれが足りない。これが足りない。とすぐに思います。あれがあればもっと幸せでいられるのに。これがないと幸せには決してなれない。そうやって足りないものばかりを見ている人生は、決して幸せは得られません。いやいや、足りないのは、今あるものへの感謝です。足りない何かではなくて、与えられているものに目を向ける時、初めて、私たちの人生は豊かなものとされるのです。
 私たちは今日という日を自分の力で生きていると思っています。けれど、実はそうではありません。私たちは今日を生かされているのです。主の豊かな恵みによって養われています。だからこそ、主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束してくださることが、私たちの喜びとなるのです。主とともにいることの幸いを覚えるとき、私たちはこの世の何を失うことも恐れません。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このように告白することのできる人生は、何と平安でありましょうか。
 欲を満たす人生に際限はありません。。私たちは今持っているもので満足する。今あるものを感謝するのです。もし、私たちが、今日を生かされているということに目を向けるなら、私たちの人生はたちまち豊かなものへと変わるのです。

161002 ヘブル13:1-3 「兄弟愛を持って」

ヘブル13:1-3 「兄弟愛を持って」

 兄弟というのは、不思議な関係です。兄、弟と言いますと何か切っても切れない特別の関係のように思えるわけですけれども、法的に関係を数えると、それは2親等です。兄弟は直接的な関係のようでいて、実際は親を経由しての関係というわけです。1節には「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。では兄弟愛とはいったい何なのでしょう。それはつまり、同じ父を持つ者同士の愛ということです。もちろん血縁の兄弟ではありません。私たちはイエス様の贖いのゆえに、罪赦され、父なる神の子となる特権をいただいた者。つまり父なる神の養子です。それゆえ、私たちは兄弟姉妹とされたのです。ですから私たち兄弟姉妹の関係とは、父なる神を介しての関係です。普段何気なく話して接しているようですけれども、そこにいる兄弟は、神の子として繋がる兄弟。同じ父を持つところの姉妹なんですね。もしも、父なる神との関係を失えば、兄弟姉妹の関係をも失ってしまう。父ありきの関係というわけです。ですから、私たちは兄弟愛を考えるとき、まず自分自身が神としっかりと結びついている必要があります。その上で、共に同じ恵みに与る者としての交わりが生まれるのです。
 教会は清く正しい者の集まりではありません。そうであれば、ここに私の居場所はありません。そうではなくて、赦された罪人の集まりです。神の憐れみのゆえに、一方的に救いに与り、神の子とされた者の集まりです。ですから、教会には生々しい衝突や問題が起こり得るのです。そんな時、私たちは互いが兄弟としてある関係であることをきちんと見て取る必要があります。つまり、父なる神を介して結ばれた関係です。
 私が父なる神に愛されたように、この兄弟も愛されている。私のためにイエス様がいのちを捨てられたように、目の前のこの姉妹のためにもイエス様はいのちを捨てられた。そういう間接的な見方を持つのです。私たちはどれだけ親しい間柄であろうとも、いえ、親しくなって距離が近くなるほど、相手の嫌な部分も見えてきます。自分とは違う受け入れられない部分が気になってきます。これは結婚された方には特にわかるところではないでしょうか。恋人同士のきらびやかな関係ではありません。身近だけに、今まで見えていなかった現実が見えてくる結婚生活。私たちは着飾った相手ではなくて、素の相手を見るようになります。もし私たちがお互いを直接に結びつけようとするなら、私たちはそういった違いばかりが目についてしまうでしょう。けれど、私たちは互いの間に、父なる神を見る者です。子なるキリストの十字架を見る者です。そうすることで、私たちはその目の前の兄弟姉妹を、心から愛せるようになるのです
 2節、3節では、具体的な愛し方が記されます。それは、形ある行為として相手をもてなすということ。そして、相手に寄り添う思いやりの気持ちをもって行うということです。父なる神を間において、私たちは相手の弱さを受け止めるができるようになります。しかし、それは強者の施しではありません。自分自身が恵みのゆえに救われた者に過ぎないことを知り、それゆえ、相手の弱さに寄り添うのです。自分も肉体を持っている。罪も弱さも抱える身である。だからこそ、私たちは目の前の兄弟を心から思いやることができるのです。