ミカ5:2 「王の王が来られる」
東方の博士たちがヘロデ王にユダヤ人の王の誕生を尋ねた時、ヘロデは学者たちにことの真相を確かめさせます。その時、学者たちが口にしたのがこのミカの預言でした。
ミカはイザヤとほぼ同時期の預言者です。その頃アッシリアの南下政策が始まり、北イスラエルはアラムと連合してこれに対抗しようといたしました。けれどミカは、この目論見は破れ、サマリヤは陥落すると預言します。そして、その裁きはサマリヤに留まらず、ユダにも及ぶと警告するのです。
ユダでは、富める者たちの横暴に目が余るものがありました。ミカ2:1-2には「わざわいだ。不法を謀り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々を取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。」とあり、これに対して主は3節で、わざわいを宣言なさいます。同様のやり取りはミカ書で頻繁に見られます。ミカ書で記される救い主の姿は、不法を謀る者を滅ぼし、この地に正義をもたらされる勝利の主なのです。一方で2:12―13節では、「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」と言われます。主は、追いやられ、はぎ取られ、安らぎを失って、それでも尚主の下に残るその民を一つに集めて、彼らの前に立って自ら道を切り拓くとおっしゃられるのです。徹底的な主の裁きと尚も残る民への主の憐み。これがミカの預言の特徴です。そして、今日の箇所でその「治める者」が最も小さいベツレヘム・エフラテから出ると預言されるのです。
さて、ここで私たちは疑問に思うのです。ミカ書の語る救い主の姿は、主イエスの到来によって否定された、政治的解放者の姿ではないでしょうか。ですから、イエス様の誕生の時代、ユダヤ人たちがローマの支配からの脱却。ダビデ王の再来を願い求めたのは当然のことではないでしょうか。それはミカ書が記しているところです。けれど、私たちはイエス様がそのような意味での救い主では無かったことを知っています。イエス様はユダヤを独立させるために来たのではなくて、人々の罪を贖うために、御自身を捨てて、犠牲となられて、神との和解の道を整えるために来られたお方でした。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」生贄の羊。これがイエス様では無かったでしょうか。ミカの預言は、何となくこのイエス様のイメージと重ならないのです。どういうことか。紐解く鍵は黙示録にあります。17:14「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」ユダヤで子羊というのは普通、生贄の羊を指すわけですが、再臨の折に来られる子羊は勝利の主なのです。
つまり何が言いたいかと言いますと、すでにキリストの誕生を経験する私たちは、クリスマスに、キリストの誕生の恵みを覚えるとともに、再臨のキリストを意識する必要があるということです。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス様は、私たちに和解と愛のメッセージを伝えます。けれど、同時に、このお方はやがて来られ、全ての悪を滅ぼし尽くされるお方なのです。ですから、私たちは、みどり子の誕生を覚えながら、自身がこの統治者のもとに残る民、「召されて選ばれた忠実な者たち」であることを自覚しなければならないのです。羊飼いたちも、東方の博士たちも、私たちも、王を迎える忠実な臣下としてこのお方の前に膝を曲げるのです。王の到来を喜び、王の凱旋に真っ先に駆けつける忠実な僕であることが求められるのです。聖霊の助けをいただき、公正を行い、誠実を愛し、へりくだり、主人と共にあるしもべでありたいと願うのです。
東方の博士たちがヘロデ王にユダヤ人の王の誕生を尋ねた時、ヘロデは学者たちにことの真相を確かめさせます。その時、学者たちが口にしたのがこのミカの預言でした。
ミカはイザヤとほぼ同時期の預言者です。その頃アッシリアの南下政策が始まり、北イスラエルはアラムと連合してこれに対抗しようといたしました。けれどミカは、この目論見は破れ、サマリヤは陥落すると預言します。そして、その裁きはサマリヤに留まらず、ユダにも及ぶと警告するのです。
ユダでは、富める者たちの横暴に目が余るものがありました。ミカ2:1-2には「わざわいだ。不法を謀り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々を取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。」とあり、これに対して主は3節で、わざわいを宣言なさいます。同様のやり取りはミカ書で頻繁に見られます。ミカ書で記される救い主の姿は、不法を謀る者を滅ぼし、この地に正義をもたらされる勝利の主なのです。一方で2:12―13節では、「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」と言われます。主は、追いやられ、はぎ取られ、安らぎを失って、それでも尚主の下に残るその民を一つに集めて、彼らの前に立って自ら道を切り拓くとおっしゃられるのです。徹底的な主の裁きと尚も残る民への主の憐み。これがミカの預言の特徴です。そして、今日の箇所でその「治める者」が最も小さいベツレヘム・エフラテから出ると預言されるのです。
さて、ここで私たちは疑問に思うのです。ミカ書の語る救い主の姿は、主イエスの到来によって否定された、政治的解放者の姿ではないでしょうか。ですから、イエス様の誕生の時代、ユダヤ人たちがローマの支配からの脱却。ダビデ王の再来を願い求めたのは当然のことではないでしょうか。それはミカ書が記しているところです。けれど、私たちはイエス様がそのような意味での救い主では無かったことを知っています。イエス様はユダヤを独立させるために来たのではなくて、人々の罪を贖うために、御自身を捨てて、犠牲となられて、神との和解の道を整えるために来られたお方でした。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」生贄の羊。これがイエス様では無かったでしょうか。ミカの預言は、何となくこのイエス様のイメージと重ならないのです。どういうことか。紐解く鍵は黙示録にあります。17:14「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」ユダヤで子羊というのは普通、生贄の羊を指すわけですが、再臨の折に来られる子羊は勝利の主なのです。
つまり何が言いたいかと言いますと、すでにキリストの誕生を経験する私たちは、クリスマスに、キリストの誕生の恵みを覚えるとともに、再臨のキリストを意識する必要があるということです。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス様は、私たちに和解と愛のメッセージを伝えます。けれど、同時に、このお方はやがて来られ、全ての悪を滅ぼし尽くされるお方なのです。ですから、私たちは、みどり子の誕生を覚えながら、自身がこの統治者のもとに残る民、「召されて選ばれた忠実な者たち」であることを自覚しなければならないのです。羊飼いたちも、東方の博士たちも、私たちも、王を迎える忠実な臣下としてこのお方の前に膝を曲げるのです。王の到来を喜び、王の凱旋に真っ先に駆けつける忠実な僕であることが求められるのです。聖霊の助けをいただき、公正を行い、誠実を愛し、へりくだり、主人と共にあるしもべでありたいと願うのです。