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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201028 エレミヤ31:23-40 「新しい契約」

エレミヤ31:23-40 「新しい契約」

 31章はイスラエルの回復が語られる箇所です。けれど、ここで言うイスラエルは種族的な意味でのイスラエルということを超えて、新しい神の民の回復として記されています。このことは当時の人々には理解できないことでしょう。けれど、私たちはこれをイエス・キリストの到来によって知っています。31節から34節の部分はそのままへブル書にも引用されているほどで、旧約聖書の中心聖句と言っても過言ではない重要な箇所です。
 このところで注目すべきは、神の裁きと救いを契約と言う概念で説明している点です。実は神と人との関係はこの契約という視点を抜きに理解することはできません。この箇所の理解が、旧約と新約の神理解を左右するのです。
 あらゆる契約は守られるという信頼のもとに成り立っています。そうでなければ、商売なんてものは怖くてやってられません。そのときの都合で、白紙にしてもいいということになれば、誰も信用できなくなってしまいます。お互い、契約を守って破らない。そういう信頼関係の中で初めてあらゆる契約は成立するわけです。これは商売にせよ、結婚にせよ同じです。お互いが誓約を守って破らない。そういう信頼関係によって夫婦というものは成り立っています。いつ相手が誓約を破るかわからない。いやもう破られているかもしれない。と、そんな風に夫婦がお互いを思うようであれば、決して相手を信頼することはできません。ですから、契約は守らなければならないものですし、もしそれが破られればそれ相応の罰、担保を取られるとか、懲役が科せられる、といった罰を規定することは当然のことと言えるでしょう。そうでなければ正義が通りません。
 他のあらゆる契約関係と同じように、神と人との関係も、お互いが契約を破らないという信頼関係を前提にして結ばれるものです。シナイ契約の折、民は神に誓いました。「【主】の言われたことはすべて行います。」(出エジプト19:8)それも3度繰り返して誓いました。「主の仰せられたことは、みな行います。」(出エジプト24:3)「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」(出エジプト24:7)神はこの民の誓いを信頼されたのです。にも関わらず、彼らは契約を一方的に反故にしてしまいました。ですから、本当は契約違反で罰せられるところです。と言いますか、罰せられなければ、正義が通らないのです。なのに、神は民を罰する代わりに、新しい契約を用意されると言うのです。
 これを聞く民は、国の滅びを見ています。今、彼らは自らの罪の結果を噛みしめている。この痛みの中でようやく己の愚かさに目が開かれるところです。彼らは捕囚の地で信仰を取り戻していくのです。ですから契約は新しくされずとも、更新されればそれで済む話のようにも思えます。また頑張れよ。やり直して行けよ。だからもう一度機会を与えるよ。今まで主はそのようにされてきました。けれど、もはや契約は更新ではなくて、全く新しいものへと結び直されます。なぜなら更新するだけではそれが全うされることは無いことを主はご存知だからです。
 初めの契約は不完全でありました。と言っても契約自体に不備があったのではありません。不備があったのは契約者の素質です。この契約で欠けていた部分は契約の一端を握る民が根本的に不誠実で罪を抱えた存在であったということです。それゆえ、神は古い契約についての贖いの血をイエス様の犠牲よって果たし、新しい契約の成就をイエス様の復活によって確立します。新しい契約は神と民ではなく、神と人となりしイエス様との間で結ばれるのです。だからこそ、この契約に一切の欠けはなく、不備によって再び解除されることはありません。そしてこの契約の効用はイエスを主とする全ての者に適用されるのです。「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。もはやこの契約は律法を行うことによるのではありません。心の内に神の言葉なるキリストを迎える者が神の民となるのです。

201014 エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

 この時代の王たちは少し混み合っていまして、ヨシヤ王の死後、エジプトとバビロンと言う2つの強国によって立て続けに傀儡の王が立てられ、やがてバビロンによってユダの国は滅亡いたします。エレミヤ22章ではヨシヤ王より後の亡国の王たちに向けられた預言が順番に並べて記されています。第2列王記23-24章と重ね合わせながら読むと背景がわかります。
 ヨシヤ王がエジプトの王ネコによって殺されたとき、息子エホアハズ(シャルム)が民の支持を受けて王を継ぎますが、エジプト王によってわずか3カ月で退位させられてしまいます。彼はエジプトに連れられ、その地で死ぬこととなります。エジプト王はエホアハズの代わりに、腹違いの兄弟エホヤキムを王に就かせます。ところが、このエホヤキム王の時代にバビロンが攻め上って来て、彼は捕えられるのです。宗主国エジプトは助けてはくれませんでした。カルケミシュの戦いでエジプトもまたバビロンによって敗北していたからです。この時ダニエルを初め、多くの民と財宝が奪い去られる第1回バビロン捕囚がなされます。エホヤキムはエジプトを頼って3年の後バビロンに反逆しますが、バビロン配下にあるカルデア・アラム・モアブ・アンモンの略奪隊によって逆に攻められ、ますます国を危機に陥れることとなるのです。エレミヤ22:13-19にはエホヤキムが自分の利得のために、罪のない者の血を流し、暴虐を行なっていたことが記されています。それゆえ、主は言われます。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」事実彼の死は誰からも悼まれず、その遺体は王の墓に葬られることすらありません。エルサレムから遠く離れたところに、野ざらしに投げ捨てられるのです。極めつけは、彼の名前はマタイの系図からも省かれるほどであります。民を顧みない君主の末路がここにあるのです。
 さて、エホヤキムの浅はかな反逆の結果、バビロンによる事実上の報復を受けることとなったのは、エホヤキムの子エホヤキンでした。バビロンは再び攻め上り、エルサレムは完全に包囲されてしまいます。エホヤキンは降伏して捕虜とされ、民とともにバビロンに捕囚されます。第2回バビロン捕囚です。この時の捕囚は大変大規模なもので、バビロン王はエホヤキンと共にユダの国の主だった者たち(高官、有力者、職人や鍛冶)をバビロンへと連れて帰り、ユダの地に残ったのは貧しい民衆のみとなりました。このエホヤキンに向けて語られた預言がエレミヤ22:24以下に記されます。「あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」この預言の通りエホヤキンは生きて祖国に帰ることはありませんでした。けれど、主は憐み深い方でした。30節には「彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」とありますが、確かにこの予言通りユダ王朝は滅びます。しかし彼の子孫から、やがて王の王であられるイエス様がお生まれになるのです。
 さて、政治を司る王に対する神からの命令は22:3にありますように、「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。」というものです。これは時代を超えて、世の統治者に求められる役割です。政治は公正と正義、そして福祉のためにあると主ははっきりと語っておられるのです。けれど、ユダの王はどうだったでしょう。自身の利得のために政治を利用し、また個人的な野心やプライドで国の舵取りを行い、結果、国を滅ぼすこととなりました。聖書は世の権威に従うようにと言います。けれど、政治が「公正と正義、そして福祉」のために働かない時には、預言者はその誤りを正すために警告する使命を帯びているのです。教会は現代における預言者です。語るべき言葉を発するために大切なことは、神のことばで警告するということ。そして、私たち自身が公正と正義と福祉に励んでいるということです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第1ペテロ3:15)とありますが、弁明できる用意とは単に字面だけのことではありません。語る言葉に説得力を持たせるのは、その人がその言葉通りに生きているかどうかです。私たちが今日御言葉に従順であることが問われるのです。

200930 エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

 今日のところの冒頭で、主の裁きの行き着く先が記されています。「人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、エルサレムの住民の骨を、墓から取り出し、それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。」とありますが、罪に対する責任は死んだ者にまで及ぶと言うのです。また、生き残っている者は全ての場所で死を選ぶようになるともあります。死んで責任を取るという考えがありますが、それでは何の責任も取れないと神は言われるのです。それらは責任を放棄することでしかなく、責任を取ることでは決してありません。罪ある者はむしろいのちを選ぶことでその責任を取らなければならないのです。けれど、人々は自分の好き放題に生き、その責任が問われれば、今度は安易に死を選ぶようになる。あまりに辛い現実に死んで逃れようとするのです。けれどその裁きは死して後も問われます。永遠の神への反逆は永遠の刑罰を意味するからです。
 4節から13節。裁きをもたらさざるを得ない主の嘆きが語られます。それはどこまでも立ち返ることのない民へ向けられた主の痛み。悲しみ。18節で「私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。」とエレミヤの心境が綴られていますが、それは同時に主なる神の心境に他なりません。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰ってくるものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。」起き上がれば、帰ってきさえすれば。背信を悔い改めさえすれば。その先は言わずもがなの話です。放蕩息子を送り出した父の心境です。父はその日からずっと息子が帰るのを待ち続けました。ただ赦すために。ただ受け入れるために。主の裁きは赦すことを前提にしています。どのように厳しい裁きも、その者が立ち返ることを望んでのこと。それは全て愛から来ています。にも関わらず、一向に帰ることをしない民。「自分の悪を悔いる者は、一人もいない。」「鳥すらも自分の帰る時を守る」というのに。「しかし、わが民は主の定めを知らない。」
 そこには「平安だ、平安だ」と、安易に民の傷を手当する偽教師たちの存在がいます。そしてその甘い言葉を聞いて安心しようとする現実逃避した民の姿があります。一番の問題は、己の非を認められないことにあるのです。間違いを指摘されて、それを素直に聞き入れることができる人は幸いです。けれど、多くの人はそれが認められません。「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」とあります。なぜでしょう。試練に納得できない私たちは言います。「私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。」神がそれを定めたのだ。主が毒を飲ませられるのだ。なんて酷い仕打ちなんだ。とです。けれど、そこには明確な理由があります。「私たちが主に罪を犯したから」です。私たちは物事の現象にばかり目が行って、なぜこんなことをと嘆き叫びます。けれど、その現象がもたらされるそもそもの原因には目を向けようとはいたしません。私たちは神についてあまりにも無知です。神の立場に立って物事を見返してみれば、そこには全く違う状況があります。一つの現象の中に、神は私たちと全く違うものを期待し見ておられるのです。バビロン捕囚はユダの王にとって、民にとって、ただの災厄でしかありませんでした。けれど、神にとっては民に気付かせるための懲らしめでありました。嘆くべきは滅ぼされるまで気付くことの無い己の無知でありましょう。再三に渡る忠告に耳を塞いできた恐れの無さでありましょう。事ここに至る前に、気付けたらどれだけ良かったかことでしょう。
 裁きの日がやって来ます。主の約束は確かです。私たちはその日嘆いても遅いのです。主が待っていてくださっている間に嘆くべきです。主が赦しを用意しておられる間に立ち返るべきです。明日ではない、今、主の御声に聞き従うべきなのです。

200923 エレミヤ4:19-31 「叱責の裏で」

エレミヤ4:19-31 「叱責の裏で」

 今日の箇所の前後を少し見て見ましょう。5-9節で神はユダとエルサレムに向けて北からのわざわい、大いなる破壊をもたらすと言います。だから自分の身を守れ。城壁のある町に逃れよ。と警告されています。10節、これに対して、エレミヤは神がかつて約束された平和を持ち出して訴えますが、神の回答はさらに激しい裁きのお告げでした。それは北からの軍勢。唯一逃れる道は、悪から心を洗いきよめることだと言われます。「自らの反逆の心を探れ」と神は言われるのです。18節には「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」とあります。神にすがるにはもう時期を逸しています。あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。こう言わざるを得ない父なる神の痛みとはいかほどでありましょう。
 今日の箇所である19節からで、エレミヤはあまりにも厳しい神の裁きの宣告に、はらわたを悶えながら、悟ります。神の怒りと悲しみの前に、もはや裁きを逃れる手立てがないことをです。彼の目に見えるのは、荒野と化すユダの町々の様子。そこには人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていました。もはやこの裁きを受けることで、せめて民が目を覚ますことを願うばかりのエレミヤです。彼の内に残されている一縷の希望は「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」という神のことばのみです。
 5:1-2 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。彼らが、【主】は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」主の裁きを謙虚に受け止めることが、どれほど大事であるかが教えられます。「主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」私たちは神の愛を盾にして、どれほど自らの生き方に甘えを持っているでしょうか。主の怒りは、主の腹立たしさであり、主の歯痒さであります。なぜ気付けないのか。なぜ焦らないのか。なぜ叫ばないのか。戦争も、疫病も、災害も、それ自体を主の怒りのゆえと言うことは簡単ですが、乱暴だし、言うべきでないのかもしれません。けれど、あらゆる災いや試練の中で自らの歩みを省みることに、信仰者は謙虚で思慮深くなければならない。と教えられるのです。
 5:11-13に「実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──【主】のことば──彼らは【主】を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。自分に神の裁きが向けられていると認めることは本当に難しいことです。そしてそのことに気付いて本気で自分を変えようとすることは尚難しいです。けれど、見て見ない振りをしても、そこには何の解決もありません。見たくない現実に聞きたくない忠告。それを認め、それに真摯に耳を傾けることこそが、主への従順の第一歩です。厳しい口調の裏に秘められた主の眼差しを忘れてはいけません。主の愛は見ない振りをする愛ではありません。見放す愛ではありません。
 エレミヤ31:20 「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば──」主の裁きの声にエレミヤは、はらわたを悶えて悲しみました。けれど、はらわたをわななかせ、あわれんでおられたのは他でもない主ご自身なのです。私たちに向けて語られる叱責の裏で、どれほど主が私たちを憐れみ、惜しんでおられるか。私たちはその主の御旨を理解して、謙虚に主の言葉に自らの生き方を照らし合わせて行きたいと思うのです。

191229 エレミヤ31:15-22 「はらわたはわななき」

エレミヤ31:15-22「はらわたはわななき」

 ヘロデは東方の博士の到来によって、救い主の誕生の知らせを知ります。しかし、それは自らの地位を脅かす存在に成りかねません。ヘロデはこの時、「救い主がどこで生まれるか教えてくれ。私も行って礼拝したいから」と言って、博士たちに詳細を報告するように命じますが、博士たちは赤ん坊のイエス様を礼拝した後、主の御告げに従って、別の道を帰って行きました。ヘロデは待てども待てども報告がないことが不安で仕方ありません。ヘロデは不安の種を根絶やしにするために、ベツレヘムの2歳以下の男の子の虐殺を命じます。そして、聖書はこの出来事をエレミヤの預言の成就と絡めて紹介しているのです。
 さて、イエス様の誕生がきっかけとなってベツレヘムの男の子が根絶やしにされる。そしてこれが預言の成就であると語られる。何とも理不尽に思うこの出来事を、私たちはどのように理解すれば良いのでしょうか。
 ある人は神のご計画の不備を指摘して文句を言うことでしょうか。なぜ神はこんな酷い出来事を遥か以前に知っておいて許すのか、とです。また、ある人はイエス様とその家族のご都合主義の逃亡劇に、納得がいかず糾弾することでしょうか。なんだイエス様も、自分さえ残虐を逃れさえすれば良いのか、とです。
 預言の成就と言われれば、なぜ神様はこんなことを、と私たちは思うわけです。けれど、本当にそうなのでしょうか。母たちの涙、絶望、子を奪われる惨劇。エレミヤはその預言から、何を語っていたのでしょうか。
 エレミヤが語るラケルの涙。それは、これから起こるバビロン捕囚を預言した言葉でありました。しかし、言葉は続きます。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」とであります。バビロン捕囚という途方も無い悲しみが起こる。けれど、泣くなと。目の涙をとどめよ。と主は言われるのです。なぜなら、「彼らは敵の国から帰ってくる。あなたの将来には望みがある」からです。実は、これこそがエレミヤの預言の中心でありました。これからバビロン捕囚が起こる。民はこの約束の土地を失う。自分たちの子どもが、そして子孫が安心して暮らすその日々はもはや失われる。希望が失われる。けれど、その絶望の中で、エフライムは、神の民は自らを悔い、まことの神に立ち返ることを知る。だから、これから起こる困難の中で、諦めてしまうなと。このことのゆえに神を見い出せと。私の下に立ち帰れと。これこそがエレミヤの語る預言の真意でありました。
 エレミヤ31:20、民に向けられる主の心の内が吐露されています。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」天地万物の創り主であられるお方。ご自身の存在に、他の何者をも必要とされない唯一のお方。「わたしはある」と言われるそのお方が、民の苦しみを前に「はらわたがわななき、あわれまずにはいられない」と、吐露されておられます。これが主の心の内なのです。
 イエス様が生まれたから、エルサレムの男の子が殺されたのではありません。逆です。自分の権力を守るために、多くの命を犠牲にして何ら心を傷めない、そういう現実の世に、イエス様がお生まれくださったのです。神との関係の中で、あるべき被造物としての分を超えて、自らを神の如く振る舞う、罪のゆえに歪んだ世界にイエス様はお生まれになられたのです。ベツレヘムでの凄惨な事件は、私たちの日常にも起こります。バビロン捕囚は、私たちの人生の旅路にも起こり得ます。それは私たちにとって、どうにもならない絶望のように感じます。けれど、忘れてはならないのは、その絶望ように思える現実に置かれた私たちを、はらわたがわななき、あわれまずにはいられないと、想いを向けてくださるお方が確かにいるということです。そして、そのお方は、「あなたの将来には望みがある。」とおっしゃられるのです。