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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200226 レビ記24 「同等報復の原則」

レビ記24 「同等報復の原則」

 1-4節 聖所の灯火をともすことについて記されています。質の良い純粋なオリーブ油を持って来るようにと。普通、油は食用でもなければ質を求められません。灯火につかう油は、むしろ粗悪な油であることが多いのです。別に油が粗悪でも、火を灯す用は足すからです。けれど聖所の灯火に用いられる油は最高のものが求められました。そして夕方から朝まで、主の前に絶えず灯火を掲げることが代々守るべき永遠の掟であるとされました。闇を照らす灯りを絶えず掲げよとの教えであります。詩篇119:105には「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」とあります。また、マタイ5:16には「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」ともあります。聖所を持たない私たちですが、しかし教会は闇を照らす灯火を掲げる使命を帯びているのです。夜の間中、つまり闇の世において、私たちは世の光となることが求められている。みことばの光を携えて。そして、私たちの良い行いを携えてであります。そのためには使い古した油ではいけません。新しい油を用意しなければなりません。
 5-9節 続けて輪型のパンの捧げ物について記されます。捧げられるパンは安息日毎に新しいものとされました。その数12個。12はもちろん12部族を表しています。イスラエルの民は、安息日毎に自分たちの部族を象徴する新しいパンを捧げたということです。これはつまり、神の民は週ごとに新しいものとされ、主の御前に捧げられるということです。日曜日の礼拝を単なる単なる宗教的ノルマとしてはいけません。それは私たちがみ前に捧げられる出来事です。1週間、色んな心配事が私たちの肩に圧し掛かります。時に御言葉に聞けないことも、祈れないこともあります。神の前に相応しくない己を恥じて、とても顔向けできないこともあります。けれど、私たちは週の初めの礼拝で新しくされ、もう一度主の御前に捧げられるのです。主の御前に受け入れられ、もう一度使命を帯びて立ち上がるのです。週の初めに礼拝を持つ。これは弱い私たちが信仰の競争を走りきるための給水地点のようなものです。息も絶え絶えに走る私たちはその給水地点でもう一度力を頂き、決意新たに再スタートを切るのです。

 10-23節 神の御名を冒涜することへの裁きが記されています。イスラエル人の母シュロミテの息子が起こした神の御名への冒涜行為の記事。私たちから見れば、情状酌量の余地があるのではないかと思わなくもありません。彼がイスラエル人と争ったのは、恐らくはエジプト人を父としていたことによって、あらぬ偏見や差別を受けていたからかもしれません。そして喧嘩をすれば、冷静ではいられず、売り言葉に買い言葉。遂には神の御名を冒涜したというのが実際ではなかったか。しかし、事情はどうであれ、彼の冒涜が許されるわけではありません。神の御名を冒涜することは、どのような理由があるにせよ、石打ちの刑に処せられるのです。そしてその理由として、同等報復の原則が語られます。「【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。」「いのちにはいのちをもって償わなければならない。」「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」この同等報復の原則は、もともと、必要以上に報復を重ねたり、エスカレートしてはいけないという抑制が目的でした。また、同等報復が命じられることで、そもそもの犯罪を抑止する目的もありました。けれど、ここでの主旨は、神の御名を冒涜する行為は何であれ死に値するという点にあります。死をもって償わなければならない程に、神を冒涜することは重大な罪だと言うのです。私たちは神を軽んじてはいないかと問わなければなりません。これくらいなら神様も赦してくれるはず。愛なる神は赦して当然。と神に強要してはいないでしょうか。興奮してただけなんです。本心じゃないんです。だからそんなに目くじらを立てなくても、と冗談めかしてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。言葉は心です。思わずこぼれ出たその言葉は、その人が心に貯めこんだ真実を含んでいます。神の御名を冒涜することは、単なる言葉の綾ではありません。それは神の存在を否定すること。神を殺すこと。だから、その神殺しと同等の報復として、その人の死が求められるのです。
 にもかかわらず、私たちはもはやこの同等報復の原則の外に置かれている。実はこれは驚くべき恵みです。Ⅰテモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」私たちが報復を受けずに済んでいるのは、すでに神の義に釣り合った贖いの代価が支払われたからです。キリストの命が代価となった。つまり、神の赦しは、神の私たちへの愛のゆえにではありません。主イエスの犠牲のゆえに。私たちの罪と同等の報復がなされたがゆえなのです。だから罪の赦しに胡坐をかくわけにはいきません。それはキリストの死に胡坐をかくことと同じです。私たちにはキリストの死に釣り合う生き方が求められるのです。

200219 レビ19:19-37 「愛を伴って」

レビ19:19-37 「愛を伴って」

 レビ記19章は18-20章とまとまりの中で、神の民の生活の在り方を規定した箇所です。
 19節は家畜、種、糸、神が造られた創造の秩序を乱して混ざり合うことが禁じられます。そして、それは男女の間に関しても禁じられました。20-22の意味は何でしょう。ここで語られる女奴隷とは、他の男性と婚約関係にはあるけれど、まだ結婚には至っていない女奴隷のことです。姦淫の罪は男女ともに石打ちの刑と決まっていますが、この女性が奴隷ゆえに従わざるを得なかった場合は考慮すると言うことです。しかし、男性の方は違います。たとえ、それが自分の奴隷であり、まだ正式に結婚をしていなかろうと、その者は罪過の生贄として雄羊を捧げなければならないと命じられました。女奴隷が主人の所有物として扱われた当時において、主の命令はその人権を認め、保護するものでした。
 23-25節は果樹の実の刈り取りについて定められています。3年はそのままに置き、4年目は主への捧げ物とし、5年目にその実を収穫する。それは果樹の保護のために大切な決まりとなりました。すぐに手を付けてはならないのです。美味しい実がなるには時間がかかるのです。4年目には立派に育っています。美味しい実がなる。けれど、まだ自らのものにしてはいけません。それは主のものであり、その初物は主に捧げるのです。自由に刈り取りが許されるのは5年目からでした。
 26-31節では異教徒の文化に混ざってはいけないことが命じられます。血が付いたままで食べること。まじない。卜占。びんの毛を剃ること。髭の両端を切ること。死者のための自傷行為。入れ墨(魔除け・所属)。神殿娼婦(アシュタロテなどの神と結び付く行為が勧められた)。霊媒。口寄せ。これらは異教徒の間で宗教的に重要視された行為の数々でした。しかし主の民とされたイスラエルは、主の命じるところに従います。安息日を守り、主の聖所を恐れることです。
 32-34節は、老人や在留異国人の扱いについて命じられます。足腰が立たず、動けなくなった老人は荒野の旅においては、足手まといとして置いて行かれても文句が言えない弱い立場でしたが、主はそのような老人の前に起立し、敬うようにと命じます。また在留異国人に関しては、9-10でも収穫の落ち穂は在留異国人のために残しておかなければならないとあります。在留異国人は、イスラエル人がエジプトでそうだったように、ともすれば奴隷と同じ扱いを受けていましたが、神はそのような在留異国人を同族のように扱うようにと命じるのです。
 35-36節は商売において、不正することの禁止を命じられています。正しい計りを用いなければ、正しく物の量を知ることはできません。不正な計りを用いることはそもそもの基準を失わせることです。神の基準を誤魔化してはならないという普遍的な警告が聞こえてきます。

 全体を通してわかることは、神の民に対して語られたその生き方は、私たちが世の価値観に混ざらないということ。そして、神の価値観は弱い者を保護する視点にあるということです。弱い者を食い物とし、切り捨てる世の中にあって、神が民に期待する生き方は全く違いました。地の塩、世の光として生きるということを考えるとき、それは、私たちがキリスト、キリストと拡声器で触れ回ることではありません。むしろ、私たちの日常の中で、神を意識し、誠実に愛をもって隣人に仕えるということが問われているのです。マインドコントロールや、終末的破滅思想によって恐怖を煽る異端が後を絶ちませんが、彼らの多くはそれを正しいことと信じて真剣に行っています。魂の救いを得るためには、何をしても良いと考えるのです。その結果として魂が救われれば、それはその人にとっても良いことだから。と言う論法です。けれど、主が命じるのは、私たちがまことの神のみを恐れ、私たちのこの交わりの中に愛と慈しみがあることです。教会が、そして私たちが、この世にあって語るべきはもちろん福音です。けれど、福音はそこに愛が無ければ、人々に届くことは決してありません。教会の交わりが弱い者に配慮し、寄り添うものでなくて、誰が福音の実現を見るでしょう。老人、赤ん坊、妊婦、病の中にいる人、様々な不安や責任を抱えて心に余裕がなくなっている人、教会には色々な人が集います。それぞれの人がそのままで受け入れられる交わりを築いていくことができれば、私たちは主の愛の実現として、世に輝くことになるのです。

200129 レビ記11:1-28 「恵みに感謝して」

レビ記11:1-28 「恵みに感謝して」

 11章からは神の民とされたイスラエルが、食べて良いものと悪いものについて記されています。

 1-8 イスラエルが、地上の動物で食べても良いもの。
ひづめが分かれて、完全に割れているもの。反芻するものは食べても良い。しかし、反芻してもひづめが分かれていないものは食べられない(らくだ、岩だぬき、野うさぎ)。ひづめが分かれていても反芻しないので、豚も食べられない。それらの死骸にふれてもいけない。
 9-12 水中にいる生き物で食べても良いもの。
ひれと鱗のあるものは食べても良い。しかし、ひれや鱗のないものは全て忌むべきもの。
 13-19 鳥のうちで食べても良いもの。
具体例を見ると、猛禽類の鳥類が禁じられている。逆に言うと、その他の鳥を食べても良い。鳩や山鳩の類は食べても良い。
 20-23 昆虫で食べても良いもの。
羽があって群生し四つ足で歩き回るものは忌むべきもの。しかし、地上を飛び跳ねるもの(いなご、こおろぎ、ばった類)は、食べても良い。

 さて、この箇所を読んで、地上の動物、水中の動物、空の鳥、昆虫で、きよい動物と汚れた動物の共通の線引はなにかということについて、古来様々に語られてきました。それは草食か肉食かの違いだと言う人もいるし、直接、大地や水などに触れているかどうかだと言う人もいます。そして、それぞれにもっともらしい理由が挙げられています。しかし、この箇所を読んでわかるのは、主があらゆる生き物をイスラエルにとってきよいもの、きよくないものに分けられたということのみです。なぜ分けたか、それは主のご領分です。大事なのは、分けられた生き物。特に食材という最も身近な取捨選択の中で、主の戒めを覚えて生きるということにあるのです。ユダヤ人は今でも豚を食べません。イスラム人も豚やお酒はたとえ食材や調味料としてでも口にしません。後になって、その料理にポークエキスが使われていたとわかれば、これは大変な騒ぎになります。私たち日本人からすれば、そこまで厳格にする必用はないじゃないかと思うかも知れませんが、それが神に対する彼らの信仰の覚悟なのです。彼らは毎度毎度、食事の際に、これは神の戒めに適った食事かと意識し、それを守るのです。
 私たちが何を食べても良いと理解しているのは、ペテロが見た幻から、キリスト者が戒めに込められた主の意図を汲み取ったからです。ペテロは大きな敷布の中に、あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、空の鳥などがいるのを見ます。そして「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」という声を聞きます。それはまさに今日のレビ記で汚れたものとして定められたものでした。ペテロは抵抗します。けれど、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という主の声を聞くのです。幻が3度繰り返された後、ペテロはコルネリオの下僕に話を聞き、彼を尋ねて異邦人である彼とその家族に救いを授けるのです。
 「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」これは言い換えると、「神が汚れたと言われたものを、きよいと言ってはならない」ということです。ですから、どの生き物が汚れていて、どの生き物がきよいかと選り分けることが大事なのではありません。なぜ?はさして重要ではありません。主がイスラエルに対しては、そのように定められたということ。それはイスラエルには食事のたびに、神の戒めに従うという姿勢が求められたということ。つまり、食事のたびに、自分たちが神の民として選ばれたことを自覚し感謝することが求められたのであり、この意図を汲み取ることが大事なのです。
 私たちは、今、きよい、きよくないと、食材を意識し選別して食事することはいたしません。けれど、神の民イスラエルに戒めを与えられた主の意図は、引き続き背負うべきではないでしょうか。つまり、食事という私たちにとって最も身近な行為の中に、私たちは主の赦しと救いを覚えて感謝するのです。戒めが今なお厳格に規定されていたらならば、私たちの救いはユダヤ人になることでしかありませんでした。けれど、主は私たちの隔ての壁を打ち壊し、至聖所の垂れ幕は破られたのです。私たちは異邦人ではありますが、キリスト者とされたのです。今、私たちが自由に食事を楽しむことができる幸いを覚えながら、それが主の和解による恵みであることを感謝する者でありたいと思います。