レビ記24 「同等報復の原則」
1-4節 聖所の灯火をともすことについて記されています。質の良い純粋なオリーブ油を持って来るようにと。普通、油は食用でもなければ質を求められません。灯火につかう油は、むしろ粗悪な油であることが多いのです。別に油が粗悪でも、火を灯す用は足すからです。けれど聖所の灯火に用いられる油は最高のものが求められました。そして夕方から朝まで、主の前に絶えず灯火を掲げることが代々守るべき永遠の掟であるとされました。闇を照らす灯りを絶えず掲げよとの教えであります。詩篇119:105には「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」とあります。また、マタイ5:16には「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」ともあります。聖所を持たない私たちですが、しかし教会は闇を照らす灯火を掲げる使命を帯びているのです。夜の間中、つまり闇の世において、私たちは世の光となることが求められている。みことばの光を携えて。そして、私たちの良い行いを携えてであります。そのためには使い古した油ではいけません。新しい油を用意しなければなりません。
5-9節 続けて輪型のパンの捧げ物について記されます。捧げられるパンは安息日毎に新しいものとされました。その数12個。12はもちろん12部族を表しています。イスラエルの民は、安息日毎に自分たちの部族を象徴する新しいパンを捧げたということです。これはつまり、神の民は週ごとに新しいものとされ、主の御前に捧げられるということです。日曜日の礼拝を単なる単なる宗教的ノルマとしてはいけません。それは私たちがみ前に捧げられる出来事です。1週間、色んな心配事が私たちの肩に圧し掛かります。時に御言葉に聞けないことも、祈れないこともあります。神の前に相応しくない己を恥じて、とても顔向けできないこともあります。けれど、私たちは週の初めの礼拝で新しくされ、もう一度主の御前に捧げられるのです。主の御前に受け入れられ、もう一度使命を帯びて立ち上がるのです。週の初めに礼拝を持つ。これは弱い私たちが信仰の競争を走りきるための給水地点のようなものです。息も絶え絶えに走る私たちはその給水地点でもう一度力を頂き、決意新たに再スタートを切るのです。
10-23節 神の御名を冒涜することへの裁きが記されています。イスラエル人の母シュロミテの息子が起こした神の御名への冒涜行為の記事。私たちから見れば、情状酌量の余地があるのではないかと思わなくもありません。彼がイスラエル人と争ったのは、恐らくはエジプト人を父としていたことによって、あらぬ偏見や差別を受けていたからかもしれません。そして喧嘩をすれば、冷静ではいられず、売り言葉に買い言葉。遂には神の御名を冒涜したというのが実際ではなかったか。しかし、事情はどうであれ、彼の冒涜が許されるわけではありません。神の御名を冒涜することは、どのような理由があるにせよ、石打ちの刑に処せられるのです。そしてその理由として、同等報復の原則が語られます。「【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。」「いのちにはいのちをもって償わなければならない。」「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」この同等報復の原則は、もともと、必要以上に報復を重ねたり、エスカレートしてはいけないという抑制が目的でした。また、同等報復が命じられることで、そもそもの犯罪を抑止する目的もありました。けれど、ここでの主旨は、神の御名を冒涜する行為は何であれ死に値するという点にあります。死をもって償わなければならない程に、神を冒涜することは重大な罪だと言うのです。私たちは神を軽んじてはいないかと問わなければなりません。これくらいなら神様も赦してくれるはず。愛なる神は赦して当然。と神に強要してはいないでしょうか。興奮してただけなんです。本心じゃないんです。だからそんなに目くじらを立てなくても、と冗談めかしてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。言葉は心です。思わずこぼれ出たその言葉は、その人が心に貯めこんだ真実を含んでいます。神の御名を冒涜することは、単なる言葉の綾ではありません。それは神の存在を否定すること。神を殺すこと。だから、その神殺しと同等の報復として、その人の死が求められるのです。
にもかかわらず、私たちはもはやこの同等報復の原則の外に置かれている。実はこれは驚くべき恵みです。Ⅰテモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」私たちが報復を受けずに済んでいるのは、すでに神の義に釣り合った贖いの代価が支払われたからです。キリストの命が代価となった。つまり、神の赦しは、神の私たちへの愛のゆえにではありません。主イエスの犠牲のゆえに。私たちの罪と同等の報復がなされたがゆえなのです。だから罪の赦しに胡坐をかくわけにはいきません。それはキリストの死に胡坐をかくことと同じです。私たちにはキリストの死に釣り合う生き方が求められるのです。
1-4節 聖所の灯火をともすことについて記されています。質の良い純粋なオリーブ油を持って来るようにと。普通、油は食用でもなければ質を求められません。灯火につかう油は、むしろ粗悪な油であることが多いのです。別に油が粗悪でも、火を灯す用は足すからです。けれど聖所の灯火に用いられる油は最高のものが求められました。そして夕方から朝まで、主の前に絶えず灯火を掲げることが代々守るべき永遠の掟であるとされました。闇を照らす灯りを絶えず掲げよとの教えであります。詩篇119:105には「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」とあります。また、マタイ5:16には「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」ともあります。聖所を持たない私たちですが、しかし教会は闇を照らす灯火を掲げる使命を帯びているのです。夜の間中、つまり闇の世において、私たちは世の光となることが求められている。みことばの光を携えて。そして、私たちの良い行いを携えてであります。そのためには使い古した油ではいけません。新しい油を用意しなければなりません。
5-9節 続けて輪型のパンの捧げ物について記されます。捧げられるパンは安息日毎に新しいものとされました。その数12個。12はもちろん12部族を表しています。イスラエルの民は、安息日毎に自分たちの部族を象徴する新しいパンを捧げたということです。これはつまり、神の民は週ごとに新しいものとされ、主の御前に捧げられるということです。日曜日の礼拝を単なる単なる宗教的ノルマとしてはいけません。それは私たちがみ前に捧げられる出来事です。1週間、色んな心配事が私たちの肩に圧し掛かります。時に御言葉に聞けないことも、祈れないこともあります。神の前に相応しくない己を恥じて、とても顔向けできないこともあります。けれど、私たちは週の初めの礼拝で新しくされ、もう一度主の御前に捧げられるのです。主の御前に受け入れられ、もう一度使命を帯びて立ち上がるのです。週の初めに礼拝を持つ。これは弱い私たちが信仰の競争を走りきるための給水地点のようなものです。息も絶え絶えに走る私たちはその給水地点でもう一度力を頂き、決意新たに再スタートを切るのです。
10-23節 神の御名を冒涜することへの裁きが記されています。イスラエル人の母シュロミテの息子が起こした神の御名への冒涜行為の記事。私たちから見れば、情状酌量の余地があるのではないかと思わなくもありません。彼がイスラエル人と争ったのは、恐らくはエジプト人を父としていたことによって、あらぬ偏見や差別を受けていたからかもしれません。そして喧嘩をすれば、冷静ではいられず、売り言葉に買い言葉。遂には神の御名を冒涜したというのが実際ではなかったか。しかし、事情はどうであれ、彼の冒涜が許されるわけではありません。神の御名を冒涜することは、どのような理由があるにせよ、石打ちの刑に処せられるのです。そしてその理由として、同等報復の原則が語られます。「【主】の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。」「いのちにはいのちをもって償わなければならない。」「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」この同等報復の原則は、もともと、必要以上に報復を重ねたり、エスカレートしてはいけないという抑制が目的でした。また、同等報復が命じられることで、そもそもの犯罪を抑止する目的もありました。けれど、ここでの主旨は、神の御名を冒涜する行為は何であれ死に値するという点にあります。死をもって償わなければならない程に、神を冒涜することは重大な罪だと言うのです。私たちは神を軽んじてはいないかと問わなければなりません。これくらいなら神様も赦してくれるはず。愛なる神は赦して当然。と神に強要してはいないでしょうか。興奮してただけなんです。本心じゃないんです。だからそんなに目くじらを立てなくても、と冗談めかしてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。言葉は心です。思わずこぼれ出たその言葉は、その人が心に貯めこんだ真実を含んでいます。神の御名を冒涜することは、単なる言葉の綾ではありません。それは神の存在を否定すること。神を殺すこと。だから、その神殺しと同等の報復として、その人の死が求められるのです。
にもかかわらず、私たちはもはやこの同等報復の原則の外に置かれている。実はこれは驚くべき恵みです。Ⅰテモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」私たちが報復を受けずに済んでいるのは、すでに神の義に釣り合った贖いの代価が支払われたからです。キリストの命が代価となった。つまり、神の赦しは、神の私たちへの愛のゆえにではありません。主イエスの犠牲のゆえに。私たちの罪と同等の報復がなされたがゆえなのです。だから罪の赦しに胡坐をかくわけにはいきません。それはキリストの死に胡坐をかくことと同じです。私たちにはキリストの死に釣り合う生き方が求められるのです。