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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200531 ヨエル2:28-32 「終末に注がれる霊」

200531 ヨエル2:28-32 「終末に注がれる霊」

 五旬節の日。弟子たちはいつものように集まって祈っておりましたら「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡」りました。そして、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」のです。聖霊が降臨したのです。すると何が起きたかと言いますと、彼らに語るべき言葉が与えられた。五旬節を目当てにエルサレムにやって来ていたあらゆる国々に住むユダヤ人たちに語れるように、それぞれの国の言葉がそれぞれの弟子たちに与えられたのです。そして弟子たちは人々に語り始めます。つまり、ペンテコステの出来事は、神の言葉を授かった弟子たちが福音宣教を始めた日。それをすなわち教会の始まりと言うのです。突然の出来事に人々は驚き「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者たちも出てきました。それはそうでしょう。その国の人にとっては母国語でも多くの人にとっては知らない言語です。似ているようでも違う。あざける人々に、ペテロが弁明として語った第一声がヨエル書の言葉でした。
 ヨエル書は冒頭、いなごの襲来の預言から始まります。それは国土が徹底的に食い散らされる様子。そして、それは同時に主の日の様子でもあるとヨエルは語ります。そして2章に入りまして、その預言の内容はさらに凄惨を極めます。主の日、それは裁きの日だと言うのです。思いのままに生きたその清算がなされる日。その日が必ずやって来る。そして1:3「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」と、神はヨエルを通じて語られるのです。
 神の裁きは確かに来る。このような教えに私たちは戸惑いを感じるかもしれません。目の前で起きる現実に神の裁きを読み取るということには、抵抗があるかもしれません。いなごだけではありません。度重なる地震や台風と言った災害、疫病や戦争。それらは確かに終末の預言として語られているにも関わらず、私たちそれを認めたくはありません。私たちは、神さまにはまるで親友のようであって欲しいと思うのです。けれど、聖書が語る神のお姿は決してそうではありません。神は徹底した裁き主としてご自身を啓示されておられるのです。「ああ、その日よ。【主】の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」何と恐ろしい宣言でしょう。主の日は、全能者による破壊の日なのです。
 しかし、ヨエルの預言はここでは終わりません。続きがあります。2:12-13「しかし、今でも──【主】のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」重苦しい滅びの宣言の後、主は「しかし」と言ってくださるのです。「主に立ち返れ」と。「わざわいを思い直してくださる。」と。ここに主の御心が透けて見えるのです。創造主なる神が、自らの創造の産物を滅ぼすと決められた。それは余程のことです。それほどまでに世界は人々の悪意や敵意で満ちていたのです。
 私たちは困難がありますと、なぜ神さまはこんなことをお許しになるのかと嘆くことかと思います。こんなのは神さまに相応しくない。神さまだったら祈りを聞いて然るべき。と思います。時には神を呪うことだってあるでしょう。けれど、神がなぜそのような裁きに至ったのか、その経緯について目を向けることはあまりありません。そして、そのことに込められた主の御心に心を向けることはほとんどありません。困難の中で向けるべきは、主の御心です。主はあらゆることを用いて「立ち返れ。」と言っておられるのです。主が裁きをもたらされるに至ったその実情を嘆き、悔い改めよ。と言われます。なぜなら、主は情け深く、あわれみ深いからです。怒るのに遅く、恵み豊かだからです。わざわいを思い直したいと願ってくださっているからです。