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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200826 Ⅱ列王記22:1-20 「驕ることなく」

Ⅱ列王記22:1-20 「驕ることなく」

 8歳で王となり、31年間南ユダ王国を治めたヨシヤ王は、もっとも主の目に適った王の一人として名を残しています。彼は偶像や祭壇を次々と焼き尽くして、国中から偶像を根絶やしにしました。さらには過ぎ越しのいけにえを再開し、神との契約を更新もしました。これまでの王たちでもヨシヤほど徹底的に主に立ち返った王は他におりません。
 今日の箇所では宮の修理と、律法の書の発見、そして続く23章からは徹底的な偶像の根絶の様子が記されて行きます。しかし、面白いことにⅡ歴代誌34章を見ると、それ以前から、ヨシヤの改革はすでに始まっていたことがわかります。
 彼の治世第8年(16歳)にはっきりと先祖ダビデの神に求め始め、第12年(20歳)の時、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、鋳物の像を除いた。とあります(歴代第二34:1~3)。
 彼の改革はすでに始まっていたのです。目指すは神礼拝の復活。神殿はあれど、偶像に満ち、本来の礼拝はあって無きがごときでした。ヨシヤは宮を修理し、偶像を取り除き、礼拝再開に向けて着々と改革を進めて参ります。民は若い王の改革に、期待し、賛同し、宮の修理のための献金も喜んで捧げました。皆がヨシヤ王の政治に感心したのです。すると、その宮修理の最中に律法の書が発見される。それはまさに画竜点睛のごとき出来事でした。神礼拝に必要な最後の1ピース。神の御言葉が見つかるのです。
 よほどヨシヤは喜んだことではなかったでしょうか。ところが、神の律法を聞いたヨシヤは、自分の衣を引き裂いたとあります。律法に照らされて、ユダの罪の深さを思い知ったのです。神の怒りと悲しみを聞いたのです。そして己の信仰の至らなさに愕然としたのです。彼は良い王様でした。幼くしてユダの王となり、着々と神殿の回復に着手します。自他共に認める信仰者でした。けれど、そんな彼が主の律法を前に自らを丸裸にされるのです。神に仕える。神に従う。ということすら、その心の奥底を徹底的に主の前に晒されるとき、私たちは果たして自らの振る舞いを誇り、胸を張ることができるでしょうか。ヨシヤは自分の振る舞いに自信を持っていたことではないでしょうか。自分はよくやっている。自分は神の目に適っている。事実、彼の改革を皆が褒め称え、その指導に喜んで従って来たのです。けれど、律法は彼の高ぶりを見逃しません。神に仇成すユダヤの現実を晒します。彼は神の怒りの声を聞いて心の底から恐れたのです。王として彼は全ユダヤの罪を背負っているのです。彼は王としての面子も捨てて、衣を引き裂いて泣き崩れます。しかし、このことが、改革に向かう揺るぎない心の源となったのです。徹底的な明け渡し。自らの内には主の前に誇れるものは一つも無い。その遜りこそが出発点です。神の御言葉は、彼の着飾った衣を全て剥がしたのです。
 恥も外聞もなく、主の前に涙するということは誰もができることではありません。年を重ねるにつれ、経験を積むにつれ、私たちは本心を隠し、意固地になっていきます。けれど、私たちはそのプライドを捨てると言うことが必要なのです。

200715 Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

Ⅱ列王記16 「試練の中で声を聞く」

 イスラエルの王ペカの最後はアッシリヤとの戦いに敗れ、民はアッシリヤへと移住させられ、ペカ自身はエラの子ホセアの謀反によって殺されたことが15:29以下に記されています。アッシリヤ捕囚です。ですから、16章の記述はこのペカが死ぬ前に遡っての出来事です。
 16章はユダ王国の話です。ヨタムの子アハズがユダの王となりました。前回見ましたように、祭司エホヤダによって匿われて、7歳で王となったヨアシュ王以降、ユダの歴代の王は完全ではないにせよ主の目に適う政を行なっておりました。けれど、アハズは違います。彼は主の目に適わず、国内に幼児の人身御供を祭儀としたモレク信仰を持ち込み、国中に祭壇を設けました。この背景には、この時期、ユダ王国は外敵に脅かされていたことがありました。北イスラエルとアラム連合軍によってエルサレムが包囲され、国は疲弊し、もはやいつ落とされてもおかしくない状況でした。アハズはこの状況を打破するため、北の大国アッシリヤに従属を申し出ます。貢物を贈って、助けを求めたのです。アッシリヤの王はこの申し出を受け入れ、ダマスコに攻め上り、アラムの王レツィンを討ち取ります。アハズの思惑は当り、エルサレムの包囲は解かれます。最大の危機を脱します。
 戦後アハズは、アッシリヤ王に貢物を献上するため、ダマスコに向かいます。そこで、アッシリヤがダマスコに持ち込んだ祭壇を見ます。そして、これがアッシリヤの成功の秘訣と確信するのです。彼は、これを真似て自国内の至る所に祭壇を築き、この祭壇を用いて祭儀を行うよう命じるのです。Ⅱ歴代誌28:23「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に、私もいけにえを献げよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」
 これまでイスラエル、そしてユダの民は、不信仰のゆえに度々試練を迎えます。しかし、その都度自らの不信仰を悔い改め、神に赦しを乞うたのです。そして、神はその度に民を赦してきました。なぜなら神は民を滅ぼすためではなくて、目を覚まさせるために、試練を与えられておられたからです。ところが、アハズはそれを神の不在と考えた。そして、他の神々の力だと考えた。つまり、現実の困難は神々の戦いの結果だと考えたわけです。困難な状況は自分たちの神の弱さゆえだと考えた。結果、更に罪を重ねることなるのです。
 愚かなアハズ。しかし実はこのような人は多いのです。困難な状況、思い通りに行かない現実を、自らの研鑽のきっかけとするのではなくて、現状をぼやき、他者を羨むことにばかり思いを向ける人です。その困難な状況を神の不在と決めつける人々です。神は目を覚まさせようとしているのです。神はご自身に立ち返らせようとしておられます。神は自らの信仰を顧みよと言っておられる。けれど、私たちは目に見える成功に飛びつきたくなるのです。立ち止まらなければなりません。アハズが見るべきだったのは、アッシリヤの成功ではなくて、自らの不信仰です。私たちは困難な状況の中にこそ、静まって、神の御声に聞くことといたしましょう。

200708 Ⅱ列王記11 「その忍耐には目的がある」

Ⅱ列王記11 「その忍耐には目的がある」

 冒頭に出るアハズヤとは南ユダ王国の6代目の王アハズヤのこと。アハズヤは北イスラエルの王ヨラムと共にラモテ・ギルアデでアラム人と戦いました。この時期珍しく南ユダと北イスラエルの関係は良好です。なぜなら、アハズヤの母アタルヤは北イスラエルの王アハブとイゼベルの娘でありました。アハズヤから見ると、ヨラム王は母の兄、つまり伯父に当たる関係だったからです。しかしヨラムはその戦いで負傷します。そこでアハズヤは伯父のヨラムを見舞いに北イスラエルに出向きます。しかしその時、北イスラエル軍の隊長エフーがヨラムに対して起した謀反に巻き込まれて死んでしまうのです。
 息子であるアハズヤが死んだことを知った母アタルヤは、なんとこの機会を取らえて王の一族をことごとく滅ぼし、自ら王座に座ります。王の一族とはつまりは自分の孫息子たちのことです。自らの血縁にすら手をかけて、王座を奪い取る。血迷ったのかと思いますが、そうではありません。彼女には母イゼベルから引き継がれた一つの本懐がありました。それは、ダビデの家系を根絶やしにして、南ユダにバアル信仰を土台とする国家を樹立することです。イゼベルがアタルヤを長年の宿敵である南ユダ王国に嫁がせたのは、まさにそのためだったのです。
 この暴挙に、アハズヤの異母妹であり祭司エホヤダの妻エホシェバがアハズヤの子ヨアシュをかくまい、主の宮に6年間隠すのです。7年目、祭司エホヤダはアタルヤの留守中に、ヨアシュの戴冠式を行い、正式に王として即位させます。そして謀反を起こし、アタルヤを捕え、王宮に移してからこれを討ち取ります。そしてバアルの宮を取り除くのです。
 図らずも、この時期、北のエフーと南のヨアシュによって一斉にバアル神が取り除かれるのです。バアル神はカナン地方の土着の偶像でしたが、特にこれが詣でられるようになったのは、ツロ・シドンの祭司エテバアルの娘イゼベルが北イスラエルの王妃として迎えられてからでした。ツロ・シドンの財を懐に入れるために、政略結婚をした結果、偶像が蔓延したのです。そして、イゼベルの信仰は、娘アタルヤに引き継がれ、南ユダを崩壊直前までに追いやることとなったのです。
 今日の箇所で特筆すべきは、絶対的な悪を前に、6年もの間、幼い王子を匿い、守り通した祭司エホヤダと妻エホシェバの静かで堅牢な信仰です。この6年、彼らはヨアシュが成長するのを見守り、じっと息を潜めて暮らします。バアル信仰が広まる中、祭司エホヤダとその妻の立場は風前の灯火。自らを守ることすらままならない状況でありました。ましてやヨアシュを匿っている弱みがあります。少しの疑いも綻びも見せられない。自分たちに何かがあれば芋づる式にヨアシュも捕らえられてしまうからです。彼らの気の使いようは尋常ではなかったことでしょう。たとえば、ヨアシュに縄をかけてアタルヤの前に引きずり出せば、彼らは一躍表舞台に返り咲けたことでしょう。けれど彼らはたとえ泥水を啜っても、日陰の現状に耐え忍びます。彼らにはユダ王国に真の信仰を取り戻すという使命があったからです。
 何の理由もなく困難に絶えることはできません。けれど、その忍耐に意味を見出すとき、そこに目的を見つける時、たとえ困難な現状であろうとも耐え忍ぶことができるのです。彼らは絶望的な状況の中でも一つの希望を見ています。ヨアシュが成長し、ユダの民が今一度、主の民となることです。神礼拝の復活です。そしてその希望は6年の年月を経て実現するのです。アタルヤを討ち取ったエホヤダは、真っ先に、主と王と民との間で、主の民となると言う契約を結びます。ここにダビデの家系は守られ、真の神礼拝がよみがえったのです。その忍耐には意味がありました。目的がありました。だから耐えられたのです。目的を見定めることが大事です。そこが定まれば、私たちは多少の雨風で倒れることはありません。その忍耐は明日に繋がっているでしょうか。やがて成る希望に繋がっているでしょうか。人生に困難は付き物です。その困難の意味を知ることが大事なのです。

200701 Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

 大変ショッキングな事件が記されています。ここまで凄惨な事件は聖書の中でも他に類を見ません。あまりの飢餓状態に、遂に、互いの子を順番に食べようと約束する二人の母親。けれど、一人の子は殺して食べたけれど、もう一人は子どもを差し出さない。それで子を失った方の母親がヨラム王に不平等を訴えるという事件です。平等、不平等、どちらが正しいかという問題の前に、子を食べようと計画する段階でもう二人共が狂っています。けれど、実は似たような出来事の記録は世界各国に残っておりまして、十字軍の遠征やアウシュビッツの強制収容所にも見られ、日本でも戦国時代の籠城戦の記録や、江戸の4大飢饉の折の記録にも残されています。もちろん、だからこの母親は珍しくないとか、間違っていないと言いたいのではありません。それは明らかに狂っています。けれど、この母親だけが特別なのでもありません。人は誰でも、そのような狂気に陥る可能性を持っているということです。戦争や飢えという極限の状況は、そのように人を狂気に変える力を持っているのです。これは私たちとて同じです。ですから、この箇所から読み取れるのは、母親をそのような狂気に追いやる当時の状況がサマリヤにあったということです。
 実は聖書が問題として取り上げるのは、そこではありません。母親は「王様、お救いください。」とヨラム王に訴えています。なぜなら、この状況を変えることが出来るのは、そして、この状況に責任があるのはヨラム王その人だからです。ところが、ヨラム王はこの母親の訴えに、悲しみ、憤ることはしますが、その責任を負おうとはいたしません。彼はその責任をエリシャに押し付けます。彼は母親に心を寄せて悲しむ被害者の面をしながら、エリシャ殺害を誓うのです。
 この背景には、ヨラム王のエリシャへの不信感というものが募っていたことがあります。これに先立って、エリシャは敵国アラムの将軍ナアマンを癒やしております。また略奪隊を捕らえたときには、王はこれを殺そうとしますが、エリシャはそれを押し止め、殺さないどころか、飲み食いをさせて国に返します。これらのエリシャの対応にヨラム王はかなり反感を持っていたようなのです。自分の思い通りにいかない勝手気ままな預言者。もちろん、神の人であるエリシャを無碍に扱うことはいたしません。けれど、王にすれば、預言者はいつまでも目の上のたんこぶ。面白くない。そして、今回の出来事。預言者の敵対国の者に対する弱腰の姿勢が、今のこの状況を招いているとエリシャに責任を押し付けるのです。
 言いたいことはわかります。ヨラム王の気持ちもわからなくない。けれど、今のこの惨状を招いた原因を他人事のせいにして、自らを省みないその態度は、果たして国のトップの王としていかがなものか。いえ、たとえヨラムが王でなかったとしても、このサマリヤにいる限り、そのような状況を招いた原因は誰しもが持っているのではないか。と、そのように思うのです。
 たとえば、日本の政治で何か重大な問題が起きた。スキャンダラスな事件が発覚した。すると、よくコメントとして出るのは、前の政権時代はもっと酷かった。という何ら問題を解決することのない責任逃れだったりします。けれど、もっと言えば、そんな政治に文句を言いつつも、現実には投票にすら行かない多くの有権者がいたりもします。考えてみますと自らの責任には見て見ぬ振りをして、他人の責任ばかりを責めるというのは、誰もが行っていることです。こんな教会はおかしい。うちの職場はこんなに酷い。学校は問題だらけ。けれど、そのコミュニティーを形成している一人は間違いなく自分だったりするわけです。もちろん、だからといって何が出来るというものではないかもしれません。サマリヤの状況はすでにヨラム一人にどうこうできる状況を超えておりました。けれど、主にひざまずくことはできる。神にすがることはできる。最悪の状況でも神への信仰に立ち返ることはできるはずです。置かれている状況に嘆くことはあっても、そのために祈りを積み重ねることはしない。これは責任を投げ出しているのと同じです。私が祈るのです。私がとりなすのです。もちろん問題を解決させる力は私たちにはありません。それは唯一神のみ心のうちにあるのです。だから私たちは今日祈ることから始めるのです。天のみこころが地でもあるようにとです。

200624 Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

 北イスラエル王国のアハブ王が死に、その後を息子のアハズヤが継ぎます。アハブとイゼベルの影響を多大に受けたアハズヤは、両親と同じく、バアル神を崇め、真の神を信じようとはいたしませんでした。
 そんな彼がある時、屋上の欄干から落ちて病気になります。恐らくは傷口が悪化して、菌が入り、破傷風のような病気を引き起こしたのでしょうか。だとすれば一大事です。それは死に至る病です。アハズヤは使者に命じます。「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ。」バアル・ゼブブというのは「蝿の王」という意味です。「ベル・ゼブブ」と言ったりもします。蝿は様々な病原菌を持ち運びます。特にアフリカや中東地方では、傷口に産卵し体内に寄生する蝿がいたりしますから、アハズヤはそのような病を恐れたのかもしれません。ともかく、傷が悪化して重篤した。人間火急のときこそ、真実が炙り出されます。アハズヤは、他の誰でもないバアル・ゼブブに伺いを立てようとしたわけです。
 この事態に、主なる神は預言者エリヤを向かわせます。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、【主】はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そして、エリヤはアハズヤがバアル・ゼブブの神殿に送り出した使者たちに直接出会い、この旨を告げて引き帰らせるのです。
 アハズヤは使者たちを脅して引き帰らせたのが預言者エリヤであることの報告を受けます。エリヤが名を名乗ったわけではありません。エリヤの風貌を聞いて、アハズヤが悟ったのです。アハズヤの父アハブと母イゼベルとは並々ならぬ因縁のあるエリヤです。もちろんアハズヤもエリヤを知っておりました。彼はそれがエリヤであることをすぐに悟りました。そこで、アハズヤはエリヤに来るように、50人の部下と隊長をエリヤの下に遣わすのです。隊長はエリヤに言います。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」ところがエリヤは「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」と言って、事実その通りに天から火が下って、彼らを焼き尽くしてしまったのです。アハズヤはもう一度、50人隊を遣わします。けれどやはり天からの火によって焼き尽くされてしまいます。王は3度目の50人隊を遣わします。この3度目の50人隊の隊長は、前回前々回の様子を知っておりました。彼はエリヤの下に行きますと、即座にひざまずいて懇願します。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」すると、主から「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」というお告げがあり、エリヤはようやくアハズヤのもとに下っていきます。そして、初めに使者に知らせたお告げを今一度知らせます。すると、王はそのお告げ通りに死んだのでした。
 さて、この箇所をどのように読むべきか。後半の50人隊に対する裁きの様子はいささかやりすぎのように思えるかもしれません。そもそもアハズヤの罪のために、100人以上もの部下の命が犠牲にされるというのは、何とも納得が行かないかも知れません。けれど、この使者は単なる使者ではありません。これは軍隊なのです。さらっと読み進めてしまうこの場面。実は50人もの部隊がエリヤのもとに遣わされ、彼を幾重にも取り囲み、無理矢理に王のもとに連行しようとする場面です。王の命を受けて、その威信を借りた大勢の兵隊が、一人の預言者を無理やり連れ出そうとする。その威圧的な様子は隊長の言葉に現れています。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」つまり、神の人のお告げを、王のお告げによって上書きし、神の人に下りて来るようにと命じている。つまり王の権威の前に、神の権威が侮られているのです。ですからエリヤを通じて主は、ご自身の権威を証明いたします。それがこの2度に渡る天からの裁きなのです。
 3度目に遣わされた隊長は、神と王を並べることはいたしません。彼はただ神にひれ伏すのみです。主なる神の圧倒的な権威の前に、彼は命を乞うしかできません。そして、それは正しい姿なのです。私たちが神の前に出る時、私たちにできることはひざまずいて命を乞うことだけです。私たちはすぐに言い分をしたくなります。正当性を訴えたくなります。私にはこういう真っ当な理由があるから、と言って、神を自在に動かしたくなります。この場合は「王のお告げである。」という正当性でした。けれど、どれだけ理由があろうとも、私たちが神を自在に動かそうとすることはできません。我が意のままに無理矢理に主を動かすことは許されません。しかし主の権威の前にただただひれ伏し、その身を主の判断に委ねる時、主なる神は御心のままに動いてくださるのです。ですから私たちの願いの前に、私たちの砕かれた心が問われるのです。