ホセア11 「父の愛」
ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな女と結婚するように命じることで、主がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとしています。本来なら恨んでも構わない。見捨てても構わない。そんな姦淫の妻に憐れみをかけられる主。ホセアは自分の体験の中でそれがいかに苦しく、難しい決断かを知っています。神の命令がなければホセア自身すすんでゴメルを受け入れることはあり得なかったでしょう。いえ、主の命令があったところで、ホセアにとってそれは如何に大きな決断を要したことでしょう。ゴメルのゆえに味わった屈辱や仕打ち。事あるごとにそういった悲しみが湧き上がってきます。けれどそのたびにホセアは主が負われた痛みや悲しみを覚え、へりくだって受け入れていくのです。ちょうど私たちが試練の中で主イエスの十字架を見るのと同じです。
ところがこの11章で、主の御心は、姦淫の妻を想う夫ではなく、我が子イスラエルを想う父の愛として主は語られるのです。つまり、放蕩息子を待つ父の姿です。神は私たちに親の愛を持って接してくれているのです。ですから、神は私たちがどれほど反抗しようとも、どれだけ罵声を上げようと、どれだけ他所の親に心を向けようと、その根本に愛がある。だから痛みを負って叱りつけ、悲しみを抱えて待ち続けるのです。神はいつまでもその最初の喜びを忘れません。イスラエルをエジプトから呼び出し、ご自身の民とされたそのことをです。神のうちには麗しい家族の記憶があるのです。幼子は自分では何も出来ず、手間がかかるだけの存在です。けれど全面的に親の愛を信頼し、その身を委ねます。親はそんな我が子に手をかける一つ一つを愛おしく思います。主はその麗しい親子の姿を忘れることはありません。だから、我が子がどれほど裏切ろうと、遠ざかろうと、関わり続けます。うるさがられようと、憎まれようと、教え続けます。親であることを辞めません。
罪にまみれた私たちがなぜ赦されるのか。それは根本に、この神の愛があるからです。私たちが親の目に叶う子どもだからではありません。私たちが清廉潔白で一途な妻だからでもありません。神は最初から私たちを罰したくないのです。私たちを受け入れたいのです。放蕩息子がどれほど自らの過去を悔いようと、そこに父の許しがなければ、子としてやり直すことはできなかったのです。
反抗的な子に手を焼く親心は痛いほどにわかります。反抗期の子どもは親が一番癇に障る言い方をしてきたりします。親としての忍耐が試されます。親だからとて、時に苛立ち、時に感情的になってしまいます。もう本当にムカつきます。思わず手が出ることもあります。けれど、だからこの子が生まれなければ良かったとか、いなければ良いのにとは思いません。腹が立ち、感情が高ぶります。けれどそれは、その子がわかってくれるのを期待するからです。反省してくれることを信じているからです。それゆえ裏切られもし、衝突も起きます。けれど本気で関わるところに、衝突は起こるものなのです。同様に、父なる神は私たちに罰を与えます。懲らしめられます。けれど、それは私たちを信頼し、期待しておられる表れでもあるのです。神は懲らしめながら、迎える準備をされています。試みと同時に赦しを用意しておられます。神は最初から私たちを受け入れるつもりでいるのです。
もちろん、私たちはこの神の愛に甘えることはできません。それは確かに親の愛ですが、同時に私たちの振る舞いは夫の愛を踏みにじる姦淫の妻のそれなのです。私たちはそこを見るべきだし、正さなければなりません。けれど、根本的な神の愛がある。これを知っていなければ、私たちがどれほど自らを悔いようとも、私たちが神の義にたどり着くことは無いのです。あるいはホセアのような体験を通して主の痛みを知ることはできるかもしれません。神の悲しみに触れることはできるかもしれない。けれど、神との関係を取り戻すことは、神の愛によらなければあり得ません。そして、神はまさにその愛を持って私たちを待ち続けてくださるのです。
ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな女と結婚するように命じることで、主がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとしています。本来なら恨んでも構わない。見捨てても構わない。そんな姦淫の妻に憐れみをかけられる主。ホセアは自分の体験の中でそれがいかに苦しく、難しい決断かを知っています。神の命令がなければホセア自身すすんでゴメルを受け入れることはあり得なかったでしょう。いえ、主の命令があったところで、ホセアにとってそれは如何に大きな決断を要したことでしょう。ゴメルのゆえに味わった屈辱や仕打ち。事あるごとにそういった悲しみが湧き上がってきます。けれどそのたびにホセアは主が負われた痛みや悲しみを覚え、へりくだって受け入れていくのです。ちょうど私たちが試練の中で主イエスの十字架を見るのと同じです。
ところがこの11章で、主の御心は、姦淫の妻を想う夫ではなく、我が子イスラエルを想う父の愛として主は語られるのです。つまり、放蕩息子を待つ父の姿です。神は私たちに親の愛を持って接してくれているのです。ですから、神は私たちがどれほど反抗しようとも、どれだけ罵声を上げようと、どれだけ他所の親に心を向けようと、その根本に愛がある。だから痛みを負って叱りつけ、悲しみを抱えて待ち続けるのです。神はいつまでもその最初の喜びを忘れません。イスラエルをエジプトから呼び出し、ご自身の民とされたそのことをです。神のうちには麗しい家族の記憶があるのです。幼子は自分では何も出来ず、手間がかかるだけの存在です。けれど全面的に親の愛を信頼し、その身を委ねます。親はそんな我が子に手をかける一つ一つを愛おしく思います。主はその麗しい親子の姿を忘れることはありません。だから、我が子がどれほど裏切ろうと、遠ざかろうと、関わり続けます。うるさがられようと、憎まれようと、教え続けます。親であることを辞めません。
罪にまみれた私たちがなぜ赦されるのか。それは根本に、この神の愛があるからです。私たちが親の目に叶う子どもだからではありません。私たちが清廉潔白で一途な妻だからでもありません。神は最初から私たちを罰したくないのです。私たちを受け入れたいのです。放蕩息子がどれほど自らの過去を悔いようと、そこに父の許しがなければ、子としてやり直すことはできなかったのです。
反抗的な子に手を焼く親心は痛いほどにわかります。反抗期の子どもは親が一番癇に障る言い方をしてきたりします。親としての忍耐が試されます。親だからとて、時に苛立ち、時に感情的になってしまいます。もう本当にムカつきます。思わず手が出ることもあります。けれど、だからこの子が生まれなければ良かったとか、いなければ良いのにとは思いません。腹が立ち、感情が高ぶります。けれどそれは、その子がわかってくれるのを期待するからです。反省してくれることを信じているからです。それゆえ裏切られもし、衝突も起きます。けれど本気で関わるところに、衝突は起こるものなのです。同様に、父なる神は私たちに罰を与えます。懲らしめられます。けれど、それは私たちを信頼し、期待しておられる表れでもあるのです。神は懲らしめながら、迎える準備をされています。試みと同時に赦しを用意しておられます。神は最初から私たちを受け入れるつもりでいるのです。
もちろん、私たちはこの神の愛に甘えることはできません。それは確かに親の愛ですが、同時に私たちの振る舞いは夫の愛を踏みにじる姦淫の妻のそれなのです。私たちはそこを見るべきだし、正さなければなりません。けれど、根本的な神の愛がある。これを知っていなければ、私たちがどれほど自らを悔いようとも、私たちが神の義にたどり着くことは無いのです。あるいはホセアのような体験を通して主の痛みを知ることはできるかもしれません。神の悲しみに触れることはできるかもしれない。けれど、神との関係を取り戻すことは、神の愛によらなければあり得ません。そして、神はまさにその愛を持って私たちを待ち続けてくださるのです。