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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201216 ホセア11 「父の愛」

ホセア11 「父の愛」

 ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな女と結婚するように命じることで、主がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとしています。本来なら恨んでも構わない。見捨てても構わない。そんな姦淫の妻に憐れみをかけられる主。ホセアは自分の体験の中でそれがいかに苦しく、難しい決断かを知っています。神の命令がなければホセア自身すすんでゴメルを受け入れることはあり得なかったでしょう。いえ、主の命令があったところで、ホセアにとってそれは如何に大きな決断を要したことでしょう。ゴメルのゆえに味わった屈辱や仕打ち。事あるごとにそういった悲しみが湧き上がってきます。けれどそのたびにホセアは主が負われた痛みや悲しみを覚え、へりくだって受け入れていくのです。ちょうど私たちが試練の中で主イエスの十字架を見るのと同じです。
 ところがこの11章で、主の御心は、姦淫の妻を想う夫ではなく、我が子イスラエルを想う父の愛として主は語られるのです。つまり、放蕩息子を待つ父の姿です。神は私たちに親の愛を持って接してくれているのです。ですから、神は私たちがどれほど反抗しようとも、どれだけ罵声を上げようと、どれだけ他所の親に心を向けようと、その根本に愛がある。だから痛みを負って叱りつけ、悲しみを抱えて待ち続けるのです。神はいつまでもその最初の喜びを忘れません。イスラエルをエジプトから呼び出し、ご自身の民とされたそのことをです。神のうちには麗しい家族の記憶があるのです。幼子は自分では何も出来ず、手間がかかるだけの存在です。けれど全面的に親の愛を信頼し、その身を委ねます。親はそんな我が子に手をかける一つ一つを愛おしく思います。主はその麗しい親子の姿を忘れることはありません。だから、我が子がどれほど裏切ろうと、遠ざかろうと、関わり続けます。うるさがられようと、憎まれようと、教え続けます。親であることを辞めません。
 罪にまみれた私たちがなぜ赦されるのか。それは根本に、この神の愛があるからです。私たちが親の目に叶う子どもだからではありません。私たちが清廉潔白で一途な妻だからでもありません。神は最初から私たちを罰したくないのです。私たちを受け入れたいのです。放蕩息子がどれほど自らの過去を悔いようと、そこに父の許しがなければ、子としてやり直すことはできなかったのです。
 反抗的な子に手を焼く親心は痛いほどにわかります。反抗期の子どもは親が一番癇に障る言い方をしてきたりします。親としての忍耐が試されます。親だからとて、時に苛立ち、時に感情的になってしまいます。もう本当にムカつきます。思わず手が出ることもあります。けれど、だからこの子が生まれなければ良かったとか、いなければ良いのにとは思いません。腹が立ち、感情が高ぶります。けれどそれは、その子がわかってくれるのを期待するからです。反省してくれることを信じているからです。それゆえ裏切られもし、衝突も起きます。けれど本気で関わるところに、衝突は起こるものなのです。同様に、父なる神は私たちに罰を与えます。懲らしめられます。けれど、それは私たちを信頼し、期待しておられる表れでもあるのです。神は懲らしめながら、迎える準備をされています。試みと同時に赦しを用意しておられます。神は最初から私たちを受け入れるつもりでいるのです。
 もちろん、私たちはこの神の愛に甘えることはできません。それは確かに親の愛ですが、同時に私たちの振る舞いは夫の愛を踏みにじる姦淫の妻のそれなのです。私たちはそこを見るべきだし、正さなければなりません。けれど、根本的な神の愛がある。これを知っていなければ、私たちがどれほど自らを悔いようとも、私たちが神の義にたどり着くことは無いのです。あるいはホセアのような体験を通して主の痛みを知ることはできるかもしれません。神の悲しみに触れることはできるかもしれない。けれど、神との関係を取り戻すことは、神の愛によらなければあり得ません。そして、神はまさにその愛を持って私たちを待ち続けてくださるのです。

201209 ホセア5 「尚も向けられる主の憐み」

ホセア5 「尚も向けられる主の憐み」

 ホセアは北イスラエルの預言者で、ヤロブアム2世の治世の終わりから、北王国滅亡の直前まで活動したと言われています。ヤロブアム2世は父と共に、シリアとの戦いに勝利して失っていた国土を回復させただけでなく、アラムの主都ダマスコやハマテを制圧。さらに父ヨアシュの死後はハマテからアラバの海までイスラエル領土を回復させました。ソロモン王以来の領土の回復です。ヤロブアム2世の時代、イスラエルは領土的にも経済的にも絶頂を迎えるのです。預言者アモスやホセアの登場はまさにこのイスラエルの絶頂期においてでした。二人の預言者は繁栄を横臥するイスラエルに、宗教と道徳の腐敗を非難し、神の審判を預言するのです。
 今日の箇所の5章はまさしく、イスラエルの裁きが預言された箇所です。4章からずっと、主はイスラエルの罪を指摘します。ここで特徴的な言葉は、姦淫です。イスラエルの民は姦淫を続けていると主は繰り返し指摘します。当時のイスラエルは、バアル信仰が混ざり合い、神殿娼婦との性的祭儀が行われるまでに堕落していたのです。そして、それゆえ、「あなたがたに裁きが下る。」「わたしは彼らをことごとく懲らしめる。」「エフライムは懲らしめの日に、恐怖のもととなる。」「エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。」「わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。」徹底した裁きの宣言が語られます。しかし、最後の1節に慰めを得ます。「彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。」この裁きは期限付きなものだと言うのです。「彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める」からと言うのです。ホセア書の特徴は主の徹底した裁きの宣告とその裏にある主の徹底した愛です。愚かで救うに値しないイスラエルの民に尚も向けられる主の憐み。これがホセア書に一貫して流れるテーマです。
 ホセアという預言者は大変特徴的な人物で、彼は神の命によって姦淫の女を妻とするように命じられます。ユダヤ社会においてこれはあり得ないことです。律法では姦淫の女は石打ちすることが定められていたのです。ホセアと言う人の出自は明らかではありませんが、一説には父ベエリは第Ⅰ歴代誌5:6で記されるルベン族の族長ベエラだとも言われています。わかりませんが、もしもそうだとすると、ホセアはイスラエルの律法教育を子どもの頃から受けていたと言えるかと思います。彼にとって、姦淫の女を断罪するのではなくて、妻と迎えるということが如何に規格外の命令であったことか想像できると思います。しかも、その後、妻ゴメルは3人の子が生まれますが、どうやらこの子たちはホセアの子ではありませんでした。子どもたちの名前がそれを表しています。ゴメルは結婚して尚姦淫を止めなかったのです。それだけではありません。その後ゴメルはホセアの下を去って行きます。ユダヤ社会で姦淫の妻を娶るということ自体があり得ないのに、その姦淫の妻に逃げられるということがどれほど社会的面子を失う出来事だったことでしょう。そしてホセア自身どれほど裏切られた痛みを負ったことでしょう。ところがさらに信じられないことが起きます。主はこの姦淫と裏切りの妻を、再び愛するように。とホセアに命じるのです。これは本当に試みです。葛藤があったと思います。憤りもあったことでしょう。けれど、ホセアは主の命令に従います。もう一度妻を受け入れ、愛することを決意するのです。
 とんでもない話です。ホセアの状況を我が身に思えば、到底我慢できることではありません。主はなんと酷いことをホセアに命じるのかと思います。けれど、イスラエルに対する主の姿がまさにホセアの境遇ではなかったでしょうか。妻の裏切りにホセアはどれほど傷付いたでしょう。その妻を再び受け入れるのにどれほどの決意が必要だったでしょう。主はご自身の民が裏切るのに、傷付かないはずがないのです。裏切りの民を再び受け入れるのに決意が必要でないはずがないのです。けれど主は手を差し伸べられた。愛を示されました。私たちはどこかで、主の赦しを軽く考えていないでしょうか。主を裏切ることに鈍感になっていないでしょうか。その行為にどれほど主が悲しみ、憤られておられるかを理解しているでしょうか。偶像を抱き霊的な姦淫を犯すことがどれほど主を悩まし続けていることか、私たちは知らなければなりません。そして、そんな裏切りの私たちを招き入れるために、再び手を差し伸べられた主の愛の大きさを感謝しなければなりません。主は私たちを愛するゆえに、憤り、懲らしめ、手を差し伸べられるのです。
 ホセアは再び受け入れた妻ゴメルに言います。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」この言葉は、主が私たちに向けられる言葉でもあります。「もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。」私たちは主の取り扱いに感謝し、その愛のうちに留まりたいと思います。