FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

201220 ヨハネ3:16 「愛をもたらす主」

ヨハネ3:16 「愛をもたらす主」

 今日の箇所には、父なる神がイエス様をこの世に送られたことの意味とそこに込められた神の愛が記されています。父なる神が世を愛された。そしてその証拠として、御子が与えられた。だからイエス様は神の愛の形ある姿だと言うのです。神の愛と聞きますと、どれほどの恵みだろうかと期待致します。いったい何をくださるのか。けれど、実際はそんな平和な意味ではありません。「そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。犠牲にしたほどにという意味です。見殺しにしたほどにと言ってもよいでしょう。父なる神は、御子イエス様を私たちの罪のための犠牲とするほどに、私たちを愛されたのであります。
 イエス様は十字架にかかられる前、ゲツセマネで祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)しかし盃は取り除けられませんでした。また、十字架につけられて後にも主は言われました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」けれど、やはり父なる神は返事をされませんでした。愛する子の悲痛な叫びを無視し続ける。それはどれほど辛いことでありましょう。
 神様はご自身の内に交わりを持つ三位一体のお方です。ですから神は相互間の愛をご存じであり、時に怒られ、時に妬み、そして悲しまれるのです。自分が造ったこの世界をご覧になって非常に良いと感動するお方であり、ご自信が造られた人間が裏切る時、心から悲しまれ、怒られる方です。ですから、何が言いたいかと言いますと、父なる神がイエス様の叫びを聞いて、悲しまないはずが無いということです。心を痛めないはずがない。父なる神にとって、他の何と比べることすらできない大切な存在が、御子イエス・キリストなのです。
 その父なる神が、イエス様を見捨てられる。「それは・・・御子を信じる者が一人として滅びること無く、永遠のいのちを持つため」であると御言葉は言います。つまり、それほどに神は、私たちを愛してくださっているということです。
 誰かのために自らの命を投げ出すということは、もしかするとあり得ることかもしれません。大事な家族を守るため、大好きな人を救うため、掛け替えのない我が子を助けるために、自らの命を犠牲にする。それはとても辛い決断ですけれども、でもそれは確かにあり得ることです。しかしです。もし自分ではなくて、自分の最も愛する人の命を投げ出せと言われたら、どうでしょう。しかも、その助ける相手が愛する我が子ではなくて、赤の他人だったらいかがでしょう。皆さんの愛する人を犠牲として差し出すことができるでしょうか?それは自分の命を差し出すよりも、よっぽど難しいことではないでしょうか。・・・けれど神はまさしくそういう決断をなされたのです。イエス様をこの世に送るということは、そういうことです。神は私たちのために、愛する我が子を犠牲としたのです。
 もちろん、このことは犠牲となられるイエス様ご自身も承知のことです。ピリピ2:6-8には「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。それは父なる神の御計画であり、子なるイエス様の決断でもあるのです。全ては私たちに救いをもたらすためにです。全ては私たちへの愛のゆえにです。
 愛とは相手のために背負う犠牲の大きさである。これが聖書の語るところです。これに比べれば世の中が語る愛のなんと薄っぺらいことでしょうか。真実の愛がもたらされる。神の犠牲が見える形として贈られる。それがこのクリスマスの出来事です。私たちは喜ばしいクリスマスを祝いながらも、この神が負われた犠牲の大きさを忘れるわけにはいきません。私たちを生かすために、尊い血が流されたのです。であるならば、私たちは精一杯生きねばなりません。キリストの犠牲を無駄にしないために、私たちは贖われた命を精一杯、神に感謝して過ごしましょう。この愛に倣う者となりましょう。

201213 ヨハネ16:20‐22 「喜びをもたらす主」

ヨハネ16:20‐22 「喜びをもたらす主」

 ヨハネ16:21でイエス様は子の出産を譬えにして喜びについて語っています。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」出産は命がけです。大きな大きな痛みと苦しみを伴います。ところが、不思議なことに、母親は生まれた子の産声を聞き、その子を胸に抱いた時、その大変な出産の苦しみを忘れるというのです。もちろん痛みが消えてなくなるわけではありません。けれどそれ以上の喜びを感じる。もたらされる喜びによって、苦しみが上書きされると言うのです。さらに言うと、その喜びがあると知っているから、それ以前の苦しみに耐えられます。その苦しみには意味があるからです。それは産みの苦しみ。やがてそれは産みの喜びと変えられる。だから耐え得るのです。
 なぜ救い主の誕生が民の喜びなのでしょうか。そこには救い主の誕生が、民全体の喜びである特有の事情があると思います。つまりユダヤの人々の中では、救い主が来られるという預言が長く語り継がれてきたという歴史があること。そして、そのように語り継いできた背景には、まさに救い主を必要とした過酷な歴史があったということです。つまり、ずっと人々が救い主を待ち望んでいたという下地がある。だから、その実現が大きな喜びだというわけです。救い主の誕生によってこれまで待ち望んできた歴史が意味を持った。無駄ではなかったことを知るのです。けれど今の日本人には、そういう下地がありません。ですから、救い主が来られると聞きましても、多くの人は、「ああ、私には関係がありません」と答えるのです。喜びの知らせとは受け取ることができません。これは大変もったいないことです。と言いますのも、喜びの知らせを受け取ることができないでいますと、今の苦しみに意味を見出せません。苦しみに意味が見出せなければ、それに耐える力は沸いて来ません。その苦しみはただただ不幸でしかない。そして我慢でしかない。そして何のために耐えるのかがわからなくなるのです。
 イエス様は先ほどの出産の譬えに続けて次のように言われます。「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」このイエス様のことばは、十字架を目前にしたイエス様が、残される弟子たちに向けて語られていることばです。つまり、これから起こるイエス様の死について、それは産みの苦しみだと言っているのです。イエス様が死なれる。イエス様がいなくなる。弟子たちにとってそれは永遠とも思える悲しみをもたらす出来事です。けれど、「わたしは再びあなたがたに会います。」とイエス様はおっしゃいます。「あなたがたの心は喜びに満たされ」「その喜びをあなたがたから奪い去る者は」無いとおっしゃられます。永遠から見ましたら、私たちの地上の歩みはまるで一瞬。今私たちが抱える悲しみも苦しみも決して永遠のことではなくて『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』それはひとときのことであり、必ず終りが来ることであり、やがては永遠の祝福へと入れられると、こうおっしゃられるのです。つまり、イエス様は今の苦しみ、今の悲しみに意味を見出して下さるのです。それは再びイエス様と会い、喜びに満たされるための過程だと言うことです。
 出産の祝福は、苦しみを通ったがゆえです。命を懸けて苦しみを通るその先に、新しい命の重さ、尊さを知るのです。人は、苦しんで苦しんで産まれてくるのです。だからそこには生まれ来る命に対する畏敬があります。愛しさがあります。イエス様はこれから起こる出来事を、産みの苦しみと例えました。ご自身が十字架において命を捨てることは、産みの苦しみだと言われる。それは言い換えるなら、その結果生まれる新しい命に対する慈しみだと言うのです。その苦しみはもう止めてしまいたくなるような苦しみ。神の御子のイエス様が「みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と願われるほどの苦しみです。それでもイエス様がこの苦しみを投げ出さないのは、新しく生まれる神の子への慈しみの故です。
 ですから、私たちが苦しむとき、イエス様もまた苦しんでおられるのです。私たちがイエス様と引き離されて、大きな悲しみを抱えるとき、祈っても聞かれず、願っても聞かれない。そういう経験をするとき、私たち以上にそのことを苦しみ、悲しんでおられる主がおられるのです。そしてその先には苦しんでくださったイエス様との永遠の再会がある。これを喜びと言わずして、何と言うのでしょうか。

200329 ヨハネ14:1 ローマ8:35-39 「心を騒がせてはいけません」

ヨハネ14:1 ローマ8:35-39 「心を騒がせてはいけません」

 教会が公の礼拝を自粛するという選択は、普通のことではありません。礼拝はキリスト者に与えられた特権であり、最大の奉仕です。そして慰めでもあります。聖書は事ある毎に困難にあって主に従うことの幸いを語り、共に集うことの希望を語っております。そして教会はずっとそのように説教をしてまいりました。ですから本来なら、どんな状況になっても礼拝を守りましょう。たとえ死を覚悟しても、私たちは主の日の礼拝を優先しましょう。そう励まし続けるのが筋なのかもしれません。けれどこの現実の状況の中で、私たちは教会に集わないということを選びました。礼拝出席のために鉄道やバスに乗ることにもリスクを伴います。また、高齢者や持病をお持ちの方は新型コロナウィルス感染時の重篤化が懸念されています。感染爆発の兆候はあちらこちらに現れています。私たちは新型コロナウィルスの世界的流行(パンデミック)の現実を受け止め、教会員の安全を優先し、東京近郊の一教会として感染拡大を防ぐ社会的責任を負っており、自らが感染する危険性だけでなく、自分が感染を広める危険性、そして教会員が感染を広めてしまう可能性までも考慮すべき状況に来ていると判断してのことであります。現段階で感染者が出れば、教会での礼拝は閉鎖せざるを得ません。ではその一人が出るのを待つのか。教会としてはその一人が出ないために動かざるを得ません。
 確かに皆が共に会堂に介して礼拝することは幸いです。けれどそれは、会堂でなければ礼拝が持てないということではありません。会堂の外で礼拝を持たなくてもいいということには繋がりません。当たり前のことですが礼拝は主日の朝、一同に会することだけが礼拝ではありません。一人ひとりが主の前に静まり、礼拝を献げることは可能です。公に集まることはできずとも、私たちの礼拝が失われることはありません。
 最初に武漢で新型ウィルスが発生したとの報道を聞いたとき、ここまでの現状を予測できた人が果たして何人いたでしょうか。まさか礼拝をどのように継続すれば良いかと思い悩む日が来ると誰が想像したでしょう。つくづく思いますのは、私たちが当たり前のように思っていた教会の交わりとは、いつ何時奪い取られるかわからない神の国の恵みであるということです。
 ナチス政権下にあって福音の自由のために戦ったボンヘッファーは次のように言っています。「孤独の中に生きる人にとっては言い難い神の恵みであることでも、それが日々与えられている人にとっては、とかく軽んじられ、なおざりにされがちである。〈キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがては深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものである〉ということがとかく忘れられがちである。だから、その時までほかのキリスト者と、キリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は、心の底から神の恵みをほめたたえ、ひざまづいて神に感謝し、〈われわれが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵み以外の何者でもない〉ことを知りなさい。」
 神殿を破壊されバビロンに捕囚されたユダの民は、遠く異教の地で家庭礼拝を行い、またシナゴーグによる会堂礼拝を開始いたします。苦難の状況にあって彼らが向き合ったのは自らの信仰そのものでした。彼らはこれまでの信仰生活を顧み、主の前に悔いることから始めたのです。神々しい神殿があっても、神の民として律法を有しても彼らは信仰に立ち返りません。失って初めて立ち返ったのです。私たちはこれまでどのような思いで礼拝を献げて来たことかと探られるのです。信仰者としてのプライドでしょうか。奉仕の責任からでしょうか。孤独の解消でしょうか。長年続けられた習慣でしょうか。しかしそれらは、私たちの思いや決断を超えて、ある日突然に奪い取られることがあるのです。私たちはあまりにも当然のことと考えてきました。しかし公同の礼拝、そして主にある交わりは恵みに他なりません。私たちは今、自らの信仰を深く顧み、独り主の前に静まって礼拝を献げましょう。そのための騒動などとは口が裂けても言えませんが、しかし、このような機会がなければ立ち止まって顧みることのない私たちです。あらゆることの中に主の御心を聞く者でありましょう。悔い改めと感謝を持って公同礼拝の再開を祈り備えることといたしましょう。

190421 イースター賛美礼拝 ヨハネ11:25-26

ヨハネ11:25-26 「あなたは、この方を信じますか」  東喜代雄兄 (狭山ひかり幼稚園理事長)

        イースター賛美礼拝順序

 開会の宣言   司会者
 特別演奏    フリューゲルホルン「墓の中に」 
 代表祈祷    司会者
 朗読      イザヤ53 小学上級科
 こどもさんび 「一番の愛」  一 同
 朗読      ヨハネ1:9~13 
 賛美      聖歌137「入れまつる家あらず」 一 同
 朗読      マルコ15:6~15 
 賛美      旧讃美歌138「ああ主は誰がため」 一 同
 朗読      ルカ23:32~46 
 賛美      福音讃美歌118「丘に立てる粗削りの」 一 同
 朗読      第一ペテロ2:22~25 
 特別賛美    「IN CHRIST ALONE」 聖歌隊
 メッセージ箇所 ヨハネ11:25~26 司会者
 メッセージ   「あなたは、この方を信じますか」 東喜代雄兄
 応答賛美    聖歌172「墓の中に」 一 同
 献金      感謝祈祷 
 頌栄      旧讃美歌539番 一 同
 祝祷      小見靖彦師
 後奏            

181118 ヨハネ21:24-25 「恵みは十分にある」

ヨハネ21:24-25 「恵みは十分にある」

 ヨハネの弟子たちは、ヨハネが召された後、ヨハネ先生が残したイエス様の回想録を教会の教えとして広めるわけですが、その時この21章を付け加えたと考えられます。なぜでしょうか。本来ならば、20章で筆は置かれていたわけです。けれど、弟子たちは、ペテロの再召命の場面を書き記し、ヨハネの使命について言及します。それはつまり、イエス様の使命が引き継がれる場面を書き残したということです。
 当時、キリスト教会は、もうすでに舞台をエルサレムからローマ各地に移しておりました。彼らのほとんどは、キリスト者と言いながらイエス様を直接見たことも聞いたこともない。彼らにとっては、ペテロであり、ヨハネであり、パウロこそが先生であったわけです。コリントの教会が分裂騒ぎを起こしていた時、彼らはパウロに付く、アポロに付く。と言い合っていたわけですが、それは文字通り、パウロ先生に習おう。アポロ先生を信じよう。という争いでもあった。そこでパウロはイエス様こそが土台なんだと。だから、私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者だと考えなさい。と言っていたわけです。これはヨハネの弟子たちも同じでした。ペテロが殉教し、ある意味で神格化されそうな当時の雰囲気があったのです。迫害の中死んでいったペテロやパウロを称える当時の状況があった。そんな中、どうしても記さなければならなかったのは、それはイエス様に由来した、使命に生きる弟子たちの生き様であり死に様なんだと言うことではないでしょうか。
 イエス様こそが、とはヨハネが特に意識して記したことです。ご自身を良い羊飼いであり、門であり、ぶどうの木だと語られたイエス様の言葉を記します。イエス様こそが道であり、光であり、いのちだとも記します。そして、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」にこの書を書いたとも言っています。ですから、ペテロやヨハネのことで特筆すべきは、彼らがどれだけ優れているかではなくて、彼らがイエス様の福音を引き継いだということではないでしょうか。自分たちの先生を祭り上げる空気の中で、そうじゃない。イエス様から先生たちに引き継がれた福音は、次に私たちが引き継がなければならないんだと。ヨハネの弟子たちの決意がこの21章に見て取れるのです。
 さて、21章の結語は、20章のそれと比べると、子どもの言い訳じみていて、非常に野暮ったく感じます。けれどです。書き方どうこうというのは、21世紀の今の感覚で思うところでして、その意味するところは、私たちの神観、聖書観に繋がる、とても重要な一文であると思うのです。
 ここでは二つの点に注目したいと思います。一つは、単に書ききれないと言っているのではなくて、世界もその書かれた書物を収められない。と言っている点です。つまり彼らはイエス様を単なる偉大な先生とは見ていません。彼らはイエス様がこの世界に収めきれないお方。被造物に収まることのない創造主なる方と見ているのです。神である方を書き尽くすこと。知り尽くすことなど、被造物である人間には到底できない。ここに神のことばに対する謙虚さがあります。これこそ、私たちの倣うべき姿です。私たちは神を知りたいと思い、聖書を読みます。イエス様を理解したいと願い、神の言葉に聞きます。けれど、私たちは被造物である限界を知らなければなりません。私たちが神を知った。わかったと言うのなら、それは私たちの驕りです。人が最初に持った誘惑は、神のように知る者になりたいというものに他ならないのです。
 もう一つの注目すべき点は、この福音書が、収めきれないイエス様の全貌の中で、敢えて書き記された書物であるという点です。つまりイエス様の全貌は見えないけれども、イエス様を救い主として信じ、イエス様の名によっていのちを得るために必要な教えは、十分この中にあるんだということです。そして私たちにとってもこれで十分なのです。