ヨハネ11:38-44 「死の先にある希望」
ラザロの姉であるマルタとマリヤは、イエス様が来てくれさえすればラザロも助かる。とそう思って、イエス様に遣いを出しました。彼女たちはイエス様を救い主と、心の底から信頼していたのです。けれど、イエス様は間に合わずラザロは死んでしまいました。信じていたからこそ、彼女たちのやるせなさは大きいものでした。イエス様がおられたら弟は死ななかったのに。あなたが来るのが遅すぎました。とです。
そのイエス様が、今、墓の前に立って言うのです。「その石を取り除けなさい。」しかし、もうラザロが死んで4日も経っていました。その石を取り除けるということは弟の死を直視するということでもあります。今のように冷蔵技術があるわけでもなし、4日も経てば体は腐敗しだすわけです。死体が朽ち果てる匂いというのは、生理的に受け付けられないものと言います。腐敗し、虫が湧き、体内のガスが抜けて、体液が飛び散る。そういう現実の匂いです。それが愛する人の匂いだとしたら、それはどれほど絶望的な匂いでありましょう。マルタたちは躊躇するのも無理はありません。見たくないのです。蓋をしていたいのです。そんなことをしても死の現実に直面するだけなのです。全ては遅すぎる、無駄なのです。
けれど。本当に無駄なのでしょうか。私たちは考えなければなりません。それは本当に意味がないことなのでしょうか。死者の復活など科学的でない。とおっしゃる方がいます。けれど科学的であることに、いったいどれほどの意味があるのでしょうか。科学的がもたらすものとは何でしょうか。4日も経てば、そりゃ、臭くなっているでしょう。それが科学的な常識とある人は言うでしょう。けれど、その常識には何の希望もない。とイエス様はこうおっしゃっているのではないでしょうか。
信じるなら、神の栄光を見る。これが聖書の語るところです。イエス様は私たちの常識で図ることのできるお方ではありません。全ての生きる者に、命を与え、そして取られる方です。命を統べ治めたもうお方。このお方を前に、私たちのちっぽけな常識がいったい何の意味がありましょうか。「ラザロよ。出て来なさい。」死者の中に数えられていたラザロは、愛する家族のもとに帰って来たのです。
私たちはどこかで思ってはいないでしょうか。死は全ての終わりであると。死を前にしては、何者も勝利することはできないと。マルタとマリヤも同じでした。彼女たちも、死の先を見ていなかった。イエス様の奇跡も愛情も、生きている間でなければ何の意味もない。と、そう常識に照らして理解していた。確かに彼女たちはイエス様を信じている。イエス様に信頼している。それでも、弟の死という圧倒的な現実の前では、彼女たちはもう何の希望も持てないでいる。でも、そうではないのです。イエス様はその死にすらも勝利される。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(11:25-26)とイエス様は挑戦しておられるのです。
信じられません。と答えることは簡単です。死んだら終わりと。けれど、よく考えていただきたいです。信じられないと答えるその先に、あなたはどのような慰めを見るのでしょうか。人は死んだら終わり。だから、愛する人を失ったあなたの悲しみは当然。時間が解決してくれるよ。とでも言うのでしょうか。冗談じゃない。時間が経てば解決するのでしょうか。その程度の痛みでしょうか。時間が経つほどに、失った欠けの大きさを知るということがあるのではないでしょうか。そして時間は自分の死をも近づけるのではないでしょうか。死んだら終わり。という結論が今度は自分自身の生涯の終わりを飾ろうといたします。これまで生きてきたその生涯が全く無意味に変わり果てるその時が来る。その時、私たちはどのようにこの現実を迎えるのでしょうか。死んだら終わり。だから今を楽しもう。嫌なことは忘れてしまおう。・・・それは全く解決とは程遠いものです。
私たちの希望は、死が終わりではないというものです。死の先がある。よみがえりです。永遠のいのちです。天の御国の約束です。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(6:40)

ヨハネ1:1-5 「闇の中に見る光」
ヨハネはこの福音書をエペソで書いています。しかし、その直前にはパトモス島におりました。ドミティアヌス帝の迫害によってヨハネは幽閉されていたからです。そもそもこの迫害はユダヤ人に対して行われたものでした。紀元70年にエルサレム神殿は完全に破壊されますが、その結果、ドミティアヌス帝はこれまで神殿献金として捧げられてきたお金を税金として収めるように命じたのです。当然ユダヤ人はこれに反発します。この時期、まだローマ当局者はユダヤ人とクリスチャンとの区別はついていませんから、クリスチャンはこれに巻き込まれる形で迫害にあったというわけです。けれど、ドミティアヌス帝の死後は迫害が鎮火します。ヨハネは幽閉を解かれ、エペソの町にやって来て福音書を記すのです。彼はイエス・キリストを「人の光」と記します。「光はやみの中に輝いている。」とも言います。黙示録で隠しながら記した希望について、今度は福音書として書き直すのです。
ヨハネは確信しています。なぜなら、彼自信が深い闇を経験したからです。そして、その深い闇の中にこそ、光は増し輝くということを知ったからです。昼間の郊外で、懐中電灯の光はほとんど意味をなしません。けれど、夜になりますとそれは何とも力強い光となります。もちろん光の強さが変わった訳ではありません。変わったのは周囲の明るさです。光は闇の中にこそ輝きます。ヨハネの歩みは、信仰者の歩みは、決して楽な道ではありません。いのちの危険を感じる中を通ります。仲間の叫び声に何の手出しもできない絶望感を味わうこともあります。願っていないそのところに、自ら足を踏み入れることを求められたりもします。けれど、だからでしょう。深い深い闇のような中にあって、ヨハネはだからこそ光が輝く。キリストと共にあることの確かさを確信するのです。
信仰者は得てして似た体験をするのです。ある日突然、押しつぶされそうな圧倒的な闇を経験するのです。自分に絶望し、時代に絶望し、そして神に絶望する。そんなどうしようもない体験をするのです。自分は何と無力なのかと思い知らされるだけの日々を過ごすのです。しかしです。闇の中とは偽りの光すら無いということです。人々が眠らない大都会では星空が見えなくなって久しいですが、偽りの光の届かない闇の中では、急に星星は輝きを取り戻します。頼るべきものが無い中にあって、自分の無力さを知って、私たちは初めてそこにある光に気付くのです。あえて、その闇を照らすために来られた光に気付く。もっとも深い闇の中で、私たちは十字架の光を見るのです。
イエス様の話を聞きますと、多くの人は自分には関係がないと言います。そして、必要がないとも言います。それは、あまりにも偽りの光に囲まれて、まことの光が見えなくなっているのです。神様は、一つ一つ削ぎ落とすかのように、私たちの握りしめているものを取り去ります。身を切るような思い。拠り所が消えていくような感覚。しかしそのような中で、私たちはまことの光を見るのです。最も深い闇の中、十字架の光を見るのです。
なぜ深い深い闇の中で光を見ることができるのでしょう。それはイエス様がそこにおられたからに他なりません。栄光の主が暗き闇の世にお生まれになった。これこそがクリスマスです。万策尽きて、途方に暮れる虚しさも、もう私は一人だと絶望するその悲しみも、全てはイエス様の知らないところではないからです。イエス様は私という闇の中にもお生まれになってくださるのです。ですから、私たちの希望は決して失われることはありません。私たちが全てを失っても尚、残るもの。それこそがまことの光。それこそがキリストです。
イザヤ6:11bー13「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

ヨハネ6:1-15 「主に不可能はない」
「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」5千人給食の記事は4つの福音書全てに記されている特別な記事ですが、イエス様のピリポに対するこの質問はヨハネにしか記されていません。マタイ、マルコ、ルカを読みますと、山での説教が熱を帯びたのか、気付くと日も暮れてきます。皆食べるものを用意しているわけではないし、このままでは騒動になってしまうかもしれない。ですから、そろそろ解散させてください。と、このように意見する弟子たちに対して、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」とイエス様がおっしゃったことが記されています。ところが、ヨハネの福音書を読みますと、実は、長い長い野外集会の始まる以前に、イエス様はすでにピリポに食事の手配について尋ねておられたと言うのです。
そうするとニュアンスが違ってきます。実はこの野外集会の間、弟子たちはずっと食べ物の手配のためにあれこれ思案していたのです。手元にあるのは2百デナリ。決して少ないお金ではありませんが、群衆が満足するパンを買うことは出来ません。何より、これは大事な軍資金。手を付けることはできません。イエス様がお話をされる傍らで、彼らは群集たちの間を右往左往しながら、食べ物はないかと探します。けれど見つけたのは少年が持っていたわずか2匹の魚と5つのパンのみ。これっぽっちではせいぜい2、3人が食べてお終いです。他に良い解決策も思い浮かばず、仕方なく彼らは群集を解散するようにとイエス様に提案したのです。
ですから、彼らが解散をするように提案したのは、何も簡単に責任を放棄しようとしているのではありません。彼らなりにあれこれと手を尽くした上での最善の結論だったわけです。彼らも頑張ったのです。しかし、如何せん、目の前の人々は多すぎて、どう足掻いても、無い袖は振れません。わずかな食べ物を差し出して、えこひいきだとか、足りないとか、あれこれと文句が出るよりは、いっそのこと解散させた方が良い。事情を説明すれば彼らも納得するだろう。これが彼らの結論だったわけです。
なのに、イエス様は「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と取り合ってくれません。ピリポはイエス様に言います。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」アンデレがさらに付け加えます。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」彼らの言うことはもっともです。根拠もあるし、常識もある。イエス様こそ、無茶なことを言っているように思えます。
けれど、イエス様の用意されていた結論は、彼らの常識を遥かに超えていたものでした。イエス様の祝福の下、5つのパンと2匹の魚はそこにいる全ての人の腹を満たし、尚、12かごがいっぱいになったのです。
私たちの常識でこの奇跡の記事を理解することは出来ません。私たちはいつも常識という心の枠に捕らわれています。こんなちょっとの食べ物なんてどうしようもならない。たった5つのパンと2匹の魚なんてあっても意味が無い。目の前の問題はあまりにも大きすぎて私には何もすることができない。…これが私たちの常識です。でも実際はどうだったでしょうか。私たちの常識を遥かに超えて、主の御手が働かれたのです。主が祝福すると、これっぽっちと見向きもしなかった、何の価値も見出せなかったそのパンと魚が、5千人の人々を満足させる食物へと変えられたのです。
この5千人給食の出来事は、弟子たちに、自分の働きではない。主が働かれることこそが解決であることを強烈に教えたのです。いえ、当時はそこまではっきりとしていなかったかもしれません。けれど、この後、彼らはイエス様の十字架と復活、そして昇天を経験し、イエス様から託された福音を携えて出て行きます。もちろん、その働きは簡単にはいきません。多くの困難に直面し、失敗にも思える出来事を経験いたします。そんな彼らが、この5千人給食の出来事に支えられるのです。この働きは私の力によるのではない。主の働きは、主が責任を取ってくださる。だから、彼らは恐れないで精一杯に主に仕えることができたのです。これは私たちにも言えることです。主の働きは主にこそ解決がある。私たちの内にはありません。ここを間違えないようにしたいのです。

ヨハネ1:29-42 「イエスの下に」
ヨハネが自分との対比によって、イエス様がどれほど素晴らしいお方かを弟子たちに語り、それを聞いた弟子がイエス様に付いて行くという場面です。「見よ。神の小羊」この言葉を聞いて二人の弟子、アンデレとヨハネがイエス様の後について行きました。
イエス様は二人に振り向かれて問われます。「あなたがたは何を求めているのですか」ヨハネの福音書で語られるイエス様の最初の言葉です。これはとても大切な問いかけです。と言いますのも、何を求めているかによって、その人が必要とする救い主が違ってくるからです。政治的な救いを求めるなら、議員に訴えるべきでしょう。宗教的な癒しの宣言なら祭司のところに行くべきでしょう。経済的な救済なら金持ちの家の前に座るのが良いでしょうか。イエス様の後を追いかける二人ですから、求めがあるのは間違いない。けれど、それがいったいどういう求めなのか。何を求めるかによっては、イエス様に付いていくことは何の意味も成さなくなるのです。私たちも何を求めているのかが問われるところです。
アンデレとヨハネの求めているものは何でしょうか。彼らはヨハネの言葉を聞いて、イエス様の後を追ったのですから、彼らの求めは一つです。あなたがどういうお方かを知りたい。ですから彼らはイエス様に声をかけられたのをこれ幸いに「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねます。つまり、「先生、今どこにお泊りなんですか。私たちはあなたをもっと知りたいです。あなたととことん話し合いたいのです。あなたのお泊りになっているところにご一緒してもいいでしょうか。」と願ったのです。
「来なさい。そうすればわかります。」二人はイエス様の声に従って宿へとついて行きます。「時は10時頃であった」とあります。現代の時刻では、午後4時。つまり、ユダヤの日没を意味します。日没は一日の終わりであり始まりです。そして、「その日彼らはイエスといっしょにいた。」ともありますから、その晩、彼らは夜通しでイエス様と語り合ったということです。どんな話があったか詳しくは書かれません。しかし、想像はできます。翌朝、彼らは「私たちはメシヤにあった。」と人々に告げ知らせたからです。41節に「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて」とあります。ペテロを始めとして、他の人々にも、という意味です。つまり、そういう晩を過ごした。イエス様をラビ(ユダヤ教の先生)と呼んでいた彼らが、今メシヤと確信し、それを人々には黙っていられない。そういう一夜を過ごした。イエス様は彼らの悩みを真剣に聞き入れ、聖書を解き明かし、ご自身を明らかにし、祈り、魂に触れる交わりを共にされたのです。
大切なのは、イエス様のもとに行くということです。遠くから眺めているだけではダメなのです。そうすればわかるというのは、そのようにして下さるということ。イエス様と向きあえば、イエス様の言葉に耳を傾けば、イエス様がわからせて下さるのです。私は高校生の頃に聖書に触れ、教会に導かれました。しかし、どこか頑なで、興味はあるけど、信じたいけど、イエス様のことを全て知るまでは、聖書を隅から隅まで納得するまでは信じることは出来ないと思っておりました。そうでなければ信じる資格がないとです。しかしある時、それは順序が逆であることを知ったのです。まずは求めを持ってイエス様のもとに行くのです。そうすればわかる。私は神がおられること。イエス様が神の子であること。私の救い主であることを信じました。というよりも、私の中でそのように心を決めました。すると、聖書のあらゆる記事が、納得がいくものとして心の中にストンと落ちたのです。信仰は私たちの旗色を鮮明にすることから始まります。私は何を求めるのか。私は誰についていくのか。私たちがまず心を決める時、その他のことは自ずとわかるようになるのです。信仰は知識に先立つのです。

ヨハネ21:1-19 「やり直しの朝」
使徒の働きを見ると、イエス様は苦しみを受けた後「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒1:3)とあります。そしてイエス様が天に昇られるのを見送った場所は40日後エルサレムにあるオリーブ山であります。そのたった40日の間で、イエス様はガリラヤで会おうとおっしゃる。大切な日数を削ってでもガリラヤで弟子たちと会うのは、そこに大切な意味があるからです。
ではガリラヤでいったい何があったのでしょうか。夜通し漁をして一向に魚が取れなかった弟子たちが、岸辺の人の指示通りにすると大漁となったという話です。その岸辺の人は実はイエス様で、それに気付いた弟子たちは慌てて岸辺に向かいます。するとイエス様は炭火を用意し、パンと魚を焼いて、食事の用意をして待っていてくださったのです。彼らはイエス様と食事を取ります。そしてその後がクライマックスです。イエス様はペテロに三度「あなたはわたしを愛しますか」とお尋ねになるのです。
これがこのガリラヤ行きの全貌です。イエス様がしたかったのは、このガリラヤにおいて彼らにこれまで体験した信仰の節目をもう一度追体験させることでした。ペテロやヤコブやヨハネが最初に召されたその出来事を再現されるかのような大漁の奇跡がなされ、湖畔での食卓においてイエス様は5000人給食を思い起こさせるパンと魚を食させます。それもわざわざイエス様が一人ひとりに取って与えることにより、最後の晩餐を思い起こさせる食事の交わりといたします。なぜそうするのか。それは彼らが失敗を経験した者だからです。罪深さ、後ろめたさを引きずるものだからです。彼らはイエス様が最も苦しんだその時、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出したのです。そんな彼らをもう一度、ご自身の弟子として立ち上がらせるためにです。弟子たちは食事を取りながら、目の前の感動の出来事と共に、栄光に満ちたあの日々を思い起こしたことでした。初心に帰る如く、彼らはイエス様への信仰を新たにいたします。そしてその極めつけがペテロでした。
イエス様はペテロに問います。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」「わたしの子羊を飼いなさい。」ところが、イエス様はこの一連のやり取りを三度繰り返されるのです。これは明らかに異常です。ここには質問以上の意味が込められています。ここで思い出されるのは、三度イエス様を否んだあの大祭司の庭での出来事です。
最後の晩餐の折、イエス様は弟子たちの下を去ること、そして弟子たちがご自身についていけないことを話されました。しかしそれを聞いたペテロは言います。「あなたのためにはいのちも捨てます。」するとイエス様は言います。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」そしてその後、イエス様は捕らえられ、ペテロは大祭司の庭で確かに三度イエス様を知らないと否認するのです。一度目、二度目、彼は自分の言葉の意味を全くわかっていませんでした。ただ必死に降り掛かった火の粉を払うのみです。しかし三度目の「そんな人は知らない。」とペテロが口にした瞬間、鶏が声を上げたのです。その時、ペテロは自分が躍起になってイエス様を否定していた事実に気付かされたのです。同様に、復活されたイエス様はペテロに問います。「あなたはわたしを愛していますか。」一度目、二度目、彼は何も考えずに返事をします。けれど三度目の質問に答えるとき、彼は自分の弱さと直面して答えざるを得ないのです。そして、その弱さと向き合わせて尚答えさせるために、イエス様は敢えて三度繰り返されるのです。
犯した罪と向き合わせて尚問いかけるのは、そこにはイエス様の赦しが用意されているからです。「あなたはわたしを愛していますか。」この問いかけには前提があります。「わたしはあなたを選んでいるよ。」「わたしはあなたを愛しているよ。」「わたしはあなたを赦しているよ。」です。三度の問いは三度の赦しの宣言です。ここがペテロのやり直しの第一歩です。復活のイエス様と出会った興奮ではなくて、自らの弱さと向き合い、その罪に打ちひしがれ、そしてその罪を赦しておられるイエス様と出会い、このイエス様を信じて告白する。私たちの信仰の第一歩はイエス様の赦しに出会うということにあるのです。いつまでも罪を赦せないのは、神ではなくて自分なのです。赦しは自分で言い聞かせるものではなくて、相手から宣言されて初めて得るものだからです。イエス様は私たちが罪と向き合うたびに問いかけてくださいます。三度罪を犯せば三度、百度罪を犯せば百度。「あなたはわたしを愛しますか。」それはイエス様の赦しの宣言。私たちのやり直しの一歩です。
