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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210317 アモス5:16-27 「災いの中で思う」

アモス5:16-27 「災いの中で思う」

 主の日を待ち望む者に対し、「主の日はやみであって、光ではない。」と言われます。「暗闇であって、輝きはない。」とも言われます。これは私たちにとって望まない預言ではないでしょうか。主の日は光なのではないでしょうか。主の日は待ち望むべき日ではなかったのでしょうか。けれどそう単純ではありません。イスラエルの人々は、主の日とは自分たちの敵を討ち滅ぼされる日と理解していました。だから主よ、早く来てください。早く来て私たちの敵を滅ぼしてください。と祈り続けてきた。けれど、主はそんな彼らの鼻をへし折ります。主の裁きは全ての人に及ぶ。もちろん、あなたも例外ではありませんよ。と語られるのです。
 考えなければならないことは、彼らは宗教的には大変熱心だったということです。彼らは毎日のいけにえを献げ、十分の一を神殿に納め、集会、祭り、儀式をにぎやかに執り行っておりました。災いを告げるアモスの預言は、決して神を知らない異邦人に向けられているわけではないのです。
 21節に「あなたがたの祭りを憎み、退ける。」とあります。きよめの集会のときのかおりも、全焼のいけにえも、穀物の献げ物も喜ばない。和解のいけにえも見向きもしない。ことごとく彼らの礼拝を受け入れないと言われるのです。彼らの目に見える熱心さは、主の目に適うものでは無かったのです。詩編51:17には「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」とあります。彼らの心が真に悔い改めに導かれているなら、そして彼らの礼拝、奉仕が心から神への感謝に満たされているなら、神が彼らを退けることは決してあり得ません。そうでないのは彼らが見えるところを繕うばかりで、心からの悔い改めに至らないからです。彼らは自分たちの不信に気付いていないのです。彼らは自分たちが熱心な信仰の持ち主だと自負していたのです。私たちは見えるところを繕ってもダメなのです。
 この民に向けて、あまりにも過激な災いの預言がアモスを通じて語られるのです。新型コロナと言う疫病を経験する私たちにとって、あまりにも核心を突く神のことばに思わず息を飲むところではないでしょうか。しかし、私たちは神のみこころを説くアモスの預言に真摯に耳を傾けなければなりません。神が下す災いの目的が4章に記されています。食糧危機、干ばつ、穀物の病気、いなご、疫病、戦争、地震。幾度となくもたらされる主からの災いは、神の残忍さによるのではありません。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」私たちは忘れがちですが、災いの前に彼らの不信仰があったのです。そして、その不信仰な民が立ち返ることを望まれ続けられる神がおられるのです。神はあらゆる手段を用いて、私たちが神のもとに帰ることを望んでおられるのです。神は諦めません。神はどこまでも私たちを救いたいのです。
 もちろん、だから私を救うために災いがもたらされたとは言いません。救いの手段のために新型コロナ・ウィルスという災いがもたらされたのではありません。けれど、この災いを意味あるものとするかどうかは、私たち次第です。私たちの礼拝は、神に受け入れられているでしょうか。私たちの祈りは、奉仕は、神の喜ばれるものでしょうか。主は私たちの心をご覧になります。私たちの献げ物は何から来ているでしょうか。喜びからか。感謝からか。それとも習慣か。偽善か。私たちが主から受けた恵みに立つとき、その献げ物は心からの感謝となります。私たちは災いの中でこそ、まず主の十字架に立ち返るべきなのです。