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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210414 Ⅱテサロニケ2 「まず背教が起こり」

Ⅱテサロニケ2 「まず背教が起こり」

 パウロは主の日は、「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れ」ると言っています。私たちは主の再臨の訪れがどのように来るか知っているでしょうか。私が学生の頃、教会成長運動というものが流行り、全世界へ福音を宣べ伝えることが盛んに語られました。全世界へ福音をとは、もちろんイエス様の大宣教命令に由来する教えで、それは教会の使命の一旦を述べています。また、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とありますから、主の再臨は世界の隅々まで福音が宣べ伝えられ、教会が成長し、人類が皆キリスト者となったその先にあると思っていたことがあります。神の国の拡大の頂点に主の再臨があるとです。だから頑張って宣教することが主の再臨を早めることになるんだと。こういう話も聞いたことがあります。
 けれど今日の箇所を見ると、ちょっと様子が違います。背教が起こり、不法の者、滅びの子が現れる、その先に主は再び来られると言うのです。主はこの世界の裁きを猶予してくださっているわけです。主は私たちが滅びるのを良しとせず、待ってくださっている。けれど主の日の前日、サタンの働きがいよいよ活発となり、不法の人が現れ、滅びの子が現れるのです。もはや一刻の猶予もない。もはや待つことができない状況となって、主は来られると。来臨の輝きをもってその者たちを滅ぼされる。と言われるのです。驚かれるかもしれませんが、主の再臨を待ち望むことは、主の裁きを待ち望むことと同義です。私たちにとって、それは新しい体でよみがえる日の希望ですが、主を知らない者にとって、それは永遠の滅びなのです。
 このパウロのメッセージを当時の人々はどう聞いたことでしょう。考えなければならないことは、このテサロニケ教会の置かれた状況が迫害や批判の真っ只中であったという事です。テサロニケのユダヤ人は、パウロを排除しようと行く先々にまで追いかけるほどに執拗な者たちでした。彼らは迫害の急先鋒でした。テサロニケのキリスト者はそういうユダヤ人たちの目を掻い潜りながら、信仰を守っていたのです。ですからそういう状況に置かれた彼らが、再臨という教えを曲解して握りしめ、現実から目を逸らせようとしたことはある意味当然なことなのです。彼らは今ある現実に疲れ切っていました。ですから、もう、どうでもいい。全てを投げ出したい。主の日は来たのだから、もう頑張る必要はない。じっとしていよう。黙っていよう。そんな彼らにパウロは言います。主の日はまだ来ていないとです。そして、主の日の前に、滅びの子が来るという現実を語ります。つまり今は終末の世なのだと。けれどその先に、主の再臨による勝利が必ずあると語るのです。
 再臨信仰というのは、私たちの地上の生活に目をつむらせるユートピア信仰ではありません。困難な現実があります。もう投げ出したい。早く御国に入れてほしい。この生命を取ってほしい。確かにそう思う困難な日々があるのです。けれど御言葉は、そのような困難は主の想定されることだと言います。終末の世。主の再臨を前に、「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れ」るのです。けれど、その先に、主の再臨がある。主の正しい裁きが行われる。再臨信仰とは、困難な現実を認めつつ、しかしその先にある確かな勝利に希望を抱く、信仰者の地上での生き方のことです。主の日は必ずやって来る。だから今を懸命に生きよ。これが再臨に希望を置く信仰です。