黙示録21:9-27 「新しいエルサレム」
21章からヨハネが見た新しい天と新しい地における都エルサレムの様子が記されます。10節に「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。」とあります。都が降ってくるというのは、いささか面食らってしまう表現です。ジブリ映画に天空の城ラピュタがありますが、あのような空飛ぶ都が降ってくるということでしょうか。そういうモチーフの絵画もかなりあります。しかし、このところはあまり外観に拘る必要はないでしょう。聖なる都とは、王の王たるイエス様が治める王国の都です。大事なのはその都、その支配は天から下ってくるということです。いつも救いは天から来るのです。イエス様がそうでした。最初の時も、そして次に来る時もであります。私たちが迎え入れられる新しい都ですら、私たちが駆け上がるものではなくて、私たちのところに下ってくるのです。ローマでの凱旋式は、パレードの最後、小高い丘の上に建つユピテル神殿で行われました。多くの神殿は見上げるほどに高いところに築かれます。それが下々の民にとって権威の象徴となるようにです。けれど、新しい都は下りてくるのです。これは大変象徴的なことです。
しかも、その都には高い城壁がありますが、その門の数は4方に3つずつ計12あり、その門は一日中閉じることはありません。神の民にとって、その都は見上げるものでもなく、出入りすらも自由です。
そしてその城壁にせよ、何にせよ、都中の建物は全て高価な宝石に譬えられた神の栄光で輝いているのです。新しい都では、太陽の光が天高くから降り注ぐような形の栄光ではなくて、全てが栄光で満ちているのです。そこには影すらもない。栄光が及ばない隙間もない。ということです。
そして、これがもっとも特徴的ですが、この都には神殿がないのです。神殿は神の臨在されるとこととして儲けられ、贖いのための生贄が捧げられるところです。神が人と唯一出会うそのところでありました。ところが、新しい都ではそのような特別な場所を設ける必要がないのです。
このような素晴らしい都に入れる者は誰でしょう。それは子羊の書に名前が記されている者です。子羊の書に名が記されるのは、ただ子羊の贖いの恵みにあずかるものです。つまり私たちキリストの救いにあずかる全ての者ということです。私たちが入れられるところはすでに用意されています。
だからこそ続く22章。黙示録最後の章では、「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」とあります。だから慌てなさい。というのでもなく、危機感を持って叫びなさい。というのでもなく、日々の信仰の歩みを積み重ねなさいというのです。
私は終末を思う時、いつもルターの言葉が思い出されます。「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」永遠の約束をいただいた私たちにとって、死も再臨もその過程でしかありません。私たちは今日できることを粛々と行うのみです。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」Ⅰテサロニケ5:11

黙示録19:1-10 「子羊の婚宴」
ときどき車に乗っておりますと後ろのトランクの部分に、魚のマークが貼ってある車を見かけます。あれは魚好きのマークではありません。その魚の体には、ギリシャ語でイクソス「魚」という言葉が記されております。これはギリシャ語で「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べたもので、実はクリスチャンであることのしるしでありました。元々このシンボルは1世紀のキリスト者の間ですでに使われおりまして、信者ではない人にとっては、単なる魚のマーク。けれど、信者にとっては「私はキリスト者です」という信仰の表明であったわけです。迫害下にあって、自由に信仰が語れない中で、信仰者はこのシンボルによって、互いが同じ信仰を持つキリスト者であることを知りました。そして、それを互いの励みとしたのです。このイクソス然り、そして黙示録然り、つまりは、信仰を自由に表明することの出来ない時代の中にキリスト者は置かれていたということです。当時の社会情勢はキリスト者の信仰を許さない。キリスト者は迫害を受けますが、それは彼らの行いが悪かったとか、事件を起こしたとか、そういうことではなくて、彼らはキリストを信じるその一点において苦しみを受けたのです。そして、そういう信仰者を励ますために記されたのが、この黙示録というわけです。
迫害に苦しむ信仰者の毎日は、先の見えない闇のようなものです。今日無事でも明日はどうなるかわからない。薄氷を踏むような毎日を過ごしながら、彼らは必死に信仰を守ります。しかし時に思うのです。信仰に寄って立つということは、果たして自分の一人よがりなんだろうか。そんな彼らに向けて、老使徒ヨハネは「子羊の前にひれ伏せ」と言うのです。「キリストを信じよ」と言うのです。子羊はすでに勝利している。婚宴を用意している。だから、この苦難に耐える日々は決して無駄ではないと言うのです。
もし苦難と忍耐の末に用意されているのが絶望だとしたら、私たちが今を耐えることに意味はあるでしょうか。しかし、苦難と忍耐の末には勝利が用意されていのでする。子羊の婚宴はすでに用意ができている。この約束が揺るぎないからこそ、私たちは今を耐え忍ぶことができるのです。
黙示録は、子羊の勝利を語ります。弱く、力のない象徴であるはずの子羊が、凶悪な竜、古い蛇に打ち勝ち王国を築き上げる。これが黙示録の語るメッセージです。羊の群れが襲われた時、彼らにできるのは群れの一番弱い羊を犠牲にして逃げるくらいです。それほどに羊は弱い動物の代名詞です。その弱々しい子羊が勝利など、人々は笑うかも知れません。多くの人は黙示録に何の慰めも見ることが出来ないかも知れません。しかし、私たちはこの子羊こそが私たちの救いであることを知っています。神の子羊であるイエス様が、私たちの罪の贖いのために自らを生け贄となって下さったことを知っています。ですから私たちは、ここに私たちの希望と慰めを見ることができるのです。
今日、ご一緒に覚えたいこと。それは、苦難の中に置かれる時こそ、私たちは子羊を見上げることを忘れないようにしたいということです。なぜなら黙示録が記された当初と似た状況が迫りつつあるように思えるからです。実際、このアドベントで確認したこの年の出来事。つまり戦争に疫病、偽預言者を見れば、それは黙示録に記されるところと重なるのです。それはつまり、ローマ下にあったキリスト者と今の日本にいるキリスト者の取り巻く環境が類似しているということです。
実際、この日本でも信仰を持つがゆえに迫害に遭うという時代がありました。一つは、江戸時代のキリシタン禁教令。そしてもう一つは、先のアジア・太平洋戦争下での国民儀礼。同じことが繰り返されないという保証はどこにもありません。なぜなら、キリスト者が迫害に遭う理由は、いつの時代もキリスト者が国家よりも前に神に仕える者に他ならないからです。国の利益と神の義が相反する時、私たちは神に従うことを選びとるからです。キリスト者が信仰を通すということは、支配者にとっては不従順な民と映る可能性があるのです。
だからこそ、私たちは地上の歩みの中で天上の希望を見るのです。子羊は勝利したのです。その婚宴はすでに用意されています。これがこの試練の行き着く先なのです。イエス様がこの地に降りてくださり、身代わりの死を遂げられ、三日目に蘇ってくださったゆえに、私たちの勝利はもう完成しています。

黙示録18:1-10 「その災害に巻き込まれないように」
17章から18章にかけて大バビロンについてが語られます。もちろんバビロンは当の昔に滅んでいますから、それはこの時代における大帝国ローマのことを指しています。しかし、それだけではありません。黙示録はサタンと神の陣営である教会との対立関係をも記しています。ですから大バビロンとは謂わば、この世に蔓延るサタンの陣営としての地上の帝国が描かれるのです。3節には「すべての国々の民は、御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得たからだ。」とあります。この世の権力に媚びるものは多いです。勝ち馬に乗ろうと尻尾を振る者は後を絶ちません。事実、世界の国々はこぞってローマの傘下に加わり、その利権に与ろうとしたのです。もともとはユダヤもそうでした。イドマヤ人であったヘロデは、ローマに取り入ってユダヤの王に就きました。しかし、そんなユダヤも今はもう滅ぼされています。ローマに味方すればこの世の繁栄に与り、ローマに敵対すれば滅ぼされる。それがこの時代の常識となっていたわけです。そんな中、教会はどうするのか。
主は神の民に対して「この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい」と命じられます。地上の陣営が、各々ローマに付くか、歯向かうかと2つに分かれる中、主は神の民に「関わるな」「出て行け」とおっしゃるのです。新改訳第3版では「離れなさい」です。なぜなら、それは主のさばきだからです。そして、そのさばきは大バビロンだからではなくて、大バビロンが淫行にふけ、この世の快楽を横臥し、皇帝崇拝を強要して神を冒涜していたからです。つまり、神の民と言えどそこに関わるなら等しく裁かれるということです。
私たちは主のさばきを実行する立場にはおりません。「律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」(ヤコブ4:12)私たちは自らの身を心配すべきです。ソドムとゴモラの町が滅ぼされるとき、ロトとその家族は主の憐れみのゆえに、逃げ出すよう命じられます。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」(創世記19:17)けれどロトの妻は振り返り、塩の柱となってしまったのです。この振り返るというのはとても象徴的な意味を含んでいます。つまり、単なる好奇心で振り返ったのではありません。彼女は刺激的で欲望に満ちたその生活を惜しんだのです。もちろん、私たちには主の贖いがある。救いの約束がある。それはそうです。けれど同時に、私たちにはそれらを自らの意思で捨てることすらも許されているのです。私たちの過ちも弱さも、罪すらも、主はすべて覆ってくださるお方です。けれど、私たちが大バビロンに留まることを自ら選ぶなら、そのさばきに巻き込まれることは避けられないのです。
大バビロンと評されるローマですが、それはローマだけに当てはまることではありません。たとえば大日本帝国と呼ばれていた頃の私たちの国は、ローマ帝国ととても似ています。皇帝崇拝を強要し、この世の栄華を誇ったローマと、天皇崇拝を強要した大日本帝国。それはどちらも大バビロンと呼ばれるものです。そして、「あなたがたは、彼女が支払ったとおりに彼女に報いなさい。彼女の行いに応じて倍にして返しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中に、彼女のために倍のものを混ぜ合わせなさい。」(18:6)とあります。その振る舞いは己のもとへと返ってくる。大日本帝国は自らの行いに応じて、主のさばきによって滅んだのです。つまり、この預言は遠い昔だけを指しているものではないということです。大バビロンは時代と共にあります。それは目に見えるこの世の力です。快楽です。私たちはこれに味方するか敵対するか、どちらの振る舞いが得か、損かと考えるのではなくて、たださばき主である神に逃れることが求められるのです。私たちの判断はリアクションが多いです。状況を見て、相手を見て、判断するところが多いです。けれど、そうではありません。大バビロンの滅びは一瞬です。ソドムとゴモラも同じです。どれだけ栄華を誇ろうと、主のさばきの前には何の意味もありません。大バビロンがどうであろうと、私たちの判断はあくまでも主の御声に聞き従うかどうかです。

黙示録13 「予定調和」
ファンタジーのような話が記されています。一体何のことかと思うところではないでしょうか。この黙示録は黙示文学と言いまして、わざとこのような言い回しを使っています。それは当時の時代背景が影響しています。つまり、教会は迫害の時代を過ごしていたのです。ヨハネは迫害に会っている教会を励ますためにこの黙示録を記しています。その時、直接、教会だ、悪魔だ、皇帝だと書くと、すぐにキリスト教会の者だと知れてしまうわけです。なので聖書の民にだけわかるように書く必要がありました。そこで黙示文学なのです。たとえばダニエル書などに親しい者であれば、この黙示録を読んでその意味を汲み取ることができるわけです。けれど、そうでないローマ兵などには何を書いているのかさっぱりわからない。わざとそういう書物にして教会で回覧したのです。ですから黙示録を読むときにはある程度の決まり事を知っておく必要があります。
たとえばここに登場する「竜」というのは、12章で「古い蛇」とも言いかえられていますが、つまりそれはアダムを惑わした蛇。サタンのことを意味します。また12章で出てくる「女」とは、「教会」のことを指しています。つまり神の陣営である教会とサタンとの対決の構図を記しているわけです。サタンは天においてミカエルと彼の使いたちと戦い破れて地に落とされます。そこで「竜」であるサタンは最後の反撃に出ます。
13章では二匹の獣が記されます。1-10節には海からの獣。11節からは地からの獣です。どちらも竜から権威を与えられて現れた反キリストのしるしです。1-2節に「また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。」とあります。ファンタジー色が強い描写で何のことかよくわかりませんが、ダニエル書7:2-8に出てきた四頭の大きな獣に酷似しています。ダニエル書に記される四頭の獣は、7:17に「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。」と解説されていて、これらは4人の王、バビロニア、メディア、ペルシャ、ギリシャの王を指していると伝統的に理解されていますから、それらの王が一つとなるような強大な反キリストの王がやって来る。つまり教会に対する大規模な迫害の訪れを伝えているわけです。
11節には「また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。」とあります。「子羊の角に似た」とあるのがミソです。この当時、教会で子羊と言えばキリストを指す言葉ですが、「子羊の角に似た」とありますから、それは小羊ではないのです。子羊のふりをした者たちです。イエス様はマタイ7:15で「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」とおっしゃいました。まさにその偽預言者たちなのです。
一世紀末の教会はこれら王による迫害と、偽キリストの教えとの信仰の戦いを続けていたのです。つまり、この竜だの、海からの獣、地からの獣だのというのは、世界の果て、遠い遠い世界の話ではなくて、今まさにキリスト者が置かれているその現状を記している。つまり神を信じる者には、これらのことは不思議でも何でもなくて、当然起こることなんだと。それはあなたの信仰が足りないから起こる不幸ではなくて、神が私の信仰に満足できなくて与えている苦難でもなくて、初めから起こることになっていた神のご計画なんだと。こう言いたいのです。当時のキリスト者が信仰のゆえに迫害にあっている。真面目な者ほど、これは何の罰かと考えたのです。自分の信仰の至らなさに思い悩んだのです。自分の信仰が足りないからこんな試練にあっている。けれど違うのです。それはイエス様に付き従う者には当然起こることなのです。だから、あなたの信仰は間違っていないと。あなたの信仰はそのままで良いと。こう励ましているのです。そして主の御手が短いわけではないとです。確かにこの地上では、サタンとその獣たちが暴れることでしょう。けれど、それすらも神の予定調和です。惑わされることなく信仰を持ち続けることが大事です。信仰のゆえの不自由さはひとときのことです。迫害はやがて終わります。私たちに約束されているのは、新しい天と新しい地。永遠の都です。

黙示録8 「世のわざわいを見て」
6章から、巻き物の7つの封印が解かれる幻が記されます。まず4つの封印が解かれると、4つの馬が飛び出して災いをもたらしました。白い馬は偽キリスト、赤い馬は戦争、黒い馬は食糧不足による経済難、青い馬は死そのものです。そして第5の封印が解かれると、殉教した人々のたましいが祭壇の下で最後の審判が訪れるのを待ち望んでいるのを見ます。けれど、それはまだ聞き遂げられません。なぜなら同じように殉教する者の数がまだ満ちていないからだと神は言われます。つまり審判を乞う祈りが更に積まれる必要があるということでしょう。そして次に第6の封印が解かれると、大きな地震が起きると告られます。しかし、これもまた4人の御使いによって押さえつけられています。まだ神のしもべたちの額の印を押し終えていないからだと言います。すでに印が押された者たちは御座と小羊の前に立って礼拝をささげています。けれどまだ至っていないと。そして今日の箇所、8章へと続くわけです。
8章でいよいよ7つ目の封印が解かれる幻を見ます。すると天には半時間ばかりの静けさがありました。先程まで、天では殉教者たちが審判を願い、御使いたちも神の民も、皆叫ぶように礼拝をしていたというのにです。それが今、声がピタリと止んで、皆が固唾を呑むのです。緊張が走ります。嵐の前の静けさです。
すると角笛を携えた7人の御使いを従えて、一人の御使いが金の香炉を持って祭壇に立ち、香を祭壇にささげるのです。4節に「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに」とあります。詩篇141:2には「私の祈りが御前への香として手を上げる祈りが夕べのささげ物として立ち上りますように。」とありました。また黙示録5:8には「香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。香とは聖徒たちの祈りを指しています。しかし「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに」とある。つまりここには2重の祈りがあるということです。聖徒たちの祈りだけでは不十分なのです。ある説教者はこれは主イエスの祈りだと言っています。主イエスの執り成しの祈りが重なって届けられる時、神はその祈り、最後の審判を乞い願う祈りを聞き遂げられるというのです。
御使いは香炉を祭壇の火で満たします。そしてそれを地に投げつけました。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こります。それが最後の審判の幕開けの合図なのです。
いよいよ7つのラッパが吹き鳴らされます。ヨエル書2:1-2には「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」地に住むすべての者は、恐れおののけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。」とあります。主の日において、角笛が吹き鳴らされます。それは恐れおののく日だと。闇と暗闇の日だと言うのです。
御使いが順々にラッパを吹き鳴らします。第1の御使いが鳴らすと、雹と火が降り注ぎ、地上の3分の1が焼けてしまいます。第2の御使いが鳴らすと、火の塊が海に投げ込まれ、海の生き物の3分の1が死に至ります。第3の御使いが鳴らすと、星が落ちて水源の3分の1を汚染し、人々を死に至らしめます。第4の御使いがラッパを鳴らすと、太陽と月と星の3分の1が打たれて、光を失います。すると1羽の鷲が現れて、この後のわざわいを警告いたします。何とも不吉な場面で、8章は終わるのです。
さて、この幻をどう理解すべきでしょうか。一つは、間違いなくこの世界は滅びに向かっているということ。もう一つは、それは殉教者たちが請い願う、新しい世界の訪れでもあるということ。そしてもう一つは、わざわいが繰り返される中、打たれるのがいつも3分の1であることに神の憐れみがあるということでしょう。
どう見ても、世の終わりの予兆としか言えない出来事が現実に起こっているのです。戦争や異常気象。地球規模の疫病。それは一つ一つ、時代の理由であったり、個人の思惑であったり、それぞれに原因があります。けれど、私たちはそこに別の声も聞く必要があるのではないかと思うわけです。神の前に立つ自分を顧みる必要があるように思うのです。1羽の鷲が大声で言います。「わざわいだ、わざわいだ、わざわいが来る。地上に住む者たちに。三人の御使いが吹こうとしている残りのラッパの音によって。」これは警告です。警告は別の見方をすれば、まだ間に合うということでもあります。神さまは一度に全てを滅ぼすこともできるのです。けれど、毎度まいど3分の1に留められています。それは、このわざわいが災いに終わらず、人々の悔い改めに結びつくためにです。神は私たちを待っていてくださるのです。
