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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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211215 ヨブ40 「天にも地にも満ちている愛」

ヨブ40 「天にも地にも満ちている愛」

 38章から続く主の語りかけに、自分の無知をしめされたヨブはへりくだって初めての言葉を主に語ります。「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。」(40:5)
 主はヨブがどれほど義を誇ろうと、主に比べうるもないことを改めて指摘します。どれだけヨブが義を唱えても、すべての悪者を改心させることなどできません。自らの手で、自らを救えるはずもありません。どれだけ己を誇ろうと、河馬も人間も等しく神の被造物に過ぎません。神の被造物にその差はありません。神は一切の被造物に、ご計画を持っておられる。この神の秩序の中で私たちは生きているのです。
 38章、39章に記された主の問いかけに圧巻いたします。
 この地の基を定めたのは誰か。この海を統治しているのは誰か。死の陰の門を見たことがあるか。光の住む所に至る道はどこか。雨は。氷は。水は。星星は。岩間の野ヤギは。野ロバは。野牛は。だちょうは。主はヨブにこの世界のあらゆる理を問いかけます。あなたは知っているとでも言うのか。その質問はあまりにも多種多様で、問われるヨブはどれほど己の無知を思い知らされたことでしょう。しかし主の問いかけはヨブの無知と同時に主の無限の知恵を明らかにしています。自分のことだけで精一杯であったヨブと、全世界を統べ納められる主。その隔たりは天地の隔たりよりも大きなものです。誰も主の前に己を義も誇ることなどできません。エリフが言ったヨブの罪は、神よりも自分自身を義としたことでした。主はヨブの無知を指摘します。あなたは神ではないと思い知らせます。それは単にヨブを黙らせるために問いかけではありません。ヨブに問いかけながら、御自身がどれほどこの被造物に慈しみを持っておられるかを語られておられる。あなたが知らないこれらの営みに、私は関心を寄せ、計画しているのだと。この世界の秩序の基に主がおられると。そして今、その主がヨブにどれほど心を砕いて声をかけられているのかをです。
 新潟にいる頃、教会員の方と一緒に登山をしました。そんなに高い山ではありません。けれど海風によって侵食された尾根は険しく、尖った足場を上り下りしながら、下山していきますと、急に視界に海が広がるのです。本当に美しい光景。太陽の光が海の波に照り返し、眼前に広がる日本海に、何とも言えぬ感動を致しました。神さまの創造の御業の素晴らしさを実感しました。井のなかの蛙。自分の抱える不平不満が、どれほど狭い日常の視点に由来しているかを思い知らされました。祈りが聞かれない。願った通りの現実でない。試練の中で私たちは神の不在を嘆きます。神さまは私を見放された。神さまは雲隠れされた。私たちはそんな風に絶望を装います。けれど私たちの周りには、どれほど多くの神の御業が溢れていることか。私たちはどれほどの神の奇跡に取り囲まれていることか。神はいないと言うならば、私たちは目をつむっているに違いありません。私たちが見ようとすれば、神は至る所に、御自身を証明されておられるのです。
 エレミヤ23:23-24「わたしは近くにいれば、神なのか。──【主】のことば──遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──【主】のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──【主】のことば。」
 目を上げて、見渡してみましょう。そこには見渡す限りの神さまの創造に満ちています。神さまはこの地に満ち満ちています。私たちは否定できない主の奇跡を見るでしょう。

211208 ヨブ36:1-14 「世界の全ては神のことば」

ヨブ36:1-14 「世界の全ては神のことば」

 私たちには突如として不条理と思えるような試練が降りかかる。と、ヨブ記を読んで学びました。けれど、エリフはその試練は無意味ではないと言うのです。私たちの側で不条理に思える出来事でも、神の側には意味があると言うのです。
 7節には「神は正しい者から目を離さず、彼らを王座にある王たちとともに、永遠に座に着かせる。こうして彼らは高くなる。」とあります。神は正しい者の決断を見ていて下さると言います。そしてそのような者に相応しい祝福を用意してくださっています。正しい者とはどういう者でしょう。それは、この神に信頼して応じる者と言えるでしょう。神は私たちに正しくあってほしいと願われます。そして、正しい者には祝福を与えるとです。誰が見ているわけではないけれど神さまが見てくださっている。信頼してくださっている。神の眼差しを見守りと取るか、監視と取るかで、随分と印象が違います。正しい者とは、この神の眼差しに信頼する者。信頼して応じる者であります。
 しかし、時に私たちは迷い、苦しむのです。どんな時にも神に信頼できれば良いのですが、そうはできない時がある。ヨブがそうです。神に忠実であったヨブが、不条理な試練の中で迷い苦しむのです。彼は自らの義を主張し、神の取り扱いに不満をぶつけます。しかし、逆なのです。神は、そのような試練を設けて、その者の背きや驕り高ぶりを告げておられるのです。もしも神が試練をくださらなければ、その人にもたらされるのは予告のない滅びです。けれど神は試練を設けます。試みを用意します。その中で、彼が自らの驕り高ぶりに気付き、神の忠告を聞き入れて、不法から立ち返るようにです。あくまでも神の目的はその者を立ち返らせることにあります。苦しめることではありません。その証拠に、神は試練に先立って、聞き入れる者の日々の幸せを、年々の楽しみをすでに用意されておられるのです。
 続く15-21節で、ヨブの驕り高ぶりの正体が語られます。それは悪しき者へのさばき。さばきと公正が、彼を憤りに誘い込んでいるのです。自分が正しいと主張するとき、すでに驕り高ぶりに捕らわれています。しかし、私たちが真の神に目を向けるとき、いったい誰がその正しさを誇ることができるでしょうか。
 エリフは言います。「見よ、神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいるだろうか。だれが神にその道を指図したのか。だれが「あなたは不正をした」と言ったのか。」(36:22-23)試練にあって神に助けを求めることはあっても、神の御業を不正と評することは誰にもできません。神を前にして、私たちにできるのは賛美だけです。「神はいと高く、私たちには知ることができない」のです。事故で動けない身となった星野富弘さんは、ある日、聖書に書かれた野の花の記事から関心を持つようになり、窓辺に飾られた小さな花に目が留まりました。その精一杯に咲く小さな花の命に感動し、励まされ、生かされていることへの感謝が生まれたのだそうです。神のご威光は地の隅々に満ちています。この世界の全ての命の営みが、神の摂理の中で育まれています。雨一つ、しずく一つ、人の手によるものではありません。私たちは降りかかる試練だけが神のことばと思うでしょうか。しかし、そうではありません。今日、私を生かし、私を育むこの世界の全てが神のことばであり、神のみこころです。私たちはこの神に聞いて、賛美する者でありたいのです。

211201 ヨブ32 「前を向いて歩こう」

ヨブ32 「前を向いて歩こう」

 32章から37章まではエリフの論述です。突然湧いて出たようなエリフですが、ヨブと3人の友人とのやり取りを見知っていることから、かなり初めから3人と共にいたようです。3人の友人の説得が失敗に終わり、やり取りが終わったのを機に、彼はヨブに語りかけます。彼は若さゆえの正義感に燃え、湧き出る怒りを押さえ切れません。しかし、その怒りはヨブにだけ向けられているのではなく、ヨブを説得しきれない3人の友人の不甲斐なさに対しても向けられるのです。エリフの3人の年長者に対する意見は大変辛辣です。「だが、年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえているわけでもない。」(32:9)「今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの意見に耳を傾けていた。あなたがたがことばを探している間、私はあなたがたに細心の注意を払っていた。しかし、あなたがたのうちには、ヨブを叱責する者も、彼のことばに答える者もいなかった。」(32:11-12)
 32章は彼がなぜこれまで黙っていたのか、そして、なぜ今口を開くのかを彼自身が語っています。それは若さゆえに控えていたのだと言うのです。けれど年長者である3人の説得はヨブには届かない。それどころか、打つ手がなく、黙りこくってしまった。見放してしまった。だからこれからは私が意見を述べると、こう宣言するのです。
 エリフは何を語るのでしょう。それはヨブが神よりも自分自身のほうを義としたことの過ちです。このことはビルダデがすでに指摘したことです。しかしビルダデはそのことをヨブを責めるために語っておりました。基本的に、これまでの3人の友人は、なぜこの不幸が起きたのか。その理由を指摘し、それは総じて、ヨブの過去の罪にある。だから悔改めよという論調でした。けれど、エリフは不幸の原因のためにヨブを責めようとはいたしません。むしろエリフは続く33章で言っています。「聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大なのだから。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって。神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夢の中で、夜の幻の中で、深い眠りが人々を襲うとき、また寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、彼らを懲らしめて、それを封印される。神は、人間がその悪いわざを取り除くようにし、人から高ぶりを離れさせ、人のたましいが滅びの穴に入らず、そのいのちが投げ槍で滅びないようにされる。」(33:12-18)とです。神はあらゆる方法で語りかけている。というのです。それは時には懲らしめをもってであると。なぜなら、神は人のたましいが滅びの穴に入ることを放っておけないからだと。神は人のいのちが滅びることを黙ってはおられないのだと。だからその人が大事であるゆえに、あらゆることを用いて語られると言うのです。
 面白いですね。3人の友人も、おそらくはヨブ自身すらも、不幸の原因はヨブにあると考えていました。だからヨブは必死に自分の義を主張しました。けれど、ヨブ記を見る時、不幸の原因はある一面ではサタンに由来し、そしてある一面では神に由来する。と明らかにしています。因果応報の考えでは、不幸の原因は過去の自分一択でした。けれどヨブ記は、自分以外にある不幸の原因を語ります。それはサタンの策略であり、同時に神の憐れみなのです。何かに失敗をすれば、その原因を突きつめて、未来に活かす。こういう考えに私たちは馴れていますので、今の不幸に対しても原因を突き詰めようといたします。けれど、ヨブ記は全く別のアプローチで語ります。それはもう神のみこころの領域だということです。それは神とサタンとの取り決めの中での話なのだとです。つまり、原因探しをしても仕方がない。と言うのです。無責任に聞こえるでしょうか。でも、私たちは原因探しのスパイラルに陥ると、どこまでも脱出の道が見えません。それはもう神に委ねる領域です。なぜということよりも、現状をどう受け止めるかに心を向けるべきなのです。ですから、エリフは神の偉大を語ります。「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを下さる。」(33:4)と言います。「神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(33:14)と言います。私には計り知れない神の全能を語り、そして、この偉大な御方は私たちのいのちが滅びることを良しとはしないと語るのです。私たちは試練にあって、この神の御心にこそ目を向けるべきなのです。

211110 ヨブ30:1-15 「変わるもの、変わらないもの」

211110 ヨブ30:1-15 「変わるもの、変わらないもの」

 ヨブと3人の友人とのやり取りは3巡目を終わります。友人たちの説得は結局ヨブを慰めることはできず、議論は平行線のままに終わりました。もはや友人たちにヨブに掛ける言葉はありません。
 27章から31章までは、ヨブの独白がなされる場面です。格言というのは、自身の主張の中心主題のことです。27章はヨブの潔白の主張がなされ、28章では真の知恵はただ神のみが知ることを語ります。29章に入ると、ヨブは自身の幸せだった日々を振り返って思い起こしています。29:21「人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。」今ヨブに反論を繰り返していた3人の友人との対比がこのところで明らかにされます。ヨブがまだ社会の指導的立場にあった頃、人々はヨブの言葉に逆らうことなく、聞き入っていたのです。それが今、ヨブの言葉には誰も耳を貸さず、友人たちも反論を言うばかり。

 30章に入ってヨブは言っています。「しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。」かつての使用人の子どもたちですらあざ笑います。世間から追い出されたような者ですらです。彼の不満はピークを迎えます。30:9「それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。」今をより一層不幸にするのは、過去の栄光です。ヨブの中には忘れられない幸せだった過去の記憶があります。しかし、そのことが余計に彼を苦しめているのです。これは何もヨブだけに限ったことではありません。一度得た栄光を失う。これは最初から持たない者よりもより一層辛いことなのです。ヨブは今無一文で、病気を患って、孤独の内にここにいます。けれど、そのような境遇に生まれ持って置かれる人もいるわけです。けれど、じゃあ、その人がヨブと同じだけの絶望にいるのかと言うと、恐らくは、そうはならないでしょう。ヨブの苦しみの正体は、持っていたものを失うという苦しみです。過去の自分と比べてしまうことに起因するのです。
 ヨブの体験ほどにはいかなくとも、私たちは皆、似たような経験をいたします。なぜなら人はやがて老いていくものだからです。今まで当たり前にできていた事ができなくなる。若い頃の輝いていた生活は失われ、変化のない、いや徐々に徐々に失われていく日常を過ごすようになる。もし、私たちがそのような境遇にあって、ただ過去の栄光だけに目を向けるなら、この現実のなんと苦しく、辛いことかと思わされるのです。
 花の詩画作家、星野富弘さんは24歳のときに、中学の体育教師として体操の模範演技で着地に失敗し、頚椎を損傷して、首から下が全く動かなくなりました。食事を取ることも、寝返りをすらことも自力ではできず、ただただ、天井を見つめるばかりの日々が9年間続いたと言います。どれほど過去の自分を呪ったでしょう。どれほど自由に動いた時の体を羨んだことでしょう。けれど、彼は聖書と出会い変わっていきます。マタイ6:30「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」小さな草花の中に命の尊さを発見し、今日を生かされている恵みに目を留めるようになるのです。その後、口でペンをくわえて、字を書くようになり、絵筆を持つようになり、やがては詩画を描くようになって、多くの人に感動を与えるようになったのは、私たちも知るところです。
 ヨブは過去の自分と今の自分の境遇の違いに苦しみました。富弘さんも同じです。けれど、絶望的な状況の中で、富弘さんは逆に命の尊さに触れていきます。生かされていることの幸いに目が留まるのです。別にこれは、体が動かなくなったから与えられた特別の恵みではありません。以前からもその恵みはあったものです。動こうと動かまいと命の尊さに変わりはありません。けれど、気付けなかった。ここが大事です。私たちは変わっていくことに不安になります。けれど、変わっていくものではなくて、変わらないものにこそ目を向けるべきです。目に見えるものは変わっていきます。あらゆるものは朽ちていきます。そこに目を向ければ、私たちはその変化に戸惑い、不安になります。けれど、変わっていないものがあるはずです。どのように周りの人々の反応が変わろうと、自分の置かれた状況が変わろう、変わらないものがある。ここに目を留めるのです。
 ヘブル13:8「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」

211027 ヨブ17 「同情されるお方」

ヨブ17 「同情されるお方」

 3人の友人とヨブとのやり取りが記されているわけですが、15章からはなんと2巡目が始まります。今日の箇所は2度目のエリファズの言葉に対するヨブの反論の後半部分となります。
2度目のエリファズの言葉は、1度目とは違い最初からヨブを黙らせようとする勢いです。ヨブの年長者を敬わない態度に怒りを覚え、反抗的な態度を非難します。15:11-12に「神の慰めは、あなたには不十分なのか。あなたに対して優しく語られたことばは。なぜ、あなたは自分を見失っているのか。なぜ、あなたの目は、ぎらついているのか。」とあります。私にはこのように思うエリファズの気持ちに思い当たりがあります。けれど、客観的にヨブ記を読む時、ヨブの目をぎらつかせているのは、友の言葉がヨブを追い詰めているがゆえとも気付くのです。
 16章、17章とヨブの反論がなされます。16章の冒頭、「そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。むなしいことばには終わりがあるのか。あなたは何に挑発されて答え続けるのか。私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くのことばを連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。この口であなたがたを強くし、唇による慰めを惜しまなかったことだろう。」結局の所、ヨブの気持ちは同じ境遇の者でしかわかり得ないことなのです。友が語ることなど、ヨブにとっては何ら目新しいことではありません。それらはもう何度も聞いている言葉です。もしも立場が逆だったなら、自分も同じ様に語ったことだろう。けれど、たとえどれだけ慰めの言葉をかけたとしても、痛みは押さえられないし、忍んでも、それらが去ることはない。ヨブははっきりと友の慰めが何の意味を成さないことを告げ知らせます。
 そして、そのような苦しみの中で、ヨブは本当に頼るべき方に思いを馳せるのです。16:19-21「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。」ヨブはもちろんイエス・キリストの存在を知っているわけではありません。ヨブとイエス様では時代が違いすぎます。けれど他に何の救いも見いだせない、苦しみと孤独の内にある者が心から願うのは、まさにイエス様その人だったということです。
 
 17章に入ってもヨブは言います。「実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。」ヨブには考えられない様々な困難が降りかかりました。財産を失い、家族を失い、健康を失って、本当に信仰を無くしてもおかしくない試練の中に身を置くしかありませんでした。けれど、今、ヨブが本当に辛いのは、一人静かにこの困難と向き合えないという状況です。嘲る者たちが共にいます。敵意がずっと向けられています。嘲る者とは、ヨブを罪人と決めつけて今の困難な状況はヨブの自業自得であると見下す者です。敵意を向けると者は、ヨブの自暴自棄で神に対する不敬な発言に対して、自身の正義が許せない者のことです。ヨブとのやりとりで、友人たちの本性が炙り出されているのです。5節以降はヨブの望みなき日々であることの告白です。8節9節「心の直ぐな人はこのことに驚き恐れ、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る。正しい人は自分の道を保ち、手のきよい人は強さを増し加える。」素直さが恐れに繋がり、潔白が憤りとなるのです。これは本当に気を付けなければと思います。つまり、正しさというアプローチは罪ある者に決して寄り添えないということです。ヨブ記を読むのは私にとって本当に気が重いです。私の愛のない姿がむき出しになるからです。エリファズの姿は私自身です。正しい人は自分の道に従わせようとします。手のきよい人はその人をより力強く引っ張り出そうとします。つまりそれは相手を変えようとするアプローチです。けれど、思い出したいのはイエス様はそれとは真逆の方であられたということです。ヘブル2:18「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」とあります。同じくヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ともあります。自分の正義や常識ではなくて、相手の立場になるということが、寄り添うということです。そのためには、私たちは一旦、自身の正しさをも脇に置く必要があるのです。
 ヨブの唯一の救いは、ヨブを保証してくれる方が実際におられるということです。先程も言いますたように、ヨブはその方が誰かは知っていません。それはただ望みのない中での願望でしかありませんでした。けれど、その御方は確かにいるのです。ヨブの潔白を保証し、神にとりなしてくださるお方は確かにおられる。つまり、ヨブの救いは絵に描いた餅ではないのです。その方がおられるか、おられないか、この違いはとても大きなことです。
 私たちの罪を贖うために、栄光を捨てて、人としてお生まれになったお方が確かにおられます。あらゆる試みに苦しまれ、それゆえ、私のこの苦しみを自らのことのように共感してくださるお方がおられます。私たちの救いは単なる私たちの自己満足ではありません。現実から目をそらすためでも、脳みそをごまかすためのものでもなくて、確かにそこにある救いなのです。