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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220112 Ⅰテモテ6:1-10 「満ち足りる心」

Ⅰテモテ6:1-10 「満ち足りる心」

 5章から具体的な牧会上の注意が幾つもなされています。教会員に接するときの注意事項。やもめについての注意事項。長老についての注意事項。そして今日の箇所では、奴隷について。違ったことを教える人について。金銭についての注意事項が記され後半に続いています。
 奴隷と聞くと、何か特別に野蛮で非人道的なイメージに聞こえますが、現代的に言えば雇用主と従業人の関係に近いものがありました。奴隷たちは賃金をもらって主人に労働力を提供し、主人は労働力を得る代わりに奴隷たちを養います。パウロは「奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。」と言いますが、現代風に言えば、労働者は雇い主を軽く見ることをせずに尊敬して仕えなさいと言うことです。企業の論理は時に信仰者の論理を踏みにじります。清濁併せ呑むと言いますが「仕事は綺麗事だけではできない。」というのは私が社会人時代に何度も耳にした言葉です。そして、若い私にはそのことを受け入れるのが大変心苦しく悩んだことでした。今だとわかるのです。企業はボランティアではなくて収益を得なければなりません。なぜなら従業員を養わなければならないわけです。だから企業は利益を追求する。それは何も間違ったことではありません。けれど若い人は、もっと別の論理で働こうとします。利益よりも情を優先する。そして私の場合さらに信仰という正義が加わるわけで、そうすると何か仕事が汚らわしいもの、間違ったもののように思えてくるのです。けれど、パウロは主人を尊敬しなさいと言います。まず与えられたところを感謝し従うのです。文句を言って仕事を放棄することは、何の証にもなりません。「やっぱりクリスチャンなんて」と言われるのがオチです。正しいことを貫くためには、貫けるだけの信頼を得ていなければなりません。仕事で一目置かれる。誠実さで一目置かれる。私が信頼されなければ、誰も私の中にキリストを見ることはありません。
 さて話は変わって、違ったことを教える人についてです。「高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。」ともあります。違ったことを教えるというのが、相手にとって新しい発見に繋がる建設的な議論であれば良いのですが、問題は議論やことばの争いを目的とする人がいることです。今風に言うと言葉でマウントを取りたい人と言うんでしょうか。相手を打ち負かすことを目的として議論をふっかける人のことです。どちらが言い負かすか。どちらの主張が正しいか。こういう議論は大変不毛です。議論すべき本質を見失っています。そこには争いが絶えません。
 パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」と言っています。敬虔とは「信心」とも訳されている言葉です。つまり信じる心は満ち足りる心を伴うということです。そして、この満ち足りるということが大きな利益に繋がるのです。どれだけ利益を上げましても、満ち足りることがなければ、人は乾いたままです。足りないものばかりを見る人は、決して満足することはできません。それは、置かれた環境に対しても、人への期待に対しても、お金に対してもです。思い通りにいかない環境を他人のせいにしていても決して満足はできません。どれだけ相手を打ち負かして自分の優位を誇っても、それで心を満たすことはできません。どれだけ金銭を手にしたとしても同じです。私たちの欲望は常に足りないものを探します。けれど、あるもので足りることこそが幸いなのです。
 足りないのは他と比べるからでしょう。けれど、本当に必要なものは満たされています。コップの中の水が半分になった時、まだ半分残っている。と見るか、もう半分しかない。と見るかで、見える世界は全く違ってきます。足りることを知らなければ、人は決して満足することはできません。主は私たちの必要を満たしてくださいます。それは他人と比べて多くを与えくれるということではありません。誰とも比べることなく、私の必要を過不足なく与えてくださるということです。私たちは今日も生かされています。主にあって赦されています。衣食が与えられ、出会いが用意されています。当たり前の日常の中にある恵みに目を留めるものでありましょう。