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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230305 ゼカリヤ4:6、創世記47:7-12 「神の法の下で」

ゼカリヤ4:6、創世記47:7-12 「神の法の下で」

 先月に引き続きゼカリヤ4:6を見ましょう。この箇所は世との関わり方における私たちの一線。相容れることのできない信仰者としての立ち位置を明らかにしています。つまり、私たちの信仰を脅かすこの世の権威に対して、私たちがどう振る舞うべきかを教えているのです。
 信仰者にとって、この世の権威との関わり方というのは常に課題であります。なぜなら、教会というのは、この世の権威を超えた神の権威の下に集うものだからです。私たちは全てを超越した、この世界の創造主なる神を信じる者です。神と国家、そのどちらに仕えるのかと問われれば、もちろん神に仕えるのが私たちキリスト者です。私たちにとってこれは譲れない一線です。しかし、それゆえにキリスト者は迫害の歴史を歩んできたこともまた事実なのです。
 通りよき管となる。ということを考えるとき、私たちが信仰のこだわりを持つということは、世の中と結びつくことを阻む邪魔なプライドのように見えたりもするのです。原理主義の人々を見るとき私たちは思います。何の配慮もなく、自分の考えを押し通そうとする原理主義の人々の、なんて非常識で怪しい集団なのかとです。けれど同時に思うのです。もしかすると自分たちも他の人々からそのように見られているんじゃないだろうかとです。だったら、私たちは妙なこだわりは捨てて、もっと相手に合わせたほうが良いんじゃないか。それが世と繋がるための正解ではないか。と思ったりするわけです。
 創世記47章は、ファラオからゴシェンの地に住む許可をもらい、改めて族長ヤコブが挨拶をする場面です。ヤコブはこの時130歳でした。飢饉の中で長旅をして来た老人と、ナイルの恵み豊かな大国エジプトの国王のあまりにも対象的な二人の会見。ヤコブを気遣いながら歳を尋ねるファラオに対して、ヤコブはまるで愚痴のような返答をいたします。ここは何となく違和感を感じるところです。確かに彼の人生はわざわいの連続でした。でも、それも全て神のご計画と、愛する息子ヨセフとの再会で確信したヤコブではなかったでしょうか。息子ヨセフはエジプトの宰相となり、未曾有の大飢饉から自分たち一家を救い出してくれたのです。ですから、これは単なる愚痴ではありません。彼が殊更に「生きてきた年月はわずか」と語ったのは、「私は130歳です。しかし私は先祖たちと比べ物にならない若輩者です。ですから貴方さまがこの者に気遣う必要は全くありません。」という謙遜の現われなのです。年老いていることを利用して、ファラオの好意に漬け込もうという姑息な姿はここにはありません。客観的に見れば、おべっかの一つも口にするのが当然の場面。しかし、ヤコブにそのような様子は見られません。堂々とした姿が見て取れるのです。
 そのことが最も現れているのが、ヤコブの祝福の場面です。ヤコブはファラオの前に連れて来られると、まずファラオに挨拶がてらに祝福いたします。そして、ファラオの前から立ち去る時、もう一度挨拶と共に祝福をするのです。ファラオにとってヤコブは吹けば飛ぶような存在であり、ヤコブにとってファラオは雲の上の人物です。二人の間には雲泥の差がある。ところが、ヤコブは何の臆することなくファラオを祝福する。この場面は神の人が威風堂々と、この世の支配者を祝福する。そういう場面なのです。実はこれこそが、私たちキリスト者の世との関わり様だと思うのです。
 使徒3:25にはこのようにあります。「あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。」これはつまり、キリスト者というのは世にあってそういう存在。祝福を届ける存在だということです。私たちは、等しく、この世に向けられた祝福の管なのです。だからこそ、この世の権力に、能力に、迎合してはいけないのです。私たちはこの世の法に生きているようでいて、本当は神の法の下にあるのです。私たちは世の中にあって、譲れない一線を持っている。決して曲げない信念を持っている。実はこのことが、この地にあって人々の信頼を勝ち取ることとなるのです。相手の顔色に合わせてその場限りの平和を求める八方美人は、上手く立ち振る舞っているようでいて、実は相手の信頼を失うのです。なぜなら、その人からは本音が聞こえないからです。私たちが世との繋がりを持とうとするなら、通りよき管となろうとするのなら、私たちは本音の部分、アイデンティティの部分で妥協をしてはいけないのです。

230205 ゼカリヤ4:6 「主の御霊によって」

ゼカリヤ4:6 「主の御霊によって」

 この預言はバビロン捕囚からの帰還を果たし、神殿を再建しようとする民のリーダー、ゼルバベルに向けて語られた主のことばです。神殿再建の事業は滞っておりました。近隣住民から工事の邪魔がありました。また、民自身も荒れ果てた祖国での生活に精一杯で、神殿を再建する余裕もなくなっていました。結果、神殿の再建工事は18年もの間頓挫いたしました。どれだけ命じようと、どれだけ励まそうと、自分の声が一向に民に届かないという現実に、ゼルバベルはどれほどの空しさと、焦りを覚えたことでしょうか。そんなゼルバベルに向けて語られるのが今日の箇所、すなわち『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』という主のことばです。
 一向に工事が再開されない状況に、ゼルバベルは権力や能力を頼ったことではなかったでしょうか。私たちも同じでしょう。何かことを成そうとする時、私たちが欲するのは誰かを従わせる絶対的な権力であり、誰かを魅了する圧倒的な能力ではないでしょうか。私にもっと権力があれば。私にもっと能力があれば。そうすればことが上手くいくのに。
 けれど、その考えはやがて行き詰まるのです。ゼルバベルほど権力や能力が伴っていた人はおりません。ダビデ王の直系でペルシャ王から総督の地位を与えられたゼルバベル。彼はすでに42,360人という大所帯を率いて、遠い祖国への帰還を無事に果たしているのです。民をまとめ上げるカリスマも能力も十分に兼ね備えていた人物です。けれど、その彼ですら行き詰まったのです。権力や能力ではどうすることもできないことがやはりあるのです。では私の権力が至らない時、私の能力が足りない時、私たちはもうこれを諦めるしか無いのでしょうか。
 だからこそ「わたしの霊によって」なのです。考えてみますと、イスラエルの民にとってバビロン捕囚はまさにそのことを知るための試みだったのです。権力や能力。神の民としての誇りや神殿という権威。これまでの伝統に基づく経験。蓄積されたあらゆるものを奪い去る出来事がバビロン捕囚でした。そして全てを失って残るもの。それが真の神の憐れみであったのです。そこまでしてようやく気付けたのです。真に頼るべきが何かをです。今、ゼルバベルはそのことを見失っています。それは彼の責任感からでしょう。目の前の困難を何とか解決しなければならない。神殿の再建という大事業を失敗には終わらせられない。彼の真面目さが、彼を盲目にしているのでしょう。そんな彼に主が語りかけられます。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」とです。わたしに頼れ。と言ってくださるのです。
 続く4:7には「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」とあります。私たちの前にも、途方もない山がそびえているでしょうか。けれど、その山に「おまえは何者か」と一蹴するお方がおられるのです。私たちの眼前でそれを平らにされるお方がおられるのです。
 イエス様はある時言われました。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(マタイ17:20)なぜからし種ほどの信仰で、山が移るのでしょうか。実はこれは次週のテーマでもあるのですが、先に言いますとそれは主にはそれが可能だからです。からし種ほどの信仰とは、主への信頼です。山が動くと信じる信仰ではなくて、私たちの主にはそれができると信じる信仰です。そして、みこころならそうしてくださるのです。
 確かに山のようにそびえる問題があります。私たちの権力や能力、経験や知識といったものが全く通じない問題があります。けれど、頼るところはそこではありません。主にとってそれは不可能ではありません。ならば、主のみこころに頼るべきです。主の御霊に頼るのです。
 さて、主が用いられる人とはどのような人でしょうか。まじめに、一生懸命、自分一人で頑張る人でしょうか。それはとても素晴らしい賜物ですね。世の信頼を勝ち取るのはそういう人です。けれどだからと言って、主の働きを自分の働きとしてはならないのです。そうではありません。主が用いられるのは、自分の手柄を誇る人ではありません。捕囚の民よろしく、主の前に降参をする人です。委ねる人です。如何様にも用いてくださいと自分の身を差し出す人です。私たちが管に徹するとき、その管には主の御霊が確かに流れるのです。

220320 ゼカリヤ9 「あなたの王が来られる」

ゼカリヤ9 「あなたの王が来られる」

 ゼカリヤ書の内容は大きく分けて2つに分かれており、1~8章の前半部分は当時の人々に直接関わりを持つ幻が語られ、9章からの後半部分では、終末の出来事についてが語られています。
 9章ではメシヤの来臨が語られますが、その前にまず諸外国の取り扱いについてが預言されます。ダマスコはアラムの首都。ツロは独立都市であり、アシュケロン、ガザ、エクロンなどはペリシテ人の重要都市。これらの諸外国が廃れる様子が預言されています。その一方で、9節からは、シオンとエルサレムの喜びが語られます。2つの陣営の対象的な様子が預言されるのです。それはメシヤの来臨によってエフライムとエルサレムに平和がもたらされるという預言。初代北イスラエルの王ヤロブアムがエフライム出身であったことから、北イスラエルのことをエフライムと呼び、南ユダは首都エルサレムの名で呼ばれます。つまりメシヤの恩恵は、滅びた北イスラエルにまでも適用されるということです。なぜなら、それはモーセとの契約に基づくことだからです。彼らの行いが認められたからでも、彼らの信仰が主の目にかなったのでもありません。神はご自身の言葉に対する誠実のゆえに契約を遂行されるのです。北イスラエルは彼らの罪ゆえに滅ぼされましたが、その散り散りとなった民は未だ主の憐れみの中に置かれているのです。もちろん、ユダである帰還民は神の約束の中に置かれています。モーセとの契約を決して忘れることなく遂行される神の姿に、現実の彼らの姿が対比されます。彼らは今、神の約束を忘れ、目の前の生活を守ることに追われているからです。
 クロス王の解放令に応じて、凡そ5万人もの民が、ユダの帰還を果たしました。ユダの民がバビロンに捕囚されていた期間は70年間であります。その地で生まれ、その地で結婚をし、家庭を持ち、財産を築く人たちも多くいたことでしょう。その地で家族を失い、葬った者も多くいたでしょう。ユダの地に帰るということはそれらの生活を全て、捨てることでもあります。亡国に帰り、崩れ去った神殿を再建するということは並大抵なことではありません。しかし、彼らは神殿の再建をするために、このプロジェクトに参加したのでした。彼らはダビデの家系に連なるゼルバベルと、祭司ツァドクの家系に連なるヨシュアとをリーダーとし、エルサレムに辿り着きました。崩れ落ちたその神殿の土台に祭壇を築いて、礼拝をささげ、そしてエルサレム帰還の半年後、ついに神殿の礎を据えたのです。民達の喜びの声は遠い地にまで聞こえたと言います。そうでしょう。彼らはずっと、イザヤやエレミヤによるエルサレム帰還の預言を希望とし、いつかはその地に立つと信じて捕囚の地で過ごしてきたのでした。その時を見ぬまま死んでいった仲間たちを思い出しながら、感慨深くその礎を眺めたことでしょう。けれど再建工事は頓挫するのです。ユダの残留民やサマリヤ人たちの妨害に会ったのです。そして何より彼らの心が萎えてしまったのです。
 けれど、 ゼカリヤを通じて「あなたの王があなたのところに来られる」と語られ、またハガイを通じては「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」(ハガイ2:4)と語られます。神は忘れてはおられないのです。神は見捨てられません。新天新地。希望を胸に抱いた彼らの現実は、パラダイスではありませんでした。妨害と敵意。それらは彼らの希望をいとも簡単に萎えさせるものでした。彼らは慣れぬ地で生きるのに精一杯でありました。けれど、主は言われます。わたしがあなたとともにいる。あなたの王があなたのところに来られる。だからもう一度立ち上がろうと言われるのです。
 「義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」私たちはメシヤの預言がイエス様によって成就されたことを知っています。この御方のもとに、戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至ると言われるのです。私たちの希望を奪いとる不条理な日常があります。生きることに必死で主を見上げることが後回しになってしまうことがあります。けれど、主の約束は絶対です。信仰の行き着く先は勝利です。私たちはこの約束に奮い立たされて参りましょう。心が萎えるたびに、主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。