ゼカリヤ4:6、創世記47:7-12 「神の法の下で」
先月に引き続きゼカリヤ4:6を見ましょう。この箇所は世との関わり方における私たちの一線。相容れることのできない信仰者としての立ち位置を明らかにしています。つまり、私たちの信仰を脅かすこの世の権威に対して、私たちがどう振る舞うべきかを教えているのです。
信仰者にとって、この世の権威との関わり方というのは常に課題であります。なぜなら、教会というのは、この世の権威を超えた神の権威の下に集うものだからです。私たちは全てを超越した、この世界の創造主なる神を信じる者です。神と国家、そのどちらに仕えるのかと問われれば、もちろん神に仕えるのが私たちキリスト者です。私たちにとってこれは譲れない一線です。しかし、それゆえにキリスト者は迫害の歴史を歩んできたこともまた事実なのです。
通りよき管となる。ということを考えるとき、私たちが信仰のこだわりを持つということは、世の中と結びつくことを阻む邪魔なプライドのように見えたりもするのです。原理主義の人々を見るとき私たちは思います。何の配慮もなく、自分の考えを押し通そうとする原理主義の人々の、なんて非常識で怪しい集団なのかとです。けれど同時に思うのです。もしかすると自分たちも他の人々からそのように見られているんじゃないだろうかとです。だったら、私たちは妙なこだわりは捨てて、もっと相手に合わせたほうが良いんじゃないか。それが世と繋がるための正解ではないか。と思ったりするわけです。
創世記47章は、ファラオからゴシェンの地に住む許可をもらい、改めて族長ヤコブが挨拶をする場面です。ヤコブはこの時130歳でした。飢饉の中で長旅をして来た老人と、ナイルの恵み豊かな大国エジプトの国王のあまりにも対象的な二人の会見。ヤコブを気遣いながら歳を尋ねるファラオに対して、ヤコブはまるで愚痴のような返答をいたします。ここは何となく違和感を感じるところです。確かに彼の人生はわざわいの連続でした。でも、それも全て神のご計画と、愛する息子ヨセフとの再会で確信したヤコブではなかったでしょうか。息子ヨセフはエジプトの宰相となり、未曾有の大飢饉から自分たち一家を救い出してくれたのです。ですから、これは単なる愚痴ではありません。彼が殊更に「生きてきた年月はわずか」と語ったのは、「私は130歳です。しかし私は先祖たちと比べ物にならない若輩者です。ですから貴方さまがこの者に気遣う必要は全くありません。」という謙遜の現われなのです。年老いていることを利用して、ファラオの好意に漬け込もうという姑息な姿はここにはありません。客観的に見れば、おべっかの一つも口にするのが当然の場面。しかし、ヤコブにそのような様子は見られません。堂々とした姿が見て取れるのです。
そのことが最も現れているのが、ヤコブの祝福の場面です。ヤコブはファラオの前に連れて来られると、まずファラオに挨拶がてらに祝福いたします。そして、ファラオの前から立ち去る時、もう一度挨拶と共に祝福をするのです。ファラオにとってヤコブは吹けば飛ぶような存在であり、ヤコブにとってファラオは雲の上の人物です。二人の間には雲泥の差がある。ところが、ヤコブは何の臆することなくファラオを祝福する。この場面は神の人が威風堂々と、この世の支配者を祝福する。そういう場面なのです。実はこれこそが、私たちキリスト者の世との関わり様だと思うのです。
使徒3:25にはこのようにあります。「あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。」これはつまり、キリスト者というのは世にあってそういう存在。祝福を届ける存在だということです。私たちは、等しく、この世に向けられた祝福の管なのです。だからこそ、この世の権力に、能力に、迎合してはいけないのです。私たちはこの世の法に生きているようでいて、本当は神の法の下にあるのです。私たちは世の中にあって、譲れない一線を持っている。決して曲げない信念を持っている。実はこのことが、この地にあって人々の信頼を勝ち取ることとなるのです。相手の顔色に合わせてその場限りの平和を求める八方美人は、上手く立ち振る舞っているようでいて、実は相手の信頼を失うのです。なぜなら、その人からは本音が聞こえないからです。私たちが世との繋がりを持とうとするなら、通りよき管となろうとするのなら、私たちは本音の部分、アイデンティティの部分で妥協をしてはいけないのです。
先月に引き続きゼカリヤ4:6を見ましょう。この箇所は世との関わり方における私たちの一線。相容れることのできない信仰者としての立ち位置を明らかにしています。つまり、私たちの信仰を脅かすこの世の権威に対して、私たちがどう振る舞うべきかを教えているのです。
信仰者にとって、この世の権威との関わり方というのは常に課題であります。なぜなら、教会というのは、この世の権威を超えた神の権威の下に集うものだからです。私たちは全てを超越した、この世界の創造主なる神を信じる者です。神と国家、そのどちらに仕えるのかと問われれば、もちろん神に仕えるのが私たちキリスト者です。私たちにとってこれは譲れない一線です。しかし、それゆえにキリスト者は迫害の歴史を歩んできたこともまた事実なのです。
通りよき管となる。ということを考えるとき、私たちが信仰のこだわりを持つということは、世の中と結びつくことを阻む邪魔なプライドのように見えたりもするのです。原理主義の人々を見るとき私たちは思います。何の配慮もなく、自分の考えを押し通そうとする原理主義の人々の、なんて非常識で怪しい集団なのかとです。けれど同時に思うのです。もしかすると自分たちも他の人々からそのように見られているんじゃないだろうかとです。だったら、私たちは妙なこだわりは捨てて、もっと相手に合わせたほうが良いんじゃないか。それが世と繋がるための正解ではないか。と思ったりするわけです。
創世記47章は、ファラオからゴシェンの地に住む許可をもらい、改めて族長ヤコブが挨拶をする場面です。ヤコブはこの時130歳でした。飢饉の中で長旅をして来た老人と、ナイルの恵み豊かな大国エジプトの国王のあまりにも対象的な二人の会見。ヤコブを気遣いながら歳を尋ねるファラオに対して、ヤコブはまるで愚痴のような返答をいたします。ここは何となく違和感を感じるところです。確かに彼の人生はわざわいの連続でした。でも、それも全て神のご計画と、愛する息子ヨセフとの再会で確信したヤコブではなかったでしょうか。息子ヨセフはエジプトの宰相となり、未曾有の大飢饉から自分たち一家を救い出してくれたのです。ですから、これは単なる愚痴ではありません。彼が殊更に「生きてきた年月はわずか」と語ったのは、「私は130歳です。しかし私は先祖たちと比べ物にならない若輩者です。ですから貴方さまがこの者に気遣う必要は全くありません。」という謙遜の現われなのです。年老いていることを利用して、ファラオの好意に漬け込もうという姑息な姿はここにはありません。客観的に見れば、おべっかの一つも口にするのが当然の場面。しかし、ヤコブにそのような様子は見られません。堂々とした姿が見て取れるのです。
そのことが最も現れているのが、ヤコブの祝福の場面です。ヤコブはファラオの前に連れて来られると、まずファラオに挨拶がてらに祝福いたします。そして、ファラオの前から立ち去る時、もう一度挨拶と共に祝福をするのです。ファラオにとってヤコブは吹けば飛ぶような存在であり、ヤコブにとってファラオは雲の上の人物です。二人の間には雲泥の差がある。ところが、ヤコブは何の臆することなくファラオを祝福する。この場面は神の人が威風堂々と、この世の支配者を祝福する。そういう場面なのです。実はこれこそが、私たちキリスト者の世との関わり様だと思うのです。
使徒3:25にはこのようにあります。「あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。」これはつまり、キリスト者というのは世にあってそういう存在。祝福を届ける存在だということです。私たちは、等しく、この世に向けられた祝福の管なのです。だからこそ、この世の権力に、能力に、迎合してはいけないのです。私たちはこの世の法に生きているようでいて、本当は神の法の下にあるのです。私たちは世の中にあって、譲れない一線を持っている。決して曲げない信念を持っている。実はこのことが、この地にあって人々の信頼を勝ち取ることとなるのです。相手の顔色に合わせてその場限りの平和を求める八方美人は、上手く立ち振る舞っているようでいて、実は相手の信頼を失うのです。なぜなら、その人からは本音が聞こえないからです。私たちが世との繋がりを持とうとするなら、通りよき管となろうとするのなら、私たちは本音の部分、アイデンティティの部分で妥協をしてはいけないのです。