ダニエル11:20-45 「預言の中に生きる」
ダニエル書の後半、7章からは幻と預言が記されています。
11章はこれから起こるユダヤの現実が記されています。この預言が語られたのがメディア人ダレイオスの元年のこと。1-19までで、ペルシャ、マケドニアの興隆と衰退が語られます。クロス王から続くペルシャの4人の王の後、戦の天才ギリシャ・マケドニアのアレクサンドロス大王が瞬く間にこの地域いったいを征服し、その版図は遠くインドにまで届きます。けれど、アレクサンドロス大王はこの遠征中に死に帝国は4つに分裂。特に南のプトレマイオス朝と北のセレウコス朝の間で戦争が繰り広げられ、その戦場となったのがカナン地方であり、イスラエルでありました。
この戦いの間隙を縫って、セレウコス朝シリアの王座を掠め取ったのが、ここに卑劣な者として記されるアンティオコス4世・エピファネスであります。彼の政略はまさに卑劣そのもので、小勢力との間で同盟を結んでは、それを一方的に破って攻め入り搾取することで自勢力の拡大を図ります。存分に力を蓄えたエピファネスは二度のエジプト遠征を決行します。一度目はエジプトの部下の反乱を企ててこれに勝利し、戦場となったユダヤの神殿の多くの財宝を持ち帰ります。しかし二度目の遠征はローマ艦隊の参戦により、退却せざるを得ませんでした。そしてこの腹いせに、ユダヤを侵略し、聖所を偶像や忌むべきもので汚し、大規模な迫害をもたらしたのです。
エピファネスの巧みさは、その陣営を内部から破壊することです。彼の迫害がユダヤを滅ぼすのではありません。彼の巧みな言葉に、ユダヤの人々の中から聖なる契約を捨て、進んでエピファネスに従う者たちが出てきたのです。一度目の遠征の折、エピファネスはユダヤの大祭司オニアス三世を殺害し、傀儡となるヤソンを大祭司に就任させました。また、聖なる器具を奪った際、これを案内したのは大祭司メネラオスでありました。内部の有力者を懐柔し、内から腐らせる。もしくは、不意を突いて攻め入る。これがエピファネスの常套手段でした。ユダヤ人のギリシャ化は苛烈を極め、毎月25日はエピファネスの誕生日を祝う日としてゼウス神を拝むことが強制され、豚を食べさせたり、赤ん坊に割礼を授けた母親は、さらし者として高所から赤ん坊と一緒に突き落とされたと言います。
さて、この出来事に対するユダヤの民の反応は二つでした。エピファネスの巧みな言葉に誘われて、信仰を捨て進んで従う人たちと、これに最後まで対抗する懸命な者たちです。「彼らは、一時は剣にかかり、火に焼かれ、捕らわれの身となり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少なく、彼らにくみする者には巧みなことばを使う者が多い。賢明な者たちのうちには倒れる者もあるが、それは終わりの時までに、彼らが錬られ、清められ、白くされるためである。それは、定めの時がまだ来ないからである。」
ここで、預言は終わりの時に言及いたします。つまり、これまでのユダヤ人に起こる出来事の預言は、そこで終わるのではなくて、その先がある。続きがある。まだ終わっていないということです。賢明な者たちの歩みは、決して楽なものではありません。剣にかかり、火に焼かれ、捕われの身となり、かすめ奪われて倒れるとあります。36節で「この王は」と記されるのは、誰か特定の王と言うよりは、反(アンチ)キリストの者のことです。ここには反キリストの興隆の様子が預言されています。この世の春を謳歌する反キリストの時代。これが終末の時代だと言うのです。そしてこの預言は現在進行形として成就していると言うのです。私たちはエピファネスに至る預言が如何に的確に歴史を言い当てたかを知っています。ユダヤ人は後になって、ダニエルの預言の確かさに唸ったのです。そしてだからこそ、まだ終わらない預言の成就に身を引き締めたのです。
終末の時代の中で、私たちもまたどういう態度をとるのかが問われているのです。この世の実質支配する反キリストに対して、私たちはどう過ごすのでしょうか。妥協して、取り入って、同じ汁を啜ることが賢い選択でしょうか。けれど、私たちは決して忘れてはいけません。ついに彼は終わりを迎えるということをです。神の預言の終着点は、反キリストの栄華の終わりなのです。目に見える出来事が全てではありません。地上の悪事は必ず精算されるときが来ます。しかし、神の御心は永遠です。私たちは預言の中に生きているのです。
ダニエル書の後半、7章からは幻と預言が記されています。
11章はこれから起こるユダヤの現実が記されています。この預言が語られたのがメディア人ダレイオスの元年のこと。1-19までで、ペルシャ、マケドニアの興隆と衰退が語られます。クロス王から続くペルシャの4人の王の後、戦の天才ギリシャ・マケドニアのアレクサンドロス大王が瞬く間にこの地域いったいを征服し、その版図は遠くインドにまで届きます。けれど、アレクサンドロス大王はこの遠征中に死に帝国は4つに分裂。特に南のプトレマイオス朝と北のセレウコス朝の間で戦争が繰り広げられ、その戦場となったのがカナン地方であり、イスラエルでありました。
この戦いの間隙を縫って、セレウコス朝シリアの王座を掠め取ったのが、ここに卑劣な者として記されるアンティオコス4世・エピファネスであります。彼の政略はまさに卑劣そのもので、小勢力との間で同盟を結んでは、それを一方的に破って攻め入り搾取することで自勢力の拡大を図ります。存分に力を蓄えたエピファネスは二度のエジプト遠征を決行します。一度目はエジプトの部下の反乱を企ててこれに勝利し、戦場となったユダヤの神殿の多くの財宝を持ち帰ります。しかし二度目の遠征はローマ艦隊の参戦により、退却せざるを得ませんでした。そしてこの腹いせに、ユダヤを侵略し、聖所を偶像や忌むべきもので汚し、大規模な迫害をもたらしたのです。
エピファネスの巧みさは、その陣営を内部から破壊することです。彼の迫害がユダヤを滅ぼすのではありません。彼の巧みな言葉に、ユダヤの人々の中から聖なる契約を捨て、進んでエピファネスに従う者たちが出てきたのです。一度目の遠征の折、エピファネスはユダヤの大祭司オニアス三世を殺害し、傀儡となるヤソンを大祭司に就任させました。また、聖なる器具を奪った際、これを案内したのは大祭司メネラオスでありました。内部の有力者を懐柔し、内から腐らせる。もしくは、不意を突いて攻め入る。これがエピファネスの常套手段でした。ユダヤ人のギリシャ化は苛烈を極め、毎月25日はエピファネスの誕生日を祝う日としてゼウス神を拝むことが強制され、豚を食べさせたり、赤ん坊に割礼を授けた母親は、さらし者として高所から赤ん坊と一緒に突き落とされたと言います。
さて、この出来事に対するユダヤの民の反応は二つでした。エピファネスの巧みな言葉に誘われて、信仰を捨て進んで従う人たちと、これに最後まで対抗する懸命な者たちです。「彼らは、一時は剣にかかり、火に焼かれ、捕らわれの身となり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少なく、彼らにくみする者には巧みなことばを使う者が多い。賢明な者たちのうちには倒れる者もあるが、それは終わりの時までに、彼らが錬られ、清められ、白くされるためである。それは、定めの時がまだ来ないからである。」
ここで、預言は終わりの時に言及いたします。つまり、これまでのユダヤ人に起こる出来事の預言は、そこで終わるのではなくて、その先がある。続きがある。まだ終わっていないということです。賢明な者たちの歩みは、決して楽なものではありません。剣にかかり、火に焼かれ、捕われの身となり、かすめ奪われて倒れるとあります。36節で「この王は」と記されるのは、誰か特定の王と言うよりは、反(アンチ)キリストの者のことです。ここには反キリストの興隆の様子が預言されています。この世の春を謳歌する反キリストの時代。これが終末の時代だと言うのです。そしてこの預言は現在進行形として成就していると言うのです。私たちはエピファネスに至る預言が如何に的確に歴史を言い当てたかを知っています。ユダヤ人は後になって、ダニエルの預言の確かさに唸ったのです。そしてだからこそ、まだ終わらない預言の成就に身を引き締めたのです。
終末の時代の中で、私たちもまたどういう態度をとるのかが問われているのです。この世の実質支配する反キリストに対して、私たちはどう過ごすのでしょうか。妥協して、取り入って、同じ汁を啜ることが賢い選択でしょうか。けれど、私たちは決して忘れてはいけません。ついに彼は終わりを迎えるということをです。神の預言の終着点は、反キリストの栄華の終わりなのです。目に見える出来事が全てではありません。地上の悪事は必ず精算されるときが来ます。しかし、神の御心は永遠です。私たちは預言の中に生きているのです。