fc2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

220427 ダニエル11:20-45 「預言の中に生きる」

ダニエル11:20-45 「預言の中に生きる」

 ダニエル書の後半、7章からは幻と預言が記されています。
11章はこれから起こるユダヤの現実が記されています。この預言が語られたのがメディア人ダレイオスの元年のこと。1-19までで、ペルシャ、マケドニアの興隆と衰退が語られます。クロス王から続くペルシャの4人の王の後、戦の天才ギリシャ・マケドニアのアレクサンドロス大王が瞬く間にこの地域いったいを征服し、その版図は遠くインドにまで届きます。けれど、アレクサンドロス大王はこの遠征中に死に帝国は4つに分裂。特に南のプトレマイオス朝と北のセレウコス朝の間で戦争が繰り広げられ、その戦場となったのがカナン地方であり、イスラエルでありました。
 この戦いの間隙を縫って、セレウコス朝シリアの王座を掠め取ったのが、ここに卑劣な者として記されるアンティオコス4世・エピファネスであります。彼の政略はまさに卑劣そのもので、小勢力との間で同盟を結んでは、それを一方的に破って攻め入り搾取することで自勢力の拡大を図ります。存分に力を蓄えたエピファネスは二度のエジプト遠征を決行します。一度目はエジプトの部下の反乱を企ててこれに勝利し、戦場となったユダヤの神殿の多くの財宝を持ち帰ります。しかし二度目の遠征はローマ艦隊の参戦により、退却せざるを得ませんでした。そしてこの腹いせに、ユダヤを侵略し、聖所を偶像や忌むべきもので汚し、大規模な迫害をもたらしたのです。
 エピファネスの巧みさは、その陣営を内部から破壊することです。彼の迫害がユダヤを滅ぼすのではありません。彼の巧みな言葉に、ユダヤの人々の中から聖なる契約を捨て、進んでエピファネスに従う者たちが出てきたのです。一度目の遠征の折、エピファネスはユダヤの大祭司オニアス三世を殺害し、傀儡となるヤソンを大祭司に就任させました。また、聖なる器具を奪った際、これを案内したのは大祭司メネラオスでありました。内部の有力者を懐柔し、内から腐らせる。もしくは、不意を突いて攻め入る。これがエピファネスの常套手段でした。ユダヤ人のギリシャ化は苛烈を極め、毎月25日はエピファネスの誕生日を祝う日としてゼウス神を拝むことが強制され、豚を食べさせたり、赤ん坊に割礼を授けた母親は、さらし者として高所から赤ん坊と一緒に突き落とされたと言います。
 さて、この出来事に対するユダヤの民の反応は二つでした。エピファネスの巧みな言葉に誘われて、信仰を捨て進んで従う人たちと、これに最後まで対抗する懸命な者たちです。「彼らは、一時は剣にかかり、火に焼かれ、捕らわれの身となり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少なく、彼らにくみする者には巧みなことばを使う者が多い。賢明な者たちのうちには倒れる者もあるが、それは終わりの時までに、彼らが錬られ、清められ、白くされるためである。それは、定めの時がまだ来ないからである。」
 ここで、預言は終わりの時に言及いたします。つまり、これまでのユダヤ人に起こる出来事の預言は、そこで終わるのではなくて、その先がある。続きがある。まだ終わっていないということです。賢明な者たちの歩みは、決して楽なものではありません。剣にかかり、火に焼かれ、捕われの身となり、かすめ奪われて倒れるとあります。36節で「この王は」と記されるのは、誰か特定の王と言うよりは、反(アンチ)キリストの者のことです。ここには反キリストの興隆の様子が預言されています。この世の春を謳歌する反キリストの時代。これが終末の時代だと言うのです。そしてこの預言は現在進行形として成就していると言うのです。私たちはエピファネスに至る預言が如何に的確に歴史を言い当てたかを知っています。ユダヤ人は後になって、ダニエルの預言の確かさに唸ったのです。そしてだからこそ、まだ終わらない預言の成就に身を引き締めたのです。
 終末の時代の中で、私たちもまたどういう態度をとるのかが問われているのです。この世の実質支配する反キリストに対して、私たちはどう過ごすのでしょうか。妥協して、取り入って、同じ汁を啜ることが賢い選択でしょうか。けれど、私たちは決して忘れてはいけません。ついに彼は終わりを迎えるということをです。神の預言の終着点は、反キリストの栄華の終わりなのです。目に見える出来事が全てではありません。地上の悪事は必ず精算されるときが来ます。しかし、神の御心は永遠です。私たちは預言の中に生きているのです。

220420 ダニエル5:17-31 「権力に負けず」

ダニエル5:17-31 「権力に負けず」

 ベルシャツァル王が千人の貴族を集めての大宴会を催したその日、王は壁に文字を書く指の幻を見ました。王は非常に怯えて、その道に通じた者たちを連れて来させて、この幻の解き明かしを命じます。けれど誰も解き明かすことができません。王の怯えた様子に王母ニトクリス(ネブカデネツァルの娘)は、亡き父の幻を解き明かしたダニエルを思い出して王に知らせます。ネブカデネツァル王がひととき獣のようになったことはバビロンの中枢にいて知らない者はおりません。あの出来事を言い当て、そして回復も預言した呪術師がいる!王母が言うまで、誰もダニエルに思い至らなかったのは不思議かもしれませんが、この時ダニエルは80歳前後。もうとっくに政治からは引退し、当時の人々、特に新しい世代からは忘れられた存在でありました。
 ベルシャツァル王はダニエルに言います。「今、もしおまえが、その文字を読み、その意味を私に告げることができたなら、おまえに紫の衣を着せて首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」(5:16b)第三の権力と言いますが、これはナボニドス、ベルシャツァルに続く第三位。つまり臣下のトップの座を用意するということです。破格の提案です。どれほど王がこの幻に怯えたかがわかります。けれどダニエルは報酬には興味を示さず、「贈り物はご自分で取っておき、報酬はほかの人にお与えください。しかし私は、その文字を王のために読み、その意味を告げましょう。」と言って、解き明かしを始めるのです。
 ダニエルはまず、前王ネブカデネツァルがその高慢さのゆえに罰せられたことを言及します。ダニエルは「彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。」と言います。思いのままに人の生き死にを左右する。それは唯一神にのみ許された行為です。つまり神のごとく振る舞う高ぶりのゆえに、ネブカデネツァル王は罰せられたのです。そして今、ベルシャツァル王はこれらすべてを知っていながら、宴会に身を興じ、主にへりくだることをいたしません。だからこの不吉な文字が書かれたのです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。『テケル』とは、あなたが秤で量られて、目方の足りないことが分かったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシアに与えられるということです。」書かれた文字は滅びの宣告です。けれど文字の解き明かしの前に書かれた理由を説明しているのは、王に猶予を与えているのです。高ぶりを捨てて、神にへりくだるための猶予です。
 これを聞いてベルシャツァル王はどうしたでしょうか。憤ったでしょうか。それともへりくだったでしょうか。王は先の提案どおりに、ダニエルをこの国の第三の権力者として布告させたのです。これは、たとえ自分に都合の悪い解き明かしだろうと言ったことは必ず守る義に厚い王ということでしょうか。そうではありません。これはつまり厳しい解き明かしの内容に対して、これでよろしく頼むよ。と賄賂を贈ったのです。神の怒りを金で鎮めようとしたわけです。ネブカデネツァル王は高慢のゆえに罰を受けました。けれど、ベルシャツァル王はその事情を知っていながら、その態度を変えません。神の怒りすらなんとかできると思っている。恐らくは万事が万事そうだったのでしょう。あらゆる出来事、問題、トラブルを、金で、権威で片付ける。そういう政治をしてきたのでしょう。神をすら従わせようとする高慢さのゆえに、彼はその夜討たれるのです。
 ネブカデネツァル王やベルシャツァル王の高ぶりに、どうしてもロシアのプーチン大統領が重なります。「思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低く」する。独裁者の思いのままにウクライナの惨劇が生み出されています。いったいプーチン大統領はどういう思いでこのダニエルの警告を聞くことでしょう。権威ある者が忠告を聞かない悲惨は歴史が証明しているのにです。
 注目すべきはダニエルの真摯な態度です。巨額の報酬に目を奪われること無く、独裁者にも臆せず、神の言葉を堂々と語る。普通は忖度してしまうかもしれません。時の権力者を前にして、都合の悪いことを語れば、怒りを買う恐れがあります。思いのままに殺されるかもしれません。どうせ誰も解き明かせなかったのです。適当に王が喜ぶことを伝えてもばれません。ならば敢えて不興を買わずにいようと思ってもおかしくありません。けれど、ダニエルは主の言葉を偽りません。ダニエルは王ではなく、主をおそれているからです。ペテロとヨハネは言いました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4:19)時代が変わり、権力者が変わろうとも、私たちの仕えるべきお方は変わりません。私たちは福音を曲げること無く、主の御心に聞き従う者でありましょう。

220413 ダニエル3:16-30 「普段どおりの決断」

ダニエル3:16-30 「普段どおりの決断」

 ことの発端は、ネブカデネザル王を型どった巨大な金の像が立てられたことです。高さ60キュビト、幅6キュビトというのは、高さ27メートル弱、幅2.7メートル弱のこと。巨大な像はネブカデネザル王の権威の象徴です。王の像の奉献式にはあらゆる高官たちが集められ、その場で伝令官から一つのある勅命が下されました。それは、これから音楽が奏でられるのを合図にして、王の像を伏し拝むこと。ひれ伏して拝まない者は、火の燃える炉の中に投げ込む。というものです。
 高らかに音楽が奏でられるのを合図にその場に居合わせて全員が一斉にひれ伏します。けれど、その中で3人、この命令に従わなかった者たちがおりました。ユダヤ出身でバビロン州の事務を司っていたシャデラク、メシャク、アベ・ネデゴでした。
 大事件でした。それは王の顔に泥を塗る行為です。王の怒りを察して、現場は恐ろしい雰囲気になったことでしょう。けれどそこは大国の王。怒りに任せて即座に処分することはいたしません。彼らを呼び寄せて、もう一度チャンスを与えます。しかし彼らはまたしても王からの提案を断るのです。当然、王は激しく怒りました。「彼は炉を普通より七倍熱くするように命じた。」とあります。また「王の命令が急であり、炉が非常に熱かったので、その炎はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを持ち上げた者たちを焼き殺した。」とあります。処刑人が焼け死ぬなんて想定外。安全確認もできないほど王の命令は急で激しいものでした。当然3人に何かを備える時間はありません。トリックでも何でもありません。彼らは着の身着のまま炉に投げ込まれたのです。
 けれど彼らは死にませんでした。それがなぜかは王自らが証言しています。「私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」第4の者が御使いか、受肉前のキリストか、諸説あるところですが、ともかく神の取り計らいによって、「火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった」のであります。この信じがたい出来事に、王も高官たちも、3人の信じる神を認めざるを得ません。結果、彼らユダヤ人の信仰は王のお墨付きをもらって保護されることとなるのです。
 滅んだ国の生き残り、言ってみれば王の恩寵で生かされた者が、その王の面前で勅令を断る。それはあり得ないことです。このことは即座に処分されることを意味します。当然、3人も事の重大をわかっていたはずです。何も魂まで売れと言っているわけではありません。信仰を捨てよと言っているわけでもない。このセレモニーの間、パフォーマンスに付き合えと言っているのです。形だけ従えばそれで済む話なのです。けれど、彼らはひれ伏すことを拒みました。彼らの信仰がそれを拒んだのです。真の神を差し置いて、別の神々や地上の王にひれ伏すことを、他の誰でもない、彼ら自身が許せないのです。
 死を意識しても尚、信仰を譲らない。この3人のすごい信仰ですね。けれど、彼らにとってはそれは特別の信仰ではありませんでした。それは彼らにとっては当たり前の決断。自然な応答だったのです。実は後に、ダニエルも捕らえられて獅子の穴に投げ込まれるという出来事に会います。王以外に祈願したという理由でした。注目したいのは、ダニエルは王令を知っていただろうに、祈っていた。ということです。つまり彼の祈りの信仰は状況によって変わることのない日常だったのです。このダニエルとシェデラク、メシャク、アベ・ネデゴ3人は同じ困難を共にした仲間です。幼いながらに国を追われ、言葉も通じぬ異国の地で懸命に学び、励ましあった仲。彼らの日常は共通していました。それは祈りです。どんな状況でも、どんな命令にも、決して変わることのない祈りの日常。3人が王の前に連れられて、再びの王令を受けても尚、金の像にひれ伏すことを拒んだのは、彼らの必死な決断ではありません。ごく自然な流れです。日々の祈りに培われた彼らの信仰の賜物です。自らの死を意識しても尚、彼らの返事はもうとうの昔から決まっていたかのごとく揺らぎません。彼らは祖国の滅びを経験し、遠い異国に連れ去られ、名前を奪われ、言葉を奪われ、それでも祈りを忘れること無く過ごしてきました。どんなときにも神への信頼と希望を忘れること無く過ごしてきた。その積み重ね。築き上げられた信仰が、今、普段どおりの決断をさせたのです。
 私たちは兎角、その時になって慌てるものです。王の前に連れられて、決断が迫られて、その場の勢いと思いきりでその場を乗り越えようと致します。けれど、信仰の決断は、もうそれ以前から決まっているのです。私たちの積み重ねてきたものが私たちを突き動かすのです。迷いない3人の決断。それは日常の繰り返される祈りから生まれます。私たちも彼らに倣う者でありたいと思います。