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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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180701 使徒9:26-30 「親切な人」

使徒9:26-30 「親切な人」

 他人の親切大きなお世話という言葉があるように、親切というのはとても難しいものです。私はあなたのために、こんなにもやってあげてるのに。こういう思いが少しでも相手に伝われば、それはもう余計なお世話となってしまいます。親切は恩着せがましくなっては駄目なのです。
 親を切ると書いて親切。けれど意味するところは全く違います。親は「親しい」とか「身近に接する」という意味で、「切」は刃物を直に当てているように、「身近である」とか「行き届く」という意味だそうです。親切というのは、そっと身近にいて、行き届いた配慮を行う。つまり、どれだけ相手目線で寄り添えるかということでしょう。
 そういう意味で言うと、バルナバほど寄り添う人はおりません。キリスト教の2000年の歴史で最も活躍した弟子の一人パウロは、そもそもはキリスト教を弾圧する急先鋒の一人でした。その彼がイエス様の幻と出会い、キリストを信じる者となったのです。当然、他のキリスト者は、誰もパウロを信じません。ところがバルナバはそんなパウロを引き受けて、使徒たちとの間を取り持つのです。バルナバはパウロを信じました。お陰でパウロは教会の群れに加えられることとなりました。
 バルナバは後にアンテオケに遣わされますが、その時、タルソにいたパウロを連れて来ます。よりによって教会を迫害していたパウロを指導者の一人として呼ぶのです。アンテオケ教会はパウロの過去に偏見を持つことなく、受け入れ、指導者の一人として敬いました。そして、彼の賜物を見抜き、異邦人宣教に遣わしました。この懐の深いアンテオケ教会の気質を作っていたのが、バルナバでした。バルナバは伝道旅行にパウロを連れて行きます。行く先々で、パウロを紹介し、宣教のノウハウを指導します。そして、パウロを前面に押し出し、自身はパウロを陰ながら支えるのです。
 私はここに親切な人バルナバの「人となり」を見るのです。つまり、彼はパウロに寄り添い、彼の道を整え、彼を育て上げ、そして、道を譲るのです。冒頭でも話しましたが、相手のために何かをしてやってるという思いが、表に出れば、それは余計なお世話です。これ見よがしなマルタの奉仕は、親切とは程遠いものです。ところが、バルナバはとにかく謙虚です。彼は己に向かう評判をパウロへと向けさせます。パウロが活躍するほどに、彼は自らの存在を隠して、パウロをもり立てるのです。親切というのは身近にあって助けること。寄り添うこと。しかし、それは決して恩着せがましくあってはならないのです。
 親切とは教会に結ばれる御霊の実です。私たちがキリストを見上げ、キリストに身を委ねる時、私たちの間には親切が結ばれるのです。ところが私たちは、そこに確かに相手を思っての親切があるにも係わらず、相手に大きなお世話と思われたり、かえって関係を悪化させることがあります。いつの間にか恩を着せているのです。親切のポイントは、相手に知られないようにです。もちろん、だから表立って親切をしてはならないということではありません。そうではありませんが、私たちは親切であることにすら、報いを求めて、これ見よがしのアピールをしてはいないかと問いたいのです。
 「あの人にあれほど良くしてあげたのに、お礼の一つもない。こんなことなら親切にして損したわ。」という声をよく聞きます。ここで問題なのは「親切にして損した」という理解です。見返りがなければ損したと思う。つまり最初から見返りを求めて親切をしているのです。けれど、それは親切ではありません。単なる恩着せです。感謝は大事ですが、感謝を強要する振る舞いは、決して喜ばしい交わりとはならないのです。
 なんだか息が詰まる話でしょうか。見返りを求めないなんて偽善じゃないかと、思われるでしょうか。しかし、そうではないのです。私たちはやはり見返り、報いを求めます。けれど求める先が違うのです。マタイ6:4には「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。私たちの隠れた親切は、天の父が見ておられるのです。神は報いて下さる。だから安心して隠れれば良いのです。相手が気付かないほどの親切を楽しむ私たちの交わりとしたいのです。

2015/10/18 使徒17:24-25 「人は、何処へ行くのか」 小向三郎師

使徒の働き17:24-25 「人は、何処へ行くのか」 小向三郎師

 人生はよく旅に例えられますが、私たちはどこから来てどこへ行こうとしているのでしょうか。
 人間は地上の生を終えると、元あった命の大河に還っていき、また将来縁があればその大河から命をいただいてこの世に生まれてくる、すなわち命とか時代というものは、始めもなく終わりもなく、ぐるぐると回っているという考え方があります。これは古今東西広くみられるものですが、それはこの世の短い命を生きている人間が、どうにかしてその空しさから逃れよう、死の不安や恐ろしさを、いくらかでも和らげようとする試みです。このような考え方は容易に宿命論に陥り、私たちの人生を空しいものに変えてしまいます。「すべては運命のいたすところ」と諦めの人生を歩むことになります。
 これに対して、聖書はすべてのものは初めがあり終わりがあると言っています。聖書の冒頭に「初めに神が天と地を創造した」(創世記1:1)とあります。この世界は、神が天と地を創造されたことから始まります。すべては神によって、無から創造されたのです。自然界の秩序正しさや規則正しさ、荘厳さ、神秘性、また生き生きとした活動など、これらはすべて神の栄光を現しています。それで自然を神と勘違いして拝んでいる人もいるほどです。そしてこの世界は、やがて終わりを迎えます。私たち人間が己の欲に囚われて、あまりにも酷い状態に変えてしまったからです。進化論者は世の中はますます高度な、賢く便利な良いものに進化していくと楽観的な見方をしていますが、聖書は時と共に世の中はどんどん悪くなり、やがて神の正しい裁きがなされると警告しています。そして神が支配される新しい世界がやってくるのです。創造の神は私たちが生まれる前から、私たちの全てを知っておられ、守っておられます。この世においては経済的に悩むことがあり、病を得て苦しむこともあります。しかしすべてを支配しておられる神は、そのような苦しみ、困難、時には人の悪事さえも、良いことのために用いられ良いものに変えてくださると約束しています。
 聖書はまた救いについて教えています。人は救いを必要としています。すべての人が必要としている救いは、罪と死の滅びからの救いです。死に対して人は全く無力な者です。「罪の支払う報酬は死である」と聖書にありますが、死は罪の結果です。ですから私たちは死を不気味なものとして恐れています。聖書はすべての人が神の御心にそむき死と滅びの運命にあると言っています。しかし愛と恵みに満ちた神は、キリストを信じるすべての者を、ただその信仰のゆえに救ってくださいます。人となって来られた神のひとり子イエス・キリストは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちが受けるべき罪ののろいである死を身代わりに受けてくださり、三日目に死から復活されました。それによって私たちを死と滅びから解放してくださったのです。
 今や神は私たちの味方となって私たちを守っていてくださいます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:31,32)と聖書は言っています。聖い神さまを味方として生きる人生は、宿命論を生きる人のように諦めではなく、私たちはすべてにおいて圧倒的な勝利者となることが出来るのです。私たちはどこまでもこの方に頼り、この方に導かれて、御国を目指して歩んでいくのです。

2015/05/24 使徒2:1-13 「聖霊に満たされ」 ペンテコステ礼拝

使徒2:1-13「聖霊に満たされ」

 もともとは収穫感謝を祝う日だったペンテコステの日、この日いったい何が起きたのでしょうか。今日の箇所を読みますと、3つのことが起きています。①弟子たちが御霊に満たされたこと。②弟子たちが他国のことばで話しだしたこと。③弟子たちによって福音が語られたことです。
 最も派手なのは①の出来事でしょうか。突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡ったとあります。また、炎のような舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったともあります。人々にとっては②の出来事も驚きです。昨日まで自分たちと何ら変わらない弟子たちが突然に外国語を話すようになったのです。しかし、実は③の出来事こそが、教会にとって最も意味ある出来事であると理解すべきです。
 この箇所を読んで、ペンテコステの出来事はあくまでも初代教会に起きた過去の出来事だと言う人たちがいます。キリストの贖罪と同じように、一回きりの出来事だとです。しかし、使徒11章にあるペテロの報告によると、ペンテコステの日に起きた聖霊が下る出来事(聖霊によるバプテスマ)が、コルネリオとその家族にも起きたと言います。つまり、聖霊が下られるのは、過去に一度ペンテコステに起きた特別の出来事ではないということ。そして、「いのちに至る悔い改めをお与えになる」とあるように、聖霊が人々を悔い改めに導かれたということです。つまり、そもそもが聖霊なくして私たちは誰も神に立ち返ることはできず、私たちが罪を悔い、真の神を求めるのは、聖霊が内住している証なのです。確かに私たちはペンテコステの時のような炎のような舌を見てはいないかもしれません。しかし、それは聖霊が目撃される必要があったので、神がそうされたということです。もし、私たちに必要ならば、神はそうされたでしょう。何が言いたいかと言いますと、つまり、私たちは奇跡的な聖霊体験が無くとも、ペンテコステの出来事を体験しているということです。私たちが心からの悔い改めに導かれたということこそが、すでに聖霊が内住する確かな証拠なのです。
 また、ある人たちは、弟子たちが他国の言葉を話しだしたのを異言だとし、聖霊のバプテスマは異言の賜物を伴うと強調します。だから、異言が与えられていない人は、まだ聖霊のバプテスマを受けていないのだとです。けれど、聖霊の内住がなければ、そもそも悔い改めに導かれることはありません。ですから、聖霊のバプテスマは全ての信仰者がすでに受けているものです。その上で、もしも異言が与えられたというならば、それは、聖霊によって与えられる預言や奉仕などと同じ、賜物の一つと考えるべきなのです。そして賜物ですから、当然、人それぞれ。異言の賜物だけが特出して聖霊のしるしと数えられることは極めて不自然です。そもそも弟子たちの言葉は異言ではなく、他国の言葉でした。ユダヤ人にとっては理解できない言葉でも、そこに集まった他国人には意味のある言葉でした。だから人々は驚いたのです。
 教会がペンテコステを大切にするのは、この日が福音宣教の始まりの日だからです。そして、この福音宣教は聖霊によって導かれたということです。聖霊によって真の回心に導かれたキリスト者が、内なる聖霊によって語る言葉が与えられ、そして、人々に福音を届ける。これがペンテコステの日に起きた全容です。そしてこのことは、今なお繰り返される聖霊の働きなのです。聖霊の働きと聞くと、私たちは炎の舌や異言と言ったわかりやすい奇跡を期待します。しかし違います。聖霊は私たちの内にこそ働くのです。