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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220424 使徒8:1-8 「文化ではなく福音を」 ウィーン日本語教会 高橋真治師

使徒8:1-8 「文化ではなく福音を」 ウィーン日本語教会 高橋真治師

210616 使徒10:1-16 「神の選びは神に任せて」

使徒10:1-16 「神の選びは神に任せて」

 イタリア隊の百人隊長であるカイサリアのコルネリウスに与えられた主のことばと、ペテロに対して与えられた幻が記されます。
 コルネリウスは、敬虔な人と紹介されています。敬虔な人とはどういう人のことでしょう。異邦人がユダヤ教徒になるための条件は、教理を受け入れ、宗教的慣習を守り、そして割礼を受けることでした。けれど異邦人にとって割礼を受けることはなかなかに覚悟のいることです。ユダヤ人はそれこそ赤ん坊の時に無自覚の内に割礼を受けています。けれど、異邦人は違います。異邦人でユダヤ教に入信するためには、その時点で割礼を施し、神の民に加えられなければならないのです。そこで、信じているけれど、まだ割礼を受けていない人たちは、ユダヤ教の視点から「敬虔な人」と呼ばれました。コルネリウスは割礼こそ受けてはいませんが、家族に信仰を継承し、民に施しを行ない、いつも神に祈る、ある意味でユダヤ人以上に敬虔な人でありました。けれど、割礼は受けていない。実は今日の箇所を皮切りに、この異邦人の救いをどう取り扱うのか。教会では喧々諤々議論が交わされ、やがてキリスト教がユダヤ教から袂を分かつ決定的な分岐点となっていくのです。
 ペテロの見た幻は大変不思議なものでした。「天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。」とあります。旧約聖書の律法の中には、ある種の動物は汚れているので食べてはならないという規定がありました。ユダヤ人たちはこれを厳格に守り、従ってきました。ところが、屠って食べなさい。という声が聞こえたのです。ペテロは戸惑います。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえます。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」しかも、このやり取りが、3回繰り返されます。幼いサムエルに主の呼び声が繰り返された出来事や復活のイエス様から「あなたは私を愛しますか。」と3度問われた出来事を彷彿させます。明らかにただの夢ではありません。主から与えられた幻でした。これはいったいどういうことか。ペテロが思い惑っているとコルネリウスのしもべが来て、コルネリウスがペテロを招くように御使いから示された。と報告します。ペテロは彼らとともに行き、コルネリウスと出会い、先程の幻の意味を悟ります。28節「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。」それはつまり「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」ということです。なぜなら、コルネリウスの祈りは神に聞き入れられ、彼の施しは神の前に覚えられているからです。神が彼に目を留められたのです。
 全ては今日の箇所で語られる「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」という一言に尽きます。伝統や体制を守るために、神のみこころを遮ってはならないのです。自分にとって居心地の良い常識を守るために、神が認めたものを否定することはできないのです。確かに律法は神が与えられたものです。けれど、その律法に込められたみこころは何だったでしょうか。割礼を受けることはイスラエルが神の民とされた印でした。けれどそれは、神の民イスラエルがもはや何をしても救われるということを意味しているのでは有りません。神の民と選ばれた者が、神に従う時祝福を受け、神に逆らう時罰を受ける。その民の生き様が永遠なる神の証明とされるために選ばれたのです。世の光となるためにです。ですから神の内に、救いをイスラエルだけのものとしようという御心はそもそもありません。割礼は神の民のしるしですが、割礼を受けることが救いの条件ではありません。全ての悔い改める民にイエスの救いはもたらされるのです。
 ですから、私たちの判断で、神の選びを決めつけてはいけません。救われる救われないは、神のみこころの内です。その人がどのような者であっても、たとえ受刑者であったとしても、信仰によって救われるのです。ですから私たちは私たちの常識や私たちの感覚でそのことを決めつけてはいけません。誰であろうと求めるものには福音を語る用意をしていなければなりません。ペテロは一連の会話の後、コルネリウスにパプテスマを施します。けれど、大事なのは、その時、キリストの福音が語られたということです。コルネリウスは敬虔さのゆえに救われたのではありません。敬虔な人だからバプテスマが許されたのでもありません。福音を受け入れ聖霊が下ったので、パブテスマを授けられたのです。私たちに求められているのは、この福音を知らせるということです。誰もが救われるわけではありません。けれど誰であろうと福音は語られるべきであります。きよいきよくないは、主が判断されれば良いのです。

210523 使徒2:1-13 「もうひとりの助け主」

使徒2:1-13 「もうひとりの助け主」

 聖霊なる神についてはよくわからないというのが正直なところかもしれません。聖霊なる神は自らを進んで証言なさらないからです。けれどじゃあ、聖霊は私たちから隠れたお方なのかというと、そんなことはありません。聖霊は風のようなお方です。風は掴むことも見ることもできませんが、風が吹くと、木々が揺れ、音を奏でられることで、確かにそこに存在することがわかります。同じように、聖霊はたとえ見えなくても、私たちに関わられ、その結果によってご自身の存在を明らかにしておられます。
 ペンテコステの日、いったい何が起きたのでしょうか。使徒の働きを見ると、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」とあります。また、「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」ともあります。超常体験をした。と読めなくもないですが、使徒11章ではコルネリウスとその家族に聖霊が下った時の様子をペテロが報告していますが、その報告を見る限り、彼らにはペンテコステの日のような炎のような舌が現れた様子はありません。ですから大事なのは、そのような現象を経て、結果、弟子たちが聖霊に満たされたということです。
 では聖霊に満たされた弟子たちに何が起こったでしょう。彼らは突如外国語をしゃべりだしました。とても不思議で羨ましい体験ですね。けれど、これも外国語が話せるようになったということ自体が大事なのではありません。外国語と言いますが、どこを基準にするかで、外国は代わります。日本にいれば英語は外国語ですが、アメリカにいれば日本語こそ外国語です。そもそもの話、言葉はあくまでも意思を伝えるための手段に過ぎません。ですから、そのことによってもたらされたことが大事です。つまり、聖霊に満たされた弟子たちによって、福音がそれぞれの国の言葉で語られ、伝えられたということこそが大事です。
 収穫感謝の五旬節の日。エルサレムには諸外国に散らされて住む大勢のユダヤ人が訪れておりました。現在のイランに位置するパルティアやメディア、ペルシャからメソポタミア、ユダヤ、小アジアの属州、エジプトとその西側に位置する地域、ローマに地中海諸国、そしてアラビア。当時の人々にとって、世界中と言っていい地域の人々がエルサレムに集っておりました。その全ての国の人々が、それぞれの国の言葉で福音を聞いたのです。人々はエルサレムで自分たちの国の言葉を聞くことに呆気にとられました。けれど話を聞く内に、彼らは弟子たちの語る言葉の真実に目が開かれていきます。その日、三千人の人々がバプテスマを受け、教会に加えられたのです。
 つまりこれは、復活のイエス様が命じられた「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)という教えの先駆け、初めての弟子たちによる福音宣教の様子が記されているのです。
 まとめますと、聖霊によって真の回心に導かれたキリスト者たちが、内なる聖霊によって語る言葉を与えられ、そして、人々福音を届ける。これがペンテコステの日に起きた全容です。そして、この時に下られた同じ聖霊が私たち信仰者一人ひとりにも下られているのです。
 外国語が話せるかどうかではありません。一人ひとり語るべき言葉と伝えるべき相手が与えられているのです。もしも神が偉大な奇跡を見せつけられるなら、もしくは主が再び来られるなら、全てが事足りるでしょう。けれど、神は敢えて私たち人間を通して、福音宣教をなさせます。それは私たちに対する主の憐れみです。聖霊が私たちを主の使命のために用いられるのです。

210428 使徒4:1-12 「本質を見極めて」

使徒4:1-12 「本質を見極めて」

 ペテロとヨハネの逮捕と裁判の場面です。神殿の東側にある美しの門で起きた足の萎えた人の癒やしは騒動となり、人々はペテロとヨハネを追いかけてソロモン回廊に群がりました。するとペテロは集まった群衆に向けて、キリストの十字架と復活。信仰による癒やしを語り、悔い改めを迫ります。突如として伝道集会が開かれたのです。御言葉を聞き、信じた男性の数だけで5000人。とんでもない騒ぎであったことは想像に難くありません。特に宮で死者の復活を語ったということが、サドカイ人には許せません。駆けつけた祭司や宮の守衛長含むサドカイ人たちによって二人は捕らえられる結果となりました。
 4章はその翌日に開かれた裁判の様子です。民の指導者、長老、律法学者が招集されたというのは、ユダヤ教の最高議会サンヘドリンが招集されたということです。民の指導者はサドカイ人です。長老は民の代表、律法学者とは主にパリサイ人たちです。サドカイ人とパリサイ人が一同に介しているのです。ですから、ここでの尋問の内容は「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」という漠然としたものでした。逮捕の折に問題となった死者の復活の問題は、パリサイ人も含まれるサンヘドリンにおいて話題に出すのはご法度。必ず紛糾してまとまらない案件になってしまうからです。後にパウロはこのサドカイ人とパリサイ人の立場の違いを利用して、尋問を切り抜けたりいたしますが、ペテロはこの質問に対して真正面から答えています。
 ペテロはまず「あのようなことをしたのか。」という尋問がいったい何を意味しているのかを言及いたします。これが大事です。それは一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたかということに尋問の範囲を限定するのです。表面的な部分を見れば、聖なる宮に騒動を起こしたことを告発されているわけです。信じた男性だけで5000人。信じなかった者や、女性や子どもを合わせれば、いったいソロモン回廊にどれだけの人が群がったことでしょうか。秩序を乱す出来事が突如として起こったわけで、その中心にいるのがペテロとヨハネの二人だったのです。そこだけを見れば捕らえられて当然。けれど、ペテロは病人の癒やしの出来事にのみ言及いたします。これはなにも話を誤魔化そうとしているのではありません。問題の本質をあぶり出しているのです。なぜ、人々がソロモン回廊に殺到したのか。なぜ、人々がペテロの説教に聞き入ったのか。それは一人の病人の癒やしから来ているのです。生まれつき足が萎えて、一人では歩くこともできず、毎朝宮の前に運ばれてきては施しを受けていた彼。誰からも路傍の石程度にしか思われていなかったその病人が今完全に癒やされたのです。だから人々が群がったのです。神の業がなされたからです。
 この事実を元に、ペテロはこの御業が十字架と復活のナザレ人イエス・キリストの名によると答えます。この時ペテロは「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた」と言います。そしてこの出来事が「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった。」という詩篇118:22の御言葉の成就であったことを語ります。
 この二人がイエスの弟子で、あの十字架の裏の顛末を知る者たちだと明かされる。そして、群衆たちの熱狂の原因が、あの十字架のイエスに起因されると知った議員たちの衝撃は大きなものだったでしょう。イエス様の十字架の出来事は未だ冷めやらぬ事件だったわけです。夜中のサンヘドリン招集。異例づく目の裁判。彼らにとってもあの出来事は拭いきれない後ろめたさを伴って記憶に残っています。そして、そのイエスの名の下に、驚くべき奇跡がなされたのです。
 物事の本質を見極め、御言葉の裏付けが語られる。加えて動かしがたい事実に基づく。ペテロたちの大胆さは、神の前に潔白であることの故です。もはや議員たちに処罰する術はありません。ペテロとヨハネは最高議会を相手に、何ら罰せられること無く、釈放を勝ち取るのです。
 今日の箇所からは、何か事が起こった時、表面的な部分だけを見て、憶測や希望や感情で判断することの危険を覚えます。議員たちは、表面的な騒動だけを見て声を荒げました。死者の復活を語ることに怒りを覚え、感情的になってペテロたちを捕らえたことでした。けれど実際の出来事は一人の生まれながらの病人の癒やしだったのです。騒動ではなくて、神の御業です。見方を変えれば全く別の側面が見えてきます。だからこそ、私たちは冷静に、本質を見定める必要があります。御言葉に聞き、事実を検証し、神のみ前に正しいかどうかを祈り判断するのです。

210421 使徒1:12-26 「御心に委ねる」

使徒1:12-26 「御心に委ねる」

 オリーブ山でイエス様の昇天を見届けた弟子たちは、エルサレムに戻り、泊まっていた家の屋上の部屋に上がりました。オリーブ山からエルサレムまでは「安息日に歩くことが許される道のり」とあります。それはおよそ1.2Kmほどの道のりと言いますから、大した距離ではありません。むしろ目と鼻の先と言える距離です。つまりルカは、イエス様と分かれたあと、弟子たちはすぐに祈り始めたということが言いたいわけです。帰って一眠りしようとか、まずは腹を満たそうとか、ではなくて、彼らは部屋に入ってそのまま祈ります。11弟子と女性の弟子たち。それにイエス様の母マリアも一緒でした。
 15節からは新しい段落に入ります。十分に祈りが積まれる、その上で、弟子たちによる宣教が開始されるのです。
 祈りの輪は徐々に増えていき、総勢120人ほどの人々が集まっておりました。その中心に立ってペテロは言います。「イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。」そして、21節。「ですから」と言葉を改めて、話の本筋に移ります。ユダの代わりに使徒を選ぶという話です。つまり、これは使徒職の権威に関わる問題ですが、ユダの裏切りがあったからと言ってイエス様が設けられた使徒職が貶められることはないということを説明しているわけです。
 その上で欠員が出た使徒職の補充が提案されます。「主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」その条件はイエスの復活の証人であることとしています。ヨハネのバプテスマから昇天まで。イエス様の振る舞い、言動、その一切の証人となること。それが使徒選出の条件であると言うのです。もちろんそれ以外にも、人柄だとか、資質だとか、誰が相応しいかと話し合ったと思います。けれど、その根底は、イエス様の証人となるのに、誰が相応しいかということです。なぜなら使徒職とは自分を売り込むことではないからです。イエス様を証しすること。つまりイエス様の前に自分が出てはいけないのです。十分な話し合いの結果二人が選ばれました。バルサバ(ユストというヨセフ)とマッティアです。
 そして面白いことに、一番大事な最後の人選はくじによって行うのでした。そんないい加減なことでいいのかと思われるかもしれません。最後の最後まで話し合って、多数決を取って、皆が納得した形で決めたほうがいいんじゃないか。けれど、そうではありません。多数決によって決めるとき、必ず不支持の人々が出るわけです。少数の意見を塗りつぶす形で物事を決める時、そこには必ず禍根が残ります。上手く言っている時はそれでも良くとも、いざ問題が起きた時、失敗した時、それ見たことかと責任論に発展するのです。だから最終決定は主の手に委ねるのです。思えばイスラエルが約束の地カナンに入るときにも、くじによってでした。イスラエルは最終的な結果を主に委ねるのです。そうでなければ土地の争奪で今度は内紛が起きていたでしょう。
 さて、ここに私たちが物事を決める時の順序が提示されています。まず祈りが積まれ、次に十分な考察がなされ、さらにその上で主の御心に委ねるのです。主の御心に委ねるとは分かりづらいかもしれません。言い換えると、結論を急がないということです。祈りを重ね、最善を尽くしながらも、尚、結論を急がない。主の御心ならば不思議と道が開かれていくのです。状況が整っていくと言いましょうか。私が献身を決意して道が開かれるまで3年ほどの月日を過ごしました。献身の思いが与えられ、それから2年ほどかけて仕事を引き継ぎ、その後1年間教会でスタッフとして研修を受けました。全部放っぽりだして献身することもできましたが、私にはその3年が必要でした。この間に献身に至るための障害は自然と取り除かれ、道が自ずから開かれた経験をいたしました。神様の導きに確信を持って従うことができました。祈りと十分な準備が成されるとき、私たちの道は自然と開かれていきます。私たちにとっても示された道を受け入れる備えが整います。私のタイミングが成るのではありません。主の時が成るのです。ですから早急な決断をする前に祈ることが大事です。備えることが大事なのです。