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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220615 ネヘミヤ11 「喜んで従う者」

ネヘミヤ11 「喜んで従う者」

ネヘミヤ記は大きく分けて3つの区分に分かれます。
1:1~7:4までがエルサレムの城壁の再建について。
7:5~10:39までがエズラ・ネヘミヤによる宗教改革について。
そして11章からは付録的記述となります。

 11章はエルサレムとその他の町々の居住者のリストです。しかし、よくよく見ると、これは単なる居住リストではなくて、再建したエルサレムの城壁内に住民の一部を移住させている記録だとわかります。7:4に「この町は広々としていて大きかったが、その中の住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった。」とありました。エルサレムの町はそれまで神殿こそ建てられたものの城壁もなく、決して生活をするのに適したところではありませんでした。エルサレムはヒノムの谷とキデロンの谷に囲まれたテルと呼ばれる丘の上に建てられた町です。古代において水源や防衛上の観点から丘の上に町を立てることが多かったのですが、この時代ではもはや防衛上の利点はほぼ無く、流通のし易い平地の町と比べると不便な町でありました。いえ、そもそも廃墟となったエルサレムの再建は、サマリヤの総督サヌバラテやアモン地方を支配したトビヤ、そしてアラブ人ゲシェム(6:1)によって幾度となく妨害されてきましたから、何もかもがこれから。今城壁が再建されてようやく町の形が整ったわけですが、そこに住む住民はまだ少なく、家もまだ十分に建てられていなくて、民の指導者たちだけがかろうじて住んでいたのが現実です。そこでこの11章にあるように、民の10分の1をくじによって選び、エルサレムの町としての再建を担うべく、住民として移住させることになったというわけです。
 このとき自主的に移住を希望した人たちもいたようで、そのような人たちは人々から祝福されたとあります。言い換えると、ほとんどの人はそれを望まなかったということです。エルサレムは農耕に適した土地ではありません。神殿があり、政治の中心となっていくわけですが、こと自身の生活を優先すれば、そこは不便な土地だったのです。彼らは皆、祖国エルサレムの再建を夢見て、志を持って捕囚の地から帰ってきた民です。けれど、志を持ち続けることができたのは一部の者達だけでした。それが現実です。夢では食べていけない。志で家は建たない。ですから、多くの人はできることなら、別の町に住みたいのです。くじは御心であると受け止めますけれど、実際はエルサレム行きが当たらなかった人は安堵し、当たった人はハズレくじを引いたように青ざめたのです。
 ですから、エルサレムには二通りの人々が入居したのです。くじによって仕方なしに入居する者と自らの意志で進んで入居する者とです。そして進んで神に従う者は皆から祝福を受けたのです。神はふさわしい者、必要な者を選んでくださいます。くじで選ばれた人たちは神のみ心によって選ばれたのです。エルサレムに入居する人たちは全て、この町の再建に必要な人達でありました。けれど神が喜ばれるのは、自ら手を上げて喜んで神に従う者でした。私たちもそのようなものになりたいのです。

220601 ネヘミヤ1 「我が事として」

ネヘミヤ1 「我が事として」

 ペルシヤのアルタシャスタ王の献酌官であったネヘミヤは、エルサレムの現状を聞いて、大いに嘆きます。ユダから来た者たちの報告によると、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままだったからです。キュロス2世の帰還命令によって故郷の再建に帰ったユダの民は、周辺民の妨害等により神殿の再建は暗礁に乗り上げました。けれどその18年後、神によって遣わされた預言者ハガイとゼカリヤの活躍と、ダレイオス王の許可により、無事に神殿は再建いたします。これで万事上手く行くと思われました。けれど、そうではありませんでした。神殿の再建はなされました。けれど町の再建には至っていなかったのです。町を囲う城壁も門も未だ崩れたままでありました。
 このエルサレムの惨状に嘆いたネヘミヤは、この後、王に帰国を願い出ます。そしてエルサレムに着いたネヘミヤは早速城壁の再建を試みるのです。さて、1章です。
 このネヘミヤの祈りで注目したいことは、目の前の出来事を信仰の視点から見直すネヘミヤの霊的嗅覚です。直接の報告は3節。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」城壁が崩され門が火で焼き払われたままであると、遠くエルサレムの実情が報告されています。この現状報告を聞いて、ネヘミヤは罪の告白と悔い改めをするのです。しかも、「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」と言っています。自らの罪として告白するのです。ここは何気なく読んでしまいがちですが、ネヘミヤの信仰者としての霊的嗅覚を思わせるところです。
 たとえば、私たちはウクライナ情勢のニュースを聞いてどうでしょう。プーチン大統領の罪を糾弾することはあっても、己の罪に目を向けて、悔い改めることはまずしないでしょう。そういう思考回路と言いましょうか、霊的感覚はなかなか持つことはできません。ところが、ネヘミヤはエルサレムの惨状に心から嘆き、民の罪を自らの罪として告白するのです。もちろん、出来事の原因を何でもかんでも罪の結果と結びつける必要はないと思います。全てをそのように騒ぎ立てたら、私たちは罪の呵責で、とても平穏な日常生活を過ごせません。しかし、それでもどこかで信仰者は現実の問題に対して、自らの信仰を問いただすということが必要なのだと思います。
 エルサレムの報告は、崩れたままの城壁と焼き払われたままの門でした。この原因は異民族による反対でした。ですから、それらの者たちの退場を求める祈りをしてもおかしくないところです。ところがネヘミヤは罪の告白と悔い改めを祈るのです。実はエズラ記9章を見ると、異民族が強く出る背景には、ユダヤの帰還民と彼らとの間での婚姻関係がありました。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(エズラ9:1-2)そこにあったのは異民族との婚姻によってもたらされる信仰の混濁。イスラエルの信仰はその純潔と志を失っていたのです。複雑に結びついた関係の中で、彼らの意見を無視することはできなくなっていました。ネヘミヤはここに問題の本質を見極めるのです。
 しかし、それでも私たちなら罪を犯した同胞を断罪するところではないでしょうか。お前たちの過ちが今日の惨状を招いたんだ。と文句の一つも言いたいところではないでしょうか。けれどネヘミヤの祈りは、彼らの罪を共に背負い、自らの罪として悔い改めるのです。ネヘミヤは人の弱さをよく知っていたのでしょう。人が如何に愚かで自分勝手であるかを知っています。彼は同胞たちの罪を見て、しかしそこに自分自身の罪をも見て取った。そして同時に、主がそのような者に向けられる憐れみの深さにも思い至ったのです。ここでネヘミヤは主がモーセに語った約束を引き合いに出しています。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』これはつまり、罪を犯した者にもう一度立ち返ることが許されているという約束です。私たちは自分可愛さに信仰に妥協し如何に曖昧に過ごしているものでしょうか。他人の罪には敏感でも自分の姿は一向に顧みない愚かなものでしょうか。その罪を糾弾し裁くのが信仰なら、その罪を共に背負い共に悔い改めるのも信仰です。ネヘミヤは後者でした。もちろんイエス様もそうでした。私たちも彼に倣いたいのです。