エゼキエル46 「まず一人の礼拝者たれ」
44章から46章までは、神殿の規定について、様々に記されている箇所です。46章では特にささげ物に関すること規定が記されています。
特にこの章で注目すべきは、君主、つまり王の礼拝規定が事細かく規定されていることです。生贄の種類であったり、ささげ物の分量であったり、門の入り方や出方、果ては相続の範囲にまで言及しています。
46:2「君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立つ。祭司たちは彼の全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ、彼は門の敷居のところで礼拝する。それから彼は出て行く。しかし、門は夕暮れまで閉じてはならない。」とあります。
46:8-10には「君主が入るときには門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行かなければならない。しかし、民衆が例祭の日に【主】の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分が入った門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。君主は、彼らが入るときに一緒に入り、彼らが出るときに一緒に出なければならない。」とあります。
これらの記述は何を言っているのでしょうか。王は神殿での礼拝と毎日の民の執り成しのためのささげ物を献げなければならないわけで、その時、王は門の玄関の間を通って出入りし、門の戸口に立って、祭司たちに生贄をわたします。それから門の敷居で礼拝をささげ出ていくのです。これは王である者の日々の務めです。
ところが、祭りの日や安息日の礼拝のときは「君主は、彼らが入るときに一緒に入り、彼らが出るときに一緒に出なければならない。」とあるのです。祭りや安息日は民も礼拝を献げる日です。つまり民が礼拝する時、王は民と共に礼拝し、全ての民が終わるまで付き合うのです。
祭司はささげ物を献げます。では王は神殿で何をするのか。礼拝をするのです。民が来ないときにも礼拝をし、民が来たときには一日中礼拝をささげます。つまり王は何よりも礼拝者であることが問われるのです。ダビデが神に祝されたのは、彼が誰よりも礼拝者だったからです。イスラエルが滅んだのは、歴代の王が神を礼拝しなかったからです。その結果、ユダの民は今捕囚の地に置かれているのです。
王であれば、人を威圧する胆力だとか、皆を振り向かせる美貌だとか、誰もが認める名声だとか、色んな能力が求めらるように思います。実際、私たちはそういうカリスマのある人物を求めるのではないでしょうか。けれど、神が王に命じるところは、誰よりも信仰者たれ。礼拝者であれ。ということなのです。
国を治める前に己を治めることが求められる。ということです。盗んではいけないと言いながら、他人の物を盗んでいては誰もその声に耳を傾けません。礼拝せよ。と聞かせたいならば、まず誰よりも礼拝者でなければならない。王はその地位のゆえに、誰よりもそれを問われるのです。
このことは、家を治めるということにおいても同じだと言えるでしょう。子どもたちに礼拝の大切を教えるためには、誰よりも親が礼拝者であることが求められるのです。ガミガミ言うのではありません。強制し、命令しても意味はありません。伝わらないのなら、その人の信仰のあり方に魅力がないのです。王として、親として、誇らしい礼拝者であるかが問われるのです。
祭の日や安息日だけが礼拝ではありません。王は毎日ささげ物をしました。では、私たちの毎日の礼拝はどこにあるのでしょうか。それは私たちの内なる宮に住む御霊によってです。だから祈りが大事です。
王はささげ物を神殿に届けます。安息日には和解のための生贄。つまりとりなしです。そして毎日ささげるのは、子羊、穀物のささげ物、油、常供の全焼のささげ物。それは日々生かされていることへの感謝と献身の応答です。私たちの日々の歩みが、神への感謝の応答の日々とされることが大事です。果たして私たちの信仰に喜びはあるでしょうか。感謝はあるでしょうか。私たちの祈りと礼拝の生活が感謝と喜びに満たされているのなら、当然、それは子どもたちにも伝わるのです。まず一人の礼拝者たれ。主の前に恵みを数え、感謝をささげる私たちとされたいと思います。

エゼキエル40:1-27 「やがて至る幻」
40章からは神殿の幻が記されます。10章で、主の栄光がケルビムと共に神殿から去る様子を見ました。しかし、エゼキエルを含む第一次捕囚から数えて25年。神殿が崩壊し国が滅んでから14年。主は新しい神殿の幻を遂にエゼキエルを通してイスラエルに与えられたのです。
さて、ここ40章では門の長さだとか、部屋の数だとか、延々と細かな数字が羅列されています。神殿の外壁と外門についてが記されているわけですが、読むのに退屈で、辟易する箇所であります。けれど「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」とあります。現代のようにコピー機があれば見たままを図面に起こして配れば、これに越したものはありません。けれど、もちろん当時はコピー機はありません。そもそも紙自体が貴重です。大勢に配ることはできませんし、スクリーンのような大きな紙を用意して、描いて見せるなんてことももちろんできません。つまり、大勢の民、万を超える民に預言を伝えようとすれば、口頭で伝えるより他に方法はないわけです。だからこのような記述となる。けれど民はそういうことに馴れておりましたから、彼らはこれを聞いて頭の中で図面を起こして神殿の幻を見たことでした。
それはどれほど彼らにとって希望であったことでしょうか。家を建てる時、または教会を建てる時、もっとも希望に満ちるときはいつでしょうか。やがて建つ家を想像するときです。実際に建て上げられ、そこでの生活が始まると、その日常に追われます。けれど、想像の家は希望なのです。エゼキエル書は、神殿崩壊の預言から始まり、やがて民の帰還が預言されました。その後に語られるこの神殿の幻なのです。やがて、イスラエルは戻って一つの国となる。その象徴こそがこの神殿なのです。
やがて至る幻を見ることは、彼らの今に意味を持たせ、彼らの心を奮い立たせるのです。神殿が崩壊し、国を追われ、帰るべきところを失った民。代を重ね、イスラエルのアイデンティティは失われてバビロンに同化していくであろう民に、自分たちの目的を思い起こさせる。幻は、彼らが神の民であることを強烈に知らしめたのです。自分たちはやがて帰る。そしてやがて神殿が建てられる。だから今を腐らずに信仰を持ち続けよう。だから今不平を言わず懸命に生きよう。周囲に混じり合ってしまう方が楽だったと思います。けれど、彼らは頭の中に建つ神殿を思い、イスラエルであることを捨てなかったのです。
ところで、このエゼキエルに与えられた神殿の幻は、帰還後に再建された第2神殿とも、ピラトによって造られた第3神殿とも厳密には違っています。これをどう取るか。捕囚の民を勇気づかせる象徴であり、第2神殿の預言と言うこともできますし、まだ見ぬ神殿の設計図と見ることも出来ます。しかし私たちとしては、私たちの内にある聖霊の宮こそは、このように厳かで完璧な設計図を持った揺るがない神殿の代わりとされたということを覚えたいと思います。神の栄光が宿るところとして建てられる神殿。この神殿で、神は人とお会いになるのです。エゼキエルの幻は大変立派で、厳かなものです。けれど、それすらも神の住まいには本来相応しくはない。それは偉大な知恵の王ソロモンが告白するとおりです。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、【主】よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。」
にも関わらず、聖霊は私たちの内なる宮に住まわれる。この驚きに目を向けたいのです。ダニエルは遠く崩壊した宮に面した窓から祈りの声を日に三度上げました。それほどに慕い求める主の宮を私たちはすでに持っています。いつであろうと、どこであろうと、祈りの声を上げ、叫びの声を届けることができる。主はいつも私の声を聞き遂げられる。これが私たちに与えられた恵みです。であるならば、私たちはこの宮をもっともっと用いるべきでありましょう。主の宮に香を炊くべきでしょう。1週間家を空ければ、それだけでホコリが積もるというものです。私たちは主の宮を留守にしないように、毎日香を炊く者でありましょう。祈りの声を上げ続けることといたしましょう。

エゼキエル33:1-16 「剣からの見張り人」
32章までは諸外国に対する審判が記されていました。33章から39章まではイスラエルの回復が語られます。
33章では、まずエゼキエルに与えられた見張り人としての使命が語られます。見張り人の使命は警告を与えることです。ただし、警告を聞くかどうかは見張り人の責任ではありません。それはその者の責任です。しかし、警告を与えないとすれば、その責任は見張り人が負わなければなりません。私たちは他者の救いの責任を負っているわけではありません。それはあくまでもその人自身の信仰が問われるのです。無責任だと思われるでしょうか。しかし、主ご自身がその人の意思を強制することはしないのです。主が望んでいるのは、無理やり従わせることではありません。その人が自発的に従うことです。自発的に悪から立ち返ることです。
どれだけ「あなたは必ず生きる」と言っても、その人が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、死ななければなりません。どれだけ「あなたは必ず死ぬ」と言っても、その人が自分の罪を悔い改め、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、必ず生き死ぬことはありません。
その人の救いは見張り人の言葉巧みさによって決まるのではありません。見張り人の声の大きさや熱意によって決まるのでもありません。その人の救いは、ただ、その人が警告を聞いて応じるかどうかにかかっています。
なぜこのようなことが語られているのか。それはエゼキエルの言葉を、人々は聞かないからです。
エゼキエルの召しの場面が、2章3章で記されておりました。
2:3-8「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない。人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。人の子よ。あなたは、わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のように、あなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
3:7「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。」
エゼキエルの悲壮感が伝わってきます。彼は民に「神である主はこう言われる。」と語ることを命じられます。けれど同時に、その言葉は聞かれないとも告げられるのです。では空しく響く主の言葉は無意味でしょうか。しかし、そうではありません。エゼキエルの言葉は聞かれなかった。その事実が、今、イスラエルの滅びとともに神の真実を証しするのです。捕囚された民がその事を振り返る時、なぜ自分たちは預言者の声に耳を傾けなかったのかと、悔い改めるのです。エゼキエルの言葉は確かにその時は聞かれませんでした。しかし、後になって、その言葉は確かに捕囚の民に届いたのです。私たちにはその時を決めることはできません。私たちがその人を救うなんておこがましい話です。けれど、私たちは知らせなければなりません。その知らせを最善に用いてくださるのは主です。そしてその御方が言われます。「わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」主は悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ばれます。これが主の本心です。イスラエルは滅び、それゆえ、この主の御声に聞くのです。福音にどれだけ力があろうとも、どれだけ恵み豊かでも、人が己の正しさに拠り頼む時、それは届きません。福音が届くのは、その人が己の正しさの空しさを知った時です。その時は主がご存じです。それは私たちが気にするところではありません。私たちはただ、主の命じた如く、警告を発する見張り人でありたいのです。

エゼキエル27 「人であって、神ではない」
エゼキエル25章から32章までは諸外国に対する審判が語られます。
27章はツロに対する預言を哀歌の形で語られています。1-25節では、このツロの繁栄ぶりがどれほどのものであったかを、そして26節からは一転して、この繁栄、彼らが貯め込んだ財宝、それどころかその集団すらもが、ことごとく海の藻屑となることが語られるのです。
ツロは紀元前3000年頃に建てられた大変歴史ある古代都市で、世界に名だたる海上貿易国でした。世界中のあらゆる富がツロを通して海上を行き来したのです。27:25まではツロがいかに手広く貿易をしていたかが記されています。ツロはあらゆる国と貿易を持ち、戦ではなく、経済においてこの地中海の覇者となりました。しかもこれは単なる貿易の記録に留まらず、ツロが如何に諸国に君臨していたかをも記しています。彼らの船は、セニルのもみの木、レバノンの杉、バシャンの樫の木、キティムの檜、エジプトの亜麻布で豪華に建造され、シドンとアルワデの住民はツロの漕手であったとあります。ゲバルの長老と、その熟練者が修理したともあります。ペルシャ、ルデ、プテの人々はツロで傭兵として雇われていたことが記録されています。アルワデ、へレクの人々が城壁を守り、ガマデ人が櫓の中に待機します。経済という力を背景に、ツロという小さな都市国家が地中海を文字通り買い漁ったのです。
バブル期に日本企業が世界的な企業を買い漁った出来事が重なります。三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを、ハリウッドではソニーがコロンビアを、松下電器産業がユニバーサルを買収しました。当時NYの地元では日本人が「米国の魂を買った。」と大きな批判が上がったことでした。それほど日本はイケイケだったわけです。あの時代の日本は怖いもの知らずでした。何でもできると思っていた。けれど、その後の日本の衰退は私たちのよく知るところです。
ツロの失敗は高ぶりでした。各地の産地はツロに集まり、ツロから出て行きました。ツロの王はあのダニエルと比較されるほどに知恵者と称えられました。けれどその知恵は財宝を積み上げることのみに向けられていました。そしてその財宝が王を高ぶらせることとなった。ツロは繁栄を極め、諸国を従え、そしてついには自分を神であるかのように振る舞ったのです。この高ぶりを主は打たれるのです。
お金が人を変えると言いますが、まさにその通りです。光り輝く財宝は彼らの目をくらませたのです。マルコ10:25「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」とあります。それほどお金は人を狂わせるのです。なぜなら、人はお金にひれ伏すからです。諸外国はツロに雇われ、ツロにひれ伏しました。けれど、実のところはツロの持つお金にひれ伏したのです。ツロが徳高いわけでも、信頼されていたわけでもありません。人々はお金の力を信頼したのです。けれど、ツロは勘違いします。自分が称賛されていると高ぶったのです。ツロは目に見える宝を追うあまり、本当に求めるべきものを見失ってしまったのです。知恵に満ち、国々の称賛の的であった海の王者は、こうしてその輝きの全てを失うことになるのです。ツロはエルサレムを滅ぼしたネブカデネザルによって13年にも渡って包囲され、遂に陥落いたします。そして、アレクサンダー大王の遠征によって、この地より完全に滅亡するのです。
「あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座についている。』と言った。あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)
お金が悪いのではありません。財を蓄えることを禁じているわけではありません。けれど、それが高ぶりの原因となっては元も子もありません。権力も名誉もあらゆる世の称賛が誘惑の種となります。「あなたは人であって、神ではない。」この戒めを胸に刻みましょう。人である分をわきまえて、神に生かされる平安を感謝していきましょう。

エゼキエル22:1-16 「炉で溶かされて」
1-16節ではエルサレムの罪が暴露されます。
「人の子よ、あなたはさばくのか。」と呼びかけるのは、批難ではなく、エゼキエルに主の言葉を語る覚悟を問うているのです。さばくことは覚悟のいること。ましてや、神のさばきを語ることは尚のことであります。けれど、そこにはさばかなければならない神の理由があり、さばかれなければならない人の理由があります。
神の民である彼らは叫ぶでしょう。なぜ神は黙っているのかと。なぜ神は我らを助けないのかとです。私たちも同じ。私たちもつぶやきます。なぜ神はこんなにも大きな試練を与えるのかと。なぜ神は私の祈りを聞いてくれないのかと。しかし、神の側には別の意見があります。それは「なぜこんなにも罪を重ねるのか」です。
彼らは自分で血を流し、自分で偶像を造って、罪を重ねました。軽蔑や虐待やしいたげ、中傷に高ぶりに姦淫。聖なるものをさげすみ、安息日を汚し、そして神を忘れたのです。神である方が果たしてこれらを見逃すことができるでしょうか。曖昧にできるでしょうか。もし、それをするなら、もはやそれは神ではないのです。神は神であるが故に、悪を滅ぼされる方であります。
以前夕方のニュース番組を見ていたら、立入禁止の堤防に無断で入る釣り人の様子が映されておりました。その堤防は過去に70人を超える釣り人の事故があった、大変危険な堤防で、普段から封鎖されているのですが、それでも中に潜り込む人は後を絶たないのだそうです。記者がなぜ入るのかと問うと、関係ないと逆ギレしたり、無視したり。その忠告で引き返す人は誰もいませんでした。たとえばその現場で、もしも本当に事故が起こればどうなるでしょう。もちろん当人の無責任な振る舞いは批難を浴びることでしょう。けれど一方で、なぜあんな堤防を放置していたのかとその管理責任を問う声も上がるのではないでしょうか。もっと見回りを頻繁にしておけば良かったのにと言う人もいるかもしれません。中には、なぜ神様はこんな目に会わせたのかと文句を言う人もいるかもしれない。けれど私は、申し訳ないけれども、彼らが事故で怪我をしたり、亡くなったとしてもそれは彼らの責任だと思います。
彼らには滅ぼされる原因がある。理由がある。それを脇において、ただ救いだけを求めるというのは虫が良すぎる話ではないでしょうか。23節からは、イスラエルのそれぞれの立場にいるもの、誰もに理由があるということが語られます。25節の「預言者たち」は28節と被るので、注にあるように「君主たち」のほうが良いかもしれません。つまり君主、祭司、預言者、民衆。彼らには弁解の余地がないのです。主は彼らの内に破れ口を修理する者を探しますが、そこには見当たりません。ゆえに神の怒りが彼らの上に降り注がれるのですが、それは彼らの生き方が返されたということであります。
今日の箇所が何を伝えているのか。それは、私たちの信仰の基本的理解を確認させるものです。それはすなわち、神は滅ぼさざるを得なかった、ということです。神には正当な理由がある、ということです。
私たちは苦難に合うと、神に助けを祈ります。助けが与えられないと、神は何をしているのかと憤ることでしょう。そしてやがて躓きます。私たちは試練にあって、いつも「なぜ、こんなことが」と叫ぶのです。しかし、本当に大事なのは、試練を通して私たちが自らを顧みることにあります。試みの理由は一つです。それは私たちが主を知ること。主に立ち帰ることです。
主は銀を炉の中で溶かすと言います。形あるものが溶かされる。そのままではいられなくなる。しかし、それはもう一度形造られるために他なりません。不純物を取り除き、もう一度光り輝くそのものとして、主に用いられる器となるために徹底的に溶かすのです。
22:14-16「わたしがおまえをさばく日に、おまえの心は耐えられるだろうか。おまえの手は強くあり得るだろうか。【主】であるわたしが語り、事を行う。わたしはおまえを諸国の間に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れをすっかり取り除く。国々の民が見ている前で、おまえはおまえ自身によって汚される。そのときおまえは、わたしが【主】であることを知る。』」
