Ⅱサムエル12:1-12 「権力に媚びず」
通りよき管となるために、教会とこの世との関わりを考えるとき、私たちがこの地にあって担っている預言者としての働きを理解することはとても大事です。と言いますのも、ご承知のように、教会が権力と迎合することの危険を私たちは今まさに進行形で見ているからです。ロシア国内でこの戦争について肯定的な国民がいることの一つの要因は、ロシア正教会のキリル総司教によるプーチン大統領支持にあります。「ウクライナとの戦争で死亡したロシア兵は全ての罪を清められる。」いったい何を根拠に罪が清められるのでしょう。その発言に聖書的根拠はありません。それは極めて政治的な発言です。元々ロシア正教会に所属していたウクライナ正教会の独立に対する報復処置であり、利害関係を共有するキリル総司教とプーチン大統領による聖書の捏造です。そしてこれが教会が政治的独立を保たなければならない理由です。教会が権力と結びつくとき、教会は語るべきことばを失うのです。
これは決して他岸の火事ではありません。日本においても同じことがありました。長いものに巻かれて、語るべき言葉を失い、神の前に罪を犯した歴史があります。神の言葉とこの世の言葉に折り合いをつけて、信仰を偽った時代があるのです。そして今また、きな臭い空気が漂っています。私たちが預言者としてあることが問われるのです。
イスラエルで最も偉大な王と言えばダビデですが、彼が完璧な王であったかと言うとそうではありません。彼も罪を犯します。それも取り返しのつかない罪。彼は人妻であるバテ・シェバを召し入れて身ごもらせ、事を誤魔化すために、夫ウリヤを戦いの最前線へと送り込むのです。そして思惑通りウリヤは戦死いたしました。王としてあってはならない蛮行。しかし幸いだったのは、この時代に預言者ナタンがいたことです。「あなたがその男です。」ナタンは言い逃れができないほど激しくダビデを断罪します。この罪の結果バテ・シェバとの間の子は死にました。けれど罪が明るみに出されたことによって、ダビデは自らの罪を悔い告白いたします。「私は【主】の前に罪ある者です。」ダビデ自身は彼の悔い改めのゆえに赦されたのです。彼の王位は次にバテ・シェバとの間に生まれたソロモンが継いでいくこととなるのです。
この場面、ダビデの王位が途絶えることもあり得た大きな分岐点でありました。ダビデが罪を悔いなければダビデの王位は失われていたことでした。しかしそこにナタンがいた。預言者の存在が国を存続させたのです。ダビデと言えど間違いを犯します。人は皆罪を犯します。けれどその時、自らの罪に気付き、悔い改めることができるかどうかは、そこに正しい罪の指摘があるかにかかっています。
なぜナタンにはそれができて、キリル総司教にはできないのでしょう。それはナタンにはダビデ王との間に利害関係も君臣の関係もなかったからです。彼は常に王の上に立つ権威、天の主権にこそ従っておりました。地上の権威からは一定の距離を保っていた。だから王であるダビデを恐れることも媚びることもせず忠告できたのです。教会は権威に擦り寄ってはいけません。それは語るべき言葉を失うことになります。預かった言葉を閉ざすことになります。それは教会としての使命を失うことでもあります。
そしてナタンの根底にはダビデに対する憐れみがありました。彼はダビデを神格化しません。それはつまり、ダビデの人としての弱さを受け止めていたということです。王であろうとも罪を犯すという弱さの余地を認めていました。王だから1ミリの過ちをも許さないという過度な期待はそこにはありません。ただただ一人の罪人の裁きを案ずる情け深いナタンです。だからこそ正すのです。
王といえど、大統領や総理大臣といえど、いえ、天皇と言えど罪を犯します。私たちは人としてのその弱さを認めてやるべきです。そしてだからこそ憐れみをもって祈り、そして忠告しなければなりません。「あなたがその男です。」決して裁くことが目的ではありません。立ち返らせるために。やり直させるために。私たちが神の言葉を失わないためにです。
通りよき管となるために、教会とこの世との関わりを考えるとき、私たちがこの地にあって担っている預言者としての働きを理解することはとても大事です。と言いますのも、ご承知のように、教会が権力と迎合することの危険を私たちは今まさに進行形で見ているからです。ロシア国内でこの戦争について肯定的な国民がいることの一つの要因は、ロシア正教会のキリル総司教によるプーチン大統領支持にあります。「ウクライナとの戦争で死亡したロシア兵は全ての罪を清められる。」いったい何を根拠に罪が清められるのでしょう。その発言に聖書的根拠はありません。それは極めて政治的な発言です。元々ロシア正教会に所属していたウクライナ正教会の独立に対する報復処置であり、利害関係を共有するキリル総司教とプーチン大統領による聖書の捏造です。そしてこれが教会が政治的独立を保たなければならない理由です。教会が権力と結びつくとき、教会は語るべきことばを失うのです。
これは決して他岸の火事ではありません。日本においても同じことがありました。長いものに巻かれて、語るべき言葉を失い、神の前に罪を犯した歴史があります。神の言葉とこの世の言葉に折り合いをつけて、信仰を偽った時代があるのです。そして今また、きな臭い空気が漂っています。私たちが預言者としてあることが問われるのです。
イスラエルで最も偉大な王と言えばダビデですが、彼が完璧な王であったかと言うとそうではありません。彼も罪を犯します。それも取り返しのつかない罪。彼は人妻であるバテ・シェバを召し入れて身ごもらせ、事を誤魔化すために、夫ウリヤを戦いの最前線へと送り込むのです。そして思惑通りウリヤは戦死いたしました。王としてあってはならない蛮行。しかし幸いだったのは、この時代に預言者ナタンがいたことです。「あなたがその男です。」ナタンは言い逃れができないほど激しくダビデを断罪します。この罪の結果バテ・シェバとの間の子は死にました。けれど罪が明るみに出されたことによって、ダビデは自らの罪を悔い告白いたします。「私は【主】の前に罪ある者です。」ダビデ自身は彼の悔い改めのゆえに赦されたのです。彼の王位は次にバテ・シェバとの間に生まれたソロモンが継いでいくこととなるのです。
この場面、ダビデの王位が途絶えることもあり得た大きな分岐点でありました。ダビデが罪を悔いなければダビデの王位は失われていたことでした。しかしそこにナタンがいた。預言者の存在が国を存続させたのです。ダビデと言えど間違いを犯します。人は皆罪を犯します。けれどその時、自らの罪に気付き、悔い改めることができるかどうかは、そこに正しい罪の指摘があるかにかかっています。
なぜナタンにはそれができて、キリル総司教にはできないのでしょう。それはナタンにはダビデ王との間に利害関係も君臣の関係もなかったからです。彼は常に王の上に立つ権威、天の主権にこそ従っておりました。地上の権威からは一定の距離を保っていた。だから王であるダビデを恐れることも媚びることもせず忠告できたのです。教会は権威に擦り寄ってはいけません。それは語るべき言葉を失うことになります。預かった言葉を閉ざすことになります。それは教会としての使命を失うことでもあります。
そしてナタンの根底にはダビデに対する憐れみがありました。彼はダビデを神格化しません。それはつまり、ダビデの人としての弱さを受け止めていたということです。王であろうとも罪を犯すという弱さの余地を認めていました。王だから1ミリの過ちをも許さないという過度な期待はそこにはありません。ただただ一人の罪人の裁きを案ずる情け深いナタンです。だからこそ正すのです。
王といえど、大統領や総理大臣といえど、いえ、天皇と言えど罪を犯します。私たちは人としてのその弱さを認めてやるべきです。そしてだからこそ憐れみをもって祈り、そして忠告しなければなりません。「あなたがその男です。」決して裁くことが目的ではありません。立ち返らせるために。やり直させるために。私たちが神の言葉を失わないためにです。