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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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220626 ピリピ2:1-11 「思いを一つにして」 原市場聖書教会 若村和仁師

ピリピ2:1-11 「思いを一つにして」 若村和仁師

220102 ピリピ4:6-7 「まず祈る。絶えず祈る。」

ピリピ4:6-7 「まず祈る。絶えず祈る。」

 試練にあって嘆くことは簡単です。困難な状況を誰かのせいにして、時代を呪い、世の中を呪い、特定の誰かを呪うことは、みんなやっています。けれど、その同じ状況で、ある人々は感謝するのです。大変なのは変わりないのにです。困難がない人などいないのにです。けれど、ある人々はその時呪いの声をあげ、ある人々は讃美の声をあげるのです。何がそれらを分けるのか。それが神への信頼であります。神さまがおられるから大丈夫。そのように信頼できるからこその感謝です。そして、見えない神にそのような信頼を置くことができるとしたら、その人はどんな状況にあっても決して慌てることはありません。私たちはどうでしょうか。困難にあっても尚感謝することができるなら、こんなに幸いなことはありません。
 荒唐無稽な話に聞こえるでしょうか。けれどそんなことはありません。友人から勧められた食事がことごとく美味しい。もしもそういう経験を積み重ねていたとしたら、私たちはもうその友人が勧めるものならどんなものでも美味しい。たとえどれだけ美味しくなさそうでも、他の人が避けるものでも、この友人を信頼していただくことができるでしょう。神を信頼するということも実は同じです。神がいかに私たちに恵み深い方であるかを知っていれば、自ずと信頼するようになるのです。大事なのは恵みの体験の積み重ね。これが神への信頼を深めるのです。
 では具体的には、どうすれば良いのか。そのカギとなるのが「祈り」です。日々繰り返される信仰生活の中で、一つ一つ恵みを積み重ねるには、目の前の現象を恵みと受け止められるかどうかにかかっています。そのために「祈り」が重要なのです。信仰者と言っても、そこには2通りの人がいます。恵みに疎い人と敏い人です。同じことを体験しましても、これをラッキーと言って見過ごしてしまう人と、これは神様からの恵みと感謝して受け止める人がおります。私たちがもしこの後者の人になることができるならば、私たちの日々の生活は神への信頼を積み重ねる日々となりましょう。
 学生時代に初めてのバイト代で買ったデジカメを無くしたことがあります。あちらこちら探して、ようやくベンチに置き忘れていたデジカメを見つけた時には、本当に安堵したことでした。ところが、この話を後で友人にすると、神さまのおかげだね。と言うのです。正直に言いますと、私はこのときちょっとむっとしたのです。何でもかんでも神様のおかげと言って片付けてしまうのはクリスチャンの悪いところではないかと、そう思ったのです。カメラが見つかったのは私が必死になって探した結果です。そのために私は午後の数時間を潰したわけです。何かその頑張りを無視して神様ばかりちやほやするのは何か違うんじゃないか。
 しかし、そうではないのです。実はその友人は私がカメラをなくしたと聞いて、まっ先に祈ってくれていたのです。そして一緒に探してくれました。だから彼はこれが祈りの結果であるとして受け止めることができました。だから彼は神様のおかげだねと言ったのです。私はと言いますと、目の前の出来事に動揺して祈る余裕すらありませんでした。とにかく一刻も早く探さなければ、誰かに取られてしまうかもしれない。そんな思いでいっぱいでした。
 つまりこれが恵みに疎い人と敏い人の違いです。
 祈らずに起きたことを、私たちは偶然か、もしくは自分の手柄と理解します。しかし祈って起きることは神様からの答えです。祈ることを通して、私たちは目の前の出来事を神様の返答として数えることができます。神様を体験することができます。そして、こういう体験を繰り返していきますと、たとえ願ったことが適わないときにも、それが神のみこころと受け止めることができるのです。
 自分で何とかしようと思うその時、そこに神の働きがあるということを意識の外に追い出してしまいます。しかしそれはあまりにも勿体ないことではないでしょうか。起こった事柄を感謝と受け止められないからです。神の恵みと知らなければそれは感謝にはつながりません。本来、私たちは全ての事柄を通して神を体験できるのです。まず祈りを持つ。この習慣を築いてまいりましょう。

210704 ピリピ3:3 「私たちは礼拝する民」

ピリピ3:3 「私たちは礼拝する民」

 信仰者が共に集うところ。それが教会です。けれど、共に集まって何をするかというところまでが大事です。教会に集まって一緒にご飯を食べる。スポーツをする。大きく見れば、それらも教会活動の一部ですが、それらが無くても教会は成り立ちますし、それらが行われる場所が教会である必要もありません。クリスチャンの友人とボーリングに行ったとしましょう。信仰者の群れだから、そこも教会だと言うかと言いますと、もちろん言いません。スケートをするところはスケート場ですし、映画を観るところは映画館です。では教会は信仰者が集まって何をするところでしょう。もちろん礼拝です。教会から礼拝を取ったら、もうそこは教会ではありません。日本にはそういう教会風の建物がブライダルとして沢山あります。それは教会風であって教会ではありません。ですから、教会とは礼拝を共にする者の群れ、礼拝共同体なのです。
 ピリピ3:3には「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」とあります。「割礼の者」というのは、旧約における神の民の印を持つ者です。割礼を施した私たちこそが神の民とユダヤ人たちは誇っていたわけです。けれど、そうでしょうか。そもそものイスラエルが神の民を選ばれたのは、彼らを通して、神の臨在が証しされるためです。彼らが神を第一として従い、礼拝して過ごす時、神は彼らを祝福し、彼らが神を裏切り、自分を優先して生きる時、神は彼らに罰を与えられる。その彼らの結末を通して神はご自身の存在を明らかにされるのです。つまり彼らは世に対するモデルケースなのです。「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者」とあります。つまり、私たちもまた世に対して神の臨在を証しするモデルケースだと言うことです。ですから私たちが礼拝することは、世に対する責任であり使命です。しかしそれ以上に思うのは、礼拝は恵みであり、祝福だということです。
 礼拝に出席できるということは、当たり前のことではありません。体調が許さなければ教会に集うことは叶いません。あらかじめスケジュールを空けておく必要がありますし、急な友人の誘いも断らなければなりません。サタンの手口は私たちを牢獄に監禁して、無理やり引き止めるものではありません。色んな小さな言い訳と誘惑を用意するのです。仕方ないよね。と自分自身に言い聞かせることの出来る様々なこの世の出来事に目を向けさせます。けれど、そういう様々な誘惑と闘って、礼拝に出席することを選び取って、私たちはこの所に集っているのです。
 凄いことだなぁと思います。多くの日本人がお盆と正月、それに特別な願い事があるときだけ神社仏閣を訪れるところ、私たちキリスト者は毎週毎週、礼拝を献げるのです。このことはもっと褒めて良いことだと思います。素晴らしい信仰の決断だと思います。私たちは霊的な戦いに身を投じているのです。平日の私たちは、さらに過酷です。この異教の蔓延る国においては、私たちの日常は極めて孤独な霊的戦いを強いられています。
 だからこそ、私たちは週の初め、神からの祝福をいただくことが大事なのです。昨年は新型コロナの影響で、礼拝を休止せざるを得なかった教会が多く起こりました。私たちの教会でもどうするか決断が迫られました。役員の方には臨時に何度も集まっていただいて、話し合いを続けました。そして出した結論は、礼拝だけは続けるということでした。その結果、ライブ礼拝を開始し、後に分散礼拝と併用して、現在に至っています。そこにはやはり、このような先の見えない不自由な中だからこそ、礼拝の祝福を絶やしてはいけないという切なる思いがあったからでした。
 私は礼拝の中で最も重要なのは、祝祷であると考えます。神の招きによって集い、祝福によって派遣される。ここに世の教会としての目的と意味があるのです。信仰生活の主戦場は世です。私たちは信仰生活の中心は教会にあると思うかもしれません。けれど、実際は信仰生活の大半を私たちは世の中で過ごすのです。だからこそ、神は信仰のゆえの喜びと苦難を共有する兄弟姉妹として私たちを教会に招き、そして派遣されるのです。

210103 ピリピ4:10-13  「そこにある恵み」

210103 ピリピ4:10-13  「そこにある恵み」

 ソロモンはⅠ列王記8:37-39で「この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、」と言っています。今はまさにソロモンの祈りが適用されたかのような状況ですね。私たちは中世のペストやコレラに匹敵するような歴史的疫病に襲われています。そのような状況を想定して、ソロモンは何というのか。「だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。」であります。ソロモンは今まさに、この災いの中で、宮に向かって祈れと言っています。
 このコロナの状況の中で例えば国の対応に文句を言う人は沢山いらっしゃるでしょう。また自衛のために色々と知恵を巡らせる方も多いでしょう。けれど、この困難の中で、神の前に自身の信仰を問いただす人はほとんどおりません。けれど信仰者にとっては、やっぱりそこが大事だとソロモンは言うのです。耐えて耐えて過ごせば、やがてはワクチンが行き届いて、コロナウィルスの拡大は収まるのかもしれません。けれど、仮に私たちがその時を無事に迎えることができたとして、私たちはああ収まって良かったということだけで、この出来事を総括して良いものでしょうか。この出来事を通して語られる主のみこころを探り求めることはしないでしょうか。少なくとも私にとって、あの試練には意味があった。そう思えることが大事ではないでしょうか。
 年間聖句はピリピ書から選ばせてもらいました。どんなことでもできるというのは、事実ではありません。獄中にいるパウロにできることは制限されています。けれど、彼の心は何ら制限されません。不自由な生活の中でも、彼の心は自由で感謝に満ち足りています。なぜなら、主なる神が彼を強くしてくださるからです。ソロモンの祈りをパウロは実践いたします。不自由さの中で、彼は自らを省み主に立ち返ります。すると、そこには貧しさの中で助けてくださる主がおられるのです。もちろん富んでいるときに用いてくださる主がおられます。病の時にこそ励ましてくださる主がおられます。その境遇でなければ知れることのない主の取り扱いがそこには確かにあるのです。
 ローマの獄中にあって、パウロは思うままに旅することも、出かけていくこともできません。けれどパウロは獄中に置かれているからこその恵みに気付きます。それはピリピの人々との交わりの確かさです。14節には「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」とあります。パウロの苦難に、身を翻して去っていく人がいます。石を投げ、罵声を浴びせる者もおります。しかし一方で、寄り添い、駆け付けてくれるピリピの兄弟たちがいたのです。もちろん、これまでもピリピ教会とパウロとは親しい関係にありました。けれど今、この獄中にあって、ピリピ教会の人々の存在がこれまで以上に大きな支えであることにパウロは気付くのです。こういうのは忙しく活躍しているときには見落としがちです。その時その時に一生懸命で、がむしゃらに前に進んでいるときには、案外感謝が抜け落ちたりします。自分の手柄にしてしまいがちです。実は私たちは困難の中で、立ち止まる中で、そこにある恵みに気付くのです。これはパウロの例です。もちろん、私たち一人一人に恵みがあり、感謝があります。
 入院中のS姉妹の近況を時々お聞きします。術後の回復のために治療を続けておられます。痛みがあるとも聞いています。けれど、姉妹の近況の最後はいつも神への感謝で終わるのです。これまでの人生の中で、一番神様と身近に過ごせていると感謝されています。私はこれは単なる強がりではないと思います。姉妹は本当に感謝しているのです。姉妹はそこに無いものではなくて、そこにある恵みを見ているからです。姉妹の信仰は、私たちに信じることの確かさを知らしめてくれています。パウロの言葉の真実を告げてくれています。
 私たちは困難の中で、どのように信仰を保つべきでしょうか。それは私を強くしてくださる方と共にいるということに尽きます。では、どうすれば共にいられるのでしょうか。どこかに行けばいいのでしょうか。刺激のある新しいことを始めれば良いでしょうか。いえ、その困難の中にも、主は共にいてくださっています。コロナ禍にあって、私たちのできることは制限されています。長い自粛生活に嫌気がさして、神様に愚痴の一つ、文句の一つもつきたくなるところです。けれどです。困難の中で私たちは主に愚痴るわけですが、では順調なときなら、十分に主に感謝していたのでしょうか。困った時だけのという例のあれではないでしょうか。困難の中にも、順調の中にも、主は共にいてくださるお方です。ですから、今こそ知れる恵みはやはりあるのです。戦火の中でも生まれてくる命があります。焼け落ちたその跡に残される切り株があります。苦難が私に向けられた恵みの全てを打ち消すのではありません。苦難ばかりに目を奪われて、私たちが見ていないだけです。主と共にあることの幸いは、その時々の主の御声に聞き従うことにあるのです。

200205 ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

 パウロが初めてこの町を訪れた時、町外れの祈りの場で紫商人のルデヤと出会い、また看守たちが信仰を持ち、欧州における最初の教会が設立されました。それはつまり、ユダヤ人が改宗したのとは違い、ピリピ教会の人々は皆、パウロの語る福音によって導かれた人たちだったということです。ピリピ教会は生みの親パウロを慕い、経済的に援助し、パウロが投獄されたときにはエパフロデトを派遣して、その働きを支え続けました。パウロはそんなピリピ教会に対して、感謝の言葉を惜しみません。この手紙は別名感謝の手紙とも言われるほど、パウロのピリピ教会を想う気持ちが溢れています。
 そんな中、この3章では、ピリピ教会に降り掛かったある問題を取り上げています。それがユダヤ主義キリスト者の台頭です。パウロが去った後、ピリピ教会のユダヤ的な考えに引っ張られる人たちが力を持つようになり、律法を守ること、つまり割礼を受けなければ救われないと強要するようになっていったのです。
 パウロは律法による義を退けます。そんなのは無駄だと言います。なぜなら、パウロほどに律法による義を立てることに熱心であった者はいないからです。彼は経験者です。だからこそわかる。そんなことに時間も労力も費やすのは損でしかない。大事なのは、「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義」に他ならないとです。
 律法を守ることによって立てられるのは自分の義です。しかし、それはどこまで行っても神の義に至ることはありません。律法で守るべきはその字面ではありません。その律法に込められた神の御心です。割礼というのは神の民とされた者のしるしです。神の民は割礼を受けなければならない。けれど、割礼を受けたから神の民とされるということではないのです。割礼というのは、当時のエジプトやカナン地方においても行われていた儀式ですし、広く世界中で見られる衛生予防上の習慣でもありました。ではそれらの割礼を受けた皆が神の民であるかというとそうではありません。そこには神が選んだという一方的な関係が結ばれていたのです。割礼はこの恵みに対する応答の手段に過ぎません。
 けれど、パウロが去った後、ピリピの人々はこの目に見えるしるしに頼ったのです。一世代のキリスト者たちは、復活のイエス様と出会った感動の中で信仰を得ました。けれどピリピの教会の人々はイエス様を直接見ることのない第2世代のキリスト者でした。彼らは信仰によって救われました。けれど、見えないものを信じることは難しいのです。迷いやすいのです。肉体に決して消えることのない救いのしるしを持っていたい。それは彼らの弱さからくる誘惑です。けれど、同じ誘惑は私たちのうちにもあるのです。目に見えるところで、自分の信仰を測りたいという誘惑です。そうしないと不安だからです。信仰の歩みはある意味で今まで得と思っていたことを捨てて、損と思うことを拾うことです。今までの価値観が全くに変わってしまうことです。これはある意味で恐ろしいことです。それはこの世の評価がひっくり返るということです。今までは清濁併せ呑んで、結果を出してきました。けれど、私たちは神の前に正直に生きるようになった。それは融通の効かない生き方です。結果も、評価も、価値観も、ひっくり返る経験です。にも関わらず、新しい生き方が神に喜ばれているかどうか、評価されているかどうかは私たちには見えないのです。だから、私たちは見えるものに頼りたくなります。功績を積み、誰もが認める救いのしるしを手にしたくなります。そういう信仰のあり方は今までの価値観の邪魔をしないからです。
 けれど、恵みは一方的なものです。そうでなければ、私たちが救いに与ることはかなうはずがありません。罪の問題は私たちが何を体験したから、私たちがどう努力したからと言って済む単純な問題ではありません。罪のために神の御子を殺さなければならなかったのです。私たちは信仰を測りたい誘惑があります。行いによって自分の義しさを数えたくなります。けれどそれはやはりどこまで行っても自分の義なのです。神の義は、私たちがどうこうすることで満たされることはありません。神の義は神によってでなければ。だからこれは恵みです。キリストを信じる信仰に基づいて、与えられるキリストの義なのです。