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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200311 Ⅰペテロ5 「サタンの思惑」

Ⅰペテロ5 「サタンの思惑」

 ペテロはこの手紙で従順であることを勧め、また悪に報いず善に熱心であることを勧めます。そして4章の終わりでその理由を明らかにしますが、それは、さばきが神の家から始まる時が来ているからだと言うのです。そして「そこで」と切り出しまして、この5章の冒頭、ペテロの勧めが記されるのです。
 長老たちに対しては心を込めて羊の群れを牧するように、群れの模範となるようにと勧めます。若い人たちには長老たちに従うようにと勧めます。そしてそれは若い人だけでなく、長老も若い人も皆が謙遜を身に着けるようにとです。つまり、苦難の時だからこそ教会は一致しなければならない。そして、一致は謙遜と従順によって生れると教えるのです。苦難の中で私たちは仲違いしている場合ではないのです。誰が偉い偉くないと競い合っている場合ではないのです。教会の権威は主ご自身です。長老はまずこの権威に従う。そして若い人は主が選ばれた長老に謙遜に従う。これは教会に与えられた秩序です。そして苦難の時を乗り切るための大切な手段なのです。
 なぜなら、この苦難を用いてサタンが狙っているのは教会の分裂に他ならないからです。教会の交わりが競い合って、互いを邪魔者扱いとし、互いに疑心暗鬼となり、互いをさばき合い、キリストの威を借りた自分教を創める。これこそがサタンの思惑です。
 ペテロはローマでのキリスト者に対する不穏な空気を感じ取りながらこの手紙をしたためています。ローマのクリスチャンは公には信仰を隠して、イクソスという魚の形を模したギリシャ文字を身に着けて互いの信仰を確認し合っていたのです。クリスチャン狩りがなされて、信仰者とわかると連行され、コロッセウムで見せしめのライオンが放たれたり、火炙りにされたり、十字架に架けられたりしたのです。そんな殉教者たちの姿を見送るしかできない不甲斐なさを感じながら、しかし、それでもこれ以上迫害が広まりローマ帝国全体に及ぶことの無いようにと危惧しながら、残された者たちが早まった行動に出ないように自制をかけながら、ペテロは困難な現実の背後に霊的な戦いがあることを語るのです。
 「やがて来る栄光にあずかる者として」と自信を紹介するペテロです。終末を意識するペテロの信仰が見て取れます。この「やがて来る栄光に」信頼を置くことが大事です。私たちは目の前の困難にばかり目を留めます。けれど、困難を解決することに焦るあまり、より大切なことを見失っては元も子もありません。迫害を回避したいだけであれば信仰を捨てればいいのです。夫婦関係のいざこざを回避したければ離婚すればいい。親子関係でストレスがあれば親子の縁を切ればいい。問題の解決は至って簡単です。けれど、それは目に見える問題に限ります。その背後にあるサタンは、むしろ安易な解決に走ることに、ほくそ笑んでいるのです。
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(5:10)
 サタンの存在を意識することは同時に神の存在を意識するということです。霊的戦いの結末は神の圧倒的な勝利に終わることを私たちは聞いています。私たちの苦難は永遠の栄光に至るのです。「この恵みの中にしっかりと立っていなさい。」と言ってペテロはこの勧めを閉じます。苦難の渦中にいるペテロが恵みの中にしっかりと立っていなさいと語る。これは彼自身の経験から出るところなのです。ペテロ自身、逃げ出したくなるような、倒れてしまいそうな経験を通ってきたのです。そんな彼が頼りとしたものが永遠の栄光の約束でした。見えない神への信頼でした。私たちがどのような苦難の中でも主を信頼して過ごすなら、これ以上にサタンの思惑を砕くことはありません。サタンの思惑は、私たちが信仰の道から脱落することです。ですから安易に道を外れるのではなくて、耐え忍ぶことが勧められているのです。苦難の道は十字架の道です。私たちはこの道の行き着く先を知っています。苦難の中にあって尚、勝利を見失うことのない信仰者の歩みとは何と幸いなことでしょう。

200304 Ⅰペテロ1:1-12 「変わらないものを見上げて」

Ⅰペテロ1:1-12 「変わらないものを見上げて」

 ペテロの手紙を読みますと、とても厳しい信仰者としての生き方が語られます。信仰者に現実の苦しみに対する忍耐を問うています。私たちはペテロのイメージをもっと楽観的で、もっと単純に思い浮かべることではないでしょうか。ところが、このペテロの手紙からはそのような様子は見られません。慎重で、厳格で、非常に重苦しい印象を受けます。年齢を重ねたということもあるでしょうが、それ以上に、彼が置かれている現状が、彼を変えたと言ってもよいかと思います。
 ローマの大火と呼ばれる事件が起きたのがAD64のことでした。100万人を超える大都市ローマは、建築物の多くが木造で、道幅も狭く、密集していたため瞬く間に火事が広がって行ったと言います。ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区に火が燃え広がり、そのうち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったと言われています。当然、人々はその責任がどこにあるのかと紛糾したのです。そしてその矛先は皇帝ネロに対しても向けられました。ネロはこの大火事の責任を当時ユダヤ教の分派と見なされていたキリスト者に押し付けました。そして、それゆえキリスト者は、ローマ帝国による最初の弾圧を受けることとなって行くのです。
 このペテロの手紙は、ローマの大火が起こる直前のAD63に書かれた手紙だととか、AD64以降の迫害の真っ只中に書かれたと諸説があります。どちらにせよ、この手紙は平和な中で書かれたものではなくて、迫害を意識するようになった、過酷な状況を感じ取る中で書かれた手紙だと言うのです。
 こうした背景を知りますと、ペテロの言葉の重みというものが変わってくるかと思います。ペテロはこの苦難の中で、キリスト者のあるべき姿を語ります。苦難に対して耐え忍ぶべき。悪に倣わず善を行うべき。今の状況に目を向けるのではなくて、天の栄光を見て神に聞き従うべき・・・。とても厳しい教えです。けれど、実はこれを語るペテロ自身がそのような中に置かれていたのです。ローマで起きた迫害は、日本の江戸時代とは異なり、苛烈ではあったけれども局地的なものでした。迫害の中心は小アジアではなくてローマでした。ですから、この手紙は安全なところから迫害の只中にいる同志に向けた、負けるな、頑張れという手紙ではなくて、私たちはこの試練の中で朽ちない恵みを見出しましたから、あなたたちもいずれ来る苦難にあってこれに習ってください。という類の手紙なのです。
 そんなペテロが1:6-7で「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」と言って、現状の苦しみを再定義しています。目に見える困難は、神のご計画の内に別の意味合いを持っているということです。私たちは困難に対してそれが取り去られることを願います。そして取り去られないとき、私たちは現状に絶望しますし、解決をもたらしてくれない神に不満を覚えます。けれど、その困難事態に置かれた神の意志には目を向けようとはいたしません。困難が無くなることよりも、その困難の中で、変わらないもの、失われないものを確かとすることがより大事です。だからこそペテロは困難を解決するようにではなくて、耐え忍ぶようにと言うのです。迫害が起こり、彼らの信仰を大いに振るわれます。信仰を持つことが彼らの日常の不利益になる。けれど、彼らは最後まで信仰を持ち続けます。神の栄光を見出した彼らは、この世の価値観には生きていないのです。
 韓国大邱市の異端の教会で新型コロナウィルスが蔓延したという報道を見ました。異端の教会ということもあり、とても複雑な思いですが、これは一歩間違えれば明日の我が身だと思いました。そして、多くの日本人が教会に向ける目だと思いました。皇帝ネロはキリスト者をローマの大火のスケープゴートにしました。あらゆる集まりに自粛が求められる日本において、礼拝に集う信仰者の群れは格好の非難の的でしょう。けれど、私たちは慌てないようにしたいものです。見えないウィルスに、できる限りの対策は取りつつも、やはり見失ってはいけないものがある。このことによって隣りにいる一人を疑い、切り捨てるようであってはいけないし、神を後回しにする言い訳としてはならないのです。移り変わる状況の中で、私たちは変わらないもの、失われない希望に目を留めていきたい。神を礼拝する民であり続けたいと思います。

181014 Ⅰペテロ1:23 「いつまでも残るもの」

Ⅰペテロ1:23 「いつまでも残るもの」

 100年先の教会を思い描くとすれば、どのような教会でしょうか。時代は加速度的に変化して行っています。それは私たちの想像を遥かに超えることです。私が子供の頃、夢だったスーパーカー、コストや燃費度外視の車は、今や完全電気化、そして無人運転が実用化しようとしています。公衆電話は無くなり、ネット社会の発展は流通や社会の仕組み自体を変化させています。人々の生活は様変わりし、歴史を振り返っても、近代のこの移り変わりは類を見ないものではないでしょうか。
 例えば、今、私たちは超高齢化社会を生きています。けれど言ってしまえば、100年後には、もうその超高齢化すら過ぎ去っているのです。第1次ベビーブーム、第2次ベビーブームが現在の日本の歪な人口構造を造ったわけですが、その後、第3次ベビーブームなるものは来ませんでした。ずっと、人口減少の一途を辿っています。私は第2次ベビーブームの世代ですが、恐らく、この世代がいなくなった後は人口はどの世代も軒並べて少ないという時代がやって来るでしょう。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」によると、およそ100年後の2110年、日本の人口は5000万人を切っていると予想しています。今の人口の半分以下です。労働力の減少は、外国人への門戸をより広げるでしょうし、産業のAI化はさらに拍車が掛かっていくでしょう。これからドローン技術の開発で、様々なことが無人で行われるようになるとも言われておりますが、そうすると入間基地の役割も、随分と変わってくるでしょう。つまり私たちの身近なこの町も100年経てば驚くほど様変わりするという話です。
 修道院などと違い、教会は社会と隔絶されたところではありませんから、当然、社会の変化は教会にも影響を及ぼします。教会員の生活が様変わりするわけですから、それも当然です。けれど、教会のあり方として、変化に対応すること以上に大切なことがある。100年後教会に入ったら、そこにはキリストがいなかったということでは笑い話にもなりません。ましてや神の歴史の中で、現代は終末の時代です。イエス様の十字架と復活によって神の国が到来し、その完成を待ち望む間の時代。その日は盗人のようにやって来ると言います。100年先があるとも限らない。ですから100年後の教会は、100年先を想像して考えるのではありません。それは今、私たちが懸命に建て上げるこの教会の延長線上にある。100年先にはこうなっていたい。という話ではなくて、今、私たちがどのような教会でありたいか、ということが問われているのです。
 教会とは「エクレシア」。これはもともと「カレオー」召集するという言葉から来ています。意味は、神によって特別に召し集められた人々の群れです。つまり教会は会堂ではないということです。教会堂の規模や、財産、見てくれを指しているのではありません。キリスト者の群れとして、どのようであるか。その姿勢が問われているのです。
 どのように時代が変わり、教会を取り巻く環境が変わろうとも、決して変わってこなかったものがあるわけです。私たちはここを見失ってはなりません。ペテロやパウロといった使徒たちの時代。その後の迫害を生き抜いた使徒教父達の時代。ローマ国教下、アウグスティヌスを始めとする教父時代。それは異端と戦い教理を確立していった公会議時代でもありました。他宗教との戦争に明け暮れ疲弊した中世時代。ルターやカルヴァン達が活躍した宗教改革時代。競うように未開の地に宣教した大航海時代、そして現代。教会を取り巻く環境は驚くほど変化してきました。けれど、その時代時代に生きるキリスト者を招き、救いに導かれたのは、色あせることのない神のことばに他なりません。私たちが養われる霊の糧、神のことばは、パウロが語り、教父たちが守り抜き、ルターやカルヴァンが取り戻したまさにその「生きた、いつまでも残る、神のことば」でありました。2000年間、変わらずに語られている神のことば。それはつまり、神の約束は変わらないということであります。神の約束が時代と共に変わるのであれば、私たちの希望は不確かです。変わらないからこそ教会はどの時代にあっても希望なのです。こここそは変えてはならない教会の生命線なのです。

2015/09/06 ペテロの手紙第一3:15 「希望を伝えるために」

ペテロの手紙第一3:15 「希望を伝えるために」

 「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とは聖書の言葉ですが、本当に伝道のチャンスというのはいつやって来るかわかりません。10年来、何も応じてくれなかった旦那さんが、明日突然に、救いについて尋ねてくるかもしれません。軽い気持ちで話しかけた友人が、殊の外、興味を持って尋ね返して来るかもしれません。その時、私たちは、まだ準備が整っていませんから、よくわかりませんから、またの機会にお願いしますと言うのでしょうか?いつその時が来るかわからない。だから、いつ来ても良いように用意をしておかなければなりません。
 最も有名な日本人の一人にメジャーリーガーのイチロー選手がいます。イチローの業績は世界中の誰もが知るところですが、彼は何も生まれついての才能だけでここまで成功したわけではないでしょう。彼の素晴らしさは自己管理能力の高さだと言われています。試合が有る無しに関わらず、必ず球場に来て、いつもと同じ練習を淡々とこなす。ストレッチを欠かさず、十分に筋肉をケアする。イチローは私と同い年の41歳、メジャーリーグで最年長の野手となりましたが、驚くべきはこれまで故障者リストに上がったことはたったの一度だけ、それも胃潰瘍によってだと言うことです。彼はいつも試合に備え、最高のパフォーマンスを発揮できるように、自らの体を整えているのです。
 咄嗟の時、神が用いられる時、それに応えられる人とはどのような人でしょうか。前回、それはあらゆる現状の中で恵みを数えることの出来る人、神の臨在に目を留めることが出来る人だと言いました。もう一つそこに加えるとしたら、その恵みを相手に伝わる適切な言葉にして整えている人と言えるでしょう。
 経験したこと、学んだこと、実感したことを、的確に相手に伝えるというのはある種の訓練が必要です。例えば日記を書く人は、日記を書くこと自体が目的となることがあるかと思います。書くことが楽しい。それはとても大切で意味あることなんですけれども、本当にそれが意味を持つのは、そこに留められた経験が次に活かされる時ではないでしょうか。過去の出来事から学んで、その経験が将来に活きた時ではないでしょうか。ですから、積まれていった日記は、実は定期的に見返すという行為が大事です。学校の授業ノートも同じですね。黒板の文字を精一杯にノートに書き写しますが、大事なのは、それを見返すことです。ノートは見返すためにこそ書くのです。そもそも見返さないならノートをとる意味がありません。そして神の恵みも同じです。恵みを蓄えることは大事ですが、蓄えるだけではいけません。それを伝える言葉として整えなければなりません。
 そのために、どうすればいいでしょう。それは、常日頃から恵みを分かち合う。言語化して相手に伝えるということを繰り返すことです。自分の胸の内に蓄えるだけでなく、誰かに伝えるという行為を繰り返しておくのです。祈祷会では毎週、互いの近況を話し合います。この近況を話すということが、私たちの恵みを将来に整えてくれるのです。そして、同時に誰かの証しを近況を聞くということも、私たちの備えとなります。兄弟姉妹の信仰の姿を通して、自分自身がこの日常の中でどのように神の恵みを整えていくべきかを知るのです。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」
Ⅰペテロ3:15

2015/08/23 ペテロの手紙第一3:9 「悪をもって悪に報いず」

ペテロの手紙第一3:9 「悪をもって悪に報いず」

 この箇所の背景には、人はそもそも悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報いる性質があるということです。誰かから悪意を向けられます。すると、そこには負の感情が生まれます。悔しい。悲しい。腹立たしい。そういった思いが心に蓄積されていきます。イライラします。不安になります。すっきりするためには心の中のそういった思いを吐き出す必要があります。そこで、相手に同じように仕返すわけです。
 けれど、時にはそれが出来ない場合があります。相手が自分よりも明らかに力がある場合、私たちは直接相手にし返すことが出来ません。するとどうでしょう。私たちは今度は自分よりも弱い存在を捜して、そこにこの負の感情をぶつけるのです。そうしないではいられない。なぜなら、どこかで吐き出さないと、自分自身がその感情に押しつぶされてしまうからです。
 しかしです。悪をもって悪に報いることには、終わりがありません。誰もが悪に悪で報います。やられたらやりかえす。もしくは別の者をはけ口とする。そんなことはないと言われるでしょうか。でも、例えばです。自分に向けられた悪意は我慢出来たとしても、自分の大切な人に悪意が向けられた場合、私たちはそれを我慢できるでしょうか。自分の息子や娘が、親が、誰かの腹いせに傷つけられたとしたら、どうでしょう。やっぱり、相手に対して同じ目に合わせてやりたいと思うのではないでしょうか。それはある意味当たり前の感情です。しかし、そういう当たり前の感情の積み重ねが、現代の終わらない争いの原因となっているのではないでしょうか。
 誰かがこの負の連鎖を止める必要があります。そして聖書は、あなたがたがそれをしなさい。と言うのです。クリスチャンがそうしなさいと。クリスチャンっていうのは、神様からとんでもない期待をされているんですね。しかしです。それは何と不可能なことではないでしょうか。クリスチャンとなれば、他人の悪意を受け止めることができるのでしょうか。誰かを恨まずに生きられるのでしょうか。いやいや、私たちは、イエス様を信じて、イエス様の救いをいただいて、しかし尚、自らの弱さに嘆き、同じ罪を繰り返す者に過ぎないのではないでしょうか。ですから、クリスチャンが何か特別の存在だから、人々の悪意を引き受けるようにと言われているのではありません。そうではない。私たちが悪意ではなくて、祝福の連鎖の中に入れられたから、祝福を返しなさいと言われるのです。
 「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。受け継ぐためとは、私発信の祝福ではないということです。私たちはできませんが、ただ一人、悪意を引き受けられた方がおられました。イエス様です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:22-23)まさに、このお方こそ、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与え」られる方でした。イエス様はあの十字架上で、誰よりも大きな孤独と悲しみと痛みと経験されました。イエス様は父なる神にすら捨てられました。それでもイエス様は祈られます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」私たちは、この祝福を受け継いだのです。
 ですから私たちは、悪意や侮辱の中で、主イエスの痛みや悲しみに出会うのです。私たちに向けられた悪意、敵意、痛み、悲しみ、それら一つ一つをリアルに感じ取るほどに、私たちは私たちのために背負われたイエス様の痛み、悲しみを知るのです。人々の呪いの中で、私たちはイエス様の愛に触れていくのです。だからこそ、主は言われるのです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」