創世記41:46-57 「一繋ぎの歴史」
ファラオの夢を解き明かしたヨセフ。その夢はこれからエジプトにやって来る7年間の大豊作と、さらに7年間の大飢饉を意味しておりました。ヨセフは豊作の7年の間に飢饉に備えるようにと進言いたします。するとファラオはその場でヨセフを宰相へと取り立てまして、エジプト国内を取り仕切るようにと命じるのです。
ヨセフの身に起きた出来事が如何に驚くべきかがお分かりでしょうか。ヨセフは囚人だったのです。囚人がファラオの前に出ることすらあり得ないのです。ましてやその者が国の要職として取り立てられるということなど前代未聞なのです。もしも、これがファラオ自らによる呼び立てでなければ・・・。また解き明かしの内容が一国を左右するほどの飢饉の知らせでなければ・・・。ヨセフの解き明かしに過去の実績がなければ・・・。あらゆることがこのタイミングでなければ絶対にありえないというタイミングで起こったのです。
ですから、たとえば監獄での2年間の我慢は彼にとって必要な2年間でした。もしも、さっさと監獄から出ていれば、今頃ヨセフはどこで何をしていたのかわかりません。監獄の中というのは言わば、安全に居所が確保されるという利点があったわけです。だから結果として、彼はファラオの招集に即座に応えることができたのです。また、ファラオの召集のカギとなった献酌官と出会うためには、彼よりも先に監獄にいる必要がありましたし、その時に囚人の世話役として選ばれるように監獄長の信頼を得ている必要がありました。監獄もどこの監獄で良いというわけではありません。侍従長ポティファルが管理していた監獄でなければなりません。また、そもそも奴隷として売られるのも、他のどの国でもなくて、ナイルの恵み豊かなエジプトでなければなりませんでした。ヨセフのこれまでの人生を一言で言うなら、それは運の無い人。タイミングの悪い、不幸な人であります。しかし今というこの地点から遡って見て行きますと、その一つ一つ不運が実は無くてはならない、今に至るための大切な過程であったことを見るのです。
過去と現在は一繋ぎの歴史です。現在と未来もまたそうです。人生を切り分けて考えるのではなくて、すべては結びついていると考えるとき、そこに無駄なものは一つもありません。そして、このような理解に立って考えるとき、ヨセフという人の人生そのものの意味がまるっきり違ってきます。それは不運な人生ではなくて、確かで無駄の無い人生。全て神の最善を通らされてきた人生です。
苦しみと思えたことが意味あることとして光り輝くのです。もちろん困難は依然として困難であります。信仰を持ったから苦しみから解放されるというのは単なる願望です。しかし、一方で困難は無駄ではない。苦しみは無意味ではない。という発見は私たちを絶望の淵から立ち直らせるきっかけとなるのではないでしょうか。重要なのはなぜ無駄ではないのか、なぜ無意味ではないのかということです。それは神のご計画の中にある過程であるからです。神が立てておられるゴールがまだ先にあるからです。ですから、まだ私たちが人生を評価する時ではありません。まだ諦めるときではありません。むしろ神が私の人生を通してなさろうとすることに、尚も期待を寄せるべきではないでしょうか。
ヨセフにとってもここはまだ通過点。神様の導きの不思議は徐々に明らかになりつつも、未だその全容は見えません。宰相となったヨセフはファラオの期待に応え、見事、大量の穀物を町々に蓄えることに成功いたします。おかげでエジプトの国は7年にも及ぶ大飢饉を無事に乗り越えることができました。しかしそれは単にエジプトが飢饉を乗り越えるに留まりません。それは周辺国、同じ飢饉で苦しむあらゆる民をも救うことにもなりました。そしてそれはつまりヨセフの家族。神の民イスラエルを救うことにもなりました。この一族をして、人類の救い主の誕生が世に伝わることとなるわけですから、ヨセフの存在のなんと大きなことでしょうか。
私という人生の一繋ぎの歴史は、実は私だけに留まらず、脈絡と繋がる神のご計画の歴史でもあるのです。つくづく思います。私たちの人生は私たちの思い通りになるのではなく、私たちの思いを遥かに超えたものとされるのです。一人が欠けていれば今に繋がっていないのです。もちろん私たちが欠ければ後には繋がりません。何ができるか、と大層なことではなくて、私が信仰に留まっているということが主のご計画に用いられることなのです。

創世記30:1-24 「神にひれ伏すまで」
家系を何よりも重視する当時の社会にあって、不妊であるということがどれほどの重圧であったかは計り知れません。ラケルはどれほど不妊であることに苦しんだことでしょう。しかも彼女はヤコブの唯一人の妻ではありません。彼女の姉レアもまたヤコブの妻であり、そしてレアは沢山の子どもを授かったのです。隣の部屋から赤子の泣き声を聞くたびに、また幼い子ども達が夫に向かって「お父さん」と呼びかけるたびに、ラケルは言いようも無い屈辱や敗北感、そして胸を締め付けられるような悲しみを感じていたに違いありません。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」(30:1)これは何の誇張でもありません。これはラケルの心からの精一杯の叫びでした。
ラケルは自分の女奴隷によって子を産むようにヤコブに送り込みます。だからと言って、彼女の悲しみが晴れるとは思えません。けれども、少なくとも姉の子以外の子が生まれるなら、姉に対する嫉妬も少しは和らぐというものです。思惑通りラケルの女奴隷ビルハは彼女の願い通りダンとナフタリという二人の男の子を産みました。しかし喜びもつかの間。レアもまた自分の女奴隷ジルパをヤコブのもとに送り、ジルパはガドとアシェルという二人の子を産むのです。
自分の子は与えられなかったのです。ですから、せめてもの慰めとして、ビルハを送ったのです。その生まれた子を抱いて、ようやく姉のことは気にすまい。甥っ子たちも愛していこう。そう思った矢先なのです。なのにレアの女奴隷もまたヤコブの子を産むのです。レアは自分の子がいるのにも関わらずです。ラケルに焦燥感が漂います。ちょうどそんな時、彼女は姉の長男ルベンが恋なすびを手に入れたと聞くのです。
恋なすびは別名マンドレイクと呼ばれ、その根の形が二股になって、人間の下半身を想像させるところから、性欲増進、妊娠促進の薬効があると信じられておりました。実際には毒性が強く、幻覚や幻聴を伴う危険なもので、現代では薬用にされることもありません。けれど、そんな得体の知れないものにまで、すがりたいほど、ラケルには後がないのです。「あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人にあなたと一緒に寝てもらいます。」もう手段は選びません。最大限の譲歩をして恋なすびを手に入れるのです。
しかし結果はどうだったでしょうか。そのような思いをしてまで手に入れた恋なすびは結局何の役にも立たず、その代わりとしてヤコブと一夜を共にしたレアは再び子を授かることとなりました。いったい彼女はこの少なくとも三年の年月をどのような思いで過ごしたのでしょうか。レアへの神の祝福を見ながら自分の無力さ、愚かさをしみじみと教えられたことでしょう。神ならぬものに頼ろうした自分を恥じたことでしょう。神がレアに比べて長い期間沈黙を守られたというのは、ラケルにそのような時間が必要だったということです。最初は絶望し、次に呪い、そして遂にはひれ伏して降参したのでありましょう。神の長い沈黙のゆえに、ラケルは神に願うものとされたのです。ヤコブより「胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」(30:2)と聞かされても、決して神に願うことをしなかったラケル。ヤコブに叫び、レアに叫び、けれど主には叫ぶことができなかったラケル。それが今、彼女は主に叫び、願うものとされたのです。彼女はここにいたり、初めての子を産みます。神の憐れみのゆえに産まれるのです。名前はヨセフ。その意味は「【主】が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」彼女は、主こそが命を加えられる方であることを知ったのです。神こそが叫び求める方であることを悟ったのでした。
私たちが本当の意味で神に降伏するために、神は沈黙を守られます。私たちに時を設けられるのです。そうまでしないと、神に願うことに疎い私たちだからです。私たちが手放すことができないからです。

創世記26:1-11 「歴史は繰り返す」
イサクの姿が詳細に描かれるのは、この26章のみ。イサクというとアブラハム、ヤコブ、ヨセフと比べても遜色のない重要な人物ですが、聖書にあるその記述は極めて限られております。それはイサクと言う人が自分のことをあまり語らない人だったということを意味します。しかし、それはイサクが単に無口だったということではありません。この時代、まだ聖書は口伝によって語り継がれている時代です。無口ならこれまでの歴史が残されているはずがありません。つまり彼は、自分のことはあまり語らない。それよりは、ことある事に、父アブラハムのこと、そして父アブラハムが大事にしてきた神様のことを語る。そういう人物であったということです。そんな彼が26章に記される2つのことは語り継いだ。それが彼がついた嘘の出来事と、井戸掘りの出来事でした。今回は、イサクのついた嘘を見ていきたいと思います。
アブラハムを葬ったイサクは、妻リベカを引き連れて、ベエル・ラハイ・ロイに暮らしておりました。しかし、この地は南の砂漠地帯でありまして、飢饉に見舞われるとひとたまりもありません。そこで、イサク達はこの地を離れる決心をします。神からエジプトに下るなとのお告げを受けて、彼はゲラルの地、ペリシテの王アビメレクの治める地へと向かうのです。
そこで今回の出来事が起こるのです。つまりイサクがこの地に入る時、妻リベカを妹と偽って皆に紹介したのです。もしリベカを「私の妻」と言えば、人々は美しい妻を横取りするために、自分を殺すかもしれません。けれど妹ということであれば、自分を殺すどころか、むしろ良くしてくれるかもしれない。我ながら賢い考えとイサクは思ったかもしれません。しかし、それは何もイサク独自の考えというわけでもありません。彼の父アブラハムも、旅の道中で度々行ったことでした。いえ、当時の物騒な情勢を考えると、これは一般的なことであったと言えます。旅人としての知恵。知らない土地に入る時はそれくらい用心した方がいい。ですから、このようなことで罪意識を感じることは恐らくなかったことでしょう。しかしです。だからと言ってイサクの嘘は仕方ない嘘かと言いますと、やはりそうは言い難いのです。彼の嘘は、妻を危険な目に晒し、人々に誘惑の種を撒き散らしたのです。
このような嘘が、どのような結果を招くのか、彼は父アブラハムから聞かされていたはずでした。今回はアビメレクの寛大な処置によって事なきを得るのですが、実際は妹と呼んだ妻が、他の者に召し入れられるということが十分あったのです。もしもそのようなことがあったとしても、それはもう引き止める手立てはなかったでしょう。彼はそのことをアブラハムから聞かされておりました。なぜなら、これはアブラハム自身の後悔でもあり、反省でもあったからです。聖書にそれらの出来事が残されているのがその証拠です。イサクには同じ間違いを犯して欲しくない。だから苦い経験をアブラハムは正直に息子に語るのです。にも関わらず、彼は父と同じ過ちを繰り返してしまったのでした。
彼はアビメレクの指摘を受けて、自分が如何に愚かであったかを悟るのです。これまでは、父アブラハムの体験談を聞いても、他人ごとのようにしか聞けず、自分はそんなことをしないと高をくくっておりました。妹とごまかすことが、妻をどれだけ危険に晒し、そして周囲の人々に罪の誘惑を与えるか全く想像出来ませんでした。けれどそれら一切の愚かさを、彼はアビメレクの指摘によって、一瞬の内に知らされるのです。今すぐにでも消えてなくなりたいイサクではなかったでしょうか。
しかしです。同時に、この経験がイサクには必要だったとも言えるでしょう。いえ、イサクだけではなくて、それは全てのキリスト者に必要なことです。つまり、私たちは、己の愚かさを身に沁みて悟る経験が必要なのです。私たちは、たとえ口酸っぱく教えられてきたことも、自ら進んで行なってしまうような愚かな者なのです。他の者がどれだけ倒れても、自分だけは倒れないと高をくくってしまうような者です。どれだけ神様と賛美しつつも、心の王座だけは決して譲ることのない私たちなのです。ですから、私たちの信仰生活は、むしろ、そのような自らの愚かさに気付いた時に始まるのです。
父アブラハムと同様に、イサクもまた、己の惨めさを、消してしまいたい失敗を、後世に伝えます。ここが彼の信仰のスタートだったからです。親の言うままの信仰ではない、彼が個人として主と出会い、主にひれ伏したのが、この時でした。私たちにもそのような時が用意されています。

創世記23 「天の故郷に憧れる者」
アブラハムはサラの葬りの準備をいたします。すなわち、葬りの場所を手に入れるために、先住民であるヒッタイト人に墓地を譲ってもらえるようにと交渉するのです。彼らの返事はとても好意的でした。「私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。」しかし、アブラハムとしては彼らの墓地を間借りするつもりはありません。あくまでも自身の土地を所有し、そしてそこにサラを葬りたいのです。彼はエフロンに具体的な畑地と洞穴を指定して、それを所有の墓地として買い取らせてもらえるように交渉いたします。しかしエフロンは畑地も洞穴も差し上げますと言うのです。何とも気前の良い話です。アブラハムの日頃の行いの賜物でありましょうか。けれどです。アブラハムは、その提案を断って、あくまでもその土地を買い取りたいと申し出るのです。なぜアブラハムはこれほどまでに土地を買い取ることに拘るのでしょうか。せっかくの申し出に、ここまで頑なになるのは、少しばかり相手に失礼ではないでしょうか。つまりそれは、後の憂いを断つためだったのです。
タダほど高いものはないと言いますが、もしここでアブラハムがエフロンの申し出を受け入れていたらどうだったでしょう。果たして、後々の火種にはならなかったでしょうか。エフロンは大丈夫でも、代が変わればどうでしょう。アブラハムとエフロンのやり取りを直接知らない代になれば、ただで譲った土地なんだから、改めて地代を払えとか、土地を返してくれとか、色々に難癖をつけられるかもしれません。そうでなくても、異教の祭りや風習の影響を受けかねない墓の問題です。この土地に葬るなら、この土地のやり方に従えと迫られるかもしれません。アブラハムは、そうはしたくないのです。後の者たちに憂いを残したくない。この土地を借りるのでも、譲られるのでもなく、買取ることにこだわったのにはそういう理由があったのです。
逆に言いますと、ヒッタイト人たちにはアブラハムに土地を売りたくない思いがあったわけです。売るくらいなら恩を売りたい。しかし、どうしてもと一歩も引かないアブラハムに、エフロンは法外な値段を吹っかけます。銀400シェケル。400シェケルというと、およそ4.5キログラムにもなります。1シェケルが4デナリ。1デナリは当時の労働者の1日分の賃金と言いますから、400シェケルは1600日分の賃金。ほら穴と畑の値段としてはあまりに高すぎます。やはりエフロンには、まともに土地を譲ろうという気持ちは無かったのです。
ところが、アブラハムはその値段をそのまま飲みます。わざわざ他の者のいる前で交渉したのは、エフロンがこの話を引っ込めなくするためです。エフロンとしては、値引き交渉なんぞしようものなら断ってしまえ。そんな思いだったでしょうか。けれどアブラハムはエフロンの言い値を支払って、この土地を買い取るのです。
墓だったらどこでも良い。どんな墓でも良いということではありません。この土地は単なるサラの墓ではありません。もっと大きな意味があります。それはこの土地が、約束の地カナンでの一族の初めての土地となるのです。やがてはこの墓に彼も、イサクも、その子孫たちも葬られていきます。いわば、この墓は彼の決意。もはやカルデヤの故郷に帰ることはしない。私たちは神の約束を信じて、この地に留まり、葬られていく。そういう覚悟の表明なのです。
アブラハムという人は神様から相続の地を約束され、このカナンにて民族が空の星のようになると約束されていたわけですが、実は驚くべきことに、ここに至るまで、その約束の地の一辺たりと所有してはいませんでした。そこには彼の信仰がありました。つまり、地上の生活は彼にとっては仮のものであり、彼は寄留者だということです。
彼はこのわずかな土地に、雄大な神の約束を見ました。これが大事です。私たちは地上の生活をしながら、天の故郷に憧れる者です。信仰を持たぬ人は目に見えるものが全てです。年老いて、それまでの生活を全て捨ててまで旅に出て、挙句手に入れたのがほんの僅かなほら穴と畑と言うならば、人々はアブラハムの人生の何と空しいことかと思うかもしれません。しかし、彼は僅かではあっても、神の御名を誰はばかること無く称えることの出来るこの土地に天の御国を見たことでした。そして、やがては自分もそこに葬られることを夢見て、感謝の内に妻を葬ったことでした。
私たちの地上での歩みもまた、寄留者のようであることを覚えておきたいと思います。信仰に入れられたその時から、私たちの故郷はもはや地上にはありません。天にあります。それはどのような時にも、天の祝福の確かさの中に生かされる者となるということです。

創世記18:16-33「その10人のため」
この箇所はよく「アブラハムと主との交渉」とか「かけひき」と言われるところです。しかし考えてみますと、このアブラハムの提案は、駆け引きや交渉術としては稚拙ではないでしょうか。
小出しに提案するというやり方は、交渉においては賢いやり方ではありません。最初は思い切り行くのです。そこから互いに譲歩していって、落とし所を決める。最初から頃合いと思われる値を想定して、その値に双方が納得がいくような形で近付けられるようにするのです。こういうのは弁護士などがよく使う交渉術です。ところがアブラハムの交渉はと言いますと、最初から小出しに提案するわけです。最初は50人。そこから45人、40人と行きまして、30、20、10人と提案していきます。普通はこのような提案の仕方をしますと、最初の時点で、相手は譲歩するわけですから、もうそれ以上の譲歩は望めなくなってしまいます。上手くない提案の仕方です。
つまり彼はここで、交渉しようとか、なんとか譲歩を引き出そうとか、そういった駆け引きは全く考えていません。とにかくロトたちを救いたい一心で、目の前の主にすがりついた。50人いたらどうです。と聞いて、50人なら大丈夫と約束を頂いた。でももし50人に5人足りなかったら・・と、すぐに不安が頭を過ぎります。神様、じゃあもし45人だったらどうでしょう。40人だったら。30人だったら。交渉と言うよりも、彼を聞かざるを得なかった。聞かずして、不安が取り去られることがなかった、というのが事の真相ではなかったか。その結果がこの何度も繰り返される執拗な嘆願だったのではないかと思うわけです。そして驚くべきは、神様はこのアブラハムの提案を全てまるごと受け入れられるということです。
被造物である人の身が神様のなさることに対して、提案をする。訴える。本来はこれ自体、だいそれたことと言いますか、罪深いことだと思います。しかし、神様のアブラハムへの返答を見ておりますと、何のお咎めもない。それどころか、そのまま全て、即答で「滅ぼすまい」と答えられています。まるで、最初から答えを決めておられるかのようです。この所から、私は思うんですが、主はアブラハムのこの嘆願自体を、最初から期待しておられたのではないかということです。つまり、アブラハムの救霊への情熱。それはむしろ主ご自身の救霊の思いであったのではないか。義なる神は悪を見逃されることはなされません。しかし、同時に愛である神は、人々を滅ぼしたくはない。そのような中で、主はアブラハムの執り成しを期待したのではないでしょうか。
そもそも、主は全知全能であり、ソドムとゴモラの罪を確認に行くということ自体、必要のないことです。主は全てご存知なのです。ですから、むしろ主はアブラハムに知らせようとしたのではなかったか。アブラハムと、このやりとりをするためにこそ、来られたのではないでしょうか。
Ⅱペテロ3:9には次のようにあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神様は何も告げず、ソドムとゴモラを滅ぼすことも出来ました。しかし、神様は敢えて告げられます。同じように、神様は終わりの時を今、この瞬間に来させることもできます。しかし、神様は敢えてそれを遅らせておられます。罪を滅ぼす義なるお方は、しかし、その滅ぼすことを望まれないお方でもあってくださるのです。
ソドムとゴモラの全住民に対して10人の正しさが問われました。逆に言うと、義しい10人の存在がどれほどに貴いかということです。影響力を持っているかです。それは異教社会に置かれるキリスト者の与えられた価値です。私たちが染まらずにそこにいること、執り成しを祈ることが求められているのです。
