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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200212 創世記19:23-29 「後ろのものを振り返らず」

創世記19:23-29 「後ろのものを振り返らず」

 ルカ17:32-33 「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」これはイエス様の言葉です。ソドムとゴモラは神の裁きの型となり語り継がれていきますが、ロトの妻もまた滅びる者の型となりました。ロトの妻を思い出しなさい。彼女のようであってはいけない。彼女を反面教師としなさい。と、語っているわけです。では、ロトの妻とはどのような者だったのでしょうか。
 ソドムとゴモラへの神の裁きは、徹底的に行われました。低地全体が水面下となり、後に湖になるほどに、大きな裁きがこの地域一帯で起こったのです。緑豊かなカナンの低地は、一面焼け野原、あらゆる生命が滅ぼされたのです。ただロトの家族だけはこの裁きを免れました。神がロトの家族が逃げるのを待っていてくださったからです。彼らがツォアルの町まで逃げ延びたのを見届けて、神は裁きの火を降らせました。ですから、今日の場面は、神の裁きを免れ、救われた生命への感謝で終わるはずの場面でありました。
 ところが、そうはなりませんでした。あろうことか、ロトの妻は、この逃走劇の最中に塩の柱となってしまったのです。ロトの妻はツォアルまで辿り着けませんでした。それは彼女が「振り返った」からです。ロトの背中を追いかける妻は、最後の最後、ロトがツォアルに入りまして、もうすぐ自分も町に入る。そのまさに後一歩というところで振り返ってしまった。そのために、彼女は塩の柱となってしまったのです。そもそもこの逃走劇には、主からの忠告がありました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」主は事前にロトたちに語っておりました。にもかかわらず、彼女は振り返ってしまった。主との約束を反故にしたのです。そのために、哀れ彼女は塩の柱となってしまいました。
 何が彼女を振り返らせたのでしょう。好奇心でしょうか。それとも、恐怖心でしょうか。夫ロトが町に入るやいなや、背後で爆発音と熱風と立ち込める硫黄の匂いが襲ってきたのです。見てはいけないと言われれば見たくなるのが私たちですし、背後で起きる只ならぬ様子に、主の裁きが自分を飲み込みはしないかと不安になるのが当たり前の場面です。そういう思いもあったかと思います。しかし、彼女をふり返らせたのは、また別の思い、それは物を惜しむ思いからでした。
 実はイエス様が「ロトの妻のことを思い出しなさい。」と言われるのは、再臨の時の備えをするようにとの文脈の中で語っているわけですが、その直前には「その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。」と言っています。ロトの妻は、ソドムの生活を思い出しながら、何を手にしたいと思ったことでしょう。財産があったのでしょうか。上等な着物を取りに帰りたかったのでしょうか。もしかすると物ではなくて、生活自体を懐かしんだのかもしれませんね。欲しい物は何でも手に入る便利な生活。罪深いとは言われるけれど、刺激的で、退屈しない、自由な生活。気の合う仲間もいたことでしょうか。それに比べてこれから向かうツォアルの町の何と心もとないことか。豊かなヨルダンの低地帯は滅ぼされ、残された地での生活は困難を極めましょう。それもこれも、生命救われたがゆえの恵みでありますが、彼女にとってそれはむしろ罰のように感じられたのです。
 終末の世を生きる私たちは、同じように、逃げよと言われています。罪から逃げ、欲から離れ、主のもとに向かって逃げよと言われます。その時に大事なのはふり返らないことです。立ち止まらないことです。そして目標を目指して走り続けることであります。あの時は良かったのにと言いたくはありません。あの時が今日に導いてくれたと言いたいのです。そして、今日が明日へと導いてくれると言いたいです。今のときは、過去からの連続であり、そして未来に繋がる今であります。主が導いてくださった、欠かすことの出来ない今日なのです。

171008 創世記3:8-9 「あなたはどこにいるのか」 朝霞聖書教会 田村将師

創世記3:8-9 「あなたは、どこにいるのか」

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」

 「あなたは、どこにいるのか。」これは、神である主の、人に対する切実なる呼びかけです。この時、最初の人アダムとその妻は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠していました。なぜ、彼らは主の御顔を避けて隠れなければならなかったのでしょうか。その理由は、3章1節から7節までを見ると分かります。人は、神のことばに背いて、食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木から取って食べてしまったのです。その結果どうなってしまったのかが、8節に描かれているのです。
 人は神の前に出ることができなくなりました。それまでの信頼に満ちた神との親しい関係はもはや失われてしまいました。人にとって喜びであり楽しみであった神との関係は、恐怖とおののきに変わりました。面と向かって神の御顔を拝することができなくなったのです。自ら神に背く行動を取ったために、神の前に出ることができません。人は罪責感と、恐れにかられるようになりました。
そのような人に対して神である主が語りかけられたのが、冒頭のことばです。「あなたは、どこにいるのか。」このことばは、神が本当に人間の居場所が分からないために口にされたものではありません。神は全知全能のお方ですから、人がどこに隠れているのか、もちろんご存知であったはずです。神が問われているのは、人の物理的な所在ではなく、人の霊的な所在です。つまり、神との関係において、「あなたは、どこにいるのか」と尋ねられているのです。
 神である主は、このように人の霊的な状態を危惧しておられるお方です。人が、ご自身との関係においてどのような状況にあるのかを案じておられるのです。そして、自ら人に歩み寄り、ご自分に背いて離れて行ってしまった者を探し出そうとされるのです。神である主のこの姿勢は今日も変わりません。主は、私たち一人一人を探し求めておられるのです。このお方に、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

2015/04/19 創世記50:15-26 「赦しの再確認」

創世記50:15-26「赦しの再確認」

 父ヤコブを葬って、悲しみに浸る兄弟たち。その悲しみが一段落付きますと、次に彼らの心を捕らえたのは、弟ヨセフに対する恐れでした。「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」彼らはヨセフに対していつも後ろめたさを感じていました。ヨセフを前にするといつも過去の過ちが疼きました。なぜなら彼らは過去の過ちがきちんと精算されていないことを知っていたからです。
 双方の関係はヨセフからの一方的な赦しでした。ヨセフは兄たちの変化を十分に見定めて彼らを赦そうと決めました。ヨセフはこれまでの20年にしっかりと意味を見出しました。しかし、兄たちは違います。彼らはなぜ赦されているのかということがわからないままにいるのです。久しぶりに会ったヨセフは、過去の過ちに触れることをいたしません。手放しに自分たちを受け入れてくれます。しかし、それが逆に彼らの不安を掻き立てるのです。罪を糾弾されたほうがまだ安心するというものです。それだけのことをしたのです。なのに放置されている。彼らにしてみれば、ヨセフがいつそのことを言い出すかとヒヤヒヤだったのです。けれど、彼らから言い出すことはできません。ヨセフが忘れている可能性もあります。そうすれば藪蛇です。ですから、ヨセフの好意に甘えながらズルズルとここまで来てしまったのです。けれど父が死に、いよいよ彼らの不安はピークを迎えます。もはや、うやむやのままではいられません。彼らは自らの過ちに決着を付けなければならないのです。
 実はこれは、より本質的な、神との関係における罪についても同じです。罪というのは、決して曖昧には出来ない問題なのです。何となくごまかして生きるということはできません。それはその人の人生を重苦しい、後悔の人生へと変えてしまうからです。よく、神さまは全知全能なお方だから、何も言わなくてもわかってるでしょ。と言われる方がいます。心で悔いているのだから、それでいいじゃないかとです。しかし、それはどこかで曖昧さを残してはいないでしょうか。公にするということは不退転の決意を持つということです。それができないということは、どこかに、そこまでの変化を望んでいない自分がいるということです。ところが、それでは罪の問題は解決しないのです。確かに罪の赦しは宣言されました。しかし罪の責めから完全に解放されるのは、その罪が完全に明るみに出た時なのです。罪は闇の中で育まれます。罪の告白とは、さらけ出すということです。罪深い己の身を証としていくとき、初めて罪の責めから解放されることができるのです。
 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
 神の前に罪を告白をするということは、先程も言いましたように、不退転の決意を持つことです。それはどのように罰せられてもおかしくない。この身の処遇を神に委ねるということです。けれど、この告白にはすでに神の赦しが備えられているのです。ですから、これは罪の告白、悔い改めでありながら、赦しの確認でもあるのです。

2015/03/29 創世記50:1-14 「荘厳な葬儀」

創世記50:1-14 「荘厳な葬儀」

 ヤコブの死に際しパロの指示でエジプト全土が70日間喪に服しました。喪が明けると、ヨセフはパロに葬儀のための暇を願い出ます。パロはこれを許可し、それだけでなく、彼の家臣や長老たち、また戦車と騎兵といった一団をもヨセフに付き添わせます。それはカナンの地でエジプトの国葬級の葬儀を行うためです。喪に服すのも、国外での国葬も、どちらも異例とも思える丁重な扱いです。つまり、パロにとってヨセフはそれほど特別な存在であったということです。
 ヤコブの葬儀はヨルダン川の向こうゴレン・ハアタデという地で、パロの意を汲んでエジプト式で大々的に行われました。エジプト国内ならいざ知らず、外国の地で、わざわざ軍隊が出向いて行って国葬級の葬儀を行う。その光景は人々によほど奇異として映ったでありましょう。カナン人はこれを見て「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と驚きました。葬儀は7日間にも及び、それは非常に荘厳な、立派な哀悼の式でありました。
 しかし、ヨセフの旅はここで終わりません。彼らはヘブロンに移り、そこで先祖代々の墓にヤコブの亡骸を葬ります。葬儀とは比べものにならない家族だけの質素な儀式。しかし、これこそが生前のヤコブの拘りであり、ヨセフたちの旅の目的でありました。ヤコブが先祖代々の墓に拘ったのは、エジプトという異教社会の中で葬られるのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神に相応しく葬られるため。神の用意する天国の希望を最期まで持ち続けたためでありました。そして、ヨセフたちはその父の拘りを見届けるために来たのです。
 私たちはこの2つの式の様子を見ながら、葬儀とは葬りとは一体何なのかと考えさせられるのです。葬儀はいったい何のために行うのでしょう。葬りとは。それはやはり愛する人との別れに際し、残された者たちが慰めを得るために行うものではないでしょうか。愛する人を失う悲しみは、そう簡単には消えることはありません。けれど、そのような悲しみの中にも慰めを得ることはできます。それは、亡くなったその人の見ていた希望を共に見ることを通してです。マクペラの洞窟は、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そしてレアが葬られている所です。真の神への信仰を否が応でも意識させる場所です。彼らはここで、父ヤコブが希望を持って神のもとに旅立ったことを確信します。そしてそれこそが彼らの慰めとなったのです。ですから、私たちは葬儀でありながら神を褒め称える。これこそがキリスト教の葬儀なのです。

2015/03/22 創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

 ヤコブの臨終間際の場面です。12人の息子に囲まれて、息を引き取る間際、ヤコブは彼ら一人一人に最期の言葉をかけていきます。
 しかし、その内容を見てみますと、素晴らしい恵みの約束から、呪いと呼べるような酷な内容まで様々です。これを聖書は「おのおのにふさわしい祝福」と呼んでいるわけです。ヤコブは主からの幻によって「終わりの日に(つまり後の日、主にカナン定住時代に)起こること」についてを語るわけですが、たとえ厳しい呪いのような言葉であっても、やはりそれは相続すべき祝福なのだと言うのです。なぜなら、それは決して不当な扱いではなくて、その子たちのこれまでの生き方にふさわしい「行いの結ぶ実」であるからです。
 そうではないでしょうか。ルベンから祝福が取り去られるのは自業自得です。レビやシメオンが兄弟たちの間で散らされるのは当然の報いです。一方ヨセフやユダが多くの祝福に与るのはそれに相応しい活躍があったからです。エレミヤ17:10には「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」とあります。ローマ2:6にも「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」とあります。生き方に応じた報いを受ける。実はこれは聖書が語るところの真理なのです。
 そうでなければ、私たちの生き方は今だけを見る生き方となるでしょう。自分の欲望のままに、自分の感情のおもむくまままに。先のことを考えなくても良いのですから、私たちは今の損得だけを考えて振る舞うことになるでしょう。しかし私たちの生き方にはそれに応じた報いがある。ですから、私たちは自らの生き方に襟を正すことができるのです。
 私たちにとって、行ないに従って報いがある。これは、私たちの信仰生活の支えであり土台です。しかし一方で、それは私たちの不安でもあるのです。なぜなら私たちが自らの行ないを省みるとき、私たちは決して神に誇れる者ではないからです。神は私の一切をご存知です。この神の前に後ろめたさも感じずにいられる人がどれだけいるでしょうか。しかし神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」(詩篇103:10)のです。ですから救いの問題と、行いに対する報いの問題を一緒する必要はありません。私たちの救いは、キリストの義のゆえに与えられた恵みにほかならないからです。