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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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171210 マタイ1:23「インマヌエル・神が共におられる」

マタイ1:23「インマヌエル・神が共におられる」

  「インマヌエル=神が共におられる。」何気ないことのようですけれども、これは普通では考えられない驚くべきことです。と言いますのも、神とは本来、私たちと共におられるようなお方ではないからです。神は私たちとは比べようのない次元のお方です。神はこの世界の創造主であり、この世界はこのお方のゆえに存在しています。この方が「光よあれ」と言えば光が生まれ、「大空よあれ」と言えば大空ができる。そして、そこに住む全ての命はこの方によって誕生したのです。神は全能にして、全ての者の造り主であって、私たちはその被造物に過ぎません。私たちは神なしには存在しませんが、神は私たちに何ら依存するお方ではなく、たとえ私たちがいなくとも、存在し続けるお方です。また、命を与えられた神は、命を取り去ることも御心のままです。創造主と被造物は決して対等ではありません。たとえば陶器師が、自分が作った陶器を気に入らなかったとしたら、他の人が何を言ったとしても、壊してまた作り直すことができます。作者が作品を自由に取り扱うのは、これは当然の権利です。神は被造物に対して絶対の権利と力を持っておられるのです。
 昔、人は天にも届く大きな塔を建設しました。彼らは天にも届く塔を作って、自分たちを誇ろうとした。神なしにも、これだけのものを作り上げることができる。と自分たちの技術を誇ろうとしていた。これが完成すれば自分たちは神に並ぶ者になれると思った。それゆえ、この思い上がった人間を懲らしめるために、神は塔を砕いたのでした。人が神と対等であろうとするとき、神はこれを打ち砕かれます。それは創造主である神の権利と言いましょうか、この方は被造物である私たちをご自身の自由に取り扱うことのできる方なのです。神と私たちは決して対等な存在ではありません。ですから神と人は、本来、共にいることなどあり得ない関係なのです。
 しかし、そのあり得ないことが起こった。これこそがクリスマス。イエス・キリストの誕生でありました。ピリピ2:6-11。天と地と全ての者の命をお創りになったお方、全知全能であり、永遠であるお方が、人間と同じようになられた。それはつまり、限りある存在となられたということ。死を迎える存在となられたということです。いったいなぜそんなことがあり得るのか。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 つまりそこには地にあるすべてのものが、本来の目的、神を礼拝することができなくなっている現実がある。そして、その結果、滅びに至るしかない現実がある。そして、それを捨てて置けない神の情熱がある。ということです。神にとって、ひとり子イエスと釣り合うような存在は、この世には一人もおりません。この世界すらも、言葉なるイエスによって造られたにすぎません。にも関わらず、父なる神はひとり子を世に送ります。それほどまでに神は私たちの滅びを捨て置けなかったのです。捨て置くくらいなら、ご自身が背負おうとされた。神は壊されても文句の言えない陶器に過ぎない私たちを惜しんでくださったのです。
 クリスマスは、このインマヌエルなる主の訪れであります。私たちはこのイエス様の訪れのゆえに、今、神を知り、神と共にある者とされたのです。私たちの内には何ら神に認められるものはありませんでしたけれども、神はイエス様のゆえに、私たちをご自身に連なる者、共なる者としてくださった。上からの一方的な恵みが与えられたのです。

160904 マタイ28:18-20 「行って、あらゆる国の人々を弟子とする」

マタイ28:18-20 「行って、あらゆる国の人々を弟子とする」

 マタイ28章18-20節は、いわゆるイエス様の「大宣教命令」と言われる箇所です。この御言葉により、イエス様の弟子たちは全世界に出てゆきました。そして今に至るまで、キリスト者たちは世界に出てゆきます。この御言葉を通して、私達にとっての「国外宣教」とはどのようなものなのか、2つのポイントにしぼって考えてゆきます。それは、「出て行く」ことと「弟子を作る」ことです。
 国外宣教の第一のポイント。それは、「出て行く」ことです。「国の人々」という言葉、元々は「国」「人種」「人」を表す言葉です。よって神様は、私達一人一人に、すべての国に、すべての人種に、すべての人々に「出て行け」と言われます。でも私達は、すべての国、人種、人々の所に行くことはできません。だから、私達は分担して、すべての国に、すべての人種に、すべての人々に「出て行き」ます。神様は、私達一人一人に、出て行くべき場所を示し備えておられます。
 国外宣教の第2のポイント。それでは、すべての国の人々の所へ行った後、私達は何をなしてゆくのか?それは、「イエス様の弟子を造る」、ということです。19節と20節前半に4つの弟子たちが行なうべき行動が書かれています。その4つとは「行くこと」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「教えること」です。その文の作りから、弟子たちがなすべきことはまず「行くこと」、そして人々を「弟子とすること」が判ります。そして、「弟子とすること」とは具体的に「バプテスマを授けること」と「教えること」ということです。宣教は「バプテスマを授ける」つまり「伝道」だけでも成長しないし、「教会教育」だけでも成長しません。この2つが上手くかみ合うことにより神の宣教は成長してゆきます。私達はこれからも、「伝道」そして「教育」を国外宣教の基として進めなければなりません。
 この世界には、またまだ、イエス様を知らない人々が沢山います。彼らは、真の救い、真の平和を知りません。それらの人々に、この教会は何をすることができるのか?それは、祈ること、そして、宣教師を押し出すことです。ただの人間にすぎない宣教師を教会は押し出し、祈り、支えてください。国外宣教には、皆様の祈り、支えが何よりも必要です。
 神様は、まだ見ぬ世界の人々をも愛し、救おうとしておられます。私たち、これからも国外宣教のために祈り、宣教師を送り支えてゆく。そのようないのちの樹教会でありましょう。

160228 マタイ8:23-27 「ひとりぼっちでいいですか?」 野寺恵美師(赤羽聖書教会牧師)

マタイ8:23-27 「ひとりぼっちでいいですか?」 野寺恵美師

 ガリラヤ湖を渡って向こう岸に行こうとしていたイエスと弟子たちは途中で大暴風に遭います。大暴風の中で弟子たちは死にもの狂いで舟を守ろうと襲って来る恐怖と戦いながらあらゆる手を尽くしたことでしょう。でもその中でイエスは眠っていました。自分たちの力の限りを尽くしての努力もむなしく、舟に水がいっぱいになってまさに沈むしかなくなった時、弟子たちはイエスのもとに助けを求めてやって来ました(25)。ところが助けを求める弟子たちをイエスは叱りつけたのです。なぜでしょうか。
 この船旅の先導者、責任者はイエスです(23)。そのイエスが何の心配もなく眠っているのですから舟は沈まなかったはずです。たとえ舟が沈んで死ぬとしても主が共にいて下さいます。しかもイエスに従った結果としての死なのです。ですが、すぐそばにおられるイエスを忘れて目の前のできごとに目を奪われ恐怖に包まれた弟子たちをイエスは「信仰の薄い者たち」と叱ったのです。
 この嵐を起こされたのは主なる神 (25)です(詩篇107:23~30)。イエスが見ていたのはさかまく波でもうなり声を上げて吹きまくる風でもなく、それらを造り治め動かしている神でした。だから外の状況がどんなに荒れ狂っていてもイエスの心の内は大凪のようでした。一方神を見ることができなかった弟子たちの心の中は外の大嵐同様に荒れ狂ってしまい「信仰の薄い者たちだ」と叱られたのです。
 イエスが先に乗られた舟に従って乗った弟子たち。私たちも主イエスに召され主の後に従う者としてイエスが先に乗られた舟に乗った者です。イエスが一緒に乗っておられることを忘れてはなりません。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」というイエスの約束どおり、イエスを信じる私たちはもうひとりぼっちではないのです。
 また私たちの乗った舟はすべてを造り支配しておられる神の御手の中にあります。嵐を起こすのも静めるのも「主」です。大暴風という激しい試みにあって弟子たちは自分たちの限界を知りますが、同時に神であるイエスの偉大な力を知ってますますイエスをあがめ畏れます。主は私たちを何の意味もなく試みに会わせることはなさいません。信仰の薄い私たちは試みの中でぼやきつぶやきながらようやく主を見上げるような弱い者です。でもそこで主はご自身のみわざを見せて下さいます。「なぜこわがっているのか。ここに私がいるではないか。この私について来なさい。」と声をかけて下さるのです。
 私たちは信仰の薄い者なのです。でもイエスはそんな私たちにあきれて見捨てるような方ではありません。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者だ」と叱り飛ばしては弱い私たちの目を覚まさせ主へと目を向けさせて下さるのです。主のことばにこそ私たちの目を覚まさせる力があります。主の励まし、導き、叱責、すべてが書かれてある聖書に目を開き、耳を傾けましょう。
 詩篇107:30には「そして主は彼らをその望む港に導かれた」とあります。弟子たちもこのあとイエスと共に向こう岸に着いて更に大きな働きを繰り広げます。私たちも既にこぎ出されているこの船旅を「主を見失わないように」と祈り、絶えず主の声であるみことばに耳を傾けながら、父なる神そして主なるイエスの導きに従って、まさに大船に乗った気持ちで進み続けていきましょう。

2015/06/21 マタイ11:28-30 「応援する力」 父母の日礼拝

マタイ11:28-30 「応援する力」

 先日たまたま見ていたバラエティ番組で、「子が自分に似ていると思う」父親は将来子どもに恨まれる恐れがあると言っていました。そのような父親は自分と子どもを重ねあわせ、過度の期待をしてしまうからだそうです。「自分の子はこんなもんじゃないはず。」「俺の子ならこうあって然るべき。」・・・真偽の程はわかりませんが、過度の期待が子どもの反発を生むということは確かに言えることだなぁと思います。一方で子どもの親に対する反発もまた同じではないでしょうか。「それは親としてどうなの?」と、理想の親像と比べてあまりにもかけ離れている親の実情に幻滅して反発するのです。どちらも子ならこうあって当然。親ならこうであるべき。という過度の期待が、相手を追い詰め反発を招く結果になっているわけです。
 では親子関係は期待をしないのが良いのでしょうか。確かに、放任。無関心。勝手にすればという態度でいれば、相手に対する過度の期待も無くなるというものです。些細な事に目くじらを立てることも無くなるでしょう。しかし、どうでしょう。それはもはや親子と言えるのでしょうか。期待するということは決して悪いことではありません。子どもは親の期待に応えたいと思って頑張りますし、親は子のためであれば我慢できるというものです。
 むしろプレッシャーになるからといって、応援しない、期待しないことのほうが問題です。それは気遣いのつもりでいても、逆のイメージを伝えることにはならないでしょうか。それは、私はあなたに何の期待もしていませんよ。私はあなたがどうなろうと全く気にしませんよ。というものです。無関心です。関係が近くなるほど、応援や期待はプレッシャーとなるでしょう。それだけ思いが濃いからです。しかし、だからそれを避けようとして、親が子に、子が親に、無関心を装ってはそれこそ互いの関係は壊れてしまいます。私たちが最も避けるべきは、プレッシャーではなくて無関心であると思わされるのです。
 イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。一方でイエス様は「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」とも言われています。『くびき』というのは、農作業の折、鋤を引く二頭の牛の歩幅を合わせるために首にかける添え木のことです。歩幅の違う牛が横並びで引きますと、どうしても負担に偏りが出ます。そこで、歩幅を合わせてあげる。そうすると、負担が均等に分かれて、無理なく荷物を引くことができるわけです。ですから、イエス様が言う「休ませてあげます」の意味は、決して寝そべって休んでいなさい。ということであはりません。その吊り合わないくびきを外して、私と一緒にくびきを負うといいですよ。わたしがあなたの重荷を一緒に負いますよ。ということなのです。
 イエス様は「頑張らなくていいよ」とは言われません。むしろ「頑張れ」と言い続けるお方。けれど、ずっと傍らに一緒におられるお方です。そのくびきを捨てて、ひとり勝手に行ってしまうお方ではありません。その働きを見守って、時に励まして、時に叱咤して、声をかけ、期待をかけ、手を引いて、そして、実は共に苦しんで、最後まで決して見捨てずにいてくださるお方なのです。
 以前、先輩の牧師から聞いたことです。失敗した人を立ち直らせる一番の方法は何かという話です。それは、その人に期待することだというのです。人は諦められることほどに、辛いことはありません。私たちは身近なその人に期待し応援する人になりたいものです。そして、共にその喜びも悲しみも分け合う者になりたいのです。