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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230730 マタイ9:35-38 「収穫の日」 林宣教師

マタイ9:35-38 「収穫の日」 林宣教師

230604 マタイ10:16 「狼の中に」

マタイ10:16 「狼の中に」

 先週は、エルサレムに向かって決意を新たにするイエス様の姿と、残される弟子たちを想って、この先の十字架を語られたイエス様のご様子を確認いたしました。そのイエス様の心境を物語っているのが今日の箇所でもあります。マタイ10:16「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」
 イエス様は宣教に遣わされる弟子たちを「狼の中に羊を送り出すよう」だと言われます。羊というのは弱い動物の代名詞です。牙もなく、目も悪く、速い逃げ足すらありません。一方、狼は残忍で、狡猾な動物です。少なくとも牧畜をする者たちにとって狼は家畜を食い荒らす天敵です。狼と羊の関係は、当時の人なら誰でもピンとくるもの。そこでイエス様はこの世界を狼に例え、遣わされる弟子たちを羊に例えておられます。けれど、その例えの使い方がちょっとおかしいのです。羊の群れに狼が襲いかかることはあるのです。けれど、狼の群れに羊を送り出すことはあり得ないのです。そんなの食べられるのが目に見えているからです。それでもイエス様は敢えてそのようにされると言っている。なぜならそれは「あなたがたを遣わ」す。つまり宣教の使命だからです。そこは狼の中のような地です。危険を伴う地。でも危険を承知であなたに任せると言われるのです。信頼しておられるのです。期待しているのです。だからこそ「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われるのです。
 蛇というのは、古来より知恵の象徴です。アダムとエバを知識の実でそそのかしたのも蛇でしたから、私たちにとって印象は悪いですが、別段ずる賢くあれ。狡猾であれと言っているわけではありません。砂漠の蛇は音もなく進み、僅かな体温にも敏感に反応します。そこから想像しますに、用心深く、状況を賢明に判断しなさいということでしょう。一方で鳩は今でも平和の象徴とされるほどに、敵意のない、裏表のない象徴であります。公園のベンチに座っていますと、ほんとに気付いているのかなと思うほどに近づいてきたりします。あまりにも無防備。それだけに相手に警戒感を与えません。つまり蛇と鳩は間逆なわけです。真逆な2つの生き物を例えに出して、用心深く、それでいて素直にさらけ出しなさいと言っているのです。
 相反する要素ですが、やっぱりそうなのです。私たちはこの世にあって、このどちらのセンスも問われている。どちらか一方だけではなくて、両方の関わり方が必要なのです。大事なものを死守するために、そうでないものは譲って良いのです。それは妥協とは違います。相手を全否定して関わらないのであれば、そもそも狼の中に遣わされるはずがないのです。イエス様は私たちを狼と関わらせるために遣わしたのです。ですから信仰をさらけ出して、手の内を開いて、信頼を築いて、けれど飲み込まれないように、混ざってしまわないように、線を引く。そういう関わり方が大事なのです。自分の意見を主張したいなら、まずはそのところで信頼を勝ち取らなければならないのです。要求ばかりしていても、誰も見向きもしません。その正義を一旦置いて、相手を尊敬することから始めることが大事です。
 さてもう一つ、そのような狼の中に遣わされるのですから、私たちは主のもとから遣わされているということを覚えておきたいと思います。主がその帰りを待っておられるということ。そして、同じ使命を担っている仲間がいるということ。つまり、私たちには帰るべき群れがあるということです。孤独な戦いと思いがちでしょう。けれど、そんなことはないのです。その孤独な戦いを実は皆がそれぞれの所で担っているのです。ですから孤独だけど、孤独じゃないのです。私たちには再びその群れに帰って、その労苦を分かち合える仲間がいるのです。私たちが教会に通う理由がここにあります。主の群れの交わりが私たちを守るのです。この交わりを無くして、独り耐えられるほど私たちは強くはありません。私たちは共に集って、互いを思いやり、労り合い、この交わりに励まされて、再びそれぞれの狼の中に出ていくのです。

230319 マタイ24:29-51 「終末にいきるものとして」 東北宣教プロジェクト グレイスハウス教会 斎藤満師

マタイ24:29-51 「終末にいきるものとして」 東北宣教プロジェクト グレイスハウス教会 斎藤満師

211226 マタイ2:1-12 「礼拝を献げるために」

マタイ2:1-12 「礼拝を献げるために」

 旧約聖書の民数記24:17には「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」とあります。これが救い主到来に見られるしるしの一つです。けれど、外国の占星術師が、そう簡単に、この預言に思い至るものでしょうか。
 歴史的な背景を考えるなら、この者たちはペルシャの占星術師である可能性が高いでしょう。ご存知のように、ペルシャの国は、王妃エステルの活躍によりユダヤ人たちの生活が安堵され、叔父のモルデカイはクセルクセス王の側近に取り立てられたという経緯があります。つまり、ユダヤ人たちはペルシャにおいては、自国と同じように自由に取り立てられ活躍する機会があったということです。当然、国お抱えの占星術士たちとも交流があったことでしょう。そして、その博士たちがこのイレギュラーな星の出現の意味を探り求め、あらゆる文献にあたりながらも一向にその意味が知れずにいるそのとき、彼らと親しいユダヤ人の一人が、この民数記の言葉を博士らに伝えたのではなかったか。そしてこの御言葉に無視できない何かを感じ取って、博士たちは旅に出る決意をしたのではないか。もちろん、これらは想像に過ぎないわけですが、あながち間違いではないように思います。
 博士たちは、エルサレムでヘロデ王に謁見し、そのところで救い主誕生の預言がベツレヘムであることを聞きます。その後、星に導かれて、ベツレヘムに滞在していた幼子のイエス様と出会います。そして持ってきた宝の箱、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げて、そのままあっさりと自分の国に帰っていったのであります。
 ヘロデ大王が自ら謁見を許すのですから、彼らはそれなりの規模を持った使節団であったと考えられます。黄金・乳香・没薬などの高価な品々を持って長旅をするのですから、荷車かラクダを用意したことでしょうし、賊に襲われないように、護衛たちも雇っていたことでしょう。通る先々で宿の手配やら何やらと計画しなければなりませんし、旅に出た後の留守の手配や、仕事の引継ぎも必要です。最初に星を見てから、1年以上が経っていたと考えられています。それだけ周到な準備と手間、時間とリスクをかけて、彼らは旅に出たのです。なのに彼らはイエス様をひと目見るだけで帰っていきます。イエス様に贈り物を献げて満足いたします。引き換えに何かを要求することもありません。ここが凄い。彼らはただ一度救い主を礼拝するだけのために、この莫大な規模の犠牲を惜しみなく献げたのです。
 救い主に出会うということには、それだけの価値があるということです。礼拝をすることには、それだけのものをささげる意味があるということです。持ってきた宝物だけではありません。時間も手間も、労力も、全てを献げるだけの意味がある。人生を献げる価値がある。少なくとも、博士たちはそういう決意の下で旅に出たのです。そして事実、彼らは満足をして帰っていったのです。
 救い主と出会うためなら、それらを献げる価値は十分にあります。救い主と出会わなければ、絶対に手に入らないものがそこにはあります。どれだけお金を積もうと、どれだけ時間をかけようと、どれだけ労力をかけようと、どれだけ名声を得ようと、私たちは死を免れません。生きることの乾きを満たすことはできません。誰に依存しようとも、どんな手段を取ろうと、それは手に入りません。伝道者は言います。「空の空。すべては空。」けれど、主は唯一それを満たすことのできるお方です。主はご自身を献げることを通して、私たちに生きる目的と、生かされることの感謝、そして委ね切ることの幸いを与えてくださるのです。
 私たちは日曜日の朝、それはそれは戦いですね。寒い日はもう布団から出たくない。今日くらいは良いんじゃない?神さまだってわかってくれるよ。礼拝を妨げる誘惑の声は、いつも私たちにささやいてきます。けれど、そう言っている私たちは、神さまには休みを許しません。祈りはすぐに聞かれたいし、試練はすぐに解決してほしい。少しでも返事がないと、あなたは私を見捨てたのかと恨み言を言う。いやいや、どの口が言うのかという話であります。「見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(詩121:4)主は今日もまどろむことなく、眠ることなく、私たちを守ってくださっています。私たちを祝福してくださっています。救い主と出会うことの幸いに目を向けるなら、私たちはもはや礼拝を献げなければならないのではありません。私たちは礼拝を献げずにはいられないのです。私たちはまず受けたのです。だから応答するのです。一方的な愛が、双方向になる時、私たちは心から主の平安に満たされるのです。

211128 マタイ11:2-6 「待つべき方は誰ですか」

マタイ11:2-6 「待つべき方は誰ですか」

 牢獄に捉えられたバプテスマのヨハネが弟子を通じてイエス様に問いかける場面です。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」これがバプテスマのヨハネの言葉であることに驚きを覚えます。ヨハネは他の誰よりもイエス様を理解していた人物です。彼は救い主がもう来ていると語ってきたのです。その御方こそイエス様に他ならないとです。罪を悔い改め、救い主を信じる者は救われる。これが彼の語ってきた教えです。その彼が今、牢の中に置かれる。懸命に仕えた結果がこれだとすれば、本当に自分の生き方は正しかったのか。このままイエス様を信じていても良いものか。ヨハネはこれまでにない試練の中で、自分の人生の答え合わせを求めているのです。
 けれど、この不安や迷いは決してヨハネだけの話ではありません。私たちもまた同じ様に悩み、迷う者ではないでしょうか。人は、若い頃がむしゃらに懸命に生きてきた、その結果合わせをやがてするようになります。自分の信じる所に従って、毎日を必死に生きたその結果合わせ。それが自分の思い描いていたものと明らかに異なっていた時、私たちは尚も安心して時を費やすことはできるでしょうか。もっと別の選択、別の生き方があったんじゃないだろうか。今まで信じて生きてきたこの人生は間違いだったんじゃないだろうか。と思わないでしょうか。もちろんいつもそんなふうに考えるわけではないでしょう。けれど、人生の試練の中で、困難の中で、日々の忙しさの隙間を狙うかのように、そういう不安や迷いが忍び込んでくる。そういうことって誰しもが経験することではないでしょうか。
 自分の生き方が本当に正しかったのか、待つべき方はイエス様なのか、その人生の答え合わせを求めるヨハネに、イエス様は言います。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様がおっしゃるのは、イザヤの預言が成就されているという結果合わせです。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩く。それは救い主の到来のしるしなのです。そしてそれらはイエス様によって現実となっている。今まさに預言が成就している。ここを見なさい。とこうおっしゃっているのです。
 私たちも思い通りにいかない日々の歩みに、本当にこのままでいいのか?と不安に思うこともあるでしょう。けれど、果たしてそれだけなのでしょうか。その人生に神の恵みは無かったでしょうか?イエス様はおられなかったでしょうか?私の人生にある恵みの一つ一つは嘘だったでしょうか?いやむしろ、色んなことがあった人生を振り返る時、もうダメだと諦めた、なんでこんなことがと絶望した、そのような試練の中にこそ、イエス様が共にいてくださったということを思い出すのではないでしょうか。私たちの日常の困難は、神の不在を意味するのではありません。私たちは試練にばかり目を落としてしまいがちですけれども、やはりそこには神の恵みがある。慰めがある。後になって振り返る時、渦中では気付けなかった神の守りがあるのです。
 たとえ今私たちが困難の中に置かれていようと、それが私たちのこれまでの歩みを否定するものではありません。なぜなら、その困難の中で、主は十字架の御業を成し遂げられたからであります。ヨハネが思い浮かべた救い主はもっと違ったお方だったかもしれません。もっと力強い、圧倒的な支配者だったかもしれません。主イエスに従うことが、まさか十字架に繋がる道だとは思ってはいなかったかもしれません。けれど、そのお方が人類の救いとなられたのです。罪の贖いを成し遂げたのです。
 自分の人生を間違いだったと嘆く者は本当に不幸ですね。けれどその答え合わせは早急です。いつだって私たちには、渦中に合っては見えないことがあるからです。ですから、私たちはわかることに目を向けるべきです。すでに成就した恵みに目を向けるべきです。今までだって、私たちの人生には数しれない困難がありました。しかし、その困難は主の恵みと変えられました。より主を身近に覚え、生かされることの幸いを覚えた出来事と変えられました。この恵みの数々が、私たちを試練の内に強くします。主が生きて働かれることの経験が、今日主が共におられることの確信に変わる。明日恵みに導かれることの信頼に変えられるのです。待つべき方はイエス様です。アドベントを過ごす私たち、恵みの星を見上げて過ごしてまいりましょう。