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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200112 マタイ6:9-10 「もし、イエス様が市長だったら」 神田英輔師 「声なき者の友」の輪代表

マタイ6:9-10 「もし、イエス様が市長だったら」 神田英輔師

191013 マタイ24:3-14 「終わりの日の前触れ」

マタイ24:3-14 「終わりの日の前触れ」

 昨日の台風の影響で入間川や不老川、越辺川などが氾濫したと報道がありました。何人かの兄姉は昨日避難所に避難されましたし、後片付けに追われて来れなかった方もおられます。私が記憶する限り、赴任してからの11年でここまでの被害は過去に無かったと思います。しかし、同じことをここ最近、毎年言っているようにも思うのです。毎年、毎年、日本中で、これまで体験したことのない規模の災害が起きています。地震や津波、大雨による土砂災害、河川の氾濫、突風に竜巻。数え上げればキリがありません。これらには、もちろん温暖化の影響や、それに伴う気候の変化や海水面の上昇、様々な科学的要因があるのでしょう。けれどです。それとは別に、私にはやはりこの状況に何か神様の特別な意思があるように思えて仕方がないのです。それは人間に対する罰でしょうか。けれど神様は大洪水の後、「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。」と言われました。では、何でしょう。考えられることは、やはり、終わりの日が近づいているということではないでしょうか。
 災害に苦しむ現実がある中で、あまり危機感を煽ることは避けるべきです。福音を伝えるために裁きを強調して脅すことは控えるべきだと思います。けれどです。私たちが聖書信仰に立ち、イエス様の十字架と復活、そして再臨を信じているのならば、同時にイエス様が再臨される前に訪れる「前触れ」についても信じているはずですし、そのことが語るメッセージにも、耳を傾けるべきではないでしょうか。
 終わりの日の前ぶれとはどのようなものでしょう。災害や天変地異を思い浮かべますが、今日の箇所で明確に記されるのは、むしろ人々の敵意。「私こそキリスト」と言って人々を惑わす指導者たちが次々に起こり、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、そして人と人までもが信じられなくなっていく。人々の感情は閉鎖的となり、各個主義が蔓延り、あらゆる場面で、様々な対立関係が広まっていくのです。事実、イギリスがEUを脱退し、中国と香港が対立を深め、トルコは難民問題を理由にシリア侵攻を開始いたしました。世界の警察を自認していたアメリカは、自国の経済保護を理由に、国境を強化し、異なるものを排除しようと必死です。日本政府と韓国政府の対立は、ますます互いの愛国心を煽って、もはや引くに引けない状況になっています。自国優先主義が全世界を覆っているのです。
 聖書は驚くほど、今という現代を言い当てています。果たして、今日読んだ聖書の箇所で1行でも、今の時代に当てはまらない出来事はあるでしょうか。私たちは普段、あまり考えないようにしております。特に災害の事実を前に、世の終わりを語ることは大変繊細で、配慮が必要です。けれど、やはりこれは聖書が語るところなのです。
 この記述が今に当たるのか、これからなのか。かの日はもうすぐ来るのか、それがいつという問題には答えられません。けれど確実に言えるのは、昨日よりも今日、この世界は終わりの日に近づいているという事実です。私たちはこの事実を受け入れなければなりません。
 最後まで耐え忍ぶ人は救われます。これは、最後まで福音に信頼する人のことです。どれだけ偽預言者が現れようとも、その声に多くの人々が惑わされても、それゆえ人々の敵意が増大しようとも、最後まで耐え忍び、神の声に聞き従う人は救われる。これが主イエスの語るところです。そして、そのような時代においても、福音は宣べ伝えられて、全ての民族に証しされる。そして、それから終わりが来る。つまり、この終わりの前触れの時代、二つの言葉が世界中に広まっていくと言うことです。一つは、偽預言者の声であり、一つは御国の福音です。私たちはこの福音を与っているのです。
 救いをいただいたとは言え、終わりの日をぼんやり待っているわけにはいかないのです。なぜなら人々を惑わし、敵意を煽り、その信頼を傷つける偽預言者の声が広まっていくからです。私たちはこの終わりの前触れにあって、黙っていてはいけません。福音を宣べ伝えなければ。人々を生かし、和解を生み、互いの信頼を育む、主イエスの声を届けなければならないのです。

181021 マタイ5:5 「柔和な者は幸いです」

マタイ5:5 「柔和な者は幸いです」

 御霊の実の8つ目は柔和です。例のごとく、柔和という字を辞書で調べますと「やさしく、おだやかなさま。」とありました。しかしです。優しさとは随分と曖昧で漠然としています。たとえば、争いごとが嫌いで自己主張をしない人。事を成り行きに任せる人。こういう人は言ってみれば優しい人です。けれど、それは責任感のない人と言えるわけです。事なかれ主義と言っても良いでしょう。じゃあ聖書が言う柔和な者とは、本当にそういう人かと言いますと、そうではないように思います。
 柔和とは何か?イエス様のこの山上の説教の言葉は詩篇の引用から来ていることは明白です。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37:11)この詩篇での「柔和な人」という言葉は、実は第3版や新共同訳では「貧しい人」と訳されていた言葉です。つまり「柔和」と「貧しさ」どちらのニュアンスも含んだ言葉だということです。山上の説教でも、まず「心の貧しい人は幸いです。」とあって「柔和な人」です。ですから、ここで言う柔和はただ単に優しいとか、おだやかという性格を指しているのではありません。それは心の貧しさから来るところの柔和。つまり神に対する徹底的な謙遜。罪に対する絶望的な悲しみ。これらの土台の上に築かれるところの柔和です。自分の内には何一つ誇るところのないことを認め、この世におけるあらゆる地位も特権も所有物も要求しない。これが柔和だと言うのです。
 柔和な人の例は、イサクに見ることができます。ある時イサクはせっかく掘った井戸をペリシテ人に埋められます。すると、彼は別の地に移動して井戸を掘ります。しかし、そこもまたペリシテ人によって埋められます。イサクはどうしたでしょう。争って奪い返したでしょうか。交渉したでしょうか。掘ったのはイサクですから、それは正当な主張です。けれど、イサクはそうしません。彼はまた別の地で井戸を掘る。これが柔和な人イサクです。
 つまり柔和とは、自分の主張や権利を敢えて主張せずに神にゆだねる姿勢を指すのです。しかし、それは決して概念的なものではありません。具体的にそのことが他者に対する態度に現れて来なければなりません。ロイド・ジョンズは言います。「私たちはみな他の人に自分の罪をとがめられるよりは、自分で自分をとがめるほうを好む。私は自分のことを、罪人であると言う。しかし、他の人にあなたは罪人だと言われるのを本能的にきらう。これが、今ここに提起されている原則である。」これは本当にその通りだと思うのです。神の前に、自らが愚かであることを認めることは、ある意味で福音に向き合えばそうせざるを得ません。私たちは祈りの内に罪を悔いることができます。けれど、同じことを目の前の人に対してできるかと問われれば、これは何と難しいことでしょう。もうひと段階、明確な確信が必要です。曖昧な、漠然とした罪人告白ではなくて、私たちが誰にも見せたくない内なる醜さを、目の前の兄弟姉妹に赤裸々に告白することができるかという極めて具体的な話です。自分自身の罪を他人の判断によって裁かせることができるかという話です。本当の意味で優しく穏やかで過ごすためには、他者に対して徹底的にへりくだり、権利を主張せずに、むしろ委ねることが求められるのです。
 そう考えると、柔和というのは何と難しいことでしょう。私たちはすぐに主張したくなります。私にも正義があると言いたくなる。それがコリント教会を分裂寸前に追いやったことを知っていてもです。
 私たちは柔和が御霊の実であることを覚えたいのです。御霊の実は、御霊の働きを無くしては、決して誰も結べないという事実をです。しかし、御霊の働きがあるならば、たとえどのような者であっても実を結ぶ者とされるということをです。確かに、私たちは柔和とは相容れぬ者です。けれど、私たちを柔和な者とするのは、私ではなくて聖霊です。聖霊は私たちを、御言葉をもってイエス様と向き合わせ、貧しき身であることを悟らせ、罪に悲しむ心を育て、握りしめた権利を手放させてくださるのです。罪人に過ぎない私たちは、目の前にいる、決して完全ではない兄弟を受け入れ、認めることができるようになる。柔和は、教会の実として豊かに結ばれるのです。

181007 マタイ11:11-19 「神の前に正しい人とは?」 原市場聖書教会 若村和仁師

マタイ11:11-19 「神の前に正しい人とは?」 若村和仁師

 皆さんは人と自分を比べたことがあるでしょうか?「自分と人と比べたことがない」という人はいないのではないでしょうか?聖書の時代から、人間の本質は変わらないのです。それは弟子たちを見ればわかります。マタイ18章では、イエス様に弟子の一人が「この中でだれが一番偉いか」と問いかけました。それに対してイエス様はこう言われました。「ですから、誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18章4節)一番偉くなりたいなら、自分を低くしなさい。と言われるのです。
 今日の聖書個所では天の御国で一番小さい者について書かれています。天の御国で一番小さい者は、「女から生まれた者の中で一番偉大であると言われているバプテスマのヨハネより、偉大である。」と語ります。ということは、天の御国に入れる人であれば、地上の誰よりも偉大であるということです。この偉大とは、私たちがバプテスマのヨハネよりも能力的に偉大であるということではなく、イエス様から受ける恵みが誰よりも偉大である。ということなのです。では天の御国へ入れる人とは、どのような人でしょうか?それは、自分の罪を悔い改め、イエスキリストが自分の罪の為に死んでくださったことを信じ、口で告白する人(クリスチャン)です。天の御国に入れる人とは、偉大な神様の恵みを素直に受け入れたクリスチャンということです。
 ですからこの地上で神様に喜ばれる偉い人とは、「自分の弱さを正しく知り自分を低くし、悔い改めイエスキリストを信じ受け入れた人」なのです。このイエスキリストの救いの計画に耳を傾けない人々に「耳のあるものは聞きなさい」と語りかけられました。それは、16節~18節にたとえられていますが、当時のユダヤ人たちが、バプテスマのヨハネの言葉にも、イエスキリストからの言葉にも、耳を傾けなかったからです。
 当時一番神様に近い民族とされていたユダヤ人たちこそが、神様の言葉に聞くことができず、神様から遠い存在になっていたのです。ユダヤ人たちは、自分たちの口伝律法であるユダヤ法に基づいて、人と比べ、自分のほうが儀式を守っているということを自慢していました。イエス様はそのような儀式主義の人々に、神の前に正しいかどうかを証明するのは、「・・・知恵が正しいことはその行いが証明します。」と19節で語っています。
 「神様の前に正しい人」であるかどうかは、私たちがまず謙虚に「御言葉に聞く者」であるかが問われています。そして、その御言葉を「実践すること」が神様の御心を実現する、正しい歩みの一歩となるのです。

171224 マタイ2:1-12 「インマヌエル・主と歩む決断」

マタイ2:1-12 「インマヌエル・主と歩む決断」

 マタイはヨセフの視点から救い主イエスの誕生を記しますが、その誕生を祝う場面も彼独自の視点で記します。クリスマス。イエス・キリストの誕生を祝う者たちは、遥か東方から駆け付けた異邦人でありました。
 東方の博士たちが、ユダヤ人の王の誕生を、星を見て知り、拝みに来たというのです。彼らは普段とは違う星の出現を、ユダヤ人たちが持つ救い主預言と結びつけて会いに来ました。それは彼らが旧約聖書の預言に辿り着いたということを意味しています。それは、ユダヤ人との接触を意味します。博士達が見慣れない星の出現の意味を探り求め、あらゆる文献にあたりながらも一向にその意味が知れずにいるそのときに、彼らと親しいユダヤ人の一人が、この秘された聖書の御言葉を伝える。そしてこの御言葉に無視できない何かを感じ取って、旅に出たのです。
 それは大きな大きな決断でした。正直言って何の保証もないのです。黄金・乳香・没薬などの高価な品々を持って長旅をするのですから、荷車かラクダを用意したことでしょうし、強盗などに襲われないように、護衛たちを雇っていたことでしょう。通る先々で宿の手配やら何やらと計画しなければなりませんし、旅に出た後の留守の手配や、仕事の引継ぎも必要です。周到な準備と手間、時間とリスクをかけて、彼らは旅に出ます。もしもこれが間違いであれば、全てが無駄です。けれど彼らは信じて一歩を踏み出したのです。
 さて、その彼らの到着に恐れまどったのがヘロデ王でした。預言されたユダヤ人の王が生まれたとすれば、それは自分に害を為す者です。博士たちに王の誕生について知らせるように頼むヘロデですが、その目的は、自分の王の座を守るため、預言されたユダヤ人の王を殺害しようと考えたのです。事実、彼はこの後ベツレヘムの2歳以下の男の子を一人残らず殺害します。つまり預言された王の可能性となる子を皆殺しにしたのです。彼は真っ向から、救い主の誕生を拒絶したのです。
 さて、ここにもう一つの人々が描かれます。ヘロデにキリストの誕生する場所を問われた律法学者たちです。彼らはヘロデに尋ねられて、すぐに答えるあたり、さすがは専門家でした。彼らは聖書に通じ、常日頃、研究に明け暮れておりました。しかし、そんなにも聖書に通じていながら、彼らは救い主の誕生に気付きません。いえ、もともと関心がなかったのです。星の出現は、東方でのみ見えたのではありません。イスラエルでも見えました。しかし、彼らにはその夜空にひときわ輝く星が全く見えていませんでした。聖書の御言葉は知っていました。しかし、彼らはその意味するところに全く関心を寄せませんでした。彼らは救い主の誕生に無関心だったのです。
 神のことばに対する三者三様の反応がここにはあります。東方の博士たちは、救い主の誕生、全世界の王の誕生を信じ、飛び込みました。ヘロデはこれを聞いて、恐れ、拒絶しました。祭司長たちは、全く無関心でありました。では私たちはどうかと問われるのです。
 キリストを信じることを、ある人は恐れます。何か自分が自分でなくなるんじゃないか。不自由な生活になるんじゃないか。そう言って、一向にこの方を受け入れようとはしません。そういう人は決まって言います。信仰なんて弱い者の持つもんだと。
 また、ある人はこれを無視します。大事と知りつつも、今のままの変わらない生活がいいのです。こういう人は決まって言います。もう少し色々とわかってから、もう少し遊んでそれに飽きたら、考えます。でも、今はまだ必要ありません。
 クリスマスは神である方が人として来て下さった時です。神が私たちと共にいるために来た日。しかし、実際にこの方と出会い、この方を礼拝するのは、救い主に関心を持ち、彼の誕生にこれまでの人生を変える決断をした、遠い異国の博士たちのみです。救い主との出会いは、権力でも血統でもなく、ただ信仰によります。私たちがこの方を信じ受け入れる時、それが私たちが主とお会いする時なのです。