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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/01/25 創世記46:28-47:6 「寛大なパロ」

創世記46:28-47:6 「寛大なパロ」

 生き別れた父との感動の再会を果たしたヨセフは、家族にパロとの面会の手順を説明します。ゴシェンの地に留まり、パロからの招集を待って、面会し、自分たちが先祖代々羊飼いであると答えるように。そうすれば、ゴシェンの地を住むことができる。そして言葉通り、事は進んでいきます。ヤコブたちはパロからゴシェンの地に住むことの許可をいただくのです。ここで2つの疑問が沸きます。①なぜパロは寛大にもヤコブたちを招き入れるのか。②ヨセフがゴシェンの地にこだわったのはなぜか。です。
 パロがヤコブたちに寛大なのは、もちろん彼らがヨセフの家族だからです。ヨセフがそれだけ信頼を得ていたからです。しかし、ではそもそもヨセフが宰相に取立てられたのはなぜでしょう。ヨセフが夢を解き明かしたから?確かにそうですね。しかし、それだけで、外国人の罪人を国の最も重要なポストに取り立てることがあるでしょうか。実はこの背景には、当時エジプトが異民族による統治、ヒクソス王朝期だったことが関係しています。つまり、王にとってエジプト人は大切な国民であるのと同時に、いつ反乱するかわからない危険極まりない民でもあったということです。ですからパロは、豊かな未開の地であるゴシェンにエジプト人が入居することを嫌ったのです。ヤコブたちはこの時300名ほどの小さな集団でした。パロは一切警戒感を持ちません。だから寛大でいられた。まさか400年後、この集団が大いなる国民となるとは想像もつかなかったのです。
 さて、ではなぜ、ヨセフはゴシェンの地にこだわったのでしょう。もちろん、豊かで放牧に適した地だというのはそのとおりです。しかし、どうもそればかりではありません。ナイルの恵みに与る豊かな地は他に幾らでもありました。宰相ヨセフの家族ですから、羊飼いであることを敢えて強調さえしなければ、都の中にすら住むことができたでしょう。けれどヨセフはゴシェンにこだわります。それはつまり、ゴシェンの地がエジプト人の手に染まっていなかったからです。未開の地だからです。だからゴシェンなのです。
 ヨセフの姿から、私たちは問題の本質を見ぬくことの大切さを知るのです。ヨセフはエジプトでの生活を通して、この地がどれほど偶像に満ちているか、そしてその影響をうけることがどれほど危険かを知っていました。ですから、彼の問題意識は、どうすればこの地で豊かに安全に過ごせるかではありません。どうすれば、約束の地に帰るその時まで民の信仰が保たれるかでありました。私たちもまた、問題の本質を見ぬくことが大事です。どのような状況や問題でも、実はその影により大きな信仰の問題が隠れていることを、忘れないようにいたしましょう。

2015/01/18 創世記46:8-27 「小さな国民」

創世記46:8-27「小さな国民」

 この箇所にはエジプトに移住した時の神の民イスラエルの名簿が記されています。全部で70人。女性や子どもなどを加えましても、総勢は300人程度だったのではないかと言われています。そして、それから430年後のことです。モーセによって率いられたイスラエルの民は、出エジプトを果たしますが、その時、歩ける成人男性の数だけで60万人。女性や子ども・老人を加えると300万人はいたと言われています。300人が、300万人。凡そ一万倍。いえ、アブラハムから考えると、300万倍。一人の人が神の召命に応えて立ち上がり、そのことが数百年後、300万人という大いなる国民とされたわけですから、神様が一人の人に持たれるご計画の何と計り知れないことでありましょうか。
 私たちは神様のご計画をどれくらいのスパンで見ているだろう、と考えさせられます。ともすればその日、その瞬間に追われてしまう私たち。祈ったこの瞬間に神様の返事が欲しい。答えが知りたい。と思います。けれど神は答えてくれない。神はどこに行かれたのかと不平不満ばかりが口に出ます。けれど、どうでしょう。神様のご計画というものは、もっともっと長いスパンで見ていく必要があるのではないでしょうか。
 アブラハム然り、ヤコブ然り。一人の人の信仰による決断は、一人の人生を左右するのみならず、計り知れない神のご計画に結びついているのです。そしてもちろん、私たちも然りであります。神の御声に聞き、そしてそれに従う。その時、神は私たちを、ご自身のご計画の内に大いに用いてくださるのです。
 神の約束はあまりにも規模が大きくて、私たちはもしかしたら躊躇するかもしれません。私は、そこまで大きなことは望んでいない。私は変化を望まない。アブラハムが御声を聞いたのが75歳。ヤコブに至っては130歳です。もう、私は望まない。静かに暮らしていたい。そういう思いは、私たちと同じように、きっとあったと思うのです。けれど、彼らは従いました。立ち上がりました。そして、その時、神のご計画は彼らを通して、後の時代に成就することとなるのです。今、この瞬間、神の御声に聞いて立ち上がるということは、私という人生だけに留まらない、大いなる祝福をもたらすことになるのです。

2015/01/11 創世記46:1-7 「決意の旅立ち」

創世記46:1-7 「決意の旅立ち」

 何か新しいことを始める時、私たちは何をもって決断すべきでしょうか。相応しい目的があることでしょうか。正当な理由があることでしょうか。どれだけ実現性があるかということでしょうか。しかし、私たちがどれだけ正当な理由を持とうと、立派な目的を掲げようと、現実的な判断をしようと、だからその選択に心配が無くなるかというと決してそうはなりません。
 ユダからヨセフの消息を聞いて、エジプト行きを決意したヤコブ。エジプトに行くことは、一族を飢饉から救出するということでした。またエジプト行きは生き別れた息子との再会でもありました。族長として、父として、彼にはエジプトに行く正当な理由があったのです。しかし、では意気揚々と旅に出かけたかというとそうはなりませんでした。彼はベエル・シェバに着いた時、この旅の不安から、神に生贄を捧げます。それは、このエジプト行きが果たして神のみこころかどうか不安に駆られたからでした。
 ベエル・シェバは、父イサクが神からエジプト行きを留められた町です。アブラハムに与えられた約束の地カナンに留まることが神のみこころだったと、ヤコブは父イサクから教えられていたことでしょう。確かにヤコブのエジプト行きには立派な目的があります。けれど本当に約束の地を離れて良いものだろうか…。
 生贄を捧げるヤコブに神は答えます。「エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。」神様からのGoサインをいただき、ヤコブは晴れて旅立つことができたのです。
 私たちの決断はどうでしょうか。それは何故の決断でしょうか。どれだけ立派な理由があろうとも、神のみこころに反しては、そこに平安はありません。ですから決断の前に立ち止まることが大事です。御言葉に聞くことが大事なのです。

2015/01/04 ヘブル10:1-18 「神は思い出さない」 新年礼拝

ヘブル10:1-18 「神は思い出さない」

 私たちは過去の失敗をいちいち思い出しては、どうせ自分なんかと落ち込んでしまいます。友人から受けた言われもない一言や、若気の至りで犯した過ちの数々。どうしても受け入れがたい不幸な出来事。いえ、昔のことだけでなくて、まさしく今、私のうちにある、止めようのない怒りや憎しみ・・・。忘れられたらと思います。しかし、どうしても忘れられません。それらはことある毎に私たちを責め続けます。「どうせお前なんて。」という声が心の中から聞こえてきます。たとえ他の誰が忘れようとも、私自身が忘れられないことがあるのです。
 なぜなら、私たちにはその根本に、このように生きたいというモデルがあって、しかしそのように生きられない、という現実に直面するからです。私はこんなにも愚かで、みっともなくて、愛が無いと思い知らされる。それはつまり、神の似姿に相応しく生きることのできない罪ある者の後悔というものが、私たちの内にはあるからです。
 しかし、そんな私たちに向けて、神は言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」実は神様の救いの本質は、この「思い出さない」という言葉に現れています。それは罪が無くなったということではありません。「罪と不法が無くなったから、思い出せない」ではありません。罪と不法は変わらずにそこにある。私たちは今も尚、罪まみれ。しかし、神様はそれをこれ以上追求しない。私たちは相変わらずだけれども、神様の側で一方的にその取扱いを変えると言って下さる。これが、すなわち救いなのです。
 神は過去を問わないと言われます。それは言い換えると、今、この瞬間を問われるということです。あなたは今この所から新しい一歩を踏み出しなさい。今この時に過去と決別して生きなさいと言われるのです。