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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/02/22 創世記47:27-31 「終わりに備えて」

創世記47:27-31 「終わりに備えて」

 エジプトの地に訪れて17年。年老いたヤコブが、自分が死んだ時のことをヨセフに依頼するのがこの場面です。エジプトでの生活は、苦労の多かったヤコブにとって大変穏やかな日々でした。エジプトはヤコブの安住の地となりました。しかし、今、死を意識してヤコブは、自分をエジプトではなくて先祖たちの墓に葬ってくれと依頼します。
 葬儀を自ら依頼するというのは、その人の最期のメッセージでもあります。ある先生は、自分の葬儀は伝道集会にしてくれと言い残し、実際、葬儀は悔い改めを迫る伝道集会となりました。亡き先生を偲ぶつもりで来た参列者は驚かれたと思います。しかし、それは「ああ、先生らしいなぁ」と思える、先生の生前の拘りが見えた葬儀でした。
 ヤコブの拘りは、先祖たちと同じ墓に入るということでした。エジプトで葬られれば、宰相ヨセフの父ですから、それはそれは盛大に葬られたことでしょう。パロの出席もある、いわば国葬クラスの扱いとなったでしょう。しかし、ヤコブは死してそのような地上の栄誉は望みません。異教蔓延るエジプトで葬られるよりも、先祖たちと同じ墓に入る。それはつまり、アブラハム、イサク、ヤコブの神の名で葬られるということを望んだということです。そして、死してそういう信仰の拘りを息子たちに見せつけるということなのです。
 信仰の拘りを持つことは、どこか排他的なことかもしれません。「あいつは融通が利かない」との批判を受けることもあるでしょう。しかし、その融通の効かない拘りも、最期まで貫き通すとしたら、それは別です。それはその人の真実となって必ず相手に伝わるのです。
 江戸時代、弾圧されたキリシタンが、日本各地に隠れ住みました。彼らの生活は極貧を極めました。一言「棄教する」と言えばそこから脱することができます。しかし、彼らは信仰の拘りを持って死んでいったのです。それは愚かな生き様でしょうか。無駄な拘りでしょうか。しかし、彼らのその拘りは脈々と引き継がれて、250年後の信仰の自由に結び付くのです。
 地上の歩みだけを考えれば、信仰を持たずとも、要領よく生きている人は幾らでもいます。しかし私たちが見ているのは永遠の都です。ヘブル11:13には「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」とあります。いずれ来る死をどのように迎えるか。それは誰にとっても避けることのできないテーマです。どうせ死ぬ身でありますから、私たちは信仰の人として死にたいのです。

2015/02/15 創世記47:13-26 「宰相ヨセフ」

創世記47:13-26 「宰相ヨセフ」

 ヨセフの宰相としての手腕が紹介されているこの箇所。一見すると、非情な政策のように見えます。代金など取らず、無償で配給してこそ、神の人ヨセフではないかと思ったりもします。しかしそれは2つの点で非現実的でした。一つはそれではこの大飢饉を乗り越えられないということ。そしてもう一つはそれでは人は依存してしまい、自立すること、そして労働による生き甲斐を得ることが、できなくなってしまうからです。
 飢饉は、全地に及びました。エジプトと違い、どこの国も備蓄が足りません。ですから食べるものはエジプト国内に備蓄されたものしかありません。しかも飢饉はあと5年は続くと言います。これはもう各人が個人の力量で乗り越えるということでは到底間に合いません。国民全体で力を合わせなければならない。たとえナイルの恵み豊かなエジプトであろうとも、効率を余程良くしなければ、飢饉の中での農業など何の足しにもなりません。しかし、じゃあ話し合いで、みんなで仲良く水や食べ物や畑を分けあいましょうとは、なかなかいきません。そこでヨセフは食料と引き換えに各人の財産を一点に集中させ、さらにそれを再分配するという大規模な政治を行なったのです。
 しかしヨセフの政策の素晴らしいところは、それが、単なる国の仕組みを変えたということに留まらず、一人ひとりの積極的な生き方にも繋がったということです。つまり、途方に暮れ、希望を失っていた民を、労働者としてもう一度奮い立たせたということです。単に飢饉を乗り越えるだけならば、細く長く国庫を開いて配給すれば良かったのかもしれません。しかし、一方的な無償の支援では一人ひとりの生き甲斐には繋がりません。無償の支援は最初は歓迎で迎えられますが、やがては不満へと結び付いてしまいます。なぜなら私たちはすぐ恵みに慣れてしまう者だからです。ヨセフは無償ではなく、労働を命じました。そして、収穫の5分の1を差し出すようにと。このことは、人が本当の意味で生き甲斐を持って、喜びを持って生きるためには、受けるだけではなくて、与えるということが大切であると、意味しているのではないでしょうか。
 私たちは誰かの役に立つという中で、生きる甲斐を見出します。私たちはそもそも神に仕えるために造られた者だからです。私たちの賜物は、神と人とに仕えることを通して遺憾なく発揮されます。そして与えることを通して、より多くのものをいただくことができるのです。

2015/02/08 創世記47:7-12 「ヤコブの祝福」

創世記47:7-12 「ヤコブの祝福」

 パロと謁見することになったヤコブ。パロはヤコブに「あなたの年は、幾つになりますか。」と尋ねます。古代社会において長寿は尊敬に値すること。つまり年齢を尋ねるのは、エジプトの国王が、一介の老人に最大限の敬意を払っているということです。これに対し、ヤコブは「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖たちのたどった齢の年月には及びません。」と答えます。これは単なる愚痴ではありません。ヨセフとの再会に泣いて喜んだヤコブ。彼は自分の人生が単なる不幸ではないことを知りました。ですから彼が殊更に「齢の年月がわずか」と語ったのは、つまりは「私はパロの尊敬を受けるに値しない者です」という謙遜の現われなのです。彼には年老いていることを利用してパロの好意に漬け込むような姑息な考えや、必要以上に虚勢を張る様子はありません。身分違いの二人ではありますが、ここには権威を振りかざさない王と権威に媚びない族長の互いを認め合う様子が見て取れるのです。
 そのことが最も現れているのが、ヤコブの挨拶の場面です。ヤコブはパロの前に連れて来られ、まずパロに挨拶をします。そして、パロの前から立ち去る時、もう一度挨拶をします。この挨拶は単なる挨拶ではありません。祝福するという意味です。つまりこの場面、ヤコブがパロの前に来て祝福し、そして、再びパロを祝福して去って行く。そういう場面なのです。一介の老人が王を祝福をするということに、身分違いに臆することのない堂々としたヤコブの様子を見て取ることができます。彼は真の王たる神にこそ仕える者だからです。
 11世紀に司教の叙任権を巡って神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世とローマ教皇グレゴリウス七世が対立し、時の皇帝が破門される事件がありました。北イタリアのカノッサ城の門前で、皇帝は破門の赦免を求めて、雪の中を3日間たたずんだと言います。俗に言う『カノッサの屈辱』です。
 キリスト者は世に対して決して臆する必要はありません。私たちはたとえ王の前にあろうとも、媚びる必要はありません。堂々と祝福の言葉を述べるのです。年を取っていようが、若かろうが、貧しかろうが、富んでいようが、関係ありません。相手がどのような者であろうと気にする必要はありません。なぜなら祝福とは、私たちの内にある何かを絞り出すことではないからです。祝福は栄光の主の無尽蔵の恵みをその人に届けることです。大事なのは、この管の両端が、神としっかり結びつき、そしてその人にきちんと向けられていることなのです。

2015/02/01 ヘブル10:19-25 「真心から神に近づこう」

ヘブル10:19-25 「真心から神に近づこう」

 「こういうわけですから」とあります。これまでの話を前提として、本題に移るときの言葉です。では、これまでの話とは何かと言いますと、それは、イエス様がまことの大祭司であり、完全な生贄であるということでありました。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を大事にしてきた民族です。律法を守ることが神の民としての誇りであり、条件だったからです。そして、その律法の原則は何かと言いますと、全ての罪は血によって精算されなければならない、ということでした(ヘブル9:22)。ですから、彼らはことある毎に生贄を捧げました。罪のための生贄、全焼の生贄、穀物の捧げもの、和解の生贄。それらは厳密に所作が定められており、民にはそのとおりに捧げることが求められました。文字通りに従うということが、神への従順と悔い改めを意味していたからです。
 しかしです。文字通りに捧げるということは、考えれば考えるほど、不可能です。確かに律法を徹底することができれば赦されるかもしれません。では、どこまで徹底すれば良いのでしょう。どこまで頑張れば良いのでしょう。赦してもらったすぐ側から、新たな罪を抱えるのが私たちです。だからこそ、イエス様はまことの「大祭司として来られ」(ヘブル9:11)そして「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)…そして手紙は「こういうわけで」と続くのです。
 イエス様は完全な生贄であり、永遠の大祭司であり、その救いは一度きりの永遠の恵みです。しかしこれは飽くまでも前提条件なのです。そこが神のご計画のゴールではない。なぜイエス様は完全な生贄となられたのか。大祭司となられたのか。それは、私たちが神とお会いするため。私たちが真心から神に近付くためです。私たちが神と共に生きること。これが神のご計画の真意なのです。
 神殿は、聖所と至聖所に分かれていました。人と神の住まう場所は完全に分けられておりました。そうしなければ、人は神の義の前に出ることができない者だからです。しかし、イエス様の十字架による贖いが完成した時、神殿の幕は真っ二つに裂けました。それはもはや神と人を隔てる幕が必要なくなったからです。私たちは幕越しに御声を聞く必要はもはや無く、神の御前に大胆に近付くことが出来るのです。それでも尚、心に分厚い幕を覆ってはいないでしょうか。必要ありません。幕を取り払って、真心から神に近づこうではありませんか。