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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/03/29 創世記50:1-14 「荘厳な葬儀」

創世記50:1-14 「荘厳な葬儀」

 ヤコブの死に際しパロの指示でエジプト全土が70日間喪に服しました。喪が明けると、ヨセフはパロに葬儀のための暇を願い出ます。パロはこれを許可し、それだけでなく、彼の家臣や長老たち、また戦車と騎兵といった一団をもヨセフに付き添わせます。それはカナンの地でエジプトの国葬級の葬儀を行うためです。喪に服すのも、国外での国葬も、どちらも異例とも思える丁重な扱いです。つまり、パロにとってヨセフはそれほど特別な存在であったということです。
 ヤコブの葬儀はヨルダン川の向こうゴレン・ハアタデという地で、パロの意を汲んでエジプト式で大々的に行われました。エジプト国内ならいざ知らず、外国の地で、わざわざ軍隊が出向いて行って国葬級の葬儀を行う。その光景は人々によほど奇異として映ったでありましょう。カナン人はこれを見て「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と驚きました。葬儀は7日間にも及び、それは非常に荘厳な、立派な哀悼の式でありました。
 しかし、ヨセフの旅はここで終わりません。彼らはヘブロンに移り、そこで先祖代々の墓にヤコブの亡骸を葬ります。葬儀とは比べものにならない家族だけの質素な儀式。しかし、これこそが生前のヤコブの拘りであり、ヨセフたちの旅の目的でありました。ヤコブが先祖代々の墓に拘ったのは、エジプトという異教社会の中で葬られるのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神に相応しく葬られるため。神の用意する天国の希望を最期まで持ち続けたためでありました。そして、ヨセフたちはその父の拘りを見届けるために来たのです。
 私たちはこの2つの式の様子を見ながら、葬儀とは葬りとは一体何なのかと考えさせられるのです。葬儀はいったい何のために行うのでしょう。葬りとは。それはやはり愛する人との別れに際し、残された者たちが慰めを得るために行うものではないでしょうか。愛する人を失う悲しみは、そう簡単には消えることはありません。けれど、そのような悲しみの中にも慰めを得ることはできます。それは、亡くなったその人の見ていた希望を共に見ることを通してです。マクペラの洞窟は、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そしてレアが葬られている所です。真の神への信仰を否が応でも意識させる場所です。彼らはここで、父ヤコブが希望を持って神のもとに旅立ったことを確信します。そしてそれこそが彼らの慰めとなったのです。ですから、私たちは葬儀でありながら神を褒め称える。これこそがキリスト教の葬儀なのです。

2015/03/22 創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

 ヤコブの臨終間際の場面です。12人の息子に囲まれて、息を引き取る間際、ヤコブは彼ら一人一人に最期の言葉をかけていきます。
 しかし、その内容を見てみますと、素晴らしい恵みの約束から、呪いと呼べるような酷な内容まで様々です。これを聖書は「おのおのにふさわしい祝福」と呼んでいるわけです。ヤコブは主からの幻によって「終わりの日に(つまり後の日、主にカナン定住時代に)起こること」についてを語るわけですが、たとえ厳しい呪いのような言葉であっても、やはりそれは相続すべき祝福なのだと言うのです。なぜなら、それは決して不当な扱いではなくて、その子たちのこれまでの生き方にふさわしい「行いの結ぶ実」であるからです。
 そうではないでしょうか。ルベンから祝福が取り去られるのは自業自得です。レビやシメオンが兄弟たちの間で散らされるのは当然の報いです。一方ヨセフやユダが多くの祝福に与るのはそれに相応しい活躍があったからです。エレミヤ17:10には「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」とあります。ローマ2:6にも「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」とあります。生き方に応じた報いを受ける。実はこれは聖書が語るところの真理なのです。
 そうでなければ、私たちの生き方は今だけを見る生き方となるでしょう。自分の欲望のままに、自分の感情のおもむくまままに。先のことを考えなくても良いのですから、私たちは今の損得だけを考えて振る舞うことになるでしょう。しかし私たちの生き方にはそれに応じた報いがある。ですから、私たちは自らの生き方に襟を正すことができるのです。
 私たちにとって、行ないに従って報いがある。これは、私たちの信仰生活の支えであり土台です。しかし一方で、それは私たちの不安でもあるのです。なぜなら私たちが自らの行ないを省みるとき、私たちは決して神に誇れる者ではないからです。神は私の一切をご存知です。この神の前に後ろめたさも感じずにいられる人がどれだけいるでしょうか。しかし神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」(詩篇103:10)のです。ですから救いの問題と、行いに対する報いの問題を一緒する必要はありません。私たちの救いは、キリストの義のゆえに与えられた恵みにほかならないからです。

2015/03/15 創世記48:1-22 「交差する祝福」

創世記48:1-22 「交差する祝福」

 ヤコブはもう床に座るのがやっと、目もほとんど見えず、余命幾ばくと無い様子でした。そんなヤコブが見舞いに来た二人の孫を祝福するのがこの場面です。この時、目の見えないヤコブを気遣って、ヨセフは二人の立ち位置を丁寧に揃えます。父の右手に兄マナセ、左手に弟エフライムです。これは当時、右手が一番、左手が二番という考えがあったからです。ところが不思議なことに、ヤコブは手を交差させて二人を祝福いたします。おそらくヤコブには二人の行く末。二つの部族の行く末が見えていたのでしょう。後の者が先になる。ヤコブは弟のエフライムの行く末が兄に勝ると預言しているのです。
 しかし単に兄と弟の順序を入れ替えたということなら、祝福を2度繰り返せば良いことです。わざわざ手を交差するような不格好な祝福をしなくても良いかと思います。ですからむしろ、この祝福が両手によって同時に一度でなされたということに注目したいのです。
 若い頃のヤコブほど祝福に執着した人はおりません。しかし、そのために彼ほど苦難を背負った人も多くはありません。彼がなぜ祝福に執着するのか。そこには父イサクの影響がありました。祝福は長子にのみ与えるというイサクのこだわりです。ヤコブが兄の祝福を騙し取ったとき、エサウはイサクに懇願します。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」しかしイサクはエサウを祝福いたしません。彼にとって祝福はあくまでも一つだけだからです。しかし本当に祝福は一つなのでしょうか。確かに長子としての祝福は一つでしょう。しかし、別の祝福があっても良いはずです。なぜ、イサクは実の息子に対する祝福を拒む必要があったのかと不思議です。そこには恐らく、神がイサクとは別に兄イシュマエルにも祝福を与えたことが関係しているのでしょう。イサクにとってイシュマエルの存在は不安で恐怖を感じる対象だったのでしょう。ですから、祝福は一つ。これがイサクのこだわりとなったのでしょう。
 ヤコブの交差する祝福は父イサクとは違う彼なりのこだわりではないかと思います。ヤコブは弟という身がどういう悔しさを抱えて生きていくかをよく知っていました。そのことがもたらす悲劇もよく知っておりました。そして恐らくは孫の弟のエフライムに自分と同じ気質を見出したのではないでしょうか。ですから、彼は二人を同時に祝福いたします。そうすることで、この兄弟間のわだかまりを起こさないようにと配慮したのではないでしょうか。
 ヤコブの祝福がスタンダードだとは思いません。しかし、親として子に接するとき、その一人ひとりの状況をよく判断して関わる知恵が必要だとヤコブから教えられるのです。祝福は長子に与えられるものだから。そういう拘りを先にして、接する者ではないかと思わされるのです。しかし私たちはそういう先入観を持って相手と関わりますと、もう実際には相手のことを見ていないのではないでしょうか。祝福とはかくあるべき。奉仕とは。クリスチャンとは。教会とは。しかし、その前に、私は果たして一人の人格として、その人を見ているだろうかと問われているのです。霊の目で見る。つまり祈りをもって見るということが大事です。お互いの関係に祝福の祈りが先立つかどうか。これこそは互いの関係を劇的に変化させるカギとなるのです。

2015/03/01 ヘブル10:26-39 「信じていのちを保つ者」

ヘブル10:26-39 「信じていのちを保つ者」

 私たちは信仰の故に、困難にぶつかることがあります。身近な人の言葉に心騒ぐことがあります。他の人と同調しない、融通の効かない、頑固者と思われたりします。それでも私たちは、神の恵みをいただき、神の民とされたことを希望として、祈り、叫びながら、それらを乗り越えようとします。いつかは神がこの祈りを聞いて下さり、事を解決してくださるに違いない。この苦難を乗り越えさせてくださるに違いない。そのように必死に自分に言い聞かせて、過ごします。しかし、なかなか現実は改善されません。そしてある時、ふと思うのです。「もう良いんじゃないか。」「そんなに必死にならなくても、要領よく、ほどほどにするのが一番じゃないか。」「神様の救いは、私たちの頑張り云々で減ったり増えたりするものじゃないんだから。」・・・すると、何だか全てがどうでも良いことのように思えてきます。そして、やがて、なんで自分はあんなにも神様神様と必死になっていたのかと、完全に心を決別させてしまうのです。
 この箇所は、そのような私たちに2つのことを覚えよと言っています。一つは神に背を向ける者に対するさばきの恐ろしさを。そしてもう一つは信じる者にもたらされる勝利の確かさをです。
 「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」これほど厳しい箇所は他にそうそうありません。しかしだからこそ、この言葉に耳を傾けなければならないのです。ここでいう罪は単なる個別の罪を繰り返すことではありません。信仰者といえど罪を犯します。繰り返します。たとえ誰よりもイエス様を愛していようとも、気が付くと、自分可愛さにイエス様を否定している。そういうことがあるのです。しかし、イエス様は言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)主は私たちの弱さをご存知です。私たちの愚かさを織り込み済みです。神は躓くことも、放蕩することも、喜んで赦してくださる。けれど、私たちが意図してそれを拒み続けるとしたら、その人に罪のためのいけにえは残されてはいません。
 ヘブル書は言います。苦難に対して、耐えなさい。忍びなさいと。耐えよ。忍べよと言われますと、何だか勝ち目のない戦いに身を置いているように聞こえます。宛もなく籠城しているようです。しかし実際は違います。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」援軍が来られる。必ず勝利がもたらされると約束されているのです。いつということについては、はっきりとは語られません。「おそくなることはない」とあるだけです。けれど、それで十分です。必ず来られる。ですから、私たちに必要なのは忍耐だと言うのです。勇ましい必要はありません。弱さを否定することもありません。揺れ惑う心を抱えながら、しかし、主には勝利があるということを希望に、耐え忍ぶ者でありたいのです。